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氷雨の黙示録  作者: 唯野眠子
第12章-限界点
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第12-4話 人間の直感

時刻: 11月4日 午前9時00分

場所: 計算センター、管制室

12日。

計算が始まって3時間後、技術者の一人が端末を確認し、声を立てずに隣の同僚の腕を叩いた。

「47日が12日になる計算を俺は理解したが、なぜこれで合っているのかは理解できていない」

「俺も同じだ」

私はその会話をノートに書いた。

技術者たちが「理解できない」と言う時、それは批判ではない。

別の感情だ。

理解できないが、信頼する。その二つが共存している時にだけ出てくる声がある。あの会話は、そういう声だった。

計算センターには今、世界で最も高速な量子コンピュータが動いている。

毎秒10京回の演算をしている。

その計算の中に、二人が深夜に辿り着いた4分の1対称性が組み込まれている。

技術者たちは、その対称性の意味を理解している。

なぜ二人がそこに気づけたかを、理解していない。

その非対称が、「理解できない」という言葉になって出てきた。

浩と洋子は、朝の引き継ぎを終えた後、計算センターを出た。

「先輩」

私を呼んだのは洋子だった。

「浩さんが倒れる前に、少し休ませてください。見張っていてもらえますか」

浩は何も言わなかった。

反論しなかったことが、答えだった。

12日間、計算は動き続ける。

二人がここにいる必要は、今日はない。

問題が出れば、すぐ呼ぶ。

私はそう約束した。

マリアにも連絡した。

「強制的に休息を取らせます」と書いたら、「了解、もし駄々をこねるようなら、私の名前を出して。……それでもダメなら、美味しいコーヒーの香りと、とっておきのドーナツで誘惑するといいわ」と1分も経たず返信が来た。

マリアの返信を読んで、私は少し笑った。

記録者として笑うのは珍しいことだが、この返信は笑わずにいられなかった。


時刻: 11月4日 午後2時00分

場所: 人工島西端、展望デッキ

展望デッキは風が強かった。

11月の太平洋は、夏の温度をもう持っていない。

浩と洋子が柵に並んで立っていた。

私は少し離れたベンチに座った。

記録者として、ここにいる。

「昨夜のことを聞いていいですか」

洋子が言った。浩に向けて、ではなく、前を向いたまま言った。

「昨夜?」

「ドアをノックした時のことです。私が席を立ったのと、浩さんがノックしたのと、どちらが先でしたか」

浩は少し間を置いた。

「分からない。全く気にしていなかった」

「私も分かりません」

波の音が続いた。

「だが、何回目だろう、こういうことは」

浩が言った。

「数えていません。私もあまり気にしていませんでしたから」

洋子が答えた。

「最初はあのロボット制御の夜だったと思います。あの時も、浩さんが線を引こうとした場所に、私はすでに点を置いていた」

「名前をつけようとしたことが何度かある」

「でも、つけなかった」

「ああ」

浩が海を見た。

水平線の手前で、波が白く崩れていた。

風が、洋子の髪を右側に流していた。

その動きに、浩は一度だけ目をやったが、何も言わなかった。

私は、その一秒を書いた。

浩が洋子を見た、ということではない。

浩が、洋子の方向に目をやった、ということだ。

書き方の違いに意味がある。

それを選んだことも、記録の一部だ。

「今回は規模が違う。12日という数字の中に、俺の物理と君の数学が両方入っている。二人でないとそこには辿り着けなかった」

「ええ」

「なぜなんだろうな」

「分かりません」

洋子は少し間を置いた。

「でも、浩さんが今『なぜ』と聞いたのは、答えを求めているわけではないでしょう?」

浩は答えなかった。

洋子の問いがそのまま正確な答えだからだ。

洋子は、浩が答えを求めていないと知っていて、そう言った。

浩は、洋子がそれを知っていると知っていて、答えなかった。

二人の間で起きていたことを、私はこうしか書けない。

「あの夜に、浩さんはこう言いました。僕たちが何なのかはまだ分からない。しかし、この何かをエンジンにすれば、人類が辿り着けなかった場所に行けると」

「言った」

「今も同じだと思います」

浩はしばらく黙っていた。

「同じだ。変わらない。ただ、あの夜より一つだけ確かになったことがある」

「何が?」

「名前をつけないことが正しい、ということだ。この現象に言葉を当てはめた瞬間、何かが変わる。変えてはいけない。なぜか確かにそういう気がする」

洋子が小さく頷いた。

私は二人を見ていた。

あの夜から2年半が経っていた。

同じ構図だった。

二人が前を向いている。

タワーのケーブルではなく、今は水平線を見ている。

それでも、手が触れようとする場所は、相変わらず同じだった。

彼女が手すりを握る指と、浩の手との間には、あと数センチの隙間があった。

だが、その距離を縮める必要がないことを、二人は知っている。

数式が完全に一致している時、それ以上に近い場所など存在しないのだから。

だが、それは書かない。

記録者として確認できることは一つだ。

この二人は、同じ場所に何度でも辿り着く。

私はベンチから立ち上がりかけて、止めた。

二人の会話が終わったわけではなかった。

しかし続きもなかった。

波の音だけが続いていた。

ここに記録者がいることを、二人は知っている。

それでも構わないという状態で、この場所に立っている。

私はもう少し、ベンチにいた。

「人類が辿り着けなかった場所に行ける」と言った夜のことを、私は後から浩の口から聞いた。

あの夜、海辺で浩は「僕たちが何なのかはまだ分からない」と言った。

洋子は「宇宙そのものが私たちの味方をしているような気がする」と答えた。

私はその場にいなかった。

記録者が不在だった夜があった。

だからその夜の記録は、私の手元にない。

代わりにこの展望デッキでの会話を、私は丁寧に書く。

その夜の代わりに書くわけではない。

ただ、今日ここにいることで書けるものを、書き漏らしたくない。


時刻: 11月5日〜11月12日

場所: 計算センター

計算センターでは、静かな変化が起きていた。

11月3日深夜の出来事が、翌朝には技術チームの全員に伝わっていた。

「昨夜のログを見たか」

朝の引き継ぎの前、荒木が小声で言った。

「洋子さんのタイムスタンプと浩さんのタイムスタンプ、どちらが先だ」

「記録には残っていない。浩さんは計算を、システムの外でしたみたいだ」

「角運動量の試算が出た夜も、初めてあれを目にした夜も、二人のログは同じタイムスタンプで更新されていた。あの時は同じ部屋にいた。しかし今回は」

「別の建物の、別の場所にいる二人の思考が……」

「やめよう」

荒木が言った。

静かに、しかし明確に。

「俺たちの語彙には、その先を説明する言葉は多分ない。だからやめよう」

管制室に沈黙が広がった。しかし技術者たちは作業を続けていた。

画面に向かい、数値を確認し、計算の進捗を読んだ。

誰かが差し入れのドーナツの箱を開けた。

一つ取って、隣に差し出した。

私はその光景を書いた。

説明できないものを前に、人間は黙って仕事を続ける。

それが、この場所のやり方だった。

この数日で、若い技術者のアジズが私に声をかけてきたことがあった。

「先輩の方から見て、あの二人はどういう関係だと思いますか」

「どういうと?」

「科学的パートナー、とは言えますよね。でも、それだけじゃない気がして」

「そうだな」

「何なんでしょう」

「分からない」

アジズは少し考えた。

「でも、答えが出るんですよね。説明できなくても」

「ああ」

「説明できないことが、正しい答えを出す。不思議だと思います」

私は「不思議だな」と言って、ノートを開いた。

アジズが去った後、私はその会話を書いた。

若い技術者の言葉は、時々、記録者が言語化できずにいたことを言ってしまう。

荒木はその後、私に別のことを言った。

「先輩、ロボット制御精度の問題が解決した時のログ、見たことありますか」

「見た」

「02:14:05。コンマ以下の秒数まで、二人のタイムスタンプが一致していた」

「知っている」

「今回は」

荒木は少し止まった。

「今回は、片方がシステムの外で計算していた。だからタイムスタンプに残らない。でも、ドアをノックした時刻があのタイムスタンプより早いはずがない」

「そうだな」

「つまり、物理的に同じ建物にいない二人が」

「荒木さん」

私は遮った。

「あなたが『やめよう』と言ったんだ」

荒木は少し笑った。

「そうでした」

それで終わった。

私はその会話をノートに書いた。

荒木が自分で立てたルールを自分で破りかけて、自分で思い出した。


時刻: 11月10日〜11月15日

場所: 管制室、研究室

12日間は、意外なほど静かだった。

計算は問題なく進んだ。冷却工事も予定通り完了した。

11月10日の時点で、進捗は73%を超えていた。

浩は、この期間に初めてまとまった睡眠を取った。

洋子も同じだった。

マリアから確認が来た。

「二人の状態は?」

「問題ありません。今朝は浩さんが食堂で朝食を取っていました」

「それは重要な情報ね」

この数週間で、浩が食堂で朝食を取るのを見たのは初めてだった。

食堂に浩がいるということが、なぜ重要な情報なのか。

マリアには説明しなかった。

マリアも聞かなかった。

二人とも分かっていたからだ。

洋子は、この期間を次の射出再開後のパラメータ調整の準備に使っていた。

「休んでいないのでは?」

「これが私にとっての休息です。誰かに急かされる計算ではなく、自分で決めた計算をしている時間」

私はその答えを書いた。

洋子にとっての「休息」の定義が、私のそれとは違う。

しかし彼女の言う意味は分かった。

強いられた集中と、自発的な集中は、消耗の種類が違う。

私はこの期間に、自分の記録を見直した。

第一基が完成してからここまでの記録を通して読んだ。

1年半分の記録だった。

読みながら、気づいたことがある。

浩が「なぜ」と言った回数と、洋子が「分かりません」と答えた回数が、ほぼ等しい。

偶然かもしれない。

しかし偶然でないかもしれない。

浩の「なぜ」と洋子の「分かりません」は、いつも対になっていた。

どちらも、答えを求める言葉ではなかった。

二人は、言葉の形をした沈黙で会話している。そういう場合がある、と私は記録した。

バングラデシュにいる記者から、知らせが来ていた。

ハジ・モハメッドも射出停止を知っているのだが、「今では壁以外も掃除している」のだそうだ。

「また、水が引き始めると信じて、海を見ている」と言っていると教えてくれた。

私は、その知らせを読んで少し書き、止めた。

ハジ・モハメッドのことを書くと、どこまで書いてよいか分からなくなる。

彼の祈りのような行動を、記録として書くことが正しいのかどうか。

書いた。書かないよりは書いた方がいい、という判断だけが根拠だった。

11月14日の進捗は98.2%だった。


時刻: 11月16日 午前4時37分

場所: 計算センター

計算完了の知らせが届いた時、浩と洋子は別々に起きて、連絡なく、ほぼ同時に管制室の扉を開けた。

誰もがその音を聞いたが、誰も振り返らなかった。

荒木だけは二人を見た。

だが、何も言わなかった。

私は荒木の横にいた。

荒木が二人を見た時、その顔に何があったか。

驚きではなかった。確認でもなかった。

何か別の感情の、落ち着いた形があった。

記録者として書けるのはそこまでだ。

その感情に名前を付けることは、荒木の仕事であって、私の仕事ではない。

「結果は」

浩が聞いた。

「出ています」

オペレーターが画面を浩に向けた。

その場の全員が、音を立てないようにしていた。

理由は分からない。

静かにしなければならない場面ではない。

しかし誰もが、今この瞬間に余分な音を立てることを、自然に避けていた。

深夜から朝にかけての、特有の静寂だった。

夜勤明けの技術者と、呼び出された者とが混在していた。

半分は眠い目をしていて、半分は覚醒しきっていた。

それでも全員が同じ画面を見ていた。

計算センターという場所が持つ、奇妙な団結感がそこにあった。


時刻: 11月16日 午前5時00分

場所: 計算センター

洋子が数値を読み上げた。

「角運動量保存率、99.947%。射出継続時の自転速度変化は月13.25マイクロ秒。現在の月0.3秒からの削減率、99.053%」

管制室が静まり返った。

洋子が読み上げたその数値は、もはや調整ではなく、芸術の領域だった。

0.3秒が、0.00001325秒になる。

それは、地球という巨大な独楽の揺らぎを、人間の指先でそっと抑え込んだかのような、静謐な勝利だった。

浩がその数値を見ていた。

「計算精度は?」

「適合率99.99%以上。誤差範囲内に収まっています」

「問題なし?」

「問題なし」

技術者の一人が、画面から視線を上げた。

「……99.947%」

誰に言うともなく、数字を繰り返した。

その声に、私は何も書き添えなかった。

数字が語るものを、言葉で囲む必要はない。

「委員会に報告する」

浩が言った。「射出再開の準備を始める」

洋子が頷いた。

12日前、42日が12日になった。

今日、その12日が終わった。

次は、再稼働だ。

「99.947%」という数字が、この部屋の空気に残った。

技術者の誰かがその数字を繰り返した声が、まだ耳の中にある。

私はその声の主を確認しなかった。

確認する必要がなかった。

99.947%とは何か。

100%ではない。だから完璧ではない。

しかし、人間が到達できる最善値に非常に近い。

浩はそう言った。

洋子はそれを数字で示した。

記録者として書けることは、この数字が出た、ということだ。

二人がなぜこの計算に辿り着けたかを、言葉で説明した者はまだいない。

洋子は「見えたから見た」と言った。浩は「分からない」と言った。

それが、今の時点での最も正確な記録だ。

これ以上の説明を、私は持っていない。

浩が言った。

「射出再開の準備を始める」

洋子が頷いた。

二人は席についた。

私は、その様子を少し離れたところから見ていた。

夜明け前の計算センターには、コーヒーの匂いと、冷却システムの低い駆動音があった。

どちらも、この数週間ずっとそこにあったものだ。

世界が変わっても、匂いと音は同じだった。

私はそれを書いた。

書いてから、些細なことのように見えて、そうでもないと思い直した。

私は、その朝の光の入り方を書いた。

計算センターの窓から、水平線がわずかに白んでいた。

12日前、42日が12日になった。

今日、その12日が終わった。

次は、再稼働だ。

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