第16-3話 科学の先生
時刻: 11月 ある土曜日 午後7時00分
場所: 東京・神楽坂「ステラリウム」
美咲と太一は、歩き回るようになった。
「ステラリウム」の店内は、2人が動き回るには少し狭い。
しかし、マットを端に寄せ、椅子をいくつかずらすと、そこそこの広さが生まれる。
それが今の土曜日の始まりの作業になっていた。
この作業を私がするようになったのは、3ヶ月前からだ。
4月の最初の夜には、マットを1枚床に置くだけで済んでいた。
今は椅子を3脚動かし、カウンターの前にあるスツールを奥にずらし、それから子供たちを降ろす。
子供たちが来るたびに、店のレイアウトが少し変わる。
美咲は棚のボトルを指で触ろうとしていた。
届かない。
それでも伸ばす。
以前は棚を見上げていただけだった。
今は自分で歩いていって、手を伸ばす。
届かないことを知っていても、試す。
それが今の美咲のやり方だ、と記録してきた。
太一はカウンターの支柱の周りをぐるぐると回っていた。
4周して、また4周した。
何かを確かめているようだった。
支柱の太さなのか、自分の速さなのか、判断はしない。
ぐるぐると回っていた、という事実を書いた。
「障害物をよけながら歩いてる」
浩が言った。
「空間認識の訓練になってるな」
「意図してないけどね」
マリアが言った。美咲の手を支柱から遠ざけながら。
「意図しない訓練の方が、効果的なことが多い」
「それ、科学的な話?」
「認知発達の研究では、そう示唆する事例が多い」
「示唆、って言い切れない理由は」
「個体差が大きいから」
二人のやり取りを、子供たちは聞いていない。
美咲はまたボトルを指で触ろうとしていて、太一は支柱の周回を再開していた。
私はカウンターの中からそれを見ていた。
バーテンダーと記録者を兼ねながら、「ステラリウム」の土曜日は続いている。
この場所は、何かを育てる場所になっていた。
「ステラリウム」の名前の由来は星空儀だ。星を映す器。
子供たちが来るようになって、この名前が少し違う意味を持ち始めた気がした。
時刻: 12月 ある土曜日
場所: 「ステラリウム」
洋子が、この夜「月の話」をした。
子供たちに向けてではなく、ただ話しただけだった。
浩と向き合って、グラスを手に持ちながら。
「月面基地に、今日時点で2万人住んでる。去年の倍だ」
浩が応じた。
「水が安定供給されてるから住める。俺たちが月に氷を送り始めて3年で、2万人の居住地になった」
「速いね」
「速い。予定より半年早い」
「それは、浩の設計が良かったから」
「洋子の観測データが正確だったから」
「お互い様だ」
「そうだな」
2人とも、仕事の話ではなく報告として話していた。
この場所では仕事を持ち込まない。
しかし、事実は事実だ。
どこで話しても、事実は変わらない。
私はカウンターの中から、この会話を聞いていた。
記録として、月面基地が2万人になったという事実を書いた。
「ステラリウム」の土曜日に、その事実が流れた、という記録として。
マリアが二人に向かって言った。
「仕事の話、してる?」
「報告だ」
浩が言った。
「同じでしょ」
「少し違う」
「どっちでもいいけど」
マリアは美咲の方向に体を向けた。
「あっちで仕事の話してる」と美咲に言った。
美咲は「しごと?」と言った。
「難しいこと」とマリアが言った。
「わかんない」と美咲が言った。
「それでいい」とマリアが言った。
その会話を、私は聞いていた。そちらも書いた。
美咲は、「つき」という言葉を聞いたとき、上を向いた。
窓から夜空が見えた。月は見えなかった。
「つきって何」
美咲が聞いた。
最初の「質問」だった。
これまで美咲は「ひかり」「たいよう」などを言ってきたが、「何」という問いかけは初めてだった。
浩が振り向いた。
美咲はちゃんと浩を見ていた。
「夜空にある、大きな丸いもの」
「でかい?」
「地球から見ると、こんな大きさだ」
浩は指で丸を作った。
「こんなの?」
美咲が、自分も指で丸を作ろうとした。
形にはならなかった。指がうまく曲がらなかった。
それでも何度か試した。
浩は美咲の指を少し直そうとして、やめた。
「そう。それでいい」
「できた?」
「できてる」
美咲は自分の指の丸を見て、それから窓を見た。
月は見えなかった。
「みえない」
「今日は見えない。でも、ある」
「どこに?」
「空のどこかに。今は見えない場所にいる」
美咲は少し考えた。
「みえないけど、ある?」
「そう」
美咲はもう一度窓を見た。
しばらくして、
「おなかすいた」
と言った。
太一は、その会話を横で聞いていた。
自分では言葉を出さなかった。
しかし、浩の作った指の丸を、じっと見ていた。
浩が手を下ろしてからも、太一は浩の手の方向を見ていた。
「太一も見てる」
洋子が言った。
誰に言ったかは分からなかった。
私はその場面を書き留めた。
美咲が「何」と聞いた夜、と書いた。
そして、「見えないけど、ある」という美咲の言葉と、浩の「そう」という返答を書いた。
それは月の話だった。
しかし、私にはそれ以上の何かに聞こえた。
聞こえた、と書こうとして、止めた。記録者は聞こえたことを書く。
意味は書かない。
洋子が私に向かって言った。
「書いた?」
「書いた」
「何を」
「美咲が『何』と聞いた、という事実を」
「それだけ?」
「『見えないけど、ある』という美咲の言葉も書いた」
洋子は少し間を置いた。
「それは書くべきだね」
「そう思った」
洋子はグラスを持ち直した。それ以上は何も言わなかった。
私もグラスを磨くだけにした。
美咲は窓をまだ見ていた。月は見えなかった。しかし、見続けていた。
時刻: 1月〜2月
場所: 「ステラリウム」および自宅
この時期から、浩と洋子が子供たちに「話しかける」場面が増えた。
意図的ではない、と両人は言う。ただ、結果としてそうなった。
浩の場合は、光の玩具から始まった。
色の名前を教えた。「赤」「青」「緑」「黄」。美咲はすぐに覚えた。太一も、数日後には覚えた。
次に、「どの色が、どんなものの色か」を話した。
「空は青。昼間の空はね」
「よるは?」
「夜は暗い。でも、星がある。星はね、光ってるだけじゃなくて、温度が違う。青い星は熱い。赤い星は少し冷たい」
「冷たいって言っても、太陽より熱いけど」
「しろ?」
「白く見えるのは、距離があるからだ。近くで見ると青かったり黄色かったりする。太陽は黄色い」
「たいよう?」
「そう。太陽という名前の星だ。地球から一番近い星が太陽で、昼間外が明るいのはあれが光ってるから」
美咲は「たいよう」と繰り返した。
「おほし?」
「星だ。遠くにある」
「どこ?」
「すごく遠く」
「あるけない?」
「歩いては行けない」
「じゃあ、でんしゃ?」
浩は少し笑った。
「電車でも無理だ」
「太陽は近いが、それでも何万年もかかる」
「まんねん?」
「美咲が生まれてから、宇宙で数えると0.00001秒くらいの時間だ」
「わかんない」
「分からなくていい。とても長いということだ」
美咲は「まんねん」と言おうとして、「まんね」と言った。
マリアが隣でそれを聞いていた。
「あなた、子供に恒星分類を教えてる?」
「話しかけてるだけだ」
「内容が恒星分類だ」
「美咲が聞いてくるから」
「美咲が聞く前にもう話してる」
浩は少し間を置いた。
「そうかもしれない」
マリアは少し笑った。
「美咲、分かってたの?」
「わかんない」
美咲は平然と言った。浩は少し困った顔をした。
「分からなくても伝えることに意味がある」
「それが科学者の口実ね」
「教育論だ」
マリアは否定しなかった。
洋子の場合は、水の話だった。コップの水を使って。
「水はどこから来るか、知ってる?」
「わかんない」
「雨から来る」
「あめ?」
「空から落ちてくる。雨は水だよ」
それから洋子は少し間を置いて、
「雨はね、一回空に上がった水が戻ってくる」
「正確には、水蒸気が冷えて戻ってきたものだけど」
と付け足していた。
「どこから?」
「海とか、川とか、お風呂とか」
「雨はね、水が空に上がって――」
洋子は少し止まった。
「……まあ、まだ難しいか」
「うち、雨あった?」
「降ることがある。今日は降ってない」
「きのうは?」
「降った。でも、私は見てなかった」
「でもベランダが濡れてたから、夜のうちに降ったんだと思う」
「ざんねん?」
洋子は少し間を置いた。
「そうかもしれない」
太一はこの会話を横で聞いていた。
「ざんねん」
太一が言った。
洋子は少し太一を見ていた。
太一は窓の方を見ていた。
「何が残念?」
「わかんない。でも、ざんねん」
洋子は笑った。
「それでいい。ざんねん、はそういう時に使う言葉だ」
それが太一の新しい言葉になった。
「ざんねん」という言葉が、太一にとってどんな意味を持っているかは分からない。
しかし、使い方は正しかった。
見えなかったものを、惜しむように言った。
洋子が後から私に言った。
「太一の『ざんねん』、聞いてた?」
「聞いてた」
「どう思った」
「雨が見えなかったことを惜しめる。ということは、雨が昨日あったことを知ってるってことだ」
「そう。惜しむためには、記憶が必要だ」
洋子はそれだけ言って、太一の方に向かった。
私はその言葉を書き留めた。
「ざんねん」という言葉の後ろに、記憶と存在の話があった、という事実として。
私はこの時期の記録を振り返りながら、一つのことに気づいていた。
浩は美咲に光と星の話をした。
洋子は太一に水の話をした。
二つの話は、繋がっていた。
美咲は光や星の言葉をよく使った。
太一は「みず」と「ざんねん」を繰り返していた。
関係があるのかどうかは、まだ分からない。
わからないが、科学の話が、二人の世界を少しずつ広げている。
言い切ると強くなりすぎる気がして、「少しずつ」とだけ書いた。
2人に意図があったかどうかは、聞かなかった。
ただ、その事実を書いた。
時刻: 3月 ある土曜日
場所: 「ステラリウム」
浩と洋子が同じ場にいるとき、子供たちへの教え方が連動することがあった。
この夜、浩が美咲に向かって話していた。
「水はね、冷やすと氷になる」
「こおり?」
「固くなる。飲めなくなる」
「たべれる?」
「食べられる。でも飲むより食べる感じだ」
「おもしろい」
美咲は「こおり」と繰り返した。
マリアが「美咲が覚えてる」と言った。
浩は「覚えが早い」と答えた。
マリアは「誰に似たのかな」と言った。浩は何も言わなかった。
洋子は別のスツールにいた。太一が洋子の膝に乗っていた。
浩の話が聞こえたのか、洋子は少し経ってから太一に向かって言った。
「氷から水になる話、知ってる?」
「しらない」
「さっき浩さんが美咲ちゃんに教えてた、逆の話だ」
「ぎゃく?」
「逆っていうのはね、反対の方向ってこと」
「はんたい?」
「そう。氷から水。水から氷の逆は、氷から水」
「こおりが、みず?」
「氷はね、水の仲間」
「なかま?」
「同じものだけど、冷たいと形が変わる」
太一は少し考えた。
「こおりは、みず?」
「そう」
「じゃあ、みずは、こおり?」
「冷やすと、そうなる」
太一は美咲の方向を見た。浩の話がまだ続いていた。
「つながってる?」
太一が言った。
誰に聞いたか分からなかった。
「どうだろう。太一はどう思う?」
太一は少し考えて、
「おんなじ」
と言った。
「繋がってる。同じものの、違う状態だ」
洋子が答えた。
「みずと、こおりは、おなじ?」
「同じものが、形を変えてる」
太一はしばらく考えた。
「おもしろい」
洋子が、その言葉を聞いた。
「そう思う?」
「うん。おもしろい」
太一は繰り返した。そして、また美咲の方向を見た。
浩が太一の声を聞いて、こちらに視線を向けた。
洋子と目が合った。
何かを確認するような間があった。
「太一が繋げた」
洋子が浩に向かって言った。声は小さかった。
「聞こえてた」
浩が答えた。
私はカウンターの中から、この場面を見ていた。
浩が美咲に氷の話をして、洋子が太一に逆の話をして、太一が二つを繋げた。
2歳になる前の子供が、同じものの状態変化を、自分で繋げた。それが今夜の事実だ。
書くに値する事実だった。
太一が今夜理解したことが、いつか何かに繋がるかもしれない。
繋がらないかもしれない。
今の私には分からない。
しかし、今夜の「おもしろい」は、今夜の記録に残った。
時刻: 同夜
場所: 「ステラリウム」のカウンター
子供たちがマリアのそばで遊んでいる間、浩と洋子がカウンターに来た。
私は少し離れた場所でグラスを磨いていた。
「太一が、水と氷が同じものだと理解した」
洋子が浩に言った。
グラスを置いて、カウンターに肘をついた。
浩はグラスを持ったまま洋子を見た。
「どうやって」
「あなたの氷の話を聞いて、逆から考えた。自分で繋げたんだと思う」
浩はほんの少し、眉を動かした。
「2歳前で?」
「来月が誕生日だから、もうすぐだけど」
「美咲はそこまで連鎖的には考えない。まだ」
「個人差だよ」
「そう。個人差だ」
浩は少し間を置いた。グラスをカウンターに置いた。
「太一の認知のパターン、洋子に似てる気がする」
「まだ1サンプルでしょ。そこから結論は出ない」
「分かってる。でも、そう感じた」
「感じた、は科学じゃない」
「感じた、と言った。記録としては保留にしておく」
洋子はカウンターに手を置いた。
「あなたも記録者になってきた」
「あなたの夫の影響かもしれない」
浩は少し笑った。
マリアが向こうから声をかけた。
「何を笑ってるの」
「自分が記録者になりつつある、という話をしていた」
「あなたはずっと記録してたでしょ、自分のやり方で」
「それとは少し違う」
「どう違うの」
「目的ではなく、事実として残そうとしている」
マリアは少し考えてから言った。
「それって、記録者と同じじゃないの」
浩は何も言わなかった。
私はカウンターを拭く手を止めずに、それを聞いていた。
聞いていた、という事実を書いた。
記録者として、この会話の中に登場した、という事実も書いた。
その後、浩が改めて私に向かって言った。
「あなたの記録の方法を、少し参考にしてる」
「どの部分を」
「判断を後回しにすること。事実だけを先に書く」
「科学と同じだと思うが」
「少し違う。科学は仮説から始まる。あなたの方法は仮説がない」
「仮説がないのが記録者だ」
「そこが難しい。でも、やってみてる」
私はその言葉を書き留めた。
浩が「やってみてる」と言った。
それは珍しい言い方だった。
浩は通常、やっているか、やっていないか、どちらかを言う。
「やってみてる」という過程の言い方は、浩らしくない。
らしくない、と書こうとして、止めた。
判断だからだ。
しかし、珍しかった、とは書いた。
科学者が記録者を参考にする。
記録者が科学者を記録する。
「ステラリウム」の土曜日の夜に、その交差があった。
美咲が眠っていた。
太一も眠りかけていた。
4人は静かに飲んでいた。
「来週も来られる?」
洋子が私に聞いた。
「開けておく。もちろん」
「いつも助かってる」
「ここが必要だと思ってる」
「私たちも、そう思ってる」
洋子が言った。
それで終わった。必要だ、という事実が、その夜の「ステラリウム」にあった。
4人の距離が、少し変わってきた気がした。
美咲と太一が生まれる前の4人と、今の4人は、何かが違う。
距離が縮んだのかどうかは分からない。
しかし、同じ場所に同じように集まる理由が、少し増えた。
その変化を、私は記録してきた。
変化の理由を書かなかった。事実だけを書いた。
時刻: 夜
場所: 「ステラリウム」(閉店後)
店を閉めながら、私はこの夜を振り返った。
浩と洋子が子供たちに話しかけていた。それぞれの子供に。美咲に浩が。太一に洋子が。
そして、その教えた内容が、子供たちの間で連鎖した。
誰も教えているつもりではなかったし、子供たちはただ大人たちの話を聞いていただけである。
「科学の先生」と呼ぶには非公式すぎる。授業でもない。ただ、話しかけただけだ。
しかし、子供たちは何かを吸収していた。
「水と氷が同じものの違う状態だ」という認識を、2歳になる前に太一が持った。
それは私には想定外だった。
開店を手伝ってくれたあの人が、かつて言っていた。「バーは何かを育てる場所だ」と。
今夜、その意味を少し分かった気がした。
気がした、は記録者として不正確だ。
分かった、と書いた。
それだけにした。
育ったのは子供たちだけではなかった。
浩は「感じた、と言った」と言うようになった。
洋子は子供に向けて話しかけるようになった。
マリアは「それって記録者と同じじゃないの」と言った。
そして私は、「あなたの夫の影響かもしれない」と浩から言われた。
それぞれが、それぞれの方向に少しずつ変わっていた。
「ステラリウム」の灯りを消した。
神楽坂の夜は静かだった。
次の土曜日、子供たちはまた少し先にいる。
「みず、もこおり、もおなじ」と言った太一は、次の土曜日にはまた何か新しいことを言うかもしれない。
今の私には分からない。
しかし、分からないことが分かっていることが、記録を続ける理由だ。
今夜の記録をすべて書き終えて、端末を閉じた。
この店に来るたびに、子供たちは変わっていた。
美咲は「つきって何」と聞くようになった。
太一は「おもしろい」と言うようになった。
美咲が窓を見続けていた場面が、残っていた。
月は見えなかった。
でも、美咲は見続けてた。




