一手前の墓場
あと一歩。あと一振り。あと一口。
全部、死んだあとに分かるやつです。
997Fには、墓標がなかった。
代わりに、床の上へ小さな手形が並んでいる。右へ一歩下がれば助かった手。杖を振れば助かった手。おにぎりを食べれば助かった手。盾を拾わなければ助かった手。全部、コヨリの手と同じ大きさだった。
コヨリは、最初の手形の前で止まる。
【一歩下がれば助かった】
隣の手形には、こうある。
【階段を降りれば助かった】
その次。
【保存壺から出していれば助かった】
「やめて」
声は小さかった。ツッコミではない。怒鳴りでもない。ただ、胸から漏れた。
ログルは隣に立ち、何も急かさなかった。ネムも判子を出さない。ベルは書類を閉じ、ゼルドはマントの音を立てないようにしている。
ここは、過去の死因を笑う部屋ではなかった。
コヨリはよく死ぬ。死因ログは笑える。神様の仕様は腹立たしい。だけど、この手形の数は、笑いにするには少し多すぎた。
「わたし、死ぬの慣れたって」
言いかけて、止まった。
ログルが静かに言う。
「慣れていません」
コヨリはうつむく。
「覚えただけです。怖さも、痛さも、悔しさも、記録になっただけです」
床の手形が、ひとつずつ淡く光った。黒狼、ミミック、飢え、罠、壺、装備外し、死亡条件札。全部が、コヨリを責めるために並んでいるわけではない。ここまで来た道を、最後の一手へ渡すために並んでいる。
コヨリは膝をつき、手形の一つに自分の手を重ねた。
「ごめんね」
「誰にですか」
「前のわたし」
言葉にした瞬間、床が沈んだ。墓場は慰めだけでは終わらない。手形が白い札に変わり、全部こちらへ伸びてくる。
【もう一度】
【今度こそ】
【取り返す】
【戻る】
過去を取り返そうとすると、足が止まる。過去の一手を全部やり直したくなる。その時間はない。1000Fは近い。
コヨリは立ち上がろうとした。だが、【取り返す】の札が足首に巻きつく。ログルが噛み切ろうとする。ベルが切断文を投げる。ネムが受付不可印を押す。
それでも、コヨリ自身が手を離さなければ、札は離れない。
「取り返さない」
コヨリは言った。
「覚えて、行く」
札が一枚、剥がれた。だが残りが一斉に重くなる。過去の死因は、忘れないと決めた瞬間に重くなるものでもある。
コヨリは進もうとした。進めなかった。
【死亡ログ】
【死因:一手前の墓場で、取り返したい過去に足を止められた】
【評価:取り返すのではなく、持って進む】
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
拠点に戻った時、コヨリはすぐに喋らなかった。
ログルも待った。ネムも待った。ベルも、ゼルドも、誰も死因を急かさない。白い部屋の静かさが、今日は少しだけ優しかった。
「ログル」
「はい」
「わたし、慣れてなかった」
「はい」
「でも――覚えた」
「はい」
「じゃあ――覚えたまま行く」
「ぼくも、記録したまま行きます」
壁に書く字は、震えていた。
【取り返さない。持って進む】
【死亡回数:996回 → 998回】
【新規獲得:一手前確認 Lv.1】
一手前の墓場から戻ったあと、コヨリは死因図鑑室へ行った。いつもなら、笑える死因を探して少し気を楽にする。今日は違った。棚の前に立ち、ひとつずつ背表紙に触れていく。黒狼。ミミック。飢え。罠。壺。装備外し。どれも嫌いだ。嫌いだけど、いまの自分をここまで運んだものでもある。
「ログル――これ、全部持っていくの重いね」
「はい」
「捨てたら楽?」
「一時的には」
「でも――また同じ死に方する?」
「可能性が高いです」
「じゃあ持つ」
コヨリは、死因図鑑の中から一冊だけ抜き取った。最初の黒狼の記録。ページを開くと、まだ何も分からなかった頃の自分がいた。怖くて、痛くて、神様の説明を信じていた自分。
「この子も、わたしなんだよね」
「はい」
「じゃあ――置いていかない」
ログルは何も言わず、隣に座った。
壁の【取り返さない。持って進む】は、少しだけ光っていた。過去をやり直すことはできない。でも、持っていくことはできる。1000Fに持っていくには、少し重い。けれど、コヨリはその重さを忘れたくなかった。
【登場人物紹介】
コヨリ:過去の「あと一手あれば助かった」死因と向き合い、死ぬのに慣れたのではなく覚えただけだと認めた。かなりシリアス寄りの回。
ログル:コヨリの「慣れた」を否定し、怖さも痛さも記録になっただけだと伝えた。相棒として一番大事な言葉を出している。
ネム:今回は受付を急がず、静かに待った。死亡処理担当だからこそ、死因を笑いにしない時間も分かっている。
ベル:書類を閉じて、コヨリの言葉を待った。法務ではなく、仲間としてそこにいる。
一手前の手形:過去の失敗そのもの。責めるためではなく、最後の一手へ持っていくために並んでいる。
【今回の勇者ステータス】
死亡回数:996回 → 998回
到達階層:997F
心理状態:過去死因の受容
クラス:帰還者候補/死因学者系統
基本スキル:【|基本ローグライクスキル《きほんローグライクスキル》:一手一動】
【獲得済み主要スキル】
感情・記録系:【死因学習 Lv.3】【世界の死因学習 Lv.1】【世界種保存 Lv.1】【死亡ログ返還 Lv.1】【ログ差し戻し Lv.3】
決戦系:【対象名精査 Lv.1】【魔王条件切り離し Lv.1】【死亡対象ずらし Lv.1】
【今回の新規獲得・更新】
新規獲得:【一手前確認 Lv.1】
内部登録:【取り返さない。持って進む】が壁メモへ追加
【ローグライクあるあるネタ】
「一歩下がれば」「階段を降りれば」「杖を振れば」など、死んだあとに正解が分かる場面はローグライクの大きな学習要素です。ただし、全てを取り返そうとすると判断が止まります。今回は過去の最善手を悔やむ気持ちを、997Fの墓場として場面化しました。
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