母親フロア――ごはんできてるよ
家の台所に、温かい匂いがありました。
帰りたい子に、ごはんの罠は強すぎます。
でも、食べる前には聞きましょう。
次のフロアは、台所だった。
換気扇の低い音がして、鍋の湯気が白く上がっている。まな板に包丁が置かれ、食卓には小さな茶碗と箸が並んでいた。異世界の拠点厨房とは違う、知っている匂いがする。
「......ごはんの匂い」
「勇者様、食べないでください」
「まだ何もしてない」
「目が食べていました」
「ログル、目で食べても太らないし死なないよ」
「このフロアでは、断言できません」
台所の奥から、声がした。
「こより、ごはんできてるよ」
母親に似た声だった。似ている、では足りない。寝ぼけた朝に聞いた声。宿題を後回しにした時に呼ばれた声。ゲームをやめるタイミングで聞こえてきた、少し呆れた声。
「ログル」
「はい」
「声、似てる」
「......はい」
ログルは、今度も否定しなかった。
食卓の上の料理は、湯気だけがやけに本物だった。味噌汁に見えるもの。焼き魚に見えるもの。白いごはんに見えるもの。どれも、コヨリの記憶から引き出された形をしている。
【未識別料理:母声みそ汁】
【効果候補:満腹度回復/座標固定/記憶酔い/捕食】
「候補に捕食入ってる!」
「食べないほうがよいです」
「知ってた!」
コヨリは泣きそうな顔で、椅子から一歩離れた。その時、湯気の向こうの声が、少しだけ変わった。
「食べないの?」
責めている。優しい声なのに、責めている。
「本物なら、わたしがこんな顔してたら、先に聞くもん」
「何をですか」
「どうしたのって。食べなさいだけじゃなくて、どうしたのって言うもん」
湯気が割れた。母親に似た人影の口が、耳まで開く。食卓の料理が一斉に手を伸ばし、箸が虫の足みたいに動いた。
「勇者様、左へ!」
「ごはんが襲ってくるなああああああああああああああ!」
コヨリは左へ逃げた。だが、床に落ちた白い米粒がワープ罠だった。踏んだ瞬間、椅子の前へ戻される。味噌汁の腕が伸び、コヨリを湯気ごと飲み込んだ。
【死亡ログ】
【総死亡回数:1031 → 1033】
【死因:母親のごはんに見える未識別料理を食べなかったが、米粒ワープを踏んだ】
【評価:食べませんでした。踏みました】
【拠点側保存:本人死亡ログ/座標因子反動ログ】
拠点で戻ったコヨリは、反省会テーブルに大きく書いた。
【米粒も床】
「ログル」
「はい」
「これ、料理人クラスの注意?」
「地図師と料理人の合同注意です」
「現実世界の食卓に、ローグライク混ぜないでほしい!」
【新規獲得:母声ごはん警戒 Lv.1】
拠点に戻ったあとも、コヨリの鼻には台所の匂いが残っていた。煮物に似ている。焼けたパンにも似ている。だけど、どちらでもない。脳が「知っている」と決めつけたがる匂いだった。
リュシアが拠点酒場のカウンターから、温かいスープを差し出す。
「ちび勇者ちゃん、先にこっち飲みな。神様製の母さん風ごはんより、あたしのスープのほうが安全よ」
「安全って言われる食べ物、ありがたすぎる......」
「ちゃんとログ坊に味見させたわ」
「ログル、味見したの?」
「毒性、呪い、記憶誘導、座標固定、すべて陰性でした。ただし、リュシア様の酒場成分が少し高いです」
「幼女用スープに酒場成分を入れないで!」
「香りだけよ、香りだけ」
コヨリはスープを飲み、やっと肩の力を抜いた。けれど、さっきの台所の景色は頭から消えない。テーブルの椅子の位置、食器の並び、呼ばれた時の声。全部が、本物に近かった。
「ログル」
「はい」
「ごはんの匂いって、ずるいね」
「はい。視覚よりも先に、記憶へ届きます」
「難しい言い方しないで。お腹がだまされるってことでしょ」
「その理解で合っています」
再突入した台所では、母親に似た影が鍋の前に立っていた。顔は逆光で見えない。見えないからこそ、脳が勝手に補おうとする。
「こより、ごはんできてるよ」
コヨリは両手をぎゅっと握った。すぐ返事をしない。テーブルに近づかない。まず、床。台所の床には、木目に見せかけた細いマス目が走っている。椅子の足元だけ、ほんの少し色が濃い。
「椅子が罠?」
「座ると拘束される可能性があります」
「食卓で拘束するな。しつけが強すぎる」
母声ミミックは、振り返らないまま皿を置いた。
「冷めちゃうよ」
「ログル、匂い」
「未識別料理。満腹度回復量は大きいですが、座標酔い反応があります」
「座標酔い」
「食べると、帰る場所の認識が台所へ寄ります」
「ごはんで帰宅先をずらすなああああああああああ!」
叫んだせいで、鍋の蓋が一手動いた。ぱかりと開き、中から白い湯気ではなく、細い手が何本も伸びる。コヨリは慌てて小石を投げた。小石は皿に当たり、料理がぷるんと震える。肉じゃがに見えたものの表面に、口が開いた。
「肉じゃがまでミミック!?」
「肉じゃがではありません。肉じゃが型の座標擬態です」
「言い直しても嫌さが増えただけ!」
母親に似た影が、そこで初めてこちらを向いた。顔はまだ見えない。声だけが、やさしい。
「食べないの?」
コヨリの目に、少しだけ涙がたまった。
「本物なら、わたしがこんな顔してたら、食べなさいの前に聞くもん。何があったのって。だいじょうぶって」
影の手が止まった。ほんの一瞬だけ、台所の奥にノイズが走る。
「勇者様、今です」
ログルが尻尾で示したのは、冷蔵庫の横の一マスだった。そこだけ、床の木目が普通に見える。コヨリは食卓を回り込む。鍋の手が伸び、椅子が足を絡めようとしたが、スープの温かさがまだお腹に残っていた。
「ごはんは好き!」
コヨリは泣きながら、台所の出口へ走った。
「でも、食べる前に聞く! これはもう、わたしの家訓!」
ログルが後ろで小さくうなずく。
「かなり良い家訓です」
台所の出口を抜けると、廊下に小さな買い物メモが落ちていた。丸い字で、卵、牛乳、パン、と書かれている。最後に、コヨリの好きなお菓子の名前があった。
「拾わないでください」
「分かってる。拾う一手で死ぬやつ」
「はい。紙の裏に口があります」
「買い物メモまで食べるの!?」
コヨリは小石でメモをつついた。紙がぱくんと閉じる。ログルは無言で記録した。
「ログル、今の死因候補名」
「【死因:買い物メモの裏を見ようとして食べられた】です」
「見たい気持ちは分かるけど、死因名が生活感ありすぎる!」
母親の声が遠くなる。コヨリは振り返らなかった。振り返ると、また食べたくなるからだ。
廊下の角を曲がると、壁に身長を測った跡があった。鉛筆の線に、こより、と書かれている。コヨリは触りかけて、手を止めた。
「触らないでください」
「分かってる。でも、これもずるい」
「はい」
小石を当てると、鉛筆の線が細い口になってかちりと閉じた。
「成長記録まで噛むな!」
「記憶接触型の罠です」
「思い出を歯にするなあああああああ!」
そのあと、コヨリは壁から一歩離れて、両手をぎゅっと握った。触りたいものほど、今は触らない。それも帰るための一手だった。
【今回の勇者ステータス】
現在シード:帰還座標シード
クラス:帰還者見習い/地図師適性再発現
総死亡回数:1033回
千回死亡条件カウンター:1000/1000 停止
基本スキル:【基本ローグライクスキル:一手一動】
【獲得済み主要スキル】
【一フレームの神様 Lv.3】
【死亡ログ返還 Lv.1】
【ログ差し戻し Lv.3】
【手招き警戒 Lv.1】
【返事保留 Lv.1】
【親友擬態識別 Lv.1】
【今回の新規獲得・更新】
新規獲得:【母声ごはん警戒 Lv.1】
【登場人物紹介】
コヨリ
母親の声とごはんの匂いにかなり削られた。食べる前には止まれたが、米粒罠にやられた。
ログル
料理の鑑定を担当。候補に捕食が出ても冷静に伝える、嫌な意味で頼れる相棒。
母声ミミック
母親の声と食卓の匂いを使う擬態敵。本物ではない。
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