第16-1話 バーの夜
時刻: 4月20日 土曜日 午後6時00分
場所: 東京・神楽坂「ステラリウム」
バーカウンターに、光が当たっている。
「ステラリウム」
神楽坂の裏路地にある、小さな店だ。
長く立ったのは氷雨の前年、7年前が最後だ。
それからジュネーブに移り、プロジェクト・アセンションの記録者として、以来ほぼずっとそちらにいた。
今夜のために、この店は残っていた。
そして今日は、久しぶりに私が立つ。
開店前の1時間、カウンターを拭き、棚のボトルの並びを確認した。
任せていた人物がきちんと管理してくれていたので、在庫の状態は良かった。
5年の間に、いくつかのボトルは入れ替わっていた。
しかし、棚の構成は変えていない。
光の当たり方が同じだ。
カウンター越しに見える棚の景色が、7年前のままだった。
私は7年前の自分がここに立っていた姿を思い出そうとして、うまくいかなかった。
記憶より、記録の方が正確だ。
「来る」とだけ洋子にメッセージを送った。
「分かった」とだけ返ってきた。
浩には「土曜日、神楽坂に来ないか」と送った。
「行く」と来た。
マリアには「美咲も連れてきていいか」と確認が入ったので「ぜひ」と返した。
4人が揃う予定になった。
この4人が揃う、ということが、今夜の主な目的だった。
ジュネーブではしょっちゅう顔を合わせているが、仕事の場でだ。
仕事を切り離した場所で会うのは、久しぶりだった。
5年前に2週間だけ帰国して開けたこともあった。
子供たちが生まれる前も、こういう夜はあった。
しかし子供が生まれてからは、初めてかもしれない。
今日のような夜は、その時以来だ。
実は「ステラリウム」は、その間も閉めていなかった。
5年前の帰国時、また長い不在になると感じた。
この店の開店を手伝ってくれた、バー経営の経験のある年配の人物に、週に数日だけ灯りを落とさないでほしいと頼んだ。
断られるかもしれないと思ったが、「分かった」と言ってくれた。
理由は聞かなかった。
以来5年間、その人物が続けてくれた。
開店前に、その人物が来ていた。
カウンターの鍵を渡しながら、「あとは任せましたよ」と言って帰った。
私が「5年間ありがとうございました」と言うと、「続けたかっただけです」とだけ返ってきた。
それで終わりだった。
7年間、大きなことは何も起きなかった。
店はそのままあった。
氷雨の翌年、海面上昇の影響で東京の一部が水没したが、神楽坂の裏路地は残った。
この場所は残った。
東京に戻ったのは、今月の初めだ。
VTPの体制が整い、ジュネーブのチームが安定して動き始めた。
私の記録者としての仕事は続いているが、拠点を東京に移してもやっていける段階になった。
洋子もそれに合わせた。
太一のこともある。
ジュネーブと東京を行き来しながら、軸足を少しずつ東に戻している。
時刻: 午後7時00分
場所: 「ステラリウム」
洋子と太一が来た。
太一は洋子に抱かれていた。
生後11ヶ月。
まだ歩けない。
しかし、店内を見回す目は、何かをとらえようとしていた。
入口から一歩踏み込んで、すぐに棚の方向を向いた。
光るボトルが並んでいる。
それを一つ一つ視線でなぞっていくように見えた。
見えた、と書くのは珍しい。
しかし、そう見えたので書いた。
私は二人を迎えた。
洋子は太一を抱いて入ってきた。
「久しぶりだね」
それだけ言って、太一を少し持ち上げて見せた。
私は受け取った。
太一は私の顔を見た。
しばらく逸らさなかった。
洋子はスツールに座った。
「太一にも、この場所を覚えさせたいんだ」
「まだ分からないだろう」
「いいの。来てたっていう"事実"が残れば」
洋子はそれ以上説明しなかった。
必要ないと思っているように見えた。
覚えているかどうかと、記録があるかどうかを、洋子は区別する。
私も区別する。
その共通点に気づいたのは、いつだったか。
記録を後から読み返せば分かるかもしれないが、今夜はいい。
私はカウンターの奥から出て、太一を受け取った。
重かった。この子を最後に抱いたのは、先月ジュネーブで会った時だ。
その時より、確実に重くなっている。
太一は私の腕の中に収まって、しばらく私の顔を見た。
見ていた、という事実を書いた。
表情の意味までは、拾えなかった。
「何を飲む」
「水で」
「アルコールなし?」
「今夜は」
それだけで、私は水を用意した。洋子の言葉の端を補足する必要はなかった。
今夜は、という言葉が何を意味するかを、私は長い時間をかけて知っている。
太一は、私の腕の中で棚を見ていた。
光るボトルが気になるらしく、手を伸ばす仕草をした。
届かない。
届かないことを確認してから、また別のボトルに視線を移した。
飽きない。
次に向かう。
それが今の太一のやり方だと思った。
太一を受け取ってから、しばらくそのままカウンターの内側にいた。
洋子が外から太一を見た。
太一が私を見た。
私が洋子を見た。
誰も何も言わなかった。
その時間がどれほどあったかは分からない。
記録者として計測しなかったことを後悔したが、後悔は記録にならない。
「この子は光が好きだな」
「最近はそうみたい。ジュネーブの部屋でも、電球の方を向いて離さなかった」
「この店に来て、正解だった」
洋子は少し笑った。
20分後に、浩とマリアが来た。
マリアは美咲を抱いていた。美咲は同じく11ヶ月。
ほとんど同い年だ。
美咲は入口から店内を見て、すぐに棚の方向を向いた。
太一と同じ場所を、ほぼ同じ順番で視線が動いた。
「美咲も光が好きなんだ」
マリアが言った。
「太一も」
洋子が言った。
それだけの確認だった。
4人と2人の子供が、「ステラリウム」に揃った。
この時刻と人数と場所を、記録した。これが最初だ。
時刻: 午後7時30分
場所: 「ステラリウム」
美咲と太一は、床に寝かされた。
マリアが持参したマットの上に、二人を並べた。
美咲は仰向けで天井を見ていた。
太一は横を向いていた。二人の視線は、
最初は交わらなかった。
浩はスツールに座って、ウイスキーのソーダ割りを頼んだ。
マリアは美咲の様子を見ながら、
ウォーターを頼んだ。
「久しぶりに全員揃った」
浩が言った。
「ジュネーブ以外で揃うのは、もっと久しぶりだ」
浩はスツールに座って、店内を見回した。
「ここ、やっぱ落ち着くな」
マリアは美咲を抱き直しながら言った。
「東京って、空気が違うよね。なんか軽い」
「軽い?」
浩は少し考えた。
「……湿度かもしれない。あと光の色」
「また分析してる」
マリアは笑った。
「そういうとこ、変わらないね」
浩は否定しなかった。
私は二人のやり取りを見ていた。
「ステラリウム」には、IGDEの資料も、VTPの設計書も、国際会議の記録も存在しない。
私が意図的にそうしていた。
ここは、仕事を持ち込まない場所だ。
ジュネーブでは、会議室とオフィスと自宅の間を往復するだけで、食事の場でも仕事の話が出た。
「ステラリウム」は、そういう場所にしたくなかった。
それが、閉めなかった理由の一つかもしれない。
今夜そう思った。
「よく7年間、持っていたな」
浩が店内を見回しながら言った。
「開店を手伝ってくれた人物に頼んだ。何度か閉めようかと思ったが、残してよかった」
「なぜ閉めなかった?」
「帰ってくる場所が必要だと思っていた。なんとなく」
「なんとなく、は記録者らしくない」
「そうだな。理由が言語化できなかった、と書き直す」
浩は少し笑った。
グラスの音だけがしばらく続いた。
洋子は、カウンターの端から床の二人の子供を見ていた。
「太一」
洋子が太一の名前を呼んだ。
太一は声の方向を向いた。美咲もつられて向いた。
二人の視線が交わった。
私はその事実を書いた。
マリアは小さく息をのんだ。
「…見たね、今」
浩は腕を組んだ。
「偶然じゃないな」
「根拠は?」とマリア。
「動き方がさっきと違う」
洋子は二人を見ながら言った。
「どっちでもいいよ。見たってことだけで十分」
美咲が、先に視線を外した。天井の方に目を向けた。
太一は、美咲が視線を外した後もしばらく美咲の方を見ていた。
「仲良くなれるかな」
マリアが言った。
「まあ、なるんじゃないか」
浩が言った。
「根拠も出てくるの?」
マリアが少し笑いながら言った。
「同い年で、同じ場所に来る。それで十分だ」
「また分析してる」
「観察だ」
マリアは少し間を置いた。
「どっちでも同じでしょ、あなたにとっては」
「少し違う」
「どっちでもいい」
洋子がグラスを置いた。
「仲良くなるかどうかは、二人が決めることだから」
それで話は終わった。4人は床の二人をしばらく見ていた。
美咲は天井を見ていた。太一は棚の方向に頭を向けていた。
二人の関心は、この時点では互いには向いていなかった。
それでよかった。
次に来た時、また視線が交わるかもしれない。
交わらないかもしれない。
今夜の記録は、今夜の事実だけだ。
次の事実は、次の夜に書く。
記録者として、それが正しいやり方だと思う。
今夜の事実に、次の夜の事実を重ねない。
時刻: 午後9時00分
場所: 「ステラリウム」
会話は、仕事の話には入らなかった。
VTPの進捗、月面基地の状況、国際的な動向。
それらはすべて、ジュネーブに置いてきた。
何かを意識して避けたわけではない。
話したいことが他にあった。
「そっちも夜中に起きてる?」
浩が私に聞いた。
「2回か3回は起きる」
「美咲も同じだ」
「いつになったら通して寝てくれるんだろうな」
「1歳から1歳半頃らしい。文献に書いてあった」
「まだ先だ」
「まだ先だ」
そのやり取りを聞いていたマリアが言った。
「いつ調べたの、そんなこと」
「会議の合間に文献を見た」
「あなた、育児書まで読むのね」
「参考になる部分がある」
マリアは特に驚いた様子はなかった。
浩が育児の文献を読んでいても、驚かない。
それがマリアだ、と私は記録してきた。
「子供の食事はどうか」
マリアが今度は私に聞いた。
「離乳食が進んでいる。最近はほうれん草が嫌いなことが分かった」
「美咲も野菜が苦手なものがある。人参だ」
「人参って根菜じゃなかったっけ」
「ジュネーブのスーパーでは野菜扱いだ」
浩が少し口を挟んだ。
「分類上は野菜扱いだな。スーパーは妥当だ」
「聞いていなかった」
マリアが言った。
「答えた」
浩が言った。
洋子が少し笑った。
私もグラスを磨くだけにした。
この4人の会話の流れを、私は何年も記録してきた。
仕事の文脈ではなく、こういう会話が続く時の4人の空気は、少し違う。
緊張が外れている。そう感じた。
と書いた。
しかし、私はその会話を記録として残す価値があると判断した。
氷雨対策の会議をしていた4人が、子供の睡眠の話をしていた。
少し不思議だった。
美咲は途中で眠そうになって、マリアの膝の上に移った。
太一は床に戻って、マットの上で手足を動かしていた。
「太一は活動的だな」
浩が言った。
「ジュネーブでも、夜になっても動いている」
洋子が言った。
「美咲は今日は静かだ。場所が変わると、様子を見る時間が長くなる」
「初めて来たからだろう」
「そうだ。次は慣れる」
浩は確信を持って言った。
予測ではなく、観察の結果から来る言い方だった。
夜が深くなると、子供たちは眠くなり始めた。
大人4人の会話は途切れ途切れになった。
誰かが話しかけても、子供の様子を確認しながら返事をする。
会話の密度が下がった。
それを不満と感じる者は誰もいなかった。
子供がいる夜の会話は、そういうものだ。
浩が窓の外を見た。「東京の夜は明るいな」と言った。
「ジュネーブより?」とマリアが聞いた。
「どちらとも違う」と浩が言った。
「何が違う?」と私が聞いた。
「光の種類だ」と浩が言った。
「光には種類がある」とマリアが笑いながら言った。
「ある」と浩が言った。
「太一は光の種類が分かるのかな」
洋子がふと言った。
「まだ分からないだろう」
「でも、光るものと光らないものは分かっている。さっきの棚の動きを見ていると」
「それは知覚だと思う。まだ“分かる”とは違う」
「そうやって覚えてくんじゃない?」
浩は少し考えてから、
「……たぶん、そうだな」
浩は少し驚いたように洋子を見た。
「よく知ってるな。どこで」
「あなたが送ってくれた文献に書いてあった」
「送ったか」
「去年、送ってきた。太一が生まれる前に」
浩は少し間を置いた。
「覚えていなかった」
「私は覚えている」
時刻: 午後10時30分
場所: 「ステラリウム」
今夜、4人が「ステラリウム」で過ごした時間は約4時間だった。
この4時間を記録として書き留めながら、私はいくつかのことに気づいた。
仕事の話をしなかった、という事実が一番大きい。
仕事の話をしない4時間が、この4人に存在した。
それは記録として書くに値する事実だ。
子供の話をした。
光の話をした。
野菜と根菜の話をした。
そして、美咲と太一が初めて視線を交わした。
大きな出来事は何もない。
しかし、それだけのことが今夜の記録になる。
4時間のうち、会話が続いていた時間は半分以下かもしれない。
残りは子供を見ながら、グラスを持ちながら、ただそこにいた。
記録として書ける言葉のない時間が、今夜の大部分を占めていた。
美咲が眠った。
マリアが抱き上げて、背中をさすった。美咲はマリアの肩に頭を乗せて、静かに呼吸していた。
太一は、まだ起きていた。
洋子が太一を受け取った。
太一は眠そうな顔をしながら、それでも目を開けていた。
棚のボトルをまだ見ていた。
諦めが悪いというより、まだ興味が続いているように見えた。
「今日は、ここに来て良かった」
マリアが言った。理由は言わなかった。
「また来る」
浩が言った。
「来週も土曜日は空いている?」
私は答えた。
「空けておく」
それで話は終わった。
来週も来る、と誰かが言うだけで十分だった。
4人がコートを着て、美咲とマリアが先に出た。
「また来週」
洋子が言った。
「また来週」
私が答えた。
扉が閉まった。
閉まった後、しばらくその扉を見ていた。
何かを考えていたわけではない。
4人が出て行った余韻が、少しの間残っていた。
その余韻を書こうとして、やめた。
扉が閉まった。
それだけを書いた。
店内に、4つのグラスが残っていた。
浩のウイスキーソーダ、マリアのウォーター、洋子のウォーター、私のグラス。
今夜、私は何も飲んでいなかった。
グラスだけ出していた。
4つのグラスを片付けながら、それも記録した。
グラスの数と種類を、今夜の事実として書いた。
時刻: 深夜
場所: 「ステラリウム」(閉店後)
客が帰り、店を閉めた。
カウンターを拭きながら、今夜起きたことを整理した。
大きなことは何も起きていない。
4人が集まって、飲んで、子供を見て、仕事の話をせずに帰った。
それだけだ。しかし、それだけのことに、何かがあった。
氷雨が起きる前、この店で私は多くの人と会った。
政治家、外交官、科学者、ジャーナリスト。様々な人間が、この店で言葉を交わした。
時にはこの場所で、氷雨対策の議論の一端が動いたこともあった。
そういう場所だった。
その記憶がある場所に、今夜は浩とマリアと洋子が来た。
子供を連れて。
浩と洋子のことを記録し始めたのは、7年以上前だ。
最初は洋子との縁で、次第に浩も記録の対象になった。
マリアが加わり、子供が生まれた。
今夜、美咲と太一がここに来て、初めて視線を交わした。
2秒か3秒の間だったと思う。
時間を計測しなかった。
記録者として、この変化をどう書くかを考えた。
正確に書けることだけを書く。
今夜、「ステラリウム」に6人が来た。
4人の大人と、2人の子供。
子供は初めてこの店で視線を交わした。
5年間、あの人物が店を保ってくれた。
その間、この店で起きたことを私は知らない。
常連客が来たかもしれない。
誰かがここで重要な決断をしたかもしれない。
しかし、私の記録にはない。
記録がないことは、なかったことと同じではない。
ただ、私の記録に残っていないだけだ。
今夜から、私の記録がここに加わる。
今日の礼を伝えようと思ったが、帰り際にすでに「続けたかっただけです」と言ってくれていた。
それで十分だった。
店の灯りを消した。
窓から外を見ると、東京の夜が広がっていた。
氷雨の後、海面の上昇で東京の一部は水没した地域もあった。
しかし、神楽坂の裏路地は今も残っていた。
次の土曜日も、この場所に4人が来る。
そう思いながら、灯りを消した。




