母親フロア再戦――ただいまを言わせる罠
玄関で、ただいまと言いたくなります。
でも、言葉も鍵になります。
本物の玄関まで、取っておきましょう。
玄関の灯りが、温かかった。
さっきまでの教室や公園と違い、今度のフロアは静かだ。靴箱の上に置かれた小さな置物も、壁の傷も、コヨリの記憶にある家へかなり近い。近すぎて、足が止まる。
奥から、母親に似た声がした。
「おかえり」
コヨリは、息を吸った。
言いたい。どうしようもなく、言いたい。
ただいま。
その四文字が、喉のすぐそこまで上がってきた。
「勇者様」
「言わない」
「はい」
「分かってる。分かってるけど、すごく言いたい」
「はい」
ログルは止めるだけではなく、そばに立っていた。コヨリの足元を見る位置。コヨリが前に出たら、すぐ分かる位置。
玄関の奥の声が、もう一度言う。
「ただいまって言って」
言葉の形が、床に落ちた。マス目が光る。ログルの宝石に警告が出る。
【言葉鍵反応】
【対象語:ただいま】
【効果候補:帰還座標固定/偽玄関登録/記憶層接続】
「言ったら、ここが家になる?」
「偽座標として登録される可能性が高いです」
「本物じゃないのに?」
「はい」
コヨリは唇を閉じた。奥歯が小さく鳴る。
「ずるい」
「はい」
「言いたい言葉を、罠にするの、ずるい」
「はい」
奥の声が、少し甘くなった。
「こより。早く」
コヨリの足が、一マス進みそうになる。手招き警戒が胸の奥で小さく鳴った。返事保留が喉を押さえる。親友擬態識別が、言葉の端の違和感を拾う。
本物なら、急かしすぎない。
「言わない」
「どうして?」
「ここじゃないから」
「お母さんだよ」
「違う」
湯気のような人影が、玄関の奥からにじみ出た。顔は見えない。けれど、声だけはとても似ている。
「ただいまって言って」
「言わない!」
叫びは行動判定になる。分かっていた。でも、ここは言わなければいけなかった。
世界が一手進む。玄関マットが口を開け、靴箱の扉が牙に変わる。偽玄関が、言葉鍵を奪いに来た。
「勇者様、右へ!」
「右、靴べら!」
「靴べらは杖扱いです!」
「そんな日用品の使い方ある!?」
一手。
コヨリは靴べらを床に突き立てた。玄関マットの口が一瞬だけ閉じる。その隙に一マス下がる。奥の人影が、母親の声で笑った。
「帰りたくないの?」
「帰りたいよ!」
床が揺れた。言葉鍵ではない。これは、本音だ。
「帰りたい。ごはん食べたい。おかえりって言われたい。ただいまって言いたい。けど、あなたにじゃない!」
人影の輪郭が崩れた。母親の声に混じって、獣の舌打ちが聞こえる。だが、崩れながら伸びた影が、コヨリの足首をつかんだ。下がる一手が足りない。
「本音言ったのに攻撃してくるの、やっぱり偽物じゃん!」
【死亡ログ】
【総死亡回数:1041 → 1043】
【死因:偽の玄関にただいまを言わずに済んだが、影に足首を取られた】
【評価:言葉の鍵は守りました。足元は取られました】
【拠点側保存:本人死亡ログ/座標因子反動ログ】
【新規獲得:ただいま保留 Lv.1】
「ただいま」を言わされた死因は、拠点全員を少し黙らせた。
その言葉は、ただの挨拶ではない。コヨリにとっては、帰るために一番大事な鍵だった。だからこそ、偽物の玄関がそれを欲しがった。
ログルは、反省会テーブルに小さな木札を置いた。
【ただいま保留】
コヨリはその字を見て、長く息を吐く。
「言いたかった」
「はい」
「すごく言いたかった」
「はい」
「でも、言ったら死んだ」
「はい」
「挨拶の難易度が高すぎる」
アドミニスは白い窓の中で、珍しく軽口を挟まなかった。ベルが彼を横目で見て、書類に追記する。
「主神様。帰還鍵となる発話を、偽玄関が横取り可能な状態にした件について、追加で抗議いたします」
「はい......」
「返事はもう少し大きく」
「はい」
「ベル、先生より怖い」
再挑戦の玄関は、最初よりも本物に近かった。靴の並び、傘立て、廊下の奥の明かり。壁にかかったカレンダーには、コヨリが覚えているようで覚えていない日付が書かれている。
「こより」
母親に似た声が、奥から呼ぶ。
「ただいまって言って」
コヨリは、唇を噛んだ。喉の奥に、言葉が勝手にせり上がる。ずっと言いたかった言葉。戻ったら一番最初に言うつもりだった言葉。
ログルが、何も言わずに隣へ立った。止める言葉を言えば、それも一手になるかもしれない。だから、ただ隣にいた。
「......ログル」
「はい」
「言わないって、むずかしいね」
「はい」
「帰りたくないわけじゃないのに、言わないの、すごくいや」
「帰りたいから、取っておくのだと思います」
その言葉で、コヨリは少しだけ目を上げた。
「取っておく」
「はい。本物の玄関まで」
偽玄関の奥で、母声ミミックが甘く笑った。
「早く。言ってくれたら、もう終わるよ」
「終わらせ方が雑」
コヨリはポケットから、小さな紙を取り出した。そこには、拠点で書いた文字がある。
【ただいまは本物まで】
紙を見せると、玄関の床がぎしりと鳴った。偽玄関は、その文字を嫌がっている。
「勇者様、紙を見せたことで一手進みました」
「分かってる!」
傘立ての傘が伸び、靴が口を開ける。廊下の奥から、スリッパが小さな獣みたいに走ってきた。
「スリッパまで来るの!?」
「家庭内小型敵です」
「家の安全とは!」
コヨリは叫びたいのをこらえ、玄関マットの端へ小石を投げた。マットが口を開け、小石を飲み込む。やっぱり罠だ。
「本物の家なら、玄関マットはお客さんを歓迎するもの!」
「このマットは捕食します」
「家庭用品の反乱!」
母声ミミックが、声を低くした。
「こより、どうして帰ってこないの」
その一言だけは、胸に刺さった。でも、コヨリは玄関の外へ一マス下がる。
「帰る。絶対、帰る」
そして、言葉を一つずつ選んだ。
「でも、ここには帰らない。ただいまは、本物に言う」
偽玄関の明かりが、ふっと暗くなった。
偽玄関を抜けたあと、コヨリは自分の喉に手を当てた。言わなかった言葉が、まだそこにある。
「ログル、ただいまって、減らない?」
「言葉は減りません」
「でも、偽物に言ったら、汚れた気がした」
「それは、勇者様が大事にしているからです」
「大事にしてると、罠にされるの、ひどい」
ログルは少し考えてから、言った。
「大事だから、罠にされます。でも、大事だから、取り返せます」
「ログル、たまにかっこいい」
「たまにですか」
「けっこう」
「修正を受け付けます」
コヨリは小さく笑った。その笑い声に、偽玄関の明かりがまた一つ消えた。
玄関の外には、靴跡が二種類残っていた。一つはコヨリのもの。もう一つは、偽玄関が作った誰かのものだ。
「ログル、この靴跡」
「追跡誘導です。たどると、別の偽家族フロアへ戻されます」
「靴跡まで『こっち』って言うの!?」
コヨリは靴跡を踏まず、横の砂利を歩いた。じゃり、と鳴る音が本物っぽくて、少しだけ落ち着く。
「本物まで、遠回り」
「はい。遠回りのほうが安全な時もあります」
【今回の勇者ステータス】
現在シード:帰還座標シード
クラス:帰還者見習い/地図師適性再発現
総死亡回数:1043回
基本スキル:【基本ローグライクスキル:一手一動】
【獲得済み主要スキル】
【一フレームの神様 Lv.3】
【神様案内警戒 Lv.2】
【母声ごはん警戒 Lv.1】
【泣き声混乱警戒 Lv.1】
【抱擁距離警戒 Lv.1】
【今回の新規獲得・更新】
新規獲得:【ただいま保留 Lv.1】
【登場人物紹介】
コヨリ
ただいまと言いたい気持ちをこらえた。帰りたい本音は捨てない。
ログル
言葉鍵を解析し、そばで足元を見ていた。
母声ミミック
ただいまを言わせ、偽玄関を登録しようとした敵。
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