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氷雨の黙示録  作者: 唯野眠子
第7章-記録者
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40/80

第7-5話 72時間

時刻: 建設停止から48時間が経過した朝

場所: 人工島、管制室

AIアトラスが検出した罠の除去は、九件のうち七件が完了していた。

残り二件。

残り時間は二十四時間を切っている。

「最後の一つが見つからない」

担当技術者の声に、疲労があった。

洋子は画面の前で作業を続けていた。

眠っていない。

私が宿舎で数時間横になって戻ってきた時も、同じ姿勢で同じ画面の前にいた。

コーヒーカップが二つ、空になって机の端に並んでいた。

声をかけようとして、やめた。

必要な時には自分から言う。洋子はそういう人間だ。そのことは、この数週間でよく分かった。

「どこかに潜んでいる。パターンが違う。他の八件と同じ手口ではない」

「手口が変えられた?」

「後から仕込まれた可能性があります。二人目のスリーパーが確保された後に、追加で細工した分かもしれない。もしそうなら、私たちが把握している手法の外にある」

「つまり、正常なコードと見分けがつきにくい?」

「はい。既存のパターンを学習して診断を回避するように設計されていたとしたら、時間がかかります」

私は、昨夜確保した二人目が言った言葉を思い出した。

「九件目の細工の完了だ。AI診断が動き始めてから、スケジュールが前倒しになった」

その細工が、今も生きている。

人間と、システムと、両方の「最後の一つ」が同時に残っている。

そして、昨夜廊下を歩いた時に頭をよぎった問いが、朝になっても消えていない。

捕まえた二人が囮だとしたら。

最後の一人こそが本物だとしたら。

リストに挙げた者たちを私に差し出して、その影で別の誰かが動いているとしたら。

その問いを持ったまま、私は今日を始めていた。

七十二時間のうち、残りは二十四時間を切っていた。


時刻: 午前中

場所: 人工島全域・管制室

私はリストの最後の一人を監視していた。

サラのチームと連携して、その人物の行動を追った。

朝から始まった監視は、昼過ぎまで何の変化もなかった。

名前を仮にCとする。二日前から私の監視リストに残った、最後の一人だ。

Cは建設開始前の三月から在籍している。

表の仕事は資材管理。

静かな人間で、誰とも深く関わらない。

食堂では一人で食べ、休憩所にいる時は本を読んでいる。

その静かさが、私を最後まで迷わせていた。

山田の時は「計算している」という読みがあった。

二人目の時は「焦りがある」という印象があった。

どちらも、異常のパターンが何らかの形で出ていた。

しかしCには、そういう引っかかりがない。

単純に静かな人間である可能性が、最後まで消えなかった。

消去法に近かった。

残った中で最も長く在籍していて、最もパターンの読み方が難しい人間。

それがCだった。

確証があったわけではない。

その判断が正しいかどうか、今もまだ迷いの尾が残っていた。

管制室では、洋子が九件目の罠の特定を続けていた。

私は廊下を歩きながら、無線のイヤホンで管制室の音を拾っていた。洋子がキーボードを打つ音。

技術者が数値を読み上げる声。間に洋子が短く「違う」と言う声が入る。

見つかっていない。

どちらも、見つかっていない。

午前の時間が過ぎた。

昼過ぎ、Cが動いた。

「田所さん」

サラが無線で言った。

「対象が動きました。量子コンピュータ施設に向かっています」

「追う」

私は走った。

廊下を曲がり、施設の入り口を抜けた。

前を行く足音を聞きながら、距離を測りながら、近づいた。

足音が速い。

焦っている。

その焦りが、答えだ、と思った。

本当に静かな人間は、このタイミングで焦って走らない。

「止まれ」

追い詰めた場所は、サーバールームの手前だった。

Cは振り返った。

走った後の息が、廊下の空気を動かした。

しばらく静止の時間があった。

私も動かなかった。

どちらも、相手の次の動きを待っていた。

その時間は、実際には数秒だったが、もっと長く感じた。

Cの目が、私を見ていた。

観察されている、という感覚があった。

私も観察していた。

走った後の息の乱れ方。

肩の高さ。

視線の向き。

逃げようとしているのか、諦めようとしているのか、まだ何かを試みようとしているのか。

答えは、三秒ほどで出た。

Cの肩が、少し落ちた。

チームが到着した。

確保した。

行動と時間の記録として書く。

Cを確保した瞬間、囮かどうかという問いが頭にあった。

その答えは、尋問の中で出ることになる。


時刻: 同日午後

場所: 管制室、洋子の前

Cへの尋問は、簡単には進まなかった。

この人間は、山田でも二人目でもない種類の沈黙を持っていた。

諦めた沈黙ではなく、計算した沈黙だった。何を言えば何が変わるかを頭の中で測っている人間の、間の取り方をしていた。

一時間が過ぎた。

二時間が過ぎた。

残り時間が刻まれている。

私はその時間の重さを、意識的に表情から外した。急いでいる様子を見せると、相手はそれを使う。尋問において、焦りは情報だ。

三時間かかって、一つだけ情報が出た。

「量子コンピュータの冷却系統に仕込んだ」

「どこの冷却系統か」

「第三ラックの...」

そこで口を閉じた。

第三ラックまで言った。

続きを引き出すための時間と、残り時間を、私は頭の中で比べた。

第三ラックという情報があれば動ける。

その判断をした。

「第三ラックの冷却系統を確認してください」

私はすぐに洋子に無線を入れた。

「今すぐ見ます」

洋子が動いた。

サーバールームに入り、第三ラックの前に立ち、解析を始めた。

私は管制室に戻り、洋子の音声が来るのを待った。

三十分の静寂があった。

その時間を、私はどう過ごしたか。

椅子に座っていた。それだけだ。

何かをするわけではない。

しかし何もできなかった、というわけでもなかった。

ただ、待つことが仕事だった。

待つことは、得意ではない。

バーテンダーの仕事は、待つことと動くことが交互に来る。

カウンターの内側で客を待つ時間と、注文が入って動く時間。

その繰り返しに慣れていたはずだが、今夜の待ち方は別物だった。

結果が出るまで動けない、という種類の待ち方だ。

この三週間の記憶が、頭の中に断片的に浮かんだ。

七十万人の中を歩いた夜の食堂。

宿舎の廊下の消灯後の静けさ。

山田が振り返った時の一秒にも満たない静止。

マリアが報告書を見ずに言った「判断はあなたがしなさい」という言葉。

廊下を歩きながら抱えた、囮かもしれないという恐怖。

その恐怖の答えが、今出ようとしている。

Cは、本物だった。

第三ラックの冷却系統に仕込んだ、という情報が本物であれば。

そしてその情報が正しければ。

その二つの「もし」の先に、答えが来ようとしていた。

「ありません」

洋子の声が来た。

感情を込めない、事実だけの報告だった。

...何が、ない?

言葉の意味が耳の中で形をなさなかった。

第三ラック? 冷却系統? 異常な記述?

どれのことを言っているのだ。

それから遅れて、理解が落ちてきた。

「第三ラック全体を確認しました。冷却系統のコードに、異常な記述はありません」

洋子の声は、私の思考の積み木を音も立てずに崩し去った。

指先に微かな痺れが走る。

これまで積み上げてきたCの行動分析、呼吸の揺らぎ、沈黙の質——それら全てが、ただの私の「願望」に過ぎなかったというのか。

自分の『観測器』としての精度が、これほどまでに狂っていたとしたら。

胃の底に、鉛を流し込まれたような冷たい重みが沈殿していく。

残り時間を、私は頭の中で数えた。

建設停止から七十二時間。

その制限は、世界向けの発表に縛られている。

時間が切れれば建設を再開しなければならない。

再開した瞬間に、九件目の罠が発動する。

残り、数時間。

Cに戻った。

尋問室の椅子に、Cはまだ座っていた。

私は扉を開けた。

入って、向かいの椅子を引き、座った。

そして何も言わなかった。

洋子の「ありません」という報告結果を、私はCに伝えなかった。

伝える代わりに、十秒間、彼の顔だけを見た。

嘘をついている人間は、沈黙が長引くほど、その空白を埋めようとして微細なノイズを発する。

まばたきの頻度が上がる。

指先が微かに動く。

視線が一点に定まらなくなる。

しかしCにはそれがない。

Cの瞳は、すでに全てを焼き尽くした後の灰のように、静かで、透明だった。

...違う。

何が違うのか、言葉にならない何か。

胸の奥で小さく引っかかる、何か。

怯えていない。何かを隠そうとしてもいない。

違う。そうではない。

いや、そうなのだ。

ただ、何かを待っている、その透明さ。

自分が置いた石がいつ、どこで動くかを、淡々と待っている観測者の顔をしていた。

嘘をついている人間の静けさと、全てを終わらせた人間の静けさは、どこかが違う。

Cは後者だった。

彼は嘘をついていない。

第三ラックに仕込んだ、という情報に偽りはない。

では、なぜ洋子は見つけられなかったのか。

「見つからない」のは、「隠し方がうまい」からではなく、「探しているもの自体が存在しない」からではないか。

コードの善悪ではなく、コードのタイミングを使う。

異常な命令を書くのではなく、正常な命令の中に、物理的に致命的な「ズレ」を一行だけ紛れ込ませる。

洋子は「悪意のある記述」を探していた。

しかし悪意のある記述が存在しなければ、どれだけ精緻な診断も通り抜ける。

私は尋問室を出た。

無線を手に取った。

「洋子さん、もう一度頼みたい」

「...はい」

洋子の声に、わずかな苛立ちがあった。

「コードの異常を探すんじゃない。第三ラックの冷却系統の、安全停止マニュアルのコードを見てくれ。正常だが、タイミングが不自然な場所がないか」

沈黙があった。

「タイミング...」

洋子のタイピングが止まった。

数秒が過ぎた。

「...あった」

洋子の声が、わずかに変わった。

「ライブラリの奥、緊急冷却時のバッファ処理です。たった一行、実行待機命令が書き込まれている。コードとしては完璧に正しい。でも、この高度でこの熱量なら、この〇・五秒が致命的な熱暴走を招く」

「除去できるか」

「...ごめんなさい、あまりに理に適った記述だったから、疑いもしなかった」

「除去できるか」

「できます。今すぐ」

また待つ時間があった。

今度は短かった。

「完了です」

それだけだった。

「全部取り除けた」

洋子が静かに言った。

声に、疲れと何かが混在していた。

「確認できましたか」

「はい。AIアトラスの診断ログと照合しました。全九件、除去完了です」

浩が管制室に入ってきた。

「終わったか」

「終わりました」

短い言葉が、それぞれの疲労の中を通った。

感情の名前は書かないが、ひとつだけ付け加える。

Cは嘘をついていなかった。私の読みは正しかった。

しかしそれは、敵の技術がそれだけ精緻だったという事実でもある。

洋子が一度見落とした。

天才が一度見落とすように設計された罠を、ザカリアは仕込んでいた。

私の「賭け」は最後まで当たった。

それでも、もし私がCの目を読み違えていたら、という問いは論理的には消えない。

私はその問いを、今後も抱えていくことになる。

それが諜報の仕事だ、と私は理解している。

洋子がサーバールームから管制室に戻ってきた。

顔に、疲れと何かが混在していた。


時刻: 翌日

場所: 人工島、管制室

「定期点検完了。建設を再開します」

マリアの声明が世界に流れた。

七十二時間の停止が終わった。

声明の最終版は私が前日に確認していた。

「高次高調波共振への対処のため実施したグローバル・キャリブレーションは完了した。全十二基のシステムは設計値通りに機能している。建設を予定通りに再開する」という内容だった。

私はその文章を何度か読み直した。

一言一言が、事実の範囲内に収まっている。

「キャリブレーションは完了した」は本当だ。

「システムは設計値通りに機能している」も本当だ。

「建設を予定通りに再開する」も本当だ。

ただ、なぜキャリブレーションが必要だったか、は書いていない。

これが広報担当の仕事だ、と私は改めて思った。

書く言葉を選ぶことと、書かない言葉を選ぶことは、同じ作業だ。

この声明の前に、技術データを大量に添付した。

共振の波形グラフ、周波数の分布図、キャリブレーションの計算式。

記者が検証するための材料を、あらかじめ渡しておく。

記者はそのデータに向かう。

本当に何が起きたかに向かう記者は、おそらくいない。

管制室のダッシュボードに、十二基のロボット建設状況が戻ってきた。

高度五万メートルの空間で、静止していたロボットたちが再び動き始めた。

モニターに映る数字が、少しずつ変化し始める。

ケーブルの伸長量。各基の高度。接続部の固定数。

AIアトラスが管制を再開した。

「正常に稼働しています」

担当のリンが言った。

「制御精度、設計値の範囲内です」

「よかった」

隣の荒木が息を吐いた。

小さな声だったが、その息の長さに三日分が含まれていた。

建設が再開された。

私は管制室の一角に座って、それを見ていた。

世界は、建設が「定期点検を経て再開した」と理解している。

実際に何が起きたかを知っている人間は、この部屋にいる数人と、今頃別の場所にいるマリアとサラだけだ。

七十万人の作業員も、知らない。

それが正しい形だと思う。

秘密とは、何かを守るために存在する。

この秘密は、建設を守るために存在した。

記録者として、これを書くべきかを考えた。

今は、まだ決めない。いつか書く時が来た時のために、今は頭の中に置いておく。

記録者が書かないことを選ぶのは、記録の一部だ。

洋子が以前そう言った。

そのことを、今日初めて本当の意味で理解した気がした。


時刻: 再開当日の夜

場所: 暗号通信

建設が再開した夜、アリから連絡が来た。

彼は「伝えたいことがある」などという悠長な言葉は使わなかった。

代わりに、震える声で言った。

「...ドバイの、ペーパーカンパニーのリストを送る」

アリの声は、地を這うように低かった。

「ザカリアの資金源は枯渇していない。表向きの口座は凍結されたが、地下のパイプラインは今も生きている。昨日だけで、三千万ドルが『暗号資産』を経由して東南アジアの研究所へ流れた」

「なぜ、その情報が本物だと言える? 君の推測なら、グラス一杯の安酒以下の価値しかない」

「俺が——その送金システムの保守を担当したからだ。消去命令が出る直前に、ログを抜き取った。これが偽物だと思うなら、今すぐ俺をザカリアに突き出せばいい」

「...ただし、これが本物だと分かったら、私の家族をスイスへ逃がせ。NDB時代のあんたのコネクションを使え。それが情報の代価だ」

私は沈黙した。

アリが求めているのは、確実な脱出チケットか...

私はメモを掌の中に隠した。

「...確認する。本物であれば、手配する」

通信を切った。

スリーパーは三人全員確保した。

論理的な罠は九件すべて除去され、建設は再開した。

それは事実だ。

しかし、ザカリアはまだ動いている。

組織としての力はない。

内部の工作員も摘発された。

電波干渉も封じられた。

それでも資金を動かしている。

何かを探している。

「危ないもの」という言葉の輪郭が、まだ見えない。

危ないものには、種類がある。武器。情報。人間。あるいは、技術。

ケフィリアンの記録の中に、使用が制限されている技術があることを、洋子から聞いたことがある。

意識のデジタル化。

真空崩壊兵器。

タラス船長が残した警告。

ザカリアがその方向を探っているとしたら。

その可能性が頭をよぎった。

確証のないことは書かない。

書けば、それが一人歩きを始める。

諜報において、未確認の情報に形を与えることは、時に情報自体より危険になる。

ただ、その問いが頭の隅に沈んだことだけを、ここに記しておく。

建設は再開された。

スリーパーは摘発された。

論理的な罠は取り除かれた。

しかし、それで終わりではない。

私はそれを知っていた。

形のない問いは、答えが出るまで沈み続ける。


時刻: 深夜

場所: 人工島、管制室

深夜の管制室には、当直の技術者だけが残っていた。

私はそこに座っていた。

眠れなかった、というより、眠る気になれなかった。

何かが終わった後の夜、というものがある。

うまくいった夜は、安堵があるはずだ。

しかし安堵は急には来ない。

緊張が抜けるのに、時間がかかる。

体がまだ臨戦状態にある。

静かになった場所にいても、耳が音を拾おうとしている。

バーを閉めた後の夜も、少し似ていた。

最後の客が帰った後も、しばらくは動きのある空間にいるような感覚が続いた。

それが抜けるのに、三十分はかかった。

三日間の緊張が抜けるのには、もっと時間がかかるかもしれない。

モニターに映っているのは、高度五万メートルを超えた空間で動く機械たちの映像だ。

ロボットが作業している。

ケーブルが伸びる。

接続部が固定される。

次のセグメントが来る。

繰り返す。

機械は感情を持たない。

疲れを持たない。

交代の必要がない。

ただ、設計された動作を、設計された精度で続ける。

その映像を、私はしばらく見ていた。

人間が守らなければ、あの機械たちは動けなかった。

三日間で起きたことを、私はそう整理した。

「よかったですね」

いつの間にか、洋子が隣に来ていた。

気配を感じなかった。

疲れているせいか、あるいは洋子の歩き方がもともと静かなせいか、どちらか分からない。

「ええ」

「また動き始めました」

「ええ」

洋子の視線はモニターに向いていた。

しばらく、二人でモニターを見た。

「...ありがとうございました」

「俺じゃなくてAIアトラスと洋子さんの仕事だ」

「あなたが動いてくれなければ、見つけられませんでした」

洋子はそれだけ言って、再びモニターを見た。

眠っていない顔だった。

私も眠っていない顔をしているはずだった。

二人とも、それを言わなかった。

言葉がなくても、この場所にいる理由があった。

この三日間で、私はただの観察者ではいられなくなってるのかもしれない。

記録することと、守ることの境界が、少しだけ曖昧になっている気がする。

しかし、今夜はそれでもいい。

世界は何も知らないまま、建設が続く。

それが正しい形だ。

そう思う一方で、この静けさの重さを誰かと分かちたい、という気持ちが少しあった。

その気持ちの行き先について、記録者として何を書くかを考えた。

答えは出なかった。

洋子の輪郭が、画面の光の中にあった。

その夜は、それだけだった。

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