第16-2話 育つもの
時刻: 7月 土曜日 午後7時00分
場所: 東京・神楽坂「ステラリウム」
土曜日の夜が習慣になった。
月に2〜3回、4人が「ステラリウム」に集まる。
ジュネーブにいる週はオンラインで繋ぐこともあるが、全員が東京にいる土曜日は必ずここに来る。
4月に始まって、3ヶ月が経った。
子供たちも、慣れてきた。
美咲は、入り口を入ると棚のボトルを指で示す。
どのボトルが光り方が好きなのか、週によって変わることがある。
今日は緑色のラベルのボトルを指していた。
「あ」と言った。言葉にはなっていないが、同じボトルを2度指した。
太一は、マットの上に降ろされると美咲の方向に向かおうとする。
まだ歩けない。
それでも向かう。
ハイハイで方向を変え、美咲の近くに移動してから止まって、美咲が指しているボトルの方向を見る。
見ていた、という事実を私は書き留めた。
太一が何を見ているのかは分からない。
ボトルなのか、
美咲の指が向いている方向なのか、あるいは全体の光なのか。
判断できないことは書かない。
ただ、向いた、と書いた。
この3ヶ月の間に、子供たちはそれぞれ変わっていた。
4月の最初の夜には互いの存在に気づいた程度だった。
それが今は、美咲がマットに置かれると太一が向かい、太一が声を出すと美咲が反応する。
言葉はまだない。
しかし、互いを認識している。
その事実が積み重なっていた。
私はバーテンダーとして立ちながら、記録者として子供たちを見ていた。
両方の仕事が同時に動いている。それが今の「ステラリウム」の土曜日だった。
4月の最初の夜と比べると、今夜の美咲と太一は別の存在のようだった。
あの夜、初めて視線が交わったのが数秒あった。
今夜は、互いの存在を前提として動いている。
どこかに行けば必ず戻ってくる、というように。
その変化を、私は記録してきた。
変化を測れるのは、継続した記録があるからだ。
今夜の事実が、積み重なりの中の一夜として残る。
次の土曜日も、子供たちは変わっているだろう。
それが分かる。
育つものは、記録の外側でも進んでいた。
それだけを書いた。
時刻: 7月 ある土曜日 午後8時頃
場所: 「ステラリウム」
太一が初めて歩いた。
「ステラリウム」の中だった。
その夜は美咲が早い時間から機嫌が良く、マットの上を動き回っていた。
太一はそれを横から見ていた。
美咲が棚の方向に向かって歩くと、太一も同じ方向を向いた。
マットの端に来て、カウンターの支柱が目に入った。
そこに手をついて、立った。
立ったこと自体はもう何度かあった。
そこから2歩だけ進んだ。そこで止まって、座った。
私は見ていた。
洋子も見ていた。
太一は座った後、自分が何かをしたことに気づいていない様子で、美咲の方向を見た。
美咲はちょうど棚の前まで歩いていて、一番光り方が好きなボトルを指で指していた。
太一の歩行には気づかなかったか、気づいても特に反応しなかった。
美咲には、歩くことがすでに当たり前になっていた。
マリアが言った。
「太一、歩いた」
私は答えた。
「歩いた」
それで終わった。大げさに喜ぶ者もいなかった。
洋子も「歩いたね」とだけ言った。
太一当人も、さほど気にしていないようだった。
何かに気づいた様子もなく、美咲の横に戻ろうとしてまた転んだ。
転んでから、今度はハイハイで美咲の方に向かった。
洋子が端末を出して、太一と美咲が並んでいるところを撮った。
何枚か撮って、端末を戻した。
「送る」
洋子が言った。
「誰に」
「浩に。今日は遅れてくるって言ってたから」
浩は、その夜少し遅れて来た。受け取っていた写真を見て、「歩いたな」とだけ言った。
コートを脱ぎながらスツールに座った。
何秒かの間があって、それからいつも通りウイスキーのソーダ割りを頼んだ。
「美咲の影響か」
浩が太一を見ながら言った。
「どういうこと?」
マリアが聞いた。
「目の前で歩く存在がいれば、自分もやろうとする。一人でいるより早く歩き始める可能性がある」
「つまり、美咲のおかげ?」
「おかげ、と言えるかどうか。でも影響はあると思う」
「太一はどうせ歩いたわよ」
マリアが言った。
「そうだ。ただ今日歩いたのは、美咲がいる環境と無関係ではないかもしれない、ということだ」
「……あなた、それを褒め言葉として言ってるの?」
「観察として言っている」
洋子が少し笑った。
私はグラスを磨きながら、その会話を書き留めた。
浩が美咲の存在を太一の発達に結びつけた、という事実を書いた。
それが褒め言葉かどうかは書かなかった。
その夜は、太一が歩いた以外に大きな出来事はなかった。
4人は各自のグラスを持って、子供たちを見ながら話した。
仕事の話は出なかった。
出なかった、という事実を毎回書いている。
「最近どう」
マリアが洋子に聞いた。
「忙しい。プローブの設計が詰めの段階で」
「そっちはどう」
「外交の調整が続いてる。大きな会議が秋にある」
「忙しいね、みんな」
「うん」
「でも、来週も来る?」
「来る」
それだけの確認だった。忙しいという事実と、それでも来るという事実が、同じ会話の中に並んでいた。私はその並びを記録した。
今夜の太一は、美咲の動きをよく見ていた。
太一が今夜歩いたのは、美咲がいたからかもしれない。
この二人がいつか同じ方向を見る日が来るかもしれない。
かもしれない、と書いたが、断言はしない。
時刻: 9月〜10月
場所: 「ステラリウム」
美咲と太一は、言葉を覚え始めていた。
「マ」と「パ」は両方とも早かった。
次に来たのが「みず」と「ひかり」だった。
美咲の場合、「ひかり」が早かった。
「ステラリウム」の棚のボトルが光るのを見て、それを指して言うようになった。
最初に出た時、マリアはしばらくそのボトルを見てから「そう、ひかりね」と言った。
少し間を置いて「よく言えたね」と続けた。美咲は「ひかり」と繰り返した。
マリアはその夜、私に「美咲が『ひかり』って言った」とメッセージを送ってきた。
「知ってる。聞いてたから」と返したら、「それでも言いたかった」と来た。
子供の話は、共有したくなる。
翌週もその次の週も、美咲は同じボトルを指して「ひかり」と言った。
「あかり」と言うこともあったが、その後で「ひかり」と言った。
太一の場合、「みず」が早かった。コップの水を見るたびに、指で差して「みず」と言った。
洋子が「そう、みずだ」と返すようになると、太一はより頻繁に「みず」と言うようになった。
私がグラスに水を注ぐ動きを見ても「みず」と言った。
洋子は「どこでも言う」と少し困った顔をしたが、「でも正確だ」とも言った。
「正確なのはあなたに似た」と私が言うと、洋子はしばらく間を置いてから「そうかもね」と言った。
少し照れたように見えたが、書かなかった。
「ステラリウム」の土曜日には、美咲の「ひかり」と太一の「みず」が定期的に聞こえるようになった。
ある土曜日、浩がその話を聞いた。
グラスを持ったまま少し考えてから、言った。
「……最初によく見るものって、残るのかもな」
「光とか?」
「かもしれない」
マリアが聞いた。
「分からない。でも、同じボトルに何度も向かうのを見てると、そこに何かを感じているのは確かだと思う」
「気のせいかもしれないでしょ」
「そうかもしれない」
浩はグラスを置いた。
「珍しく曖昧」
「そうか?」
「いつももっと断定する」
浩はグラスを見たまま、
「疲れてるのかもな」
と言った。
浩は少し間を置いた。
「太一は水が好きなのか」
洋子が私に聞いた。
「どうだろう。好きかどうかは分からない。でも、コップを見るたびに言うようになった」
洋子は少し考えてから言った。
「コップが毎日そこにあるから、かな。太一が最初に掴んだ意味が水だったってことかも」
「コップが毎日目に入るからじゃないか」
「うん、それが身近ってことだよ」
私はその返し方が洋子らしいと思った。書いた。
私は、その会話の後で少し考えた。考えた内容は書かなかった。
しかし、美咲の最初の言葉が「ひかり」で、太一の最初の言葉が「みず」だという事実は書いた。
太一は最近「みず」をよく言う。
親たちの仕事と無関係ではない。
ただ、それを書くかどうか迷って、書かなかった。
最初の言葉には、毎日よく見ているものが出るのかもしれない。
その事実だけを書いた。
「ひかり」と「みず」が同じ夜に出た夜があった。
美咲が棚を指して「ひかり」と言い、太一が私の持っているコップを見て「みず」と言った。
2人は別々に言った。
互いに聞いていたかどうかは分からない。
しかし、カウンターの中に立っていた私には、両方が聞こえた。
浩は、その瞬間に端末を取り出してメモをとった。
「書いたの?」
マリアが横から見た。
「時刻と状況を記録した」
「やっぱり観察してる」
「してる」
「正直だ」
それだけの会話だった。
浩が記録し、マリアがそれを見ていた。
私は記録者として、浩が記録している様子を記録した。
記録の重なりが、今夜の「ステラリウム」にはあった。
私は今夜、カウンターの内側から外側を見続けていた。
バーテンダーとしてグラスを磨きながら、記録者として3人と2人の子供を見ていた。
見ていた時間の大部分は、記録として言葉にならなかった。
言葉にならなかった、という事実も今夜の記録の一部だ。
時刻: 10月 ある土曜日
場所: 「ステラリウム」
美咲と太一が、並んで床に座っていた。
浩が持参した小さな玩具を、美咲が手に持っていた。
LEDが内蔵されていて、押すたびに色が変わる。赤、青、緑、黄が順番に切り替わる。
浩が「これを持たせてみる」と言ってマリアに渡したのは来店して10分ほどのことだった。
コートを脱ぐ前にカバンから取り出した。
準備していたことは明らかだった。
「何これ」とマリアが言った。「玩具だ」と浩が言った。
「知ってる。なんで持ってきたの」
「持たせたかった」
「美咲に?」
「二人に」
そのやり取りだけで、マリアは少し考えてから美咲の前に置いた。
美咲はすぐ手を伸ばした。
持ち方を確かめるように何度か回してから、ボタンを押した。赤になった。
太一は、それを横から見ていた。
美咲がもう一度押すと青になった。
太一が身を乗り出し、美咲は玩具を差し出した。
渡そうとしたのかは分からないが、太一は手を伸ばし、玩具は太一の手に移った。
太一が押した。
赤になった。
太一は玩具を見て、美咲を見た。
美咲も太一を見ていた。
また太一が押した。
緑になった。
美咲が「あか」と言った。
今は緑なのに、なぜ赤と言ったのかは分からない。
さっきの赤を言ったのかもしれない。
太一が「みどり」と言った。
二人はしばらく、交互に玩具を押した。
色が変わるたびに、どちらかが何かを言おうとした。
言えないこともあった。
それでも押し続けた。
「仲が良い」
マリアが言った。
「美咲が渡したのが良かった」
洋子が言った。
「渡すとは限らなかったのに」
「でも渡した。太一が欲しそうにしているのを、見ていたんだと思う」
浩は黙って二人を見ていた。
何かを観察している時の浩の顔は、記録者の私が見てきた中で何度も見ている。
仲が良い、という事実が、その光景の中にあった。
私はその光景を記録した。
玩具を持って、二人が同じ方向を向いている。
言葉にならない言葉を交わしながら、色が変わるたびに確認し合っている。
それが今日の事実だ。
その後、美咲が玩具を取り戻した。
奪ったわけではない。太一が置いた隙に手を伸ばした。
太一は少し見てから、棚の方向に視線を移した。
今夜の玩具のやり取りは、以上だった。
私はカウンターに戻りながら、4人の様子を確認した。
浩は二人の子供を見ていた。
マリアは浩を見ていた。
洋子は太一を見ていた。
見ている方向が、みんな少しずつ違う。
でも、二人は同じ光を見ていた。
今は言葉にならないやり取りが、いつか言葉になる。
そう書こうとして、予測は書かない、と思い直した。
しかし消さなかった。
時刻: 同月下旬 ある土曜日の帰り際
場所: 「ステラリウム」
浩が、玩具を美咲に持たせたことには理由があった。
それを、後から本人に聞いた。浩とマリアが帰り支度をしていた時だ。
「あの玩具、なんで持ってきたの」
マリアが浩に聞いた。
私はカウンターを拭きながら、その会話を聞いた。
「光の色が変わる玩具を持たせると、どの色を好むかが分かる。個体差がある」
「実験?」
「……まあ、近い」
「どっちでもいいけど」
「いや、浩の中では違うんでしょ」
浩は少し考えてから、
「違う」
とだけ言った。
マリアは少し間を置いた。
「何を見てるの」
浩は少し考えてから答えた。
「ケフィリアンの件があってから、子供が光をどう見てるのか、少し気になるようになった。美咲がどのパターンに反応するかを見ている」
「……娘で?」
「一番近くにいるから」
マリアはしばらく何も言わなかった。
私も何も言わなかった。
カウンターを拭く動きだけが続いていた。
「太一にも持たせたのは」
マリアが続けた。
「美咲だけだと比較ができない」
「なるほどね」
マリアは少し笑った。
喜んでいるのか呆れているのか、私には判断できなかった。
どちらともとれる笑い方だった。
「洋子には話したの?」
「話した。太一も見ていいかと聞いたら、どうぞと言ってくれた」
「そう」
マリアはコートを手に取った。それ以上は何も言わなかった。
「あなたと似たことしてるね」
「そうか?」
「見て、残してる」
「……まあ」
浩はそれ以上続けなかった。
それだけの会話だった。浩はその後、しばらく何も言わずに美咲を見ていた。
私は記録者として6年以上、この3人を見てきた。
浩が科学者として自分の娘を観察していることは、記録者として私が記録をとることと、浩が言う通り似ている。
ただ、目的は違う。浩の観察には仮説がある。私の記録には仮説がない。
浩は仮説を持って観察する。
そのことを私は書き留めた。
浩の言葉と、私の考えと、それがどう違うかを。
考えは書かない方が記録者らしい。
しかし今夜は書いた。後で消すかもしれない。
浩の観察には目的がある。
ケフィリアンという大きな問いが、今夜の床でLED玩具を押していた二人の子供と、どこかで繋がっている可能性がある。
浩はその可能性を見ている。
私はその浩を記録している。
帰り際に、4人が少し話した。
「来週は来られないかもしれない。出張が入っている」
マリアが言った。
「再来週は?」
「大丈夫だと思う」
「じゃあ再来週」
「再来週」
それだけで日程が決まった。
7年間同じ仕事をしてきた4人の決め方は早い。
長い議論をしなくても、互いの状況が何となく分かる。
その「何となく」を記録者として正確に言語化しようとすると難しい。
なので、決まり方の事実だけを書いた。
浩と美咲が先に出た。マリアが続いた。洋子と太一が最後だった。
「また再来週」と洋子が言った。
扉が閉まってから、「ステラリウム」はまた静かになった。
時刻: 深夜
場所: 帰宅後
その夜、私は洋子に話した。
「浩が、美咲の光の嗜好を観察している。太一との比較で」
洋子は少し間を置いた。
「知ってる」
「知っていた?」
「浩から聞いた。太一も一緒に見ていいか、と聞かれた」
「返事は?」
「どうぞ、と答えた」
「それでいいのか」
「観察することに問題はない。浩の観察は正確だし、太一が玩具を嫌がったわけでもない」
「浩が太一の反応も並べて見ることになるけど、気にならないか」
洋子はしばらく太一を見てから答えた。
「ならない。なぜ気にする必要がある?」
洋子は言った。
それで話は終わった。
「なぜ思う必要がある」という問いが、しばらく残った。
私には答えが出なかった。
洋子が正しいのかどうか、私には判断できない。
ただ、洋子は答えを持っていた。
私は持っていなかった。
太一が眠った後、部屋が静かになった。
私は今夜の記録を整理しながら、この数ヶ月を振り返った。
太一が初めて歩いた夜。
美咲が「ひかり」と言った夜。
太一が「みず」と言った夜。
玩具が美咲から太一に渡った今夜。
記録として並べると、一つ一つは小さい。
歩いた、言葉を言った、玩具を渡した。
しかし、それが積み重なって、今夜の「ステラリウム」がある。
浩は観察している。
私は記録している。
洋子は記録が残ることに意味があると言っていた。
それぞれが、それぞれの方法で今を捉えている。
どれが正しいかは分からない。
全部が並行して起きている。
今夜の記録を書き終えて、端末を閉じた。
次の土曜日も、「ステラリウム」に4人が来る。
美咲と太一は、また少し変わっているだろう。
それが今から分かる、という事実を書いた。
変わることが分かっていて、私はそれを書き続けている。。
今夜の記録を読み返した。
土曜日の夜が習慣になり、記録の密度が上がっている。
良いか悪いかは分からない。
書くべきことが多い、という事実だけがある。
「ステラリウム」の灯りを消した。
次の土曜日まで、この店は静かにある。
美咲と太一が次に来る時、二人は今夜より確実に少し先にいる。
それが分かって記録を続けることが、今の私の仕事だ。
それだけで十分だった。
今夜の記録を書き終えて、端末を閉じた。




