第12-2話 自転速度の異常
時刻: 10月10日 午前9時00分
場所: オンライン会議(緊急科学諮問委員会)
世界中の地球物理学者が、オンラインに集まった。
IGDE、ESA、NASA、中国宇宙局、インド宇宙研究機関。加えて各国の独立研究機関から100名以上。
「確認します」
議長を務めた委員が言った。
「各機関のデータは、独立して同じ結論を示していますか」
「はい」
複数の声が、ほぼ同時に答えた。
浩と洋子は、それぞれのモニターの前に座っていた。私は浩の横で記録していた。
「原因の特定から始めましょう」
画面に並ぶ100を超える顔が、一斉に静止した。
この委員会は10月8日に浩が「緊急の科学委員会を開く」と言ってから48時間で召集された。
世界中の地球物理学者がこれだけの速さで集まれるのは、プロジェクトの信頼があるからだろう。
信頼とは積み重ねだ。
この委員会が開かれた事実そのものが、2年間の蓄積の証明だった。
私は浩の横に座って、この場を記録する準備をしていた。
今日の記録は、通常の記録と種類が違う。
科学的な内容が多く、私の理解が追いつかない部分も出るかもしれない。
それでも書く。
時刻: 午前9時〜午後1時
場所: 緊急科学諮問委員会
原因の候補は、二つあった。
洋子が順に説明した。
「第一の要因は、12基同時射出による角運動量の損失です。マスドライバーが毎日30万トンの水を宇宙に送り出す時、その水が持っていた角運動量も一緒に持ち去られる。地球の自転はわずかに遅くなります。東向き射出の設計で損失の大部分は補償できるという試算でしたが、12基が同時に射出すると氷塊同士の間に微弱な重力干渉が生まれ、その相互作用が追加の変化を生んでいた。単基では現れなかった効果です」
洋子の説明の中に「単基では現れなかった」という言葉があった。
それは設計段階での確認が不十分だったという意味でもある。
しかし今、洋子はその言葉を感情なく言った。
自責でも言い訳でもなく、事実として言った。
「第二の要因が、ステラーカーボンIIの超低周波共鳴です」
画面の向こうで、複数の委員が身を乗り出すのが分かった。
「塔の基礎工事でステラーカーボンの炭素分子が地殻の深部まで浸透したことで、射出時の超低周波振動が岩盤全体に伝播します。観測された自転速度変化の約88%がこの共鳴によるものです」
私は、洋子の言葉を聞きながら、頭の中で塔の振動を想像していた。
それは、目に見えない音の刃が、地球の骨を震わせているような光景だった。
洋子の説明は正確で、感情が入っていなかった。
感情を排した説明というのは、逆に現実の重さを際立たせることがある。
感情のない声で語られる内容が、聴衆の感情を最も大きく動かす。
「なぜ事前に気づかなかったのか」
浩が答えた。
「試算は第一基単独のシミュレーションでした。12基の同時稼働での相互作用検証が不十分なことと、ステラーカーボンIIの振動伝播特性が想定外でした」
洋子が付け加えた。
「私も同じ責任があります」
「責任の所在は問わない。問うても解決しない」
議長が言った。
「問うても解決しない」
この議長の言葉が、この委員会の姿勢を示していた。
責任を問うことと解決することは、別の仕事だ。
今日ここに集まった人間の仕事は解決することだ、と議長は言葉ではなく態度で示した。
「解決策を」
「現在手元にある解決策は、射出角度とタイミングの変更です」
洋子が続けた。
「各基の射出タイミングを精密に制御することで、角運動量の損失を最小化しながら、超低周波の共鳴を打ち消し合う方向に制御できます。二つの問題が同じ解法の中に収まります」
二つの問題が同じ解法で解ける、ということを、私は少し考えた。
それは偶然ではないかもしれない。
二つの問題が根を共有しているから、同じ解法が効く。
洋子はそれを直感していたのか、それとも計算の結果として見つけたのか。
今は聞けない場面だった。
後で聞いてみようと思ってメモした。
「計算の規模は?」
「量子コンピュータを使って、3ヶ月です」
委員会に、重い沈黙が落ちた。
キーを叩く音どころか、椅子が動く音すらしない。
空調が吐き出す風が聞こえるほどに。
私はそのやり取りだけを書いた。
起きたことを書く。それが私の仕事だ。
3ヶ月という言葉が出た瞬間の沈黙を、私はノートに時刻と共に書いた。
時刻: 午後2時〜午後6時
場所: 緊急科学諮問委員会、継続
データの提示が終わると、洋子が「二択」を提案した。
「選択肢は二つです。
A、射出を3ヶ月停止し、自転の変化を止める。ただし海面低下も止まる。
B、射出を継続し、海面低下を優先する。ただし3ヶ月で自転はさらに約1秒伸びる」
全ての画面の中が凍りつき、一瞬で沸騰した。
「射出を止める? 正気ですか」
画面越しに、東南アジア諸国連合の科学顧問が声を荒らげた。
「バングラデシュやモルディブでは、今この瞬間も数万人がボートで故郷へ向かっている。バングラデシュのハジ氏のニュースは世界を駆け巡った。今ここで『海面低下を停止する』と言えば、彼らは海の上で路頭に迷うことになる。彼らに死ねと言うのか」
「だが、自転の遅れを放置すれば、別の死者が出る」
北米の地球物理学者が冷静に、しかし冷徹に返した。
「一日の長さが1秒変われば、世界中の高精度電力網の同期が崩れる。金融市場のタイムスタンプも、宇宙船の軌道計算もすべて狂う。これは『不便』の問題ではない。文明のOSが物理的にクラッシュするということだ」
議論は紛糾した。
「3ヶ月? 3ヶ月も待てば、さらに自転は1秒近く伸びる。そうなれば地殻にかかるストレスは限界を超え、巨大地震を誘発する恐れすらある。即刻停止すべきだ」
「停止すれば、せっかく安定した国際協力体制が崩壊する。ヨセフのような勢力が『塔は地球を壊す呪いだ』と宣伝し始めるぞ。プロジェクトの正当性が死ぬんだ」
人道か、文明の存続か。
画面上の100名を超える知性たちは、答えのない天秤にかけられていた。
まるで市場の競り合いのように「何人の命なら妥協できるか」を叫び合っている。
私はこの議論を書きながら、どこかに答えがあるかどうかを考えた。
どちらの意見も正しい。
正しい意見が対立している時、第三の解が必要になる。
しかし第三の解は、正しい意見を言い続けることからは生まれない。
黙って考えることからしか生まれない。
だから浩と洋子が黙っていることに、意味があるのかもしれなかった。
それとも私の解釈が過ぎるのか。
記録者は解釈しない。私は書きかけた文を消した。
「帰還した人々の気持ちは分かる。だが感情で科学を動かすことはできない」
「感情で人を動かすことしかできないのに、科学で人を救うというのか」
「両方必要だ。だから今ここで話し合っている」
議論は堂々巡りになり始めていた。感
情と論理が混在した議論は、どこかで整理しないと進まない。
委員の一人が、少し間を置いてから言った。声のトーンが変わった。
「今できることを整理しよう。射出を止めれば自転は安定する。射出を続ければ海面低下が進む。どちらも正しい。問題は計算に3ヶ月かかることだ。3ヶ月を縮める方法がないなら、どちらかを選ぶしかない。縮める方法があるなら、その話をすべきだ」
場が静かになった。
その委員の言葉が、議論を一段階上の場所に引き上げた。
私はその瞬間を書いた。
誰が言ったかではなく、何が変わったかを書いた。
だが、私の隣に座る浩と洋子は、その騒音を撥ねのけるような沈黙の中にいる。
浩と洋子が、まるですべての罵声や嘆きを自分の体で受け止めるかのように、ただ静かに画面を見つめている姿を記録した。
二人が黙っている時、それは絶望しているからではないだろう。
ほぼ間違いなく、言葉にする前の、純粋な「思考」の重圧に耐えている時なのだ。
記録者として、私はこの光景をどう書くか迷った。
100名を超える専門家が画面の向こうで声を荒げている。
その中で二人だけが黙っている。
黙っているという事実を書かないことも、記録の欠損になる。
私は対比を書かず、事実だけを書いた。
浩と洋子が黙って画面を見ていた、と。
ひとしきり議論が続いた後、委員の一人が言った。
「……この3ヶ月という計算期間を、縮めることはできないのか?」
時刻: 午後6時〜
場所: 緊急科学諮問委員会、継続
洋子が少し間を置いた。
「全軌道を個別に計算しようとすれば、3ヶ月かかります。でも全軌道を個別に計算しなくて良いかもしれない」
「どういうことだ?」
浩が聞いた。
委員会の議論の場で、初めて口を開いた。
浩がここで口を開いたことの意味を、私は書こうとして止めた。
長い沈黙の後に発した一言だった。
しかしその一言が何を意味するかを書くことは、推測になる。
事実として書けるのは、委員会が始まって数時間が経ち、浩が初めて発言したということだけだ。
「方程式の構造に、規則性があるかどうかを先に調べます。もしパターンがあれば、全体を一括して扱える。計算量が劇的に減る可能性があります」
浩が少し間を置いた。
「それが見つかれば、の話だ」
「ええ。見つからないかもしれない」
洋子は画面の向こうの委員たちを見た。
「何日、待てますか」
委員たちの間で短い相談があった。
「3日。その間に、我々は選択肢AかBかの結論を出しておく」
「分かりました」
私は、この会話を書いた。
委員たちが「3日」と言った瞬間、場の空気が変わった。
決断が先送りされたわけではない。
3日間という猶予の中で、二つの作業が並行して進むことになった。
洋子は計算の可能性を探る。
委員たちはAかBかの結論を準備する。
同時に動くことで、どちらかが先に答えを出しても、遅れることなく次に進める。
そして「見つかれば」という言葉の軽さと重さを、どう同時に書き留めるか、それを考えた。
「見つかれば」という言葉の中に、何が収まっているか。
時刻: 10月10日 夜
場所: 管制室の外、廊下
委員会が終わった後、浩と洋子は廊下に出た。
洋子が言った。
「この計画の始めも、こんな無理難題なスケジュールと計算でしたね」
「ああ」
浩は少し遠くを見た。
「あのときと同じようにコーヒーのポットを用意しなければな」
私は少し離れた場所で、それを聞いていた。
「今度は甘いものも沢山届くように手配するよ」
二人は私を見た。
「頼む」
浩が言った。
洋子が小さく笑った。
それだけだった。
洋子さんの好みの甘味か...
蛍光灯が床に落とす光で、廊下の陰はなくなっていた。
この廊下での短い会話を、私はノートに書いた。
数時間前まで、100名を超える専門家の怒声と嘆きが画面を満たしていた。
その同じ日の夜に、コーヒーとドーナツの話をしている。
極限の場にいる人間が日常の話をすることには、何かがある。
それを記録することに、意味があると私は思った。
それを記録者として書いた。
時刻: 10月12日 夜
場所: 研究室
洋子は計算を始めた。
浩も同じ部屋で、別の角度から同じ問題を解き始めた。
洋子は方程式の構造を分析した。
浩は物理的な制約条件を整理した。
二人が同じ部屋で別々に計算を始めた最初の夜、私はその部屋に30分いた。
何も言わずに入り、何も言わずに出た。
二人は私が入ったことも出たことも気づいていなかったかもしれない。
差し入れを置いた。
翌朝、差し入れは空になっていた。
どちらが食べたかは分からない。
どちらも食べたかもしれない。
洋子は方程式の「形」を見ていた。式を解くのではなく、式がどういう構造を持っているかを見ていた。
浩は物理的な制約条件——射出の向き、地球の自転、月の軌道——を並べて、それらの間にある関係を整理していた。違う角度から同じ問題を見ていた。
2日目の夜。
「浩さん」
洋子が呼んだ。
「何?」
「見てください」
洋子が画面を指した。
方程式群の中に、繰り返しの構造があった。
「対称性がある」
浩が言った。
「ええ」
「これは……群論で扱える」
「そう思います。でも、私の専門ではないので」
「俺も大学院でかじった程度だ。でも」
浩が自分のスクリーンを操作した。
「こっちの制約条件でも、同じ対称性が出ている。偶然ではない」
二人は同時に画面を見た。
私は二人を見ていた。
洋子が「形」から見つけたものと、浩が「物理」から見つけたものが、同じものだった。
違う入り口から入って、同じ部屋に辿り着いた。
数学と物理が接触する瞬間を、私はどう書けばいいか分からなかった。
だから、事実だけを書いた。
「なぜ分かった」「分からない」という会話が来るかと思った。
しかし来なかった。
二人はそのまま、しばらく画面を見つめていたが、どちらともなく次の計算に移った。
「不思議だな」と浩が言いかけた気がした。
しかし言わなかった。
私はそれを書いた。
言いかけて、止めた言葉も、記録の一部だ。
止めた理由を書かなかった。
理由が分からないからではなく、推測で書くことが記録者のすることではないからだ。
言いかけて止めた、という事実だけが私の仕事の範囲にある。
この対称性が、世界を救う鍵になるのかどうか。
それは、まだ分からない。




