↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
氷雨の黙示録  作者: 唯野眠子
第16章-最後の氷
PR
93/93

第16-1話 バーの夜

時刻: 4月20日 土曜日 午後6時00分

場所: 東京・神楽坂「ステラリウム」

バーカウンターに、光が当たっている。

「ステラリウム」

神楽坂の裏路地にある、小さな店だ。

長く立ったのは氷雨の前年、7年前が最後だ。

それからジュネーブに移り、プロジェクト・アセンションの記録者として、以来ほぼずっとそちらにいた。

今夜のために、この店は残っていた。

そして今日は、久しぶりに私が立つ。

開店前の1時間、カウンターを拭き、棚のボトルの並びを確認した。

任せていた人物がきちんと管理してくれていたので、在庫の状態は良かった。

5年の間に、いくつかのボトルは入れ替わっていた。

しかし、棚の構成は変えていない。

光の当たり方が同じだ。

カウンター越しに見える棚の景色が、7年前のままだった。

私は7年前の自分がここに立っていた姿を思い出そうとして、うまくいかなかった。

記憶より、記録の方が正確だ。

「来る」とだけ洋子にメッセージを送った。

「分かった」とだけ返ってきた。

浩には「土曜日、神楽坂に来ないか」と送った。

「行く」と来た。

マリアには「美咲も連れてきていいか」と確認が入ったので「ぜひ」と返した。

4人が揃う予定になった。

この4人が揃う、ということが、今夜の主な目的だった。

ジュネーブではしょっちゅう顔を合わせているが、仕事の場でだ。

仕事を切り離した場所で会うのは、久しぶりだった。

5年前に2週間だけ帰国して開けたこともあった。

子供たちが生まれる前も、こういう夜はあった。

しかし子供が生まれてからは、初めてかもしれない。

今日のような夜は、その時以来だ。

実は「ステラリウム」は、その間も閉めていなかった。

5年前の帰国時、また長い不在になると感じた。

この店の開店を手伝ってくれた、バー経営の経験のある年配の人物に、週に数日だけ灯りを落とさないでほしいと頼んだ。

断られるかもしれないと思ったが、「分かった」と言ってくれた。

理由は聞かなかった。

以来5年間、その人物が続けてくれた。

開店前に、その人物が来ていた。

カウンターの鍵を渡しながら、「あとは任せましたよ」と言って帰った。

私が「5年間ありがとうございました」と言うと、「続けたかっただけです」とだけ返ってきた。

それで終わりだった。

7年間、大きなことは何も起きなかった。

店はそのままあった。

氷雨の翌年、海面上昇の影響で東京の一部が水没したが、神楽坂の裏路地は残った。

この場所は残った。

東京に戻ったのは、今月の初めだ。

VTPの体制が整い、ジュネーブのチームが安定して動き始めた。

私の記録者としての仕事は続いているが、拠点を東京に移してもやっていける段階になった。

洋子もそれに合わせた。

太一のこともある。

ジュネーブと東京を行き来しながら、軸足を少しずつ東に戻している。


時刻: 午後7時00分

場所: 「ステラリウム」

洋子と太一が来た。

太一は洋子に抱かれていた。

生後11ヶ月。

まだ歩けない。

しかし、店内を見回す目は、何かをとらえようとしていた。

入口から一歩踏み込んで、すぐに棚の方向を向いた。

光るボトルが並んでいる。

それを一つ一つ視線でなぞっていくように見えた。

見えた、と書くのは珍しい。

しかし、そう見えたので書いた。

私は二人を迎えた。

洋子は太一を抱いて入ってきた。

「久しぶりだね」

それだけ言って、太一を少し持ち上げて見せた。

私は受け取った。

太一は私の顔を見た。

しばらく逸らさなかった。

洋子はスツールに座った。

「太一にも、この場所を覚えさせたいんだ」

「まだ分からないだろう」

「いいの。来てたっていう"事実"が残れば」

洋子はそれ以上説明しなかった。

必要ないと思っているように見えた。

覚えているかどうかと、記録があるかどうかを、洋子は区別する。

私も区別する。

その共通点に気づいたのは、いつだったか。

記録を後から読み返せば分かるかもしれないが、今夜はいい。

私はカウンターの奥から出て、太一を受け取った。

重かった。この子を最後に抱いたのは、先月ジュネーブで会った時だ。

その時より、確実に重くなっている。

太一は私の腕の中に収まって、しばらく私の顔を見た。

見ていた、という事実を書いた。

表情の意味までは、拾えなかった。

「何を飲む」

「水で」

「アルコールなし?」

「今夜は」

それだけで、私は水を用意した。洋子の言葉の端を補足する必要はなかった。

今夜は、という言葉が何を意味するかを、私は長い時間をかけて知っている。

太一は、私の腕の中で棚を見ていた。

光るボトルが気になるらしく、手を伸ばす仕草をした。

届かない。

届かないことを確認してから、また別のボトルに視線を移した。

飽きない。

次に向かう。

それが今の太一のやり方だと思った。

太一を受け取ってから、しばらくそのままカウンターの内側にいた。

洋子が外から太一を見た。

太一が私を見た。

私が洋子を見た。

誰も何も言わなかった。

その時間がどれほどあったかは分からない。

記録者として計測しなかったことを後悔したが、後悔は記録にならない。

「この子は光が好きだな」

「最近はそうみたい。ジュネーブの部屋でも、電球の方を向いて離さなかった」

「この店に来て、正解だった」

洋子は少し笑った。

20分後に、浩とマリアが来た。

マリアは美咲を抱いていた。美咲は同じく11ヶ月。

ほとんど同い年だ。

美咲は入口から店内を見て、すぐに棚の方向を向いた。

太一と同じ場所を、ほぼ同じ順番で視線が動いた。

「美咲も光が好きなんだ」

マリアが言った。

「太一も」

洋子が言った。

それだけの確認だった。

4人と2人の子供が、「ステラリウム」に揃った。

この時刻と人数と場所を、記録した。これが最初だ。


時刻: 午後7時30分

場所: 「ステラリウム」

美咲と太一は、床に寝かされた。

マリアが持参したマットの上に、二人を並べた。

美咲は仰向けで天井を見ていた。

太一は横を向いていた。二人の視線は、

最初は交わらなかった。

浩はスツールに座って、ウイスキーのソーダ割りを頼んだ。

マリアは美咲の様子を見ながら、

ウォーターを頼んだ。

「久しぶりに全員揃った」

浩が言った。

「ジュネーブ以外で揃うのは、もっと久しぶりだ」

浩はスツールに座って、店内を見回した。

「ここ、やっぱ落ち着くな」

マリアは美咲を抱き直しながら言った。

「東京って、空気が違うよね。なんか軽い」

「軽い?」

浩は少し考えた。

「……湿度かもしれない。あと光の色」

「また分析してる」

マリアは笑った。

「そういうとこ、変わらないね」

浩は否定しなかった。

私は二人のやり取りを見ていた。

「ステラリウム」には、IGDEの資料も、VTPの設計書も、国際会議の記録も存在しない。

私が意図的にそうしていた。

ここは、仕事を持ち込まない場所だ。

ジュネーブでは、会議室とオフィスと自宅の間を往復するだけで、食事の場でも仕事の話が出た。

「ステラリウム」は、そういう場所にしたくなかった。

それが、閉めなかった理由の一つかもしれない。

今夜そう思った。

「よく7年間、持っていたな」

浩が店内を見回しながら言った。

「開店を手伝ってくれた人物に頼んだ。何度か閉めようかと思ったが、残してよかった」

「なぜ閉めなかった?」

「帰ってくる場所が必要だと思っていた。なんとなく」

「なんとなく、は記録者らしくない」

「そうだな。理由が言語化できなかった、と書き直す」

浩は少し笑った。

グラスの音だけがしばらく続いた。

洋子は、カウンターの端から床の二人の子供を見ていた。

「太一」

洋子が太一の名前を呼んだ。

太一は声の方向を向いた。美咲もつられて向いた。

二人の視線が交わった。

私はその事実を書いた。

マリアは小さく息をのんだ。

「…見たね、今」

浩は腕を組んだ。

「偶然じゃないな」

「根拠は?」とマリア。

「動き方がさっきと違う」

洋子は二人を見ながら言った。

「どっちでもいいよ。見たってことだけで十分」

美咲が、先に視線を外した。天井の方に目を向けた。

太一は、美咲が視線を外した後もしばらく美咲の方を見ていた。

「仲良くなれるかな」

マリアが言った。

「まあ、なるんじゃないか」

浩が言った。

「根拠も出てくるの?」

マリアが少し笑いながら言った。

「同い年で、同じ場所に来る。それで十分だ」

「また分析してる」

「観察だ」

マリアは少し間を置いた。

「どっちでも同じでしょ、あなたにとっては」

「少し違う」

「どっちでもいい」

洋子がグラスを置いた。

「仲良くなるかどうかは、二人が決めることだから」

それで話は終わった。4人は床の二人をしばらく見ていた。

美咲は天井を見ていた。太一は棚の方向に頭を向けていた。

二人の関心は、この時点では互いには向いていなかった。

それでよかった。

次に来た時、また視線が交わるかもしれない。

交わらないかもしれない。

今夜の記録は、今夜の事実だけだ。

次の事実は、次の夜に書く。

記録者として、それが正しいやり方だと思う。

今夜の事実に、次の夜の事実を重ねない。


時刻: 午後9時00分

場所: 「ステラリウム」

会話は、仕事の話には入らなかった。

VTPの進捗、月面基地の状況、国際的な動向。

それらはすべて、ジュネーブに置いてきた。

何かを意識して避けたわけではない。

話したいことが他にあった。

「そっちも夜中に起きてる?」

浩が私に聞いた。

「2回か3回は起きる」

「美咲も同じだ」

「いつになったら通して寝てくれるんだろうな」

「1歳から1歳半頃らしい。文献に書いてあった」

「まだ先だ」

「まだ先だ」

そのやり取りを聞いていたマリアが言った。

「いつ調べたの、そんなこと」

「会議の合間に文献を見た」

「あなた、育児書まで読むのね」

「参考になる部分がある」

マリアは特に驚いた様子はなかった。

浩が育児の文献を読んでいても、驚かない。

それがマリアだ、と私は記録してきた。

「子供の食事はどうか」

マリアが今度は私に聞いた。

「離乳食が進んでいる。最近はほうれん草が嫌いなことが分かった」

「美咲も野菜が苦手なものがある。人参だ」

「人参って根菜じゃなかったっけ」

「ジュネーブのスーパーでは野菜扱いだ」

浩が少し口を挟んだ。

「分類上は野菜扱いだな。スーパーは妥当だ」

「聞いていなかった」

マリアが言った。

「答えた」

浩が言った。

洋子が少し笑った。

私もグラスを磨くだけにした。

この4人の会話の流れを、私は何年も記録してきた。

仕事の文脈ではなく、こういう会話が続く時の4人の空気は、少し違う。

緊張が外れている。そう感じた。

と書いた。

しかし、私はその会話を記録として残す価値があると判断した。

氷雨対策の会議をしていた4人が、子供の睡眠の話をしていた。

少し不思議だった。

美咲は途中で眠そうになって、マリアの膝の上に移った。

太一は床に戻って、マットの上で手足を動かしていた。

「太一は活動的だな」

浩が言った。

「ジュネーブでも、夜になっても動いている」

洋子が言った。

「美咲は今日は静かだ。場所が変わると、様子を見る時間が長くなる」

「初めて来たからだろう」

「そうだ。次は慣れる」

浩は確信を持って言った。

予測ではなく、観察の結果から来る言い方だった。

夜が深くなると、子供たちは眠くなり始めた。

大人4人の会話は途切れ途切れになった。

誰かが話しかけても、子供の様子を確認しながら返事をする。

会話の密度が下がった。

それを不満と感じる者は誰もいなかった。

子供がいる夜の会話は、そういうものだ。

浩が窓の外を見た。「東京の夜は明るいな」と言った。

「ジュネーブより?」とマリアが聞いた。

「どちらとも違う」と浩が言った。

「何が違う?」と私が聞いた。

「光の種類だ」と浩が言った。

「光には種類がある」とマリアが笑いながら言った。

「ある」と浩が言った。

「太一は光の種類が分かるのかな」

洋子がふと言った。

「まだ分からないだろう」

「でも、光るものと光らないものは分かっている。さっきの棚の動きを見ていると」

「それは知覚だと思う。まだ“分かる”とは違う」

「そうやって覚えてくんじゃない?」

浩は少し考えてから、

「……たぶん、そうだな」

浩は少し驚いたように洋子を見た。

「よく知ってるな。どこで」

「あなたが送ってくれた文献に書いてあった」

「送ったか」

「去年、送ってきた。太一が生まれる前に」

浩は少し間を置いた。

「覚えていなかった」

「私は覚えている」


時刻: 午後10時30分

場所: 「ステラリウム」

今夜、4人が「ステラリウム」で過ごした時間は約4時間だった。

この4時間を記録として書き留めながら、私はいくつかのことに気づいた。

仕事の話をしなかった、という事実が一番大きい。

仕事の話をしない4時間が、この4人に存在した。

それは記録として書くに値する事実だ。

子供の話をした。

光の話をした。

野菜と根菜の話をした。

そして、美咲と太一が初めて視線を交わした。

大きな出来事は何もない。

しかし、それだけのことが今夜の記録になる。

4時間のうち、会話が続いていた時間は半分以下かもしれない。

残りは子供を見ながら、グラスを持ちながら、ただそこにいた。

記録として書ける言葉のない時間が、今夜の大部分を占めていた。

美咲が眠った。

マリアが抱き上げて、背中をさすった。美咲はマリアの肩に頭を乗せて、静かに呼吸していた。

太一は、まだ起きていた。

洋子が太一を受け取った。

太一は眠そうな顔をしながら、それでも目を開けていた。

棚のボトルをまだ見ていた。

諦めが悪いというより、まだ興味が続いているように見えた。

「今日は、ここに来て良かった」

マリアが言った。理由は言わなかった。

「また来る」

浩が言った。

「来週も土曜日は空いている?」

私は答えた。

「空けておく」

それで話は終わった。

来週も来る、と誰かが言うだけで十分だった。

4人がコートを着て、美咲とマリアが先に出た。

「また来週」

洋子が言った。

「また来週」

私が答えた。

扉が閉まった。

閉まった後、しばらくその扉を見ていた。

何かを考えていたわけではない。

4人が出て行った余韻が、少しの間残っていた。

その余韻を書こうとして、やめた。

扉が閉まった。

それだけを書いた。

店内に、4つのグラスが残っていた。

浩のウイスキーソーダ、マリアのウォーター、洋子のウォーター、私のグラス。

今夜、私は何も飲んでいなかった。

グラスだけ出していた。

4つのグラスを片付けながら、それも記録した。

グラスの数と種類を、今夜の事実として書いた。


時刻: 深夜

場所: 「ステラリウム」(閉店後)

客が帰り、店を閉めた。

カウンターを拭きながら、今夜起きたことを整理した。

大きなことは何も起きていない。

4人が集まって、飲んで、子供を見て、仕事の話をせずに帰った。

それだけだ。しかし、それだけのことに、何かがあった。

氷雨が起きる前、この店で私は多くの人と会った。

政治家、外交官、科学者、ジャーナリスト。様々な人間が、この店で言葉を交わした。

時にはこの場所で、氷雨対策の議論の一端が動いたこともあった。

そういう場所だった。

その記憶がある場所に、今夜は浩とマリアと洋子が来た。

子供を連れて。

浩と洋子のことを記録し始めたのは、7年以上前だ。

最初は洋子との縁で、次第に浩も記録の対象になった。

マリアが加わり、子供が生まれた。

今夜、美咲と太一がここに来て、初めて視線を交わした。

2秒か3秒の間だったと思う。

時間を計測しなかった。

記録者として、この変化をどう書くかを考えた。

正確に書けることだけを書く。

今夜、「ステラリウム」に6人が来た。

4人の大人と、2人の子供。

子供は初めてこの店で視線を交わした。

5年間、あの人物が店を保ってくれた。

その間、この店で起きたことを私は知らない。

常連客が来たかもしれない。

誰かがここで重要な決断をしたかもしれない。

しかし、私の記録にはない。

記録がないことは、なかったことと同じではない。

ただ、私の記録に残っていないだけだ。

今夜から、私の記録がここに加わる。

今日の礼を伝えようと思ったが、帰り際にすでに「続けたかっただけです」と言ってくれていた。

それで十分だった。

店の灯りを消した。

窓から外を見ると、東京の夜が広がっていた。

氷雨の後、海面の上昇で東京の一部は水没した地域もあった。

しかし、神楽坂の裏路地は今も残っていた。

次の土曜日も、この場所に4人が来る。

そう思いながら、灯りを消した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。