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氷雨の黙示録  作者: 唯野眠子
第12章-限界点
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72/80

第12-5話 綱渡り

時刻: 11月16日 午前9時00分

場所: 中央管制室

新しい射出パラメータの実装が始まった。

壁一面のスクリーンには、12基の射出軌道が細い光の線で表示されていた。

12基すべてのシステムに、新しい制御プログラムを書き込む。

「実装完了まで約72時間」

技術担当が報告した。

停止から数えて、すでに34日が経っていた。

浩は徹夜明けの顔で、管制室の椅子に座っていた。

洋子も同じだった。

12日間の計算を終えた直後に、実装作業が始まっていた。

射出タイミングの誤差: 0.001秒以内

射出角度の誤差: 0.0001度以内

これを12基それぞれで独立に制御しながら、互いの干渉を計算して補正する。

実装の3日間、マリアが決めた交代シフトは機能しなかった。

二人のどちらかが常に管制室にいた。

「少し休んでから来るべきでしたよ」

「いや、ここから離れられない」

浩が言った。

理由はなくても分かった。

34日間という停止期間は、世界にとって長かった。

難民キャンプに戻った人々の中には、また荷物をまとめた者もいた。

私はそれを読んで、返信を書かずにノートを開いた。

書くべきことが今日も山ほどある。

再開の報告を世界に出したのは前日の夜だった。

「47日間の調整を経て、新しい射出方式での稼働を本日再開します」という一文だった。

マリアが書いた。私は起草案を読んで、一字も変えなかった。必要なことだけが書かれていた。

「実装中のトラブルは?」

「今のところ第3基と第9基の電磁場干渉に若干のずれがあります。修正中です」

「影響範囲は」

「軌道精度への影響は誤差内です。ただ、放置すると累積します」

「処置を」

「はい」

細かな問題が、実装の3日間にいくつも出た。

修正し、確認し、また修正する。

72時間に、ちょうどその分量に収まったのは幸運だった。

洋子は、この3日間で管制室を出たのが何回あったか。

私は数えていなかった。

浩も同じだった。

食事を持ってくる者がいた。

それを食べたかどうかは定かでない。

空になっていたこともあれば、そうでないこともあった。

記録者として書けるのはそこまでだ。

11月19日、実装が完了した。

管制室に静かな安堵が広がった。

技術者の一人が小さく拍手したが、誰も続かなかった。

まだ終わっていないと全員が知っていたからだ。

「射出再開します。第1基から順次」

浩が言った。


時刻: 11月20日〜12月7日

場所: 中央管制室

再開から3日後、最初の問題が起きた。

「太陽フレア検出。第3基の射出方向に影響が出ています。0.01度のずれです」

「修正パラメータを」

「計算中です。3時間かかります」

「3時間待つ。それまで第3基の射出を保留」

この3時間の間に、浩と洋子は補正値を並行して計算していた。

2時間45分で完了した。

「早いな」

「急いだ」

浩が答えた。

太陽フレアが来ることは予測できる。

しかし来るタイミングと強度は予測しきれない。

準備していたから速かった、というより、経験が蓄積されていたから速かった。

その違いを私はノートに書いた。

2週間目、月の軌道の微妙なずれが予測値と差異を生んでいた。

月重力の引力計算を更新し、毎日の自動補正システムを追加した。

洋子の計算、浩の実装、1日で完了した。

その問題が片付いた翌朝、海洋気象チームから報告が入った。

「第8基近辺の海域で、強い渦流が発生しています」

浩が画面を確認した。

「射出タイミングへの影響は?」

「人工島の振動周期が変化しています。現在0.002秒のずれが確認されており、今後も変動が続く見込みです」

「今後も、とはどういう意味だ」

「渦流は太陽フレアや月の軌道ズレと違い、いつ収束するか予測が難しい状況です。海流パターンの変動が背景にあるため、1週間続くか1ヶ月続くか、現時点では判断できません」

浩が洋子を見た。

洋子はすでに画面に向かっていた。

前の2件は「答えが決まれば終わる」問題だった。

パラメータを計算して実装すれば、問題は閉じる。

しかしこれは違った。

渦流の規模も向きも強度も刻々と変わる。

固定の補正値では追いつかない。

変化に追随し続けるプログラムを作らなければならない。

しかも、渦流がいつ収まるかが分からない以上、「このプログラムがいつまで必要か」も分からない。

終わりの見えない問題に、終わりの見えないまま向き合うことになる。

「リアルタイム補正の仕組みが必要ですね」

洋子が言った。

「射出の直前に、その時点での振動周期を計測して補正値を計算し、タイミングに反映させる。判断から射出まで0.5秒以内で完結させます」

「その精度で間に合うか?」

「やってみないと分かりません」

「やれるか?」

「やります」

海洋気象チームと連携しながら、渦流の挙動を記述するモデルを作った。

洋子がアルゴリズムを書き、浩が射出制御系に組み込んだ。

初期実装に3日、検証と調整にさらに4日かかった。

この間も射出は続いた。

リアルタイム補正が機能するまでの間、手動での微調整で凌いだ。

徹夜が2回あった。

どちらも浩と洋子が管制室にいた。

私も両夜、そこにいた。

記録者として、だけではなく、コーヒーを持ってくる人間として。

深夜2時のコーヒーを誰かが飲んでいる。

その事実を書くことが、今の私にできることだった。

徹夜2回目の明け方、洋子が一度だけ画面から目を離して外を見た。

窓の向こうに水平線が白み、海面が灰色に光り始めていた。

何かを言おうとして、言わなかった。

浩はその動作に気づいていたと思うが、こちらも何も言わなかった。

私はそれを書いた。

渦流の問題が特殊だったのは、「解決した」という瞬間が来ないことだった。

太陽フレアの時は、補正パラメータが確定した時点で問題が閉じた。

月の軌道ずれも、自動補正システムが稼働した時に完了した。

しかし渦流は、アルゴリズムが安定してからも毎日変化し続けた。

正確に言えば「解決した」ではなく「追随できるようになった」だった。その違いが、消耗の質を変えた。

終わりが見えない中で精度を保ち続けること。それが3週間目の実態だった。

「アルゴリズム、安定しました。やっと……」

洋子が言ったのは、渦流の問題が起きてから7日後だった。

「渦流が収まるまで、毎日の補正は続きます。ただ、人の手は必要なくなります」

毎週、新しい問題があった。

浩と洋子は毎週、それを解いた。

毎週、精度が少しずつ上がった。

解いた、と書くと簡単に聞こえる。

しかし「解く」という動詞には多くのことが収まっている。

問題を検出する。

原因を特定する。

対策を計算する。

実装する。検証する。

予期しない副作用を見つける。

修正する。

再検証する。

それが1サイクルで、毎日それが来た。

私は毎日の問題と解決を記録した。

記録しながら、私はこう感じていた。

これはいつか書物になるべき記録だ、と。

後の世代が、この時期の技術的な試行錯誤を知りたいと思った時、今ここで書かれたことが唯一の一次資料になる可能性がある。

そういう責任を感じながら、毎日ノートに書いた。

落ちそうで落ちない。毎日少しずつ渡っている。

そんな状態が続いていた。

「綱渡り」という言葉が浮かんだのは、渦流の問題の最中だった。

難民キャンプの状況は、射出再開で落ち着きを取り戻しつつあった。

しかし停止中の34日で鈍った帰還の動きが、再び始まるには時間がかかっていた。


時刻: 12月8日

場所: 中央管制室、医務室

12月に入って、浩の目に明らかな疲労が見えていた。

管制室の照明は昼夜を問わず同じ明るさ、同じ白さだった。

洋子も同じだった。

私は12月5日の夜に一度、二人それぞれに声をかけていた。

浩は「眠れない。目を閉じると計算が浮かぶ」と言った。

洋子は「眠っていても、何かを計算している気がします。目が覚めると、答えが出ていることがあるんです」と言った。

どちらも止められないと言い、どちらも申し訳なさそうに言った。

申し訳ない、という言葉が出ること自体が、限界の近さを示していた。

本来の状態であれば、謝らない。

ただ続ける。

謝るのは、自分でも余裕がないと分かっているからだ。

私はマリアに連絡した。

「二人が限界です。介入してください」

マリアからの返信は短かった。

「明日行く」

それから3日、私は何度か「食べましたか」「水を飲んでいますか」と声をかけた。

返事はあった。

しかし実際に食べているかどうかは、確認しきれなかった。

管制室には常に誰かがいる。

差し入れも届く。

それが機能しているかどうかを確かめる手段が、私にはない。

12月8日の昼過ぎ、管制室のスタッフが気づいた時、浩は床に倒れていた。

医療チームが即座に対応した。

「血糖値が低下していました。食事を十分に取っていなかったと思われます。生命に危険はありません」

洋子が医務室に駆けつけた。浩は数分後に意識を取り戻した。

「何が……」

「倒れました」

「管制室は?」

「続いています。あなたはいないけど、続いています」

浩は少し黙った。

「そうか」

それだけだった。疑うでも安堵するでもない、ただ確認するだけの声だった。

マリアは、その日の夜に人工島に着いた。

翌朝、管制室で浩と洋子を捕まえた。

「強制休暇です」

マリアの声は短かった。

「しかし」

「明日から48時間。これは命令です」

「……了解です」

浩が言った。洋子は頷いた。

マリアの言葉は短かった。

その短さの中に何があったか。私は書かない。

浩と洋子が管制室を出た後、私は廊下で洋子に声をかけた。

「眠れていましたか」

「眠っていても、何かを計算している気がします。目が覚めると、答えが出ていることがあるんです」

「それは休息ではない」

「分かっています」

「でも止められなかった?」

「止められませんでした」

洋子は少し間を置いた。

「でも、止まれる気がします。今は」

「浩さんが倒れたから?」

「それもあります。でも」

洋子はそれ以上言わなかった。

私も聞かなかった。

止まれる気がする、という言葉の意味を、私なりに考えた。

疲れ果てたから止まれる、ということではないと思った。

何かが変わったのかもしれない。

しかし何が変わったかを書く言葉を、私は持っていない。

記録者として書けるのは、洋子が廊下でそう言った、という事実だけだ。

医務室に向かう前、マリアに声をかけられた。

「ドーナツも、コーヒーも、効かなかったみたいね」

皮肉めいた言い方だったが、その瞳には自責の色もあった。

「……すみません。私の見張り方が不十分でした」

「いいえ。この二人の『加速』を止めるには、物理的なシャットダウンしかなかったということよ」

浩との会話は、医務室の前だった。

「先輩、気を遣わなくていい」

「遣っていない。倒れられると私が困る」

浩は少し笑った。

「48時間、何もしないのは難しいな」

「眠れるだけ眠ってくれ。答えが出てきたら、メモして、戻ってから使う」

「それが答えになっているか確認したくなる」

「ならん」

「なぜ言い切れる」

「なってもならなくても、48時間は戻ってこないでくれ」

浩は何も言わなかった。

しばらくして、廊下を歩いていった。

その背中を見ながら、私は思った。この3週間で彼が何を削ってここにいたか、記録できているのは表面だけだ。

数値と会話と事実だけが残る。

削られたものは残らない。

それが記録の限界だ、と私は知っている。


時刻: 12月9日〜12月10日

場所: 管制室

48時間、管制室に行かなかった。

浩は12時間眠った。

洋子も同じだった。

その間、中堅技術者たちが管制を引き継いだ。

問題は2件発生した。

1件目は、12月9日の午後だった。

「第6基の射出タイミングが、予定より0.002秒早まっています」

技術者・荒木が検出した。

再稼働後の連続運用で、第6基の冷却系センサーがわずかに遅延していた。

センサーの応答遅れが射出タイミングの補正に影響し、0.002秒のずれとして現れていた。

微細な数字だが、このシステムでは許容できない。

荒木は、センサーの応答遅延をログから逆算した。

過去72時間のログを遡り、遅延の発生タイミングを特定する。

そこで洋子が以前に残したログコメントを見つけた。

「このセンサーは熱負荷が長期間続くと応答が鈍る傾向があります。補正係数の参照先はXX-param-07を使うこと」

洋子の意図を読み取り、荒木は補正係数を再設定した。

0.002秒のずれは、1時間以内に解消された。

2件目は、翌12月10日の早朝だった。

「第11基の管制信号が、他基と0.5秒遅れて届いています」

技術者・三好が報告した。

通信エラーではなかった。

信号は届いている。

ただ、遅れて届く。

通信中継衛星の一時的な軌道誤差による信号伝達の遅延だった。

エラーではないために自動検知が働かず、目視でのログ確認で初めて発覚した種類の問題だった。

三好は、過去の通信ログと衛星の軌道データを突き合わせた。

遅延の発生タイミングと衛星の位置の相関を確認し、原因を特定した。

通常の通信ルートを一時的に地上回線経由のバックアップルートに切り替え、同期を維持した。

この2件の間、管制室に浩も洋子もいなかった。

荒木と三好が、それぞれ中心となって判断し、それぞれ全員で解決した。

48時間の間、管制室は2件の問題を静かに押さえ込んだ。

誰も声を荒げなかった。

誰も浩や洋子を呼ぼうとしなかった。

朝の引き継ぎ時間に問題が共有され、昼には対処が始まり、夕方には解消していた。

記録として残るのはその事実だが、記録には残らないものもある。

荒木が深夜のログを一人で遡っていた時間のことや、三好が衛星データを画面に並べて突き合わせていた時間のことは、ログには残らない。

私が目撃したから書ける。

目撃者がいる記録といない記録では、厚みが違う。


時刻: 12月10日 午後3時00分

場所: 管制室

48時間後、浩と洋子は管制室に戻った。

画面の配置も、空調の音も、48時間前と何も変わっていなかった。

互いを見て、特に何も言わずに席についた。

その様子を、私は記録した。

2日ぶりに管制室に入る二人の顔は、確かに違った。

何かが戻っていた。

疲労が消えたわけではない。

しかし目の奥に、欠けていたものが少し入っていた。

私はそれを書こうとして、書けないと判断した。

顔の変化を言葉にすることと、その変化の意味を言葉にすることは、別のことだ。

前者は書けたかもしれない。

しかし後者は書けない。

「報告があります」

技術者の一人が言った。

「2件のトラブルがありました」

浩がその技術者を見た。

「いつ?」

「9日と10日です。荒木さんと三好さんが対応しました。どちらも解消済みです」

経緯を説明した。

センサーの補正係数、洋子のログコメント、衛星の軌道誤差、バックアップルートへの切り替え。

浩は黙って聞いていた。

洋子も黙って聞いていた。

説明が終わった後、しばらく誰も何も言わなかった。

荒木が「以上です」と言って、席に戻った。

普段と変わらない足取りだった。

何か特別なことをしたという素振りはなかった。

それがかえって、何かを伝えていた。

浩は、かつて自分が一人で背負っていた画面を、今は彼らが守っていることを確認するように、ゆっくりと周囲を見渡した。

「……荒木さん、三好さん。助かった。ありがとう」

その一言は、実装時の厳しい指示とは違う、重みのある響きを持っていた。

「記録するなよ?」

浩が言った。

「見たことを書くのが私の仕事です」

「……」

返事はなかった。

スクリーンを見ていた。

洋子は、端末を開いて荒木のログを確認していた。

しばらくして、小さく頷いた。

私はその動作を書いた。

洋子が何を感じていたかは書かなかった。

荒木は翌日も変わらず管制室にいた

特別なことをしたという顔はしていなかった。

私は、それも書いた。


時刻: 12月10日 夕方

場所: 管制室

「あなたたちがいなくても、できる人たちが育っていた」

私は浩に言った。

「俺たちが育てた、のか?」

「そうだ。だから休める」

浩は少し笑った。

「先輩らしくない説得だな」

「俺もたまにはこういうことを言う」

なぜ、引き継ぎがうまくいったのか。

荒木は洋子のログコメントを「読んだ」のではなく、そこに書かれた意図を正確に理解して、状況に適用した。

三好は衛星データとログを突き合わせるという、地道で時間のかかる確認作業を、急がずに行った。

二人とも、「浩さんか洋子さんに聞こう」という選択肢を取らなかった。

取れない状況だったからではない。取る必要がないと判断したからだ。

それが、3週間で起きた変化だった。

この3週間、浩と洋子が問題を解くたびに、チームの誰かがその解き方を見ていた。

見ながら覚えていた。

覚えながら、次に自分が同じ状況に立った時のことを考えていた。

教えようとして教えたわけではない。

見せようとして見せたわけでもない。

ただ仕事をしていただけだ。

しかしその仕事が、次の人間の中に残った。

綱渡りという言葉を、私は最初に渦流の問題の最中に書いた。

今、その意味が少し変わっている。

綱の上を歩く者が倒れても、綱は切れなかった。

支える者がいたからだ。

それを記録することが、今の私の仕事だ。

もう一つ思うことがある。

私もまた、綱の上にいるのかもしれない。

ただ、誰かが歩き続ける姿を、書き続けることで。

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