未帰還ターンの部屋
あと一手あれば助かった。
その一手ばかりを集めた部屋に、コヨリは立った。
その部屋では、すべてが止まっていた。
黒狼の牙が、目の前で空中に浮いている。爆ぜ岩の破片は飛び散る途中で凍り、保存壺へ入る直前の小さな紙片が、壺の口の上で止まっていた。階段に伸ばした誰かの手、読まれなかった帰還巻物、投げられなかった小石。あと一手あれば、という瞬間だけが集められている。
コヨリは息を止めた。
「ログル。これ、動いてない?」
「未完了ターンです。墓場内で停止しています」
「未完了ターン」
「はい。行動が終わる前に世界ごと消えた一手です」
「言葉が重い」
床には大きく一つだけ、青いマスが光っていた。その周りは全部赤い。小石を拾う。名前の砂を拾う。帰還巻物を読む。牙を避ける。壺へ入れる。どれも一手。だが、この部屋で選べるのは一手だけだった。
ログルの宝石に、警告が浮かぶ。
【未完了ターン領域】
【選択可能行動:一手】
【二手目選択時:全ターン再開】
「二手目で全部動く?」
「はい」
「一手しかない部屋で、宝箱が横に置いてあるの悪意では?」
「宝箱ではなく、未帰還の小石です」
「名前がもう欲しいやつ!」
部屋の中央に、小さな黒い小石が落ちている。値札も、所有者名もない。たぶん、誰かが最後に投げようとした石だ。右には、名前の砂。左には、帰還巻物。正面には黒狼の牙。どれを選んでも、他は失われるかもしれない。
コヨリは膝を抱えそうになり、やめた。考えるだけならターンは進まない。でも、この部屋の圧は違う。考えるほど、止まったものたちが「選んで」と迫ってくる。
「ログル。正解は?」
「分かりません」
「また分からない」
「この部屋では、何を助けるかを選ぶ必要があります」
「助けなかったものは?」
「今は残せません」
「......それ、嫌だね」
嫌だ。でも、嫌だと言っても一手は増えない。ローグライクは、いつもそうだ。全部を拾う時間はない。階段前の宝箱を諦める。強い巻物を使い惜しまない。HP1で隣接した敵に、最善手を一つ選ぶ。死に覚えで身につけたことが、ここではシリアスな顔をして立っている。
コヨリは黒い小石を見た。所有者名がない。名前砂は誰かの名前かもしれない。帰還巻物は誰かを帰せたかもしれない。全部大事だ。だから、今ここでしか拾えないものを選ぶ。
「小石」
「理由を聞いても?」
「誰のものか分からないから。名前があるものは、次に呼べるかもしれない。でも、これ、今見失ったらただの石になる」
「分かりました」
コヨリは一歩も動かず、手だけを伸ばした。小石を拾う。それだけで世界が一手進む。黒狼の牙が動き出しかけ、爆ぜ岩の破片が熱を取り戻す。だが、部屋はまだ一手目の処理内にある。小石はコヨリの手の中へ収まり、黒い縁が白く光った。
【未帰還の小石:仮保持】
ログルの宝石が強く瞬く。
【未完了ターン視認 Lv.1:発現】
「見える」
「何が見えますか」
「この部屋の一手が、糸みたいに見える。誰の手がどこへ伸びて、どこで切れたか」
「それが新しい派生です」
「一フレームの神様、Lv.3じゃないよね」
「違います。墓場領域限定の視認派生です」
「よし。まだ切り札は温存」
コヨリは少しだけ笑った。だが、その視界の端で、白紙巻物が光った。未完了ターンの棚に置かれた、真っ白な巻物。何にでもなれる。今拾えば、次の保存に使えるかもしれない。小石は拾った。巻物も、手を伸ばせば届きそうだ。
「勇者様」
「分かってる」
「二手目です」
「分かってる......けど」
欲ではある。けれど、ただの宝箱欲とは違う。次の誰かを保存できるかもしれない、という欲だ。そう言い訳した瞬間、コヨリは自分で気づいた。優しい理由がついても、二手目は二手目だ。
手を引く。そう決めた。
なのに、足元の小石が熱を持った。未帰還の小石は、持ち主の最後の動きを覚えていた。投げるはずだった一手。その記録がコヨリの指を引っ張る。小石を投げれば、黒狼の牙を反らせるかもしれない。誰かを助けられるかもしれない。
「ログル、これ、わたしの意思じゃ」
「手を離してください」
「離すのも一手?」
「今ならまだ、処理内です」
コヨリは指を開いた。小石を落とす。だが、落とした石が床に当たる音を、墓場は行動と判定した。
全ターンが再開する。
黒狼の牙が振り下ろされ、爆ぜ岩の破片が弾け、帰還巻物が燃え、保存壺の口が閉じる。部屋中の「あと一手」が、同時に現在へ戻ってくる。
「やっぱり一手だけの部屋で物を落とすの禁止いいいいい!」
【死亡ログ】
【死因:一手だけの部屋で、未帰還の小石を落とした】
【評価:二手目ではありませんが、床はそう判定しました】
白い椅子に戻ったコヨリの手には、黒い小石がなかった。けれど、掌に小さな重さだけが残っている。物ではなく、位置の記録だ。
「持ち帰れなかった」
「はい」
「でも、見えた」
「はい。未完了ターンの糸が記録されています」
反省会テーブルに札が出る。
【未完了ターン視認 Lv.1】
コヨリは掌を見つめ、ゆっくり息を吐いた。
「一手しかないなら、拾う前に捨て方まで考える」
「難しい教訓です」
「ローグライクって、だいたい難しい教訓しかくれない」
一手だけの部屋の記録は、反省会でも空気を重くした。誰も「次は全部拾おう」とは言わない。言えない。全部拾えない場所があると、全員が分かっているからだ。
「ログル。選ばなかったものって、消えた?」
「今回の処理では、保存できませんでした」
「いつか、戻れる?」
「世界種保存が安定すれば、一部は」
「じゃあ、いつかのために、選ばなかったって書く」
コヨリは反省会テーブルに三つの丸を描いた。小石、名前砂、帰還巻物。小石の丸だけを黒く塗り、残り二つは白いまま残す。失敗ではなく、未選択として残す。選べなかったものを、選ばなかったことにしないための小さな地図だった。
未選択の丸を残した地図は、思ったより心に刺さった。白い丸は、失敗の穴ではない。未来にもう一度見に行くための印だ。コヨリはその横に、階段前の宝箱の絵も描いた。これは欲張りの象徴であり、選ばない訓練の象徴でもある。
「ログル。宝箱って、悪いもの?」
「いいえ。開けるタイミングを間違えると危険なものです」
「じゃあ、未帰還ターンも同じ?」
「はい。選ぶ順番を間違えると、すべて動きます」
「順番、大事」
コヨリは小石の黒丸に、順番一と書いた。白い丸には、まだ番号を振らない。焦って番号をつけると、また手が伸びそうだからだ。
その日の終わり、コヨリは未帰還の小石を持っていない掌をもう一度開いた。何もない。でも、何もない場所に、重さの記憶が残っている。
「ログル。これも保存できる?」
「感触の記録なら、少し」
「じゃあ、少しでいい」
ログルは宝石を掌へ近づけ、黒い点を一つだけ写した。小石そのものではない。投げるはずだった重さ。コヨリはそれを見て、次は落とさない、と強く思った。
【登場人物紹介】
コヨリ:一手しか選べない部屋で、保存対象を選ぶ重さを知る。
ログル:新しい派生をLv.3と混同しないよう確認する相棒。
未帰還の小石:誰かが最後に投げるはずだった一手の残り。
【今回の勇者ステータス】
死亡回数:802回 → 812回
クラス:帰還者候補/死因学者系統
基本スキル:【基本ローグライクスキル:一手一動】
【獲得済み主要スキル】
【死因学習 Lv.3】【足元確認 Lv.5】【未識別警戒 Lv.5】【ミミック警戒 Lv.2】
【総合盤面確認 Lv.2】【帰還門感知 Lv.3】【ログ管理 Lv.2】【一フレームの神様 Lv.2】
【神様操作前兆 Lv.1】【滅亡前兆視認 Lv.1】【滅亡原因分類 Lv.2】【消えたシード保存 Lv.1】
【世界の死因学習 Lv.1】
【今回の新規獲得・更新】
新規獲得:【未完了ターン視認 Lv.1】
派生元:【一フレームの神様 Lv.2】【滅亡前兆視認 Lv.1】
注記:墓場領域限定。未完了の一手を視認できるが、行動回数は増えません。
【ローグライクあるあるネタ】
一手だけの判断、拾う一手で死ぬ事故、二手目を欲張る心理を未完了ターンの部屋へ変換。
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