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氷雨の黙示録  作者: 唯野眠子
第7章-記録者
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39/63

第7-4話 二重スパイ

時刻: 山田確保から一週間後、朝

場所: 人工島、広報事務室

山田の逮捕から一週間が経った。

しかし内部での小規模な妨害工作は続いていた。

センサーの誤作動。資材の行方不明。セキュリティカメラの一時的な不具合。

どれも小さなことだ。ひとつひとつを取り出せば、偶発的な事故として説明がつく。

しかし積み重なっている。

偶発的なものは、積み重ならない。

探偵事務所で教わったことがある。「一度は偶然、二度は注意、三度は必然だ」と。

あの事務所の所長は理屈っぽい人間だったが、それは正しかった。

私の焦燥感は、かなりのものだ。

同じログを三度読み直していた。

残りのリストの九人を監視し続けている。しかしどれも確証がない。

山田を確保した時のような明確な行動パターンを、誰もまだ見せていなかった。

ひとつ不安なのは、私が見落としている可能性だ。七十万人の中で九人に絞り込んだこと自体が、既に誤りを含んでいるかもしれない。

正常のパターンを把握したつもりでも、私にはここでの文脈が浅い。

「三日後に何かが起きる」と山田は言った。

三日後は、とっくに過ぎた。

何かが起きた、ということなのか。

それとも、まだ起きていないということなのか。

どちらかによって、次の手が変わる。

事務室で書いていたプレスリリースの下書きを閉じた。

今週だけで四本書いた。どれも「建設は順調だ」という内容だった。

嘘ではない。ただ、全部でもない。

事実を選んで書くことと、虚偽を書くことは、別のことだ。

その境界線をどこに引くかが、広報担当として私がいつも考えていることだった。

この三週間で、私は情報の扱い方を改めて考えるようになっていた。

バーテンダーの時も、聞いたことをすべて言うわけではなかった。

しかしバーテンダーの沈黙は、誰かを傷つけない。

こちらの沈黙は、誰かを守るための沈黙だ。

少し違う。どのくらい違うのかは、まだ測れていない。

そこへ、東京の情報ブローカーから連絡が入った。

「話がある」


時刻: 連絡の翌日

場所: 島外経由の暗号通信

連絡を取ってきたのは、東京時代の情報ブローカーだった。

コードネームで呼んでいる。本名は知らない。五年前に知り合った時から、そういう関係だった。

互いに詳しいことを聞かない。

しかし必要な時には動いてくれる。

そういう人脈は、信頼というより機能で成り立っている。

「教団の内部に、外に情報を流したがっている人間がいる」

「本当か」

「かつての地球信仰──イブラヒム穏健派の信者だ。ザカリアの過激路線に限界を感じている。直接話したいと言っている」

「どういう条件で」

「身の安全の保証だけでいいと言っている」

「話だけ聞く。確約はできない」

「それで構わないと言っている」

暗号通信の手続きを経て、接触が成立した。

コードネームをアリと呼ぶことにした。

アリの声は落ち着いていた。怯えている様子はなかった。

迷った末に決めてから連絡してきた人間の、静かな声だった。

声質ではなく、話すリズムからそれが分かった。

「スリーパーたちは、特定の機材に細工を施す任務を持っています。でも、具体的に何をされたかは、私自身も全部は知らない」

「機材への細工、というのは」

「物理的な爆弾ではありません。制御系への、論理的な罠です。ハードウェアの奥に、何かが仕込まれている」

背筋に、冷たいものが走った。

物理的な爆弾なら、探せる。感知器を使えばいい。しかし制御系に仕込まれた論理的な罠は、目で見ても分からない。

電磁波を当てても分からない。動作しないうちは、正常なコードと区別がつかない。

見えない脅威というのは、見える脅威より厄介だ。

それはスパイの摘発と同じだと思った。

「標的はどのシステムか」

「ロボット制御の中枢...量子コンピュータ施設です」

「発動すると何が起きる」

「ロボット建設区間が誤作動を起こす。高度五万メートル以上で、ケーブルの接続が切断される危険があると聞いています」

「細工はすでに完了しているか」

「一部は終わっているはずです。でも、全体像は私も知らない」

「分かった。この情報には価値がある。身の安全については、こちらで検討する」

「ありがとうございます」

「一つ聞く。なぜ話す気になった」

短い沈黙があった。

「私が信じた教えは、そういうものじゃなかったから、です」

それだけだった。

通信を切った。

机の前にしばらく座っていた。

物理的な爆弾ではなく、制御系への論理的な罠。

目に見えない。セキュリティの外からは検知できない。

設備を見て回っても分からない。

専門家でなければ気づかない場所に埋め込まれている。

専門家であっても、見つけるためには探しているという前提がなければ気づかない。

アリが「私が信じた教えは、そういうものじゃなかった」と言った。

何かを判断するのに、その言葉は直接的な根拠にならない。判断材料として薄すぎる。

しかし、覚えている。

内部告発者の動機を、私はいつも重く見る。

NDBでもそう教えられた。

お金のためなら信頼性を計算すればいい。

身の安全のためなら条件を整えればいい。

しかし「信じた教えと違う」という動機は、測り方が難しい。

それだけに、真実に近い可能性もある。

私は動いた。


時刻: 同夜

場所: 人工島、緊急会議室

浩、洋子、マリア、サラを集めた。

深夜の会議室だった。

四人の顔が蛍光灯の下にある。それぞれ疲れていた。しかし座り方が違った。

疲れを見せる人間と、疲れを外に出さない人間の違いが、姿勢に出る。

マリアとサラは後者だった。浩はその中間にいた。洋子は端末を持ったまま入ってきて、そのまま立っていた。

「スリーパー工作員が、ロボット制御系に論理的な罠を仕込んでいる可能性がある。

物理的な爆発物ではなく、制御アルゴリズムかハードウェアの奥に潜む欠陥だ。

発動すると高度五万メートル以上でロボットが誤作動する」

報告が終わった後、しばらく静寂があった。

この部屋の人間は、パニックを声に出さない。

情報を受け取って、処理して、次の言葉を選ぶ。

「発見できるか」

マリアが最初に口を開いた。

「AIアトラスに自己診断させるしかない」

洋子が言った。

それまで黙って聞いていた洋子が、初めて口を開いた。

「AIアトラスは全ロボット制御のログを持っています。正常パターンと比較すれば、異常な命令シーケンスを検出できます。ただし」

「ただし?」

「診断中は建設を一時停止する必要があります。診断プロセスが実際の制御信号と干渉してはいけない。動いているシステムを診断しようとすると、診断自体が制御に影響を与える」

「一時停止すると、世界に知れ渡る」

「はい。世界中のメディアが、理由を知りたがります」

マリアは少しの間考えた。

「「定期点検」として発表します。特定のシステムの安全確認のため、建設を七十二時間停止すると。理由の詳細は公表しない」

「技術的な詳細を知りたがる記者が出ます」

私は言った。プレスリリースを書いてきた経験から、そこは想定できた。「定期点検」という説明で三日間の停止を納得させるには、相応のコントロールが必要だ。

「私が対処します」

マリアが言った。その言い方に、迷いがなかった。

「AIアトラスの診断、今すぐ開始できるか」

「準備に二時間かかります。今夜中に動けます」

浩が言った。

「やってくれ」

洋子は立ち上がった。

浩と洋子の動きは、また切れ目がなかった。

浩が「量子コンピュータの負荷配分を調整する。診断に使える処理容量を確保しないと」と言いかけた時、洋子は既に端末で別の数値を入力し始めていた。

「今夜から最優先で使えます」と洋子が言った。

「確認した」と浩が返した。

二人の間には、確認の時間がほとんどなかった。

私はそれを会議室の端から見ていた。

その何かを言語化しようとしたが諦めた。

会議室を出た後も、その感覚が少しの間、尾を引いてしまった。

廊下で、マリアとすれ違った。

「よろしく頼みます」

マリアが言った。

「あなたがいなければ、今回の情報は出て来なかった」

「単に、アリが話す気になったから来た情報です」

「そのアリが話す気になったのは、あなたのネットワークがあったからでしょう」

それだけ言って、マリアは去った。

廊下が静かになった。

プレスリリースを書く仕事は、誰も褒めない。うまくいって当然で、失敗すると問題になる。広報担当とは、そういう立場だ。

こちらの仕事も、似ている。

うまくいったら表に出ない。失敗したら全部が終わる。


時刻: 翌日以降

場所: 人工島全域・管制室

AIアトラスの自己診断が走り始めた。

それと同じタイミングで、マリアが世界向けに声明を出した。

内容は、私の予想を超えていた。

「タワーが特定の高度に達したことで、地球の自転と太陽風の影響による微細な高次高調波共振が観測された。これは設計の想定内だが、今後の建設精度をミリ単位で維持するため、全十二基の同期を一時停止し、グローバル・キャリブレーション、つまり全系再校正を行う必要がある」

私はその声明のプレスリリース版を作成しながら、しばらく考えた。

この妙手には舌を巻いた。

第一に、「このまま進めることも可能だが、我々は完璧を目指す」という姿勢が前面に出る。

安全のために自ら止める組織は、止められた組織より信頼される。

次に、公開しても問題のない技術データ──共振の波形グラフ、周波数の分布図、キャリブレーションの計算式──を大量に添付して発表したことだ。

私はプレスリリースにそれを組み込む形で資料を整えた。

技術系の記者はその資料に没頭するだろう。

数式の解釈に集中させ、背景にある別の何かを考えさせないのだ。

そして、「全十二基を同時に測らなければ再校正の意味がない」という理由が、一斉停止の不自然さを消す。

一基だけ止めるのではなく、全部止めるのは、全系を同期させるためだ。

その理屈は、専門的な文脈では反論しにくい。

私が懸念したことへの答えが、ここにあった。

「技術的な詳細を知りたがる記者が出ます」と私は言った。

マリアの答えは、詳細を隠すことではなく、詳細で覆い尽くすことだった。

今回は「どこまで書くか」ではなく「何を書くか」を考えた。

この声明は、それ自体は真実に近い。

高次高調波共振は、おそらく実際に観測されている現象だ。

ただし停止の本当の理由ではない。

真実を使って、別の真実を覆う。

そして、この発表内容には付録もついてくる。

スリーパーはおそらく「マリアは工作に気づいていない。技術的なトラブルだと思い込んでいる」と油断するだろう。

これは「確保」に向けた、心理的な罠としても機能するだろう。

どこまで織り込んでいるのか、マリアが「私が対処します」と言った時の表情を思い出した。

「力を持つ側」にいて、その使い方をよく知っている。

私は管制室での作業と、現場での補完調査を並行させた。

AIが制御系の異常を検出する一方で、その異常を仕込んだ人間を私が特定する。

二つの作業が同じ時間の上で走っている。

「過去三週間で、制御系の管理エリアに通常業務以外で入室した人物を抽出できますか」

洋子に頼んだ。

「できます。三十分ください」

洋子は作業した。

「七人です。このうち通常業務として説明がつくのは五人。残り二人は理由が不明確です」

「この二人を優先的に監視する」

サラに伝えると、サラはすぐに動いた。

「了解です。今夜から配置します」

管制室に、洋子がコーヒーを二つ持ってきた。

自分のぶんと、私のぶん。

それぞれのカップに、異なる量が入っていた。

洋子は多め、私のは少し控えめ。すでに把握されている。

「ありがとうございます」

「好きです、この味」

洋子が言った。

飲んでから言った言葉だった。

評価ではなく、確認のような言い方だった。

「コーヒーを淹れるの、上手ですね」

「バーテンダーの習性だ」

「...ありがとうございます」

それだけの会話だった。

私は飲んで、スクリーンに向かった。

同じスクリーンを二人で見る時間が、この数週間で増えていた。

隣に誰かがいる状態で仕事をするのは、バーを開いて以来ほとんどなかった。

理由は分からないが、わずかに緊張する気がする。

AIアトラスの診断から、最初の報告が上がってきた。

「異常なシーケンスを三件、検出しました」

管制担当の技術者が言った。

「ロボット制御の命令シーケンスの中に、特定の条件が揃った時だけ発動するコードが埋め込まれています。高度五万メートル以上の区間で、接続確認命令を無効化するものです。発動すれば、ロボットは誤接続を正常と判定し続けます」

「発見できたということは、除去できるか」

「できます。ただし一つずつ、慎重に行う必要があります。無差別に削除すると、制御系全体に影響が出る可能性がある」

洋子が管制室の前面スクリーンの前に立った。

「私が除去の監修をします」

浩が頷いた。

「頼む」

「一つずつ確認しながら進めます。時間はかかりますが、確実に除去できます」

「残り時間は」

「七十二時間のうち、今から四十八時間以内に終わらせる必要があります」

浩が「分かった」と言った。

その一言だけだった。


時刻: 同日深夜

場所: 人工島、制御棟前

AIアトラスの診断が走っている間は、制御系の監視が一部別モードになる。

私はそれを最初から気にしていた。

内部の人間がそれを知っていれば、そのタイミングを利用する。

通常の監視には穴ができる。その穴を使って、最後の細工を完成させようとする可能性がある。

建設が止まっている。高度五万メートルの空間でロボットが静止している。

世界のメディアは「キャリブレーション」という言葉で納得しているが、この三日間を有効に使えるのは双方同じだ。

深夜零時を過ぎた頃、私の候補リストにいた人物が動いた。

彼は制御棟の裏手に向かった。

私は距離を保ちながら追った。

彼の動き方は慎重だったが、山田の時ほど洗練されていなかった。

焦りがある、という印象だった。時間的な制約を感じている人間の動き方をしていた。

「動いた」

私はサラに無線を入れた。

「確保します」

チームが来るまでの間、私は壁の陰から監視し続けた。

彼は制御棟の壁面パネルの一つを開けようとしていた。

パネルの位置を知っている。どこに何があるかを知っている。長くここにいた人間にしか分からない場所だ。

チームが到着した。

確保した。

彼はすぐには声を上げなかった。

逃げることも、言い訳することも、しなかった。

ただ、立っていた。観念した人間の立ち方だった。

制御棟の壁面パネルが半開きになっていた。

その奥に、何かが残っている可能性があった。


時刻: 深夜(続き)〜翌朝

場所: 人工島、尋問室〜廊下

尋問は夜明けまで続いた。

彼は最初から諦めていた様子だった。

山田とは違う種類の人間だった。確信があって黙っている、という感じではなかった。

長く偽装を続けた末に、限界に来ていた人間の疲れ方をしていた。

私はそういう人間を、バーで何度か見たことがある。隠し続けていたことが、ある日突然崩れる。

それは必ずしも外からの力ではなく、内側から来ることが多い。

「あと一人がいる」

彼は言った。

「そいつはお前たちには見つけられない。AIの診断が終わる前に動く」

「どこにいる」

「量子コンピュータ施設の近くだ。それ以上は知らない」

「任務は」

「九件目の細工の完了だ。AI診断が動き始めてから、スケジュールが前倒しになった。山田が捕まって以降、計画が狂い始めていた。だから誰かが急いで動いた」

「その誰かが、あなたか」

彼はそれには答えなかった。

答えなかったことが、答えだった。

この島に来てから、私はいくつかの「答えなかった答え」を見てきた。

沈黙には、種類がある。何も言うことがない沈黙。言いたくない沈黙。言えない沈黙。言う必要がないと判断した沈黙。

彼のそれは、最後のものだった。

浩に報告した。

「二人目を確保した。ただし、あと一人残っている。量子コンピュータ施設の近くにいる。AIの診断が終わる前に動こうとしている」

浩の顔が少し引き締まった。

「残り時間は」

「三十時間以下だ。診断の進捗と、残りの一人の動向を同時に追う必要がある」

「洋子に伝える」

浩が管制室へ向かった。

廊下を歩きながら、私は頭の中を整理しようとした。

自分の足音が、妙に耳についた。

人間の問題は残り一人。制御系の問題は残り六件。

どちらも同じ時間の中で動いている。

それだけのはずだった。しかし、頭がそこで止まらなかった。

二人目。

私のリストは、今のところ驚くべき精度で機能している。三十人から十人に絞り、十人の中から山田を選び、今夜また一人を引きずり出した。

仮説通りに動いた。

「ザカリアは焦っている、だから工作員も動かざるを得ない」という読みは、今のところ当たっている。

その事実が、胸の奥に小さな安堵を生んだ。

そして直後に、冷たいものが走った。

当たっている、ということは何を意味するか。

「動く者だけを追う」という私の賭けが正しかったのなら、その賭けが切り捨てた側——直近一ヶ月で一度も外部通信を行わず、一度も異常なパターンを見せなかった、

あの数万人の沈黙——の中に潜む危険が、同時に肯定されることになる。

捕まえた二人が「動いた」のは、彼らが焦っていたからだ。

では、焦らない人間はどこにいるか。

リストに挙げた十人が、もし囮だとしたら。

ザカリアが最も信頼する工作員を一人だけ「完全な静寂」の中に置き、残りの者たちを捨て駒として私に向けて流した、という可能性が消えない。

私が「動きを見せた者を追う」という手法で動いていることを読んでいたとしたら、捕まえた二人は意図的に差し出された生贄に過ぎないことになる。

そして今この瞬間、私は「二人捕まえた」という実績を持って、残り一人の追跡に集中しようとしている。

それが、罠の完成形かもしれない。

廊下の窓に、夜明けの光が差し始めていた。

私はしばらく歩くのを止めた。

しかし止めれば、この問いは頭の奥に沈んで、判断の土台を知らぬうちに侵食する。

七十二時間というのは、長いようで短い。

焦っても時間は増えない。しかし、手を止めても時間は減り続ける。

夜明けの光が廊下の窓から差し込んでいた。

ロボットたちは今、静止している。

高度五万メートルの空間で、作業を止めて待っている。

人間側の問題が片付くのを、無言で待っている。

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