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氷雨の黙示録  作者: 唯野眠子
第16章-最後の氷
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第16-4話 ダブルウェディング

時刻: 6月下旬 午前10時00分

場所: ジュネーブ・日本領事館

婚姻届の書類が、テーブルに置かれていた。

堀川浩とマリア・シモンズの婚姻届。

私の名前と桜井洋子の婚姻届。

二つの届けを、同じ日に提出することになった。

いつからそう決まっていたか、私には分からない。

マリアと浩の間で、あるいは洋子と私の間で、いつか話し合われた結果だ。

私が「一緒の日に」と言ったのか、洋子が言ったのか、記憶が曖昧だ。

記録者として、記憶が曖昧なのは珍しい。

しかし、この件については曖昧だった。

書類にサインした。

ペンが紙の上を動いた。

インクが乗った。それだけのことだった。

しかし、それが今日の最初の動作だった。

洋子がペンを置いた。

「緊張した?」

私が聞いた。

「してない。書類にサインしただけだから」

「それもそうだな」

「あなたは?」

「してない」

「じゃあ良かった」

洋子はそれだけ言って、領事館の職員に書類を渡した。

手続きが完了した、という事実が、今日ここで生まれた。

法的な変化は、書類の中にある。

私はその事実を、記録端末に書いた。

今日という日は、後から来た。

7年前に始まった何かが、今日という形になった。

しかし、今日だけを見ても、その大きさは分からない。

7年分の記録があって、初めて今日の重さが見える。

外に出ると、浩が待っていた。

マリアが美咲を抱いていた。

太一は私が抱いた。

「終わった?」

浩が洋子に聞いた。

「終わった」

「こちらも終わった」

「簡単だね」

マリアが言った。

「書類だから」

浩が言った。

「まあ、そうよね」

4人は領事館の前の広場に出た。

ジュネーブの夏の朝だった。空が明るかった。

美咲が空を見上げた。太一も見上げた。

子供たちが空を見上げる様子を、私は記録した。

今日、4人が書類を提出したことと、子供たちが空を見上げたことが、同じ朝の記録として並んだ。


時刻: 6月中旬(式の約1ヶ月前)

場所: ジュネーブ市内・カフェ

マリアと洋子は、2人でケーキを食べていることがある。

2人が「甘いものが好き」だということは、私は早い段階から知っていた。

洋子が一人でケーキを食べることはほとんどない。

しかし、マリアと会うと食べる。

それは7年間を通じてそうだった。

「マリアに会うと、なぜか甘いものを食べてしまう」

2人がカフェに入って、何かを食べて出てくる場面は何度も記録してきた。

何を食べたかは後から洋子に聞くか、聞かなかったかだ。

洋子があまり話さないので、私もあまり聞かない。

ただ、2人が一緒にいるときの様子が、4人でいるときと少し違うことは書いていた。

式の1ヶ月前の日、洋子から聞いた。

「マリアとケーキを食べてきた」

「また2人で?」

「うん。今回はレマン湖の近くのカフェ。ずっと行きたがってたとこ」

「何を食べた」

「フレーズのタルト。2つずつ」

「話した?」

「した」

「ドレスの話だな」

式まで1ヶ月を切っていた。

マリアが最初に言い出したらしい。

「白にしたい。でも、被るのが気になって」

洋子は少し考えた。

「被っていい、と私は思う」

「そう?」

「同じ日に式を挙げる。白が2人いてもおかしくない」

「でも区別がつかない」

「全然違う白にすれば分かる」

マリアは少し間を置いた。

「全然違う白?」

「私はシンプルなのが好きだから、飾りのない白にする。マリアは刺繍が得意だから、花の刺繍が入ったものを選べばいい」

「あなた、私の趣味知ってたの」

「マリアが選ぶものを見てたら分かる」

「7年間も一緒にいたからね」

マリアはしばらくタルトを食べていた。

「それでいいと思う。でも、浩にはなんて言う?」

「別に言わなくていいんじゃないかな」

「なんで?」

「当日見れば分かるから」

「サプライズとか考えてる?」

「別にそういうつもりじゃないよ。男の人は聞いても分からないから」

マリアは少し笑った。

「そうね。浩に服の話をしてもなあ」

「浩は色に詳しいのに、服に関しては全く関心がない」

「星の色は詳しいくせにね」

「星は科学だから」

「服は?」

「分類が違う」

「なんで分類が違うのか、浩に説明させたら面白そう」

「面白いけど、長くなる」

2人は少し笑った。

その後、話は別の方向に流れて、また戻ってきたらしい。

「ケーキ、もう1個食べる?」

マリアが聞いた。

「どうしようかな」

「私は食べる。付き合ってくれると嬉しい」

「じゃあ、もらおうかな」

「やっぱり甘いもの好きよね、洋子」

「マリアも好きでしょ」

「好きだけど、科学者らしくないと思って」

「好みに職業は関係ないよ」

「それ、浩にも言ってやりたい。あの人、甘いものを食べる私を変な顔で見るから」

「変な顔?」

「観察されてる感じがする」

「多分してる」

「知ってる」

それが決まり方だったらしい。

白いドレスが2つ。

片方は細かな刺繍入り。

もう片方はシンプルな光沢。

私はこの話を、後から洋子に聞いた。

式が終わった後だった。

式の前に教えてくれなかったのは、なぜか分からない。

聞かなかった。

「なぜケーキだったんだ」

「マリアが甘いものを食べると、少し本音が出るから」

「洋子も食べてたじゃないか」

「私もそうだから」

洋子はそれ以上言わなかった。

記録者として、「マリアと洋子が2人でケーキを食べて、ドレスを決めた」という事実を書いた。

判断は書かなかった。

ただ、その事実が今日の白いドレスの2つに繋がっていた。

7年間の間に、マリアと洋子は何回ケーキを食べただろうか。

私の記録には断片的にしか残っていない。

2人がカフェに入って出てくる場面は記録した。

しかし、その中で何を話したかは、ほとんど聞いていない。

聞かなかった理由は、洋子があまり話さないからだ。

聞いても「食べた」とか「話した」という答えしか返ってこない。

それ以上の詳細は言わない。

今回、式が終わってから話してくれたのは、珍しいことだった。

なぜ今回は話してくれたかは聞かなかった。

答えは分からない。

だから、今回は話してくれた、という事実だけを書いた。


時刻: 2031年7月20日 午前10時30分

場所: ジュネーブ郊外・小さな式場

式は小規模だった。

関係者が30人ほど集まった。

家族、旧知の研究者、IGDEの数名。

メディアは呼ばなかった。

浩とマリアがそう望んだからで、洋子と私も異存はなかった。

会場は白い建物だった。

窓から、アルプスが見えた。

会場の外に、夏の日差しがあった。

7月のジュネーブは明るい。

窓から入る光が、式場の白い壁を照らしていた。

参加者の中に、イブラヒムがいた。

式に来ることは聞いていたが、実際に見ると少し驚いた。

距離があると思っていた人が、近くにいた。

イブラヒムは私に会釈をした。私も会釈を返した。

「記録していますか」

イブラヒムが小声で聞いた。

「していいですか」

「もちろん。どうぞ」

私は端末を出した。

式の前に、記録者として参加することが確認された。

それが今日の最初の事実だ。

浩とマリアが先に誓いを交わした。

マリアのドレスは白だった。

生地に細かな白糸の刺繍が入っていた。

遠くから見ると白一色に見えるが、近くに行くと模様が浮き出て見える。

花が連なるような模様だった。

光の当たり方で、模様の見え方が変わる。

マリアが歩くたびに、刺繍が光を拾った。

浩はグレーのスーツだった。

二人は対面して、それぞれ言葉を述べた。

言葉の内容は、私には聞こえなかった。式の進行のために会場の反対側にいたからだ。

会場が静かだった。

窓から入る光が、白い壁の上で静止していた。

マリアの表情が変わった瞬間があった。

どう変わったかは書かない。

変わった、という事実だけを書いた。

浩は最後まで表情が変わらなかった。

変わらない、という事実も書いた。

それが浩だ。

次に、私と洋子が誓いを交わした。

洋子のドレスも白だった。

飾りのないシンプルな白で、光沢のある生地だった。

遠くから見ても近くで見ても、白のまま変わらない。

動くたびに光が走る。

洋子が向きを変えた瞬間、生地が光を反射した。

会場の白い壁に、その光が届いた。

マリアのドレスとは全く別の白だった。

私はスーツだった。

誓いの言葉は、式場が用意した定型の言葉だった。

「あなたと共に歩むことを、誓います」

私も言った。洋子も言った。

言葉は短かった。それでも、言葉として存在した。

会場にいた30人が、静かに聞いていた。

式が終わってから、マリアが洋子に近寄った。

「良かった、白にして」

「そうね」

「2人の白が、違って見えた」

「そう思う?」

「距離があっても分かった。あなたのと私のが、ちゃんと違う白だって」

それだけだった。

私はその会話を横で聞いていた。

書いた。

「全然違う白にすれば分かる」という洋子の言葉が、今日確認された、という事実として。

2つの白が、会場に並んだ。

それだけが今日の視覚的な記録だ。


時刻: 同日夜

場所: 式場隣接レストラン

披露宴は食事会と呼んだ方が正確だった。

テーブルが数個、食事が出て、会話があった。

乾杯の音頭は、イブラヒムが取った。ケフィリアン対話フォーラムでの縁があった。

イブラヒムは立ち上がってグラスを持ち、少し間を置いてから言った。

「長いつき合いの4人に、改めて」

それ以上は言わなかった。

余計なことは言わない。イブラヒムらしかった。

グラスが4つ、テーブルの中央で合わされた。

浩のグラス。マリアのグラス。洋子のグラス。私のグラス。

美咲と太一は、子供用の飲み物を持っていた。

小さなカップを、それぞれ手に持った。

二人ともカップを合わせようとしたが、うまくできなかった。

カップが重くて、太一が傾けすぎた。

美咲は自分のカップを両手で抱えていた。

マリアが二人のカップを持って、大人のグラスに合わせた。

音が鳴った。

グラスが6つ分の音が、テーブルの上で重なった。

美咲が笑った。太一も笑った。

その笑い声が、テーブルに広がった。

その光景を、私は記録した。

グラスが6つ並んだ夜の記録として。

食事の間、会話はいくつかあった。

研究者同士の近況、IGDEの来年度の方針、子供たちの近況。

仕事の話が自然に出た。

この夜は、「ステラリウム」のルールは適用されない。

イブラヒムが私に声をかけた。

「記録は、続いていますか」

「続いています」

「良いことだ。記録のない歴史は、歴史ではない」

「そう思っています」

「この4人の記録は、いつかどこかで意味を持つでしょう」

イブラヒムはそれだけ言って、また別の席の人と話し始めた。

私はその言葉を書き留めた。

「いつかどこかで意味を持つ」という言葉を書いた。

意味を持つかどうかは、今の私には分からない。

式の参加者が帰り始めた頃、浩が私のそばに来た。

「今日の記録、どのくらいある?」

「多い方だ」

「そうか。残しておいてくれ」

「残すよ」

「美咲が大きくなった時、見せてやれるかもしれない」

「見せてもいいが、全部は長いぞ」

「抜粋でいい」

それだけで話は終わった。

浩がマリアのところに戻った。

私はその会話を書き留めた。

浩が今夜の記録を子供に見せることを想定した、という事実として。


時刻: 同日夜

場所: レストラン

浩と洋子が、テーブルの隣り合う席で少し話していた。

私には内容は聞こえなかった。しかし、二人が話しているのは見えた。

浩が何かを端末で見せていた。洋子がそれを覗いていた。

後から洋子に聞いた。

「何を話してた?」

「VTPの観測プローブの結果が出たから、その話」

「今日は式の日だ」

「浩が話しかけてきた」

「仕事の話?」

「そう。プローブが金星の大気データを送ってきた。想定通りの組成だったって」

「それを今日話す必要があったのか」

洋子は少し間を置いた。

「浩に聞いてみたら?」

「浩が正直に理由を言うとは限らないからな」

「言わないと思う」

「だろうな」

「でも、言いたかったんじゃないかな」

「誰に」

「私に。式の夜に。プローブの結果が想定通りだったことを、誰かに言いたかったんだと思う」

私は少し考えた。

「マリアには言わないのか」

「マリアには後で言うんじゃないかな。今日は仕事の話をしたくない日だから」

「そういうものか」

「浩はそういう人だと思う」

私は浩に聞かなかった。

ただ、浩が今日、式の夜に洋子にVTPの話をしたという事実は残った。

マリアは、そのやり取りを見ていたかもしれない。

しかし、何も言わなかった。

夜が深くなると、参加者が少しずつ帰り始めた。

美咲はマリアの膝で眠りかけていた。

太一は私の腕の中で目を細めていた。

「よかった」

マリアが言った。

「今日が?」

浩が聞いた。

「うん、今日が」

それだけだった。

「よかった」という一言が、その夜のマリアの言葉だった。

理由は言わなかった。

どんな「よかった」なのかは、分からない。

しかし、マリアが言った、という事実は残った。

よかった、という言葉が今日の記録の中にある。


時刻: 深夜

場所: ジュネーブのホテル

式が終わり、ホテルに戻った。

美咲は眠っていた。太一も眠っていた。

私は窓の外を見た。ジュネーブの夜だった。

今日起きたことを、順番に書いた。

書類へのサイン。

式場での誓いの言葉。

マリアの刺繍の白と、洋子の光沢の白が並んだこと。

4つのグラスが合わされたこと。

美咲と太一がカップを合わせようとしたこと。

イブラヒムの乾杯の言葉。

浩が記録を美咲に見せてやれるかもしれないと言ったこと。

浩と洋子がVTPの話をしていたこと。

マリアの「よかった」。

それが今日の記録だ。

感情を書こうとした。

「この日が来た」とか「長い道のりだった」とか。

しかし、どの言葉も正確ではないと感じて、書かなかった。

正確に書けることは何か。

7月20日に2組4人がそれぞれ法律的に夫婦になった。

それだけが、今日の確実な事実だ。それを書いた。

洋子が部屋の中から声をかけた。

「まだ書いてる?」

「書いてる」

「今日は多い?」

「多い。今日は書くことがたくさんある」

「そう」

洋子が窓の近くに来た。隣に立った。

私は端末を持ったまま、外を見た。

洋子も外を見た。

「ジュネーブは綺麗な夜だ」

「そうね」

「今日の記録を書き終えたら寝る」

「うん」

「明日も書けるよ、って言わないのか」

「言わない。今日の記録は今日書くって、あなたは知ってるから」

「そうだな」

洋子は少し経ってから戻った。

私は記録を続けた。

今日という日は、記録者にとっても特別な日だった。

特別、という言葉を使おうとして、止めた。

何が特別かを書けないからだ。

ただ、今日の記録は、他の日の記録より少し多かった。

書くことが多い日だった。


時刻: 翌朝

場所: ジュネーブのホテル・ロビー

翌朝、ロビーで4人が揃った。

美咲と太一は起きていた。マリアが美咲を抱いていた。私が太一を抱いていた。

「昨日は、お疲れ様」

マリアが言った。

「お疲れ様でした」

洋子が返した。

「今日、仕事がある?」

浩が洋子に聞いた。

「午後から会議がある。あなたは?」

「午前中に一本打ち合わせがある」

「じゃあ、昼に合流しよう」

「同じ建物にいる」

「そう」

それで会話は終わった。

式の翌日の会話が、これだった。

感慨らしきものは言葉に出なかった。

昨日と今日の違いは、法律的な書類が一枚あるかないかだ。

それ以外は、何も変わっていない。

4人の話し方も、子供たちの様子も、変わっていなかった。

変わっていないことが、おかしいのかどうか、私には判断できない。

だから書けるのは、変わっていない、という事実だけである。

美咲が、太一の方に手を伸ばした。

太一も手を伸ばした。

二人の手が、空中で少し触れた。

私はそれを見た。

それが何を示すかは、分からない。

分からないまま、記録に残した。

「今の見た?」

マリアが私に聞いた。

「見た」

「書いた?」

「書いた」

「なんて」

「二人の手が空中で触れた、と書いた」

マリアは少し間を置いた。

「それだけ?」

「それだけだ」

「いいね」

マリアはそれだけ言って、美咲を抱き直した。

美咲と太一が初めてこの「ステラリウム」で視線を交わしたのは、去年の4月だった。

今は7月で、二人は手が届く距離にいる。

その間に何があったかは、すべて記録にある。

記録がある。

それが、今日の朝の確かなことだ。

4人がロビーを出た。

それぞれが午前中の仕事に向かった。

子供たちはそれぞれの親と、別の場所へ向かった。

昨日が今日になった。

今日が明日になる。

その続きを、私は記録し続ける。

昨日の記録が、今日の出発点になる。

7年前に始まった記録が、今日また一つの節目を過ぎた。

節目は記録の中にある。

それは、前後の記録を並べて初めて見える。

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