第7-3話 影の仕事
時刻: 翌朝9時
場所: 人工島着陸パッド〜無人島
無人島への移動は、補給用の小型ヘリで行った。
操縦士を除けば、乗客は私一人だ。
人工島を離れると、すぐに海になった。
眼下に波がある。水平線が丸い。太平洋の真ん中にいる、という実感が、ようやく来た。
昨夜、人工島の宿舎に泊まった。
七十万人が働く場所の、そのどこかにスリーパーがいる。
その事実を頭に置きながら眠ろうとしたが、眠れたのかどうか、今もよく分からない。
十五分の飛行。
小さな島が見えてきた。
緑が思ったより濃い。熱帯に近い緯度の色だ。その中に白い建物が一棟、海岸線に向けて立っている。
窓を通して見るとよく分からないが、もう少し近づくと、外壁に機器が取り付けられているのが見えた。
観測装置か、あるいは通信アンテナか。
あそこで、洋子は一人で研究をしていた。
その事実を、私はどう受け取るべきか考えた。
答えは出なかった。
考えること自体をやめた。
着陸パッドに機体が降りる。扉を開けると、潮の匂いと風が来た。
空気が、人工島とは違う。人の匂いがしない。
七十万人の中にいると、これほど空気が違うものかと思った。
島に降り立つと、すぐに洋子が出てきた。
作業服に、端末を抱えている。来客の挨拶というより、仕事の続きを携えたまま出てきた、という感じだった。
「お待ちしていました」
「遠かった」
「ここは静かで、集中できるんです。人工島の騒音に慣れてしまうと、何が聞こえているのかが分からなくなる」
確かに静かだった。
エンジン音が遠ざかると、残るのは風の音と、波の音だけだった。
「案内します」
洋子が先に歩いた。
私は後をついていった。
洋子の変わり方と変わらなさについて、私は何かを考えた。
時刻: 同日午前
場所: 無人島、研究所
研究所の中は、予想以上に高度な設備だった。
最新鋭の量子コンピュータ。大型のデータ解析システム。観測機器のアレイが壁面に並んでいる。
天井が高く、窓が広い。太平洋の光が斜めに差し込んでいた。
「これは...」
「全部、設計しました。島ごと作ってもらいました」
洋子が言った。
「一人で設計したのか」
「研究環境は、自分で整えた方が使いやすいので」
それは十年前と変わらない、洋子のやり方だった。
共同研究をしていた頃、洋子は実験室の照明の角度から解析ソフトの設定まで、自分で決めた。他の研究者の配置に合わせることを、どこかで居心地悪そうにしていた。
あれから十年経って、彼女は自分の島を作った。
私はそれ以上の感想を持たないことにした。
「量子メモリーのデータを見せてもらえるか」
「今出します」
洋子が操作した。
大型スクリーンに、データが展開された。
膨大な情報の断片が、複数の軸に沿って並んでいる。
最初の印象はただ一つ。
ランダムだ。
見ただけでは、パターンが掴めない。しかし、ランダムではないはずだ。宇宙の記録は必ず意図を持って作られている。意図があれば、構造がある。
「ここが問題の部分です。時系列と非時系列のデータが混在している。ランダムに見えるんですが、ケフィリアンが記録したものである以上、必ず構造があるはずで」
「どんな構造だと思う」
「分かりません。だから困っています」
率直だった。
洋子は昔から、分からないことを「分からない」と言う人間だった。
分かっているふりをする人間より、その方が、私には話しやすい。
私はスクリーンのデータをしばらく見た。
量子メモリーのデータ構造は、かつて扱っていた深宇宙観測データとは異なる。
しかし、何かが似ている。
ノイズの奥に、信号がある。
「観測データの解析では、まずノイズの特性を掴む。信号は、ノイズの向こう側にある。ランダムに見えるものにも、ランダムのパターンがある。そのパターンを先に理解する」
「そのアプローチで進めますか」
「試してみよう」
私と洋子は、並んでスクリーンの前に立った。
隣り合って、同じデータを見ていた。
十年前も、こういう場面があった。
深夜の研究室で、モニターを前に二人で立っていた。
夜中の二時に「この波形、どう思いますか」と聞かれて、私は答えた。
それが合っていた。
その感覚は、変わっていなかった。
「ここの変動、見てください」
洋子が一点を指した。
「ランダムに見えるが、振れ幅が少しずつ変化している」
「単調増加ですか」
「正確には違う。一定のリズムで増加と減少を繰り返している。ただ、そのリズム自体が変化している」
「変化の周期は」
「今計算する」
私はコマンドを入力した。
解析ツールは、洋子が用意していたものを使った。
「三十七単位ごとに、このリズムが切り替わっている」
洋子がすぐに別のウィンドウを開いた。
「三十七という数字に心当たりがあります。以前の解読済みデータに、ケフィリアンの時間単位への言及があった」
「それが基準単位か」
「かもしれない。つまり、これは──」
「時間のマーカーだ」
「そうです。ケフィリアンの日付のようなものかもしれません」
私たちは少しの間、その可能性を考えた。
宇宙の向こうの誰かが、時間を刻みながら記録を残していた。
その記録が、今ここにある。
四億年の時間を越えて。
記録者というのは、宇宙共通なのかもしれない、と私は思いかけた。
それは声に出さなかった。
午前の作業は、それだけで時間が過ぎた。
昼になって洋子がコーヒーを淹れた。
深煎り、ブラック。
「飲みますか」
「もらう」
私は受け取った。
一口飲んだ。
「同じ味だ」
「コーヒーは変えていません」
洋子が言った。
それだけの会話だった。
時刻: 翌日以降(並行して続く諜報活動)
場所: 人工島全域
無人島での作業は週に二、三日。残りは人工島で過ごすスケジュールにした。
人工島での「表の仕事」は広報担当だ。
メディア対応、プレスリリースの作成、取材のコーディネート。これは実際に機能しなければならない業務だ。質が落ちれば、広報担当としての信頼が失われる。信頼が失われれば、現場に自由に動ける立場も失われる。
「裏の仕事」は、その合間に進めた。
食堂で隣に座った作業員の話を聞く。
休憩所でコーヒーを飲みながら、会話のパターンを観察する。
宿舎棟の前を歩いて、夜間の人の動きを記録する。
七十万人の中からスリーパーを見つける最初のステップは、全体の「通常の状態」を把握することだ。
正常なパターンが分かれば、異常が見えてくる。
逆は成立しない。異常を探しても、正常を知らなければ何も見えない。
科学データの解析と、本質は変わらない。
バーテンダーの仕事と、本質は変わらない。
私は特に、建設開始前の三月四月から在籍している古参組に注目した。
長くいるほど、隠れやすい。しかし長くいるほど、何かが染み出ることもある。
人間は、長く偽装を続けると、どこかで力が抜ける。
バーテンダーとして五年、私はその瞬間を何度も見てきた。
壁の前で一人でいる時間が増える。集団の中に混じっても、視線が少し外れている。言葉が少なくなる。
あるいは逆に、必要以上に馴染もうとする。
どちらも、正常なパターンからのずれだ。
食堂では、よく聞こえるテーブルの角の席を選んだ。
出入り口が見える位置に座った。
誰が一人で来るか。誰が誰と必ず一緒に来るか。グループの境界線はどこにあるか。
一週間観察すると、この場所の社会地図が頭の中にできてくる。
夜は宿舎の廊下を歩いた。
消灯後に動いている人間がいないか確認した。
三週間かけて、この作業を続けた。
頭の中に、三十人程度のリストができた。
「要注意」という人間たちだ。
孤立している者。奇妙に広い人間関係を持つ者。夜中に一人で動く者。会話に入ってくるタイミングが少しずれている者。
確証はない。まだ観察の段階だ。
観察は地味で、成果が見えない作業だ。
しかし、ここを省くと後で取り返しがつかない。
科学の経験が、そう教えている。
この三週間、プレスリリースも十三本書いた。
取材の窓口として、記者と八回やり取りした。
私は確かに広報担当として仕事をした。
「田所さん、プレスリリースの配信、いつも早いですね」
同じフロアの事務スタッフが言った。
「仕事なので」
「助かっています。内容も分かりやすくて」
「ありがとうございます」
それだけだった。
「田所」は仮名だ。
しかし、この島での私に「田所」以外の名前は必要ない。
どちらが本当の仕事か、などとは考えない。
どちらも本当の仕事だ。
時刻: ある夕方
場所: 人工島、中央棟廊下
その日、人工島に浩と洋子が同時にいる時間帯があった。
月に数回、洋子が人工島に来て、建設の技術的な問題について浩と協議する。
定例の確認作業だというが、私にとってはそれを直接観察する初めての機会だった。
私は廊下の端から、その様子を観察した。
記録者として、それは自然なことだ。
感情はそこに置かない。観察するだけだ。
浩と洋子が並んで、ホワイトボードと端末の画面を見ている。
浩が何か言いかけた。
「ここのロボット制御ログの、このセクションが──」
「三十一日分の累積ですね」
洋子が引き取った。
「その通り。だとすると、この誤差は」
「熱膨張の影響が考えられます。高度が上がるほど、昼夜の温度差が」
「そう出るはずだが」
「計算します」
洋子がキーボードを操作した。
画面に数値が出た。
「ほぼ一致します」
「じゃあ、補正は」
「次の区間から適用できます。パラメータをこう変更すれば」
「それで行こう」
私は廊下の端に立って、二人を見ていた。
奇妙なことに気づいた。
言葉と言葉の間の「間」が、ない。
普通、二人の人間が会話する時には、相手の発言が終わったことを確認してから、次の言葉が始まる。
わずかな間がある。相手の言葉を受け取って、処理して、答える。
しかし浩と洋子の間には、その間がない。
一方が言いかけると、もう一方が続ける。
一方が止まると、もう一方が別の角度から始める。
切れ目がない。
一つの思考が二つの口から出ているような、と私は思いかけた。
そこで、止まった。
「双子のような」
その言葉が浮かんで、私は心の中で打ち消した。
違う。あれはそういう関係ではない。
恋愛でもない。それは見れば分かる。
しかしそれが何なのか、私には説明できなかった。
二人の会話がまた続いた。
浩が「この数値が修正されると」と言い、洋子が「次の区間の計算が変わります」と言い、浩が「想定の範囲内か」と言い、洋子が「範囲内です」と言った。
淀みなく続いた。
廊下の端で聞いていた私は、自分がなぜここに立ち止まっているのか、少し分からなくなった。
仕事として観察しているのか、それとも別の理由で立っているのか。
記録者として、ただ見た、とだけ書く。
時刻: 深夜
場所: 人工島、倉庫区画
三週間の観察の後、私はリストを三十人から十人に絞った。
行動のパターン。行動時間の変則性。社会的な接触面の歪み。
その三点を基準にした。
ただし、一つ条件を捨てた。
本来なら、直近一ヶ月で一度も外部通信を行っていない「完全な潜伏者」も洗うべきだ。
動かずに隠れている人間は、行動パターンの異常がない。
観察では引っかからない。
しかし存在している可能性がある。
その条件を入れれば、容疑者は三万人を超える。
私は、ザカリアの焦りを信じることにした。
組織として壊滅した後に残党が動くのは、時間的な切迫があるからだ。
完全に潜伏したまま何もしない工作員は、この局面では動かない。
今この段階で動かざるを得ない者だけを追う。
ただし、その判断が外れている可能性は消えない。
それを頭に置いたまま、十人に絞った。
マリアに報告した。
精度が不十分かもしれない、という懸念を含めて、正直に出した。
もし犯人が、一度も動かずに機を待つ本物のプロなら、私はこの時点で既に負けている。
マリアは、私の報告書を一瞥もせずに言った。
「完璧なリストが欲しいなら、AIに任せているわ」
私は黙っていた。
「私があなたを呼んだのは、データが『白』だと言っている人間の中に潜む『黒』を、あなたの不吉な直感で引きずり出すためよ」
廊下に出た。
無性にコーヒーが飲みたくなった。
「判断はあなたがしなさい」という言葉が、頭の中で繰り返した。
責任を取るという言葉が遠さとして感じられる。
決断そのものは、こちらに残る。
その夜、私はリストの十人を改めて見た。
行動パターンが最も鋭く外れていた人間を、一人選んだ。
理論的な根拠だけではない。
パターンから外れているというより、パターンを意識しすぎているように見えた。
自然に生活している人間は、自分の動きを計算しない。あの人間は、計算している。
その読みが正しいかどうかは、動いてみるまで分からない。
仮に山田と呼ぶ。それが本名かどうかは関係ない。
山田は宿舎を出ると、灯りの少ない経路を選んだ。
監視カメラの位置を把握している動き方だった。
最初からここへ来るつもりで、道を覚えている人間の動き方だ。
私は距離を保ちながら後をつけた。
倉庫の裏手に回った。灯りは最小限しかない。
山田が立ち止まった。
周囲を確認している。顔を左右に動かした。
私は息を止めた。
コンテナの影に体を押し込んだ。
山田が、ポケットから何かを取り出した。
小型の無線機だ。暗がりでも、その形はよく分かった。
「計画通り進めている...」
低い声だった。相手の声は聞こえない。
「...三日後の予定で動く...確認してくれ」
私は、その言葉を頭に刻んだ。
三日後。
何かが動く。
そこで、私の足が砂利を踏んだ。
音がした。
かすかだったが、静夜の倉庫区画では、それで十分だった。
山田が振り返った。
目が合った。
時刻: 深夜(続き)
場所: 人工島、倉庫区画
山田が走った。
私も走った。
倉庫の裏手を迂回しながら追った。
距離が縮まった。
山田が方向を変えた。
読んでいた。
倉庫の端で追いついた。
組み合いになった。
元探偵事務所での経験と、スイス連邦情報局で習得した制圧の型が、体の中に残っている。
一分以内に、山田を押さえた。
セキュリティチームを呼んだ。
サラが三分で来た。
「確保しました」
「お疲れ様です」
サラは表情を変えずに言った。
専門的な人間の反応だった。
「尋問します。同席しますか」
「する」
山田の尋問は翌朝まで続いた。
山田は最初から話す気がなかった。
しかし夜明け前になって、一言だけ言った。
「まだ他にもいる。お前たちには見つけられない」
感情的な言い方ではなかった。
確信を持った人間の言い方だった。
その確信の根拠が、気になった。
単純な強がりではない。何かを知っている人間の言い方だった。
「氷山の一角」という言葉を使わなかったが、意味は同じだった。
翌朝、浩に報告した。
「一人目を確保した。でも、まだいる」
「引き続き頼む」
「もう一つ」
私は続けた。
「三日後に何かが起きる可能性がある。山田が深夜の通話でそう言っていた。詳細は不明だが、内部での動きと連動している」
浩の表情が変わった。
「詳しく聞かせてくれ」
会議室に移動した。
マリアとサラも呼んだ。
「三日後」という期限が、空気を変えた。
報告に使う言葉の一つ一つを、私は選んで言った。
分かっていることと、分かっていないことを、明確に分けた。
確証のないことは確証がないと言う。
それが記録者として、また諜報担当としての、最低限の誠実さだ。
「山田以外の標的を特定する。残りのリストを絞り込む。三日以内に」
私は言った。
「可能ですか?」
マリアが聞いた。
「やってみなければ分からない」
やれるかどうかより、やるしかない状況だった。
マリアも本気で聞いたりしていない、多分。
会議室を出て、廊下を歩いた。
空が白み始めていた。
人工島の朝は、工場の朝に似ている。
空が明るくなるより先に、人が動き始める。
作業員たちが廊下を歩いていた。
誰もが疲れた顔をしていた。
そして誰もが、次の場所へ向かっていた。
七十万人の中に、私は混じった。
三日後まで、やることは決まっている。




