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氷雨の黙示録  作者: 唯野眠子
第12章-限界点
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第12-3話 量子コンピュータの限界

時刻: 10月21日 午前8時00分

場所: 計算センター

パターンが見つかった9日後、量子コンピュータによる本格計算が始まった。

処理能力——毎秒10京回の演算。

世界で最も高速な量子コンピュータが、この計算に専用で割り当てられた。

「現在の計算進捗: 0.3%」

オペレーターが報告した。

「推定完了時間: 47日」

3ヶ月から47日に短縮された。

「47日か」

浩が言った。

それは、洋子が成し遂げた「3ヶ月からの短縮」という奇跡への感嘆であり、同時に、絶望的な溜息でもあった。

「47日間、海面低下が止まる。その重みは、ここの皆が一番よく分かっている」

誰かが、絞り出すように言った。

人類の知性が到達できる極限を見せつけられた後の、無力感に近い響きがあった。

47日でも、長い。

それは、この場にいる全員の共通認識だった。

洋子がどれほど方程式を削り込み、量子コンピュータを限界まで回しても、地球が自転を整え、我々が再び射出を開始できるまでには、それだけの「時間」という物理的コストが必要なのだ。

私は、画面の向こう側の沈黙を書いた。

洋子の計算に異を唱える者は一人もいない。

彼女は最善を尽くした。

だが、その最善を以てしても、ハジ・モハメッドのような人々を47日間、不安の淵に立たせることになる。

その事実に、管制室の空調が止まったかのような冷たさを感じた。

47日という数字を、私はノートの端に書いた。

数字だけを書いた。

何も付け加えなかった。

付け加える言葉が見つからなかったからではなく、付け加えるべき言葉がないと思ったからだ。

数字が最も正確に現実を語る時がある。今がその時だった。

「対称性を用いた最適化の結果、これが現時点での最短解です」

洋子の声に、計算への疑いはなかった。

「射出の再開は?」

「計算完了からシステム同期に時間を要します。停止期間は47日間、再開は48日目が良いと思います」

浩は頷いた。

「委員会には報告する。選択肢の判断は、この47日という数字を持ってもらう」

「はい」

47日。3ヶ月から半分以下に縮んだ数字が、委員会の天秤を動かすかどうか。

私はそれを書かなかった。結果を待つのが記録者の仕事だ。


時刻: 10月22日〜10月25日

場所: 計算センター、管制室

委員会は47日という数字を受けて、議論を継続した。

「47日の停止なら、選択肢Aを取れる」

東南アジア諸国連合の委員が言った。3ヶ月を前に怒声を上げていた声が、47日という数字の前では別の色に変わっていた。

「しかし、47日は47日だ」

「3ヶ月と47日は違う。人間の忍耐は別物だ」

「問題は数字ではない。その間に何が起きるかだ」

「帰還を始めた人々が足を止める。それが問題だ」

「しかし自転の変化を放置する方が、長期的には深刻な問題になる」

議論は続いた。意見は割れたが、3ヶ月の時の緊迫感とは質が変わっていた。

あの時は「どうするか」という問いだった。

今は「47日なら耐えられるか」という問いに変わっていた。

問いの種類が変わると、答えの方向も変わる。

選択肢Aの支持が徐々に増えていった。

私は委員会の動向を追いながら、計算センターの状況も記録していた。

計算が動いている間、浩と洋子は問題の全体像を整理した。

12基のエレベータから射出される氷塊。

それぞれが独自の軌道を持ち、地球・月・太陽の重力、地球の自転、潮汐力、太陽風圧、電磁場影響、そして氷塊同士の微弱な重力干渉——変数の組み合わせは膨大だった。

計算変数の総数について洋子が説明した。

「対称性がなければ、どうなっていた?」

「3ヶ月では終わらなかった可能性があります。半年、あるいはそれ以上」

「47日でも長い」

「長いですが……やるしかありません」

この会話を私はノートに書いた。

「やるしかありません」という言葉が、洋子から出てくることは珍しい。

洋子は普段、選択肢を羅列する。

やるしかない、という言葉は、他に選択肢がないことを受け入れた後にしか出てこない。

私はその珍しさを、括弧に入れず書いた。

受け入れた、ということも記録だ。

浩は「47日でも長い」と言い、洋子は「やるしかありません」と言った。

二人が同じ現実を、違う角度から受け取っていた。そのどちらも正しかった。

射出は、10月13日から停止されていた。

世界に公表された。

「技術的な調整のため、射出を47日間停止します。その後、より安全な方式で再開します」

難民キャンプに、静かな焦りが広がった。帰還準備をしていた人々が、足を止めた。

バングラデシュの記者から、私にメッセージが届いた。

ハジ・モハメッドが、潮位の低下が止まった後も壁を磨き続けているという。

私は一度書きかけて、消した。

「ここで手を放してしまったら」

記者が聞き出したハジの言葉が、画面に残っていた。

「たとえまた海が引いても、私はもう、この家を愛し続けることができなくなる。ここで止めちゃいけないんだ」

理屈になっていない理屈。

だが、記録すべきは、一人の老人がそう感じているという事実そのものだ。

ハジ・モハメッドの言葉を読んだ後、私はしばらく画面を見ていた。

記録者として書ける最大限は「そう感じているという事実」だ。

なぜそう感じるかを書くことは、記録ではなく解釈になる。

私は解釈を書かない。

しかし、解釈したいという感情は確かにあった。

それも書かなかった。


時刻: 10月28日

場所: 計算センター

問題が起きたのは、計算開始から7日後だった。

「システム警告: 熱管理限界に接近」

量子コンピュータの運転状態を示す画面に、赤いアラートが出た。

「なぜだ?」

「通常よりはるかに高密度な計算を、長期間連続して行っているためです。冷却システムが追いつかない」

「処理を止めると、計算は?」

「保存して再開できますが、再起動に6時間かかります。累積遅延が生じます」

「速度を落とす選択肢は?」

「処理能力を70%に下げれば熱は安定しますが、計算時間が47日から67日に延びます」

技術者たちの間で議論が起きた。

「速度を落とすべきだ。安全が最優先」

「67日は長すぎる」

「簡略化できないか」

別の技術者が言った。

「計算の精度を下げれば処理量が減る。それだけで熱問題は解決できる」

私は、この議論を書きながら思った。

技術者たちの言葉は、それぞれ正しい。

速度を落とすべきだという意見も、67日は長すぎるという意見も、どちらも間違っていない。

正しい意見が対立している時、解決は第三の方向から来る。

しかしその場では、第三の方向が見えていなかった。

浩が聞いた。

「どの程度の精度を犠牲にするのか」

「誤差3%を残し、月0.06秒の変化を許容すれば、熱問題は即座に解消できます。ゼロにはなりませんが、現状の0.3秒からは大幅な改善です」

提案した技術者の声には、切実な期待が混じっていた。

だが、浩は視線を上げなかった。

「妥協はできない」

「しかし浩さん、これは現実的な……」

「100年後の物理を、今日、欺くことはできない。そのために我々はここにいる。0.06秒の誤差は、1世紀後には取り返しのつかない負債になる。近似値で地球を動かすわけにはいかないんだよ」

浩がそう言い切った後、管制室に静寂があった。

技術者は何も言わなかった。

浩の言葉に反論できなかったからではないと思う。

反論する意味がないと感じたからだと思う。

浩の言葉には、議論の余地を残していない質感があった。

これは頑固さではない。

確信だ。

私はその違いを書き留めた。


時刻: 10月29日〜11月2日

場所: 計算センター、研究室

膠着した。

精度を落とすことは浩が拒否した。

速度を落とすことは時間的に難しかった。

計算を止めることは選択肢ではなかった。

膠着というのは正確な言葉ではないかもしれない。

正確には、三方向がすべて塞がれていた。

しかし浩も洋子も、塞がれていることを受け入れていなかった。

三つの方向が塞がれているなら、四つ目の方向があるはずだという前提で動いていた。

記録者として書けるのはその姿勢だけで、四つ目の方向が本当にあるかどうかは、この時点では誰にもわからなかった。

「冷却システムの増強を、計算を止めずに行えないか?」

浩の問いに、主任技術者はすぐには答えなかった。

手元の端末を叩き、隣の技術者と小声で言葉を交わした。

数分間の沈黙の後、顔を上げた。

「……2時間待ってください。次世代機に導入予定だった冷却モジュールを、現行システムに流用できるか、シミュレーションを行います。区画ごとに順次入れ替える手法が取れるか、確認させてください」

浩と洋子は、その「2時間」を待つことにした。

計算センターの別室では、技術チームが図面を広げ、端末を叩き続けていた。

廊下を早足で歩く足音が何度か聞こえた。

私はその音を書いた。

答えが出る前の時間にも、仕事がある。

浩はその2時間、椅子に座ったまま別の画面を見ていた。

解決策を待ちながら、他の問題を考えていた。

洋子も同じだった。二人とも、何もしない2時間を作らなかった。

記録者として書けるのはそこまでだ。

何を考えていたかは書けない。

2時間後、主任技術者が戻ってきた。

「やれます。区画ごとに冷却システムを順次入れ替えます。最終的には現在より約30%速くなります。完了時間はバッファーを含めて42日です」

「やってくれ」

この判断に至るまで、膠着の3日間があった。

その間、浩と洋子は毎日同じ部屋で別のアプローチを試し続けた。

会話がほとんどなかったが作業は続いていた。

どちらかがコーヒーを持ってきて、どちらかが画面を指し、どちらかが頷いた。

言葉のない作業がある。それが何なのかは書かない。

3日間、私も何度かその部屋に入った。

差し入れを置いた。

二人は礼を言ったか言わなかったか、覚えていない。

礼を言うかどうかの問題ではない部屋の空気だった。

私は差し入れを置いて出た。

記録者として何を書けるか考えながら、廊下を歩いた。


時刻: 11月3日 午後11時00分

場所: 研究室

深夜、洋子は一人、計算式を見つめていた。

思考の端で、ふと項が「消える」予感がした。

確信ではない。

数学的な直感というものが存在するかどうか、私には判断できない。

しかし洋子が「予感がした」と後に言った時、それは根拠のない感情ではなかったのだと思う。

長期間ある問題を見続けると、解の形が見えてくることがある、と私は聞いたことがある。

洋子の場合、それが「項が消える」という形で現れた。

しかし、その予感を浩に見せに行こうと席を立ち上がりかけ、「その前に」と、差し入れのドーナツの箱に手を伸ばした瞬間、ドアがノックされた。

浩が立っていた。

「項の対称性をもう一段階上げられる」

洋子は手を止めた。

「……私も、今それをお話ししようと思っていました」

浩が少し黙った。

「どこから?」

「12基の赤道上の配置です。等間隔に並んでいる。その配置自体に、もう一つの対称性がある」

「4分の1対称か」

「ええ。実質的に計算量が4分の1になります」

洋子は苦笑して、ドーナツを箱に戻した。

カサリ、と乾いた紙の音が静まり返った部屋に響いた。

浩は「なぜ分かった」とは聞かなかった。

洋子も説明しなかった。

以前にもこういうことがあった。

ロボット制御の問題を解いた夜も、角運動量の試算が出た夜も、二人は同じタイムスタンプで同じ方向に動いていた。

今夜はタイムスタンプではなく、ドアのノックと席を立った瞬間が一致した。

どちらが先かは分からない。

分からないことを、私は分からないと書く。

「確認する」

5分後。

「確かに、4分の1の対称性がある」

二人はそのまま、次の段階に進んだ。

私は「なぜ二人は同時に同じ場所に辿り着いたのか」という問いを書いた。

しかし答えは書かなかった。答えは来なかったから。


時刻: 11月4日 午前6時00分

場所: 計算センター

新しい計算が始まった。

「推定完了時間: 12日」

表示された数字に、計算センターは一瞬、静まり返った。

誰もが自分の目を疑った。

42日が、12日になった。

それは洋子が発見した「高次元の対称性」という数学的飛躍と、浩が強行した「稼働しながらの冷却システム増強」という、理論と実務の極限が噛み合った瞬間の結実だった。

遅れて、誰かが小さく拳を突き上げ、そして歓声に変わった。

だが、浩と洋子は笑わなかった。

12日。

120年後の人類を救うために「今」の47日間を止めようとした彼らが、血を吐くような思いで削り出した、最後の一片。

「……12日なら、ハジさんも挫けないでいられるかもしれません」

洋子のその呟きを、私は逃さず記録した。

この12日間、海面低下は止まる。地球は自転を整えるために呼吸を休める。

私たちは、その「12日」という時間の重さに、ただ圧倒されていた。

12日という数字が画面に出てから、誰も最初の10秒間は動かなかった。

窓の外に、空が白み始めていた。計算センターの照明は変わらず同じ色だったが、窓から入る光の質が少し変わっていた。

夜と朝の境目がそこにあった。

浩は眠そうな顔で椅子に座っていた。

洋子は、新しい計算の初期結果を確認していた。

「異常なし。パターンは合っています」

「ありがとう」

浩が言った。洋子に向けて。

洋子は答えなかった。

スクリーンを見ていた。

私は、その場面を書いた。

浩が「ありがとう」と言い、洋子は答えなかった。

それだけを書いた。

深夜から夜明けにかけて、二人は計算を変えた。

私は、その変化を見ていた。

12日後に答えが出る。

それまで、私は書き続ける。

ハジ・モハメッドが壁を磨いているかどうか、今夜は確認していない。

12日後に確認する。

技術担当が浩に確認していた。

「計算速度が上がっても、冷却システムの増強工事は続けますか?」

技術者の問いに、浩は迷わず答えた。

「もちろんだ。万が一の熱暴走も許されない。想定外の上を行こう」

その徹底した、あるいは過剰とも思える慎重さを、私はノートに書き留めた。

浩は、一度牙を剥いた「地球」という存在を、心の底から恐れている。

私は、彼のこの慎重さが、単なる私の「杞憂」であってほしいと強く願った。

記録者に許されない感情だとは分かっていたが、そう思わずにはいられなかった。

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