表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
氷雨の黙示録  作者: 唯野眠子
第7章-記録者
37/37

第7-2話 裏の世界

時刻: 翌朝10時

場所: 東京・神楽坂、バー「ステラリウム」

浩が来た。

約束の時間どおりだった。

この男は学生の頃から、時間に遅れない。

開店前の店内は静かだった。

椅子が裏返しのままカウンターに並んでいる。

掃除が終わったばかりの床が、光を反射している。

カーテンを少し開けると、外の朝の光が斜めに差し込んだ。

私はコーヒーを二杯分、淹れておいた。

浩がブラックを飲むことは覚えていた。

「考え直してくれたのか」

カウンターに座りながら、浩が言った。

問い方は静かだった。

答えが「いいえ」でも受け入れる準備をしていた、という問い方だ。

「条件がある」

私は言った。

「俺のやり方でやらせてくれ」

「分かった」

浩は即答した。

「もう一つ」

私は続けた。

「量子メモリーの残り0.3%の解読支援も担当する。洋子さんとの共同作業として」

「もちろん。それは最初から頼むつもりだった」

「そうか」

それで話はついた。

バーを一時休業する旨を、その日の午後に常連客たちに告げた。

田村さんが「どのくらい?」と聞いた。

半年か、一年か、あるいはもっとか。自分でも分からなかった。

「少し、旅に出る」

「どこへ?」

「太平洋の方へ」

それだけ答えた。田村さんは「太平洋って、あの建設の?」と言った。

私は「そういうところです」と言った。それ以上は話さなかった。


時刻: 同日午後

場所: 同上

午後、浩に人脈の概要を説明した。

名前は出さない。

ただし、どういう人間が、どういう形で繋がっているかだけを、素描した。

「情報ブローカー、ジャーナリスト、現職と元諜報員、ハッカー、弁護士。表と裏の両方に繋がりを持っている人たちだ。直接会った人間もいれば、一度しか会ったことがない人間もいる。ただ、必要な時には動いてくれる関係がある」

「こんな人脈を、どうやって作ったんだ」

「学界を離れてから十年で作った。サイエンスライター、探偵事務所、情報の仲介業、それにNDB局員も。それぞれの場所で、その場所に合った人間と繋がってきた」

「先輩は...何者なんだ」

「何でも屋だ」

私は苦笑した。

「肩書はない。でも、必要とされる時には動ける。それだけだ」

「十分だ」

浩は頷いた。

「スリーパー工作員について、分かっていることを話してほしい」

「建設が始まる前、三月から四月にかけて、計画承認の段階で既に潜入した人間たちだ。ザカリアが組織として壊滅する前に仕込んだ。休眠状態で現場にいた。最初の仕事をこなしながら、指示を待っていた。ザカリアが再建に動き出したことで、彼らが活性化する可能性がある」

「今、どういう形で動いているか」

「電波干渉工作は既に無効化した。次の手を、スリーパーが準備している可能性がある。制御系への工作か、情報漏洩か、あるいはまだ見えていない方法か。具体的な任務は、現場で調べなければ分からない。それが俺に来た理由だろう」

「そういうことだ」

「七十万人のうち、何人いると思う」

「分からない。一桁かもしれないし、百人単位かもしれない。潜入した時期が判明しているから、そこを起点に洗うことはできる。ただし時間がかかる」

浩は黙って聞いていた。

急かすような様子はなかった。

「洗い出す手順を教えてほしい」

「まず入島記録を時系列で見る。建設開始前から在籍している人間を特定する。その中から、身元を精査していく。同僚との関係が薄い人間、行動パターンが不規則な人間、特定の時間帯に動く人間。そういう異常値を拾っていく」

「時間は」

「繰り返すが、保証はできない。丁寧にやらないと、間違った人間を疑うことになる。それは最悪の結果だ」

「分かった。急かさない」

「一つ、確認したい」

私は言った。

「俺の動き方には口を出さないでくれ。どこで誰と会っても、何をしていても、表の仕事に支障が出ない範囲で、俺のやり方を通させてくれ。それが条件だ」

「了解した。保証する」

その日の夜、私は荷物をまとめた。

大きな荷物は要らない。

着替えと、端末と、暗号化した連絡先のリスト。

それだけだ。

五年間続けた店を、閉める。

鍵を回した。

扉を確認した。

看板の電源を落とした。

カウンターを最後にもう一度拭いた。

グラスを一列に並べ直した。

それで終わりだ。

それが何を意味するか、私は考えなかった。

考えないようにしたのかもしれない。

どちらか分からない。


時刻: 出発前夜

場所: バー「ステラリウム」

出発前日の夜、洋子がもう一度バーに来た。

閉店中の看板が出ているのに、扉を開けた。

鍵はかかっていなかった。

片付けの最中だった私は、足音で来たことに気づいた。

「明日、島に来てくれると聞きました」

「ああ」

「...よかったです」

洋子はそう言って、カウンターに座った。

私はコーヒーを淹れた。深煎り、ブラック。

閉店中の店で、もう最後になるかもしれないコーヒーだった。

それについては何も言わなかった。

「ありがとうございます」

洋子はそれを一口飲んだ。目を閉じて、少しの間だけ止まった。

それから開いた。

安堵した様子だった。

何に安堵しているのかを、洋子は説明しなかった。

来なかった時期があった。

連絡が途絶えていた時期があった。

それが今夜終わった、ということかもしれない。

「量子メモリーの残り0.3%は、今どういう状態ですか」

私は、仕事の話を始めた。

「データ形式が不規則で、通常の解析ツールでは読めない部分が相当あります。ケフィリアンの記録形式が、私たちの想定とは異なる構造になっている」

「具体的には」

「時系列のデータと、思考の断片のようなデータが混在しています。整理の方法がまだ確立できていない。ランダムに見えるんですが、ランダムではないはずなんです。ケフィリアンが記録したのだから、必ず構造がある。その構造をまだ見つけられていない」

私は少し考えた。

「ランダムに見えるデータの中に隠れた構造を見つけることなら、昔から得意だった」

「そうです。それです」

洋子が言った。

「あなたが観測データの解析をしていた頃、それが本当に上手だった。ノイズの中から信号を掘り出す、あの感覚。私は真似しようとしたけれど、同じようにはできなかった。あの時の共同作業は、私のやり方を変えるきっかけになりました」

「そうだったか」

「覚えていますか。夜中まで、データの構造を議論していたこと。あのホワイトボードが、朝になると式で埋まっていて」

「覚えている」

夜中の二時に、コーヒーカップを傍に置いてホワイトボードに向かっていた。

議論が噛み合った瞬間があった。

洋子が仮説を立て、私がデータで反証し、洋子が修正し、私が別の角度を当てる。

そのやり取りが、夜明けまで続いた。

そういう夜が何度かあった。それは確かだ。

ひどく生産的な時間だった、とは言える。

悪くない記憶だった、とも言える。

「では、明日」

洋子が立ち上がった。

「島で待っています」

帰っていった。

扉が閉まった。

路地に足音が聞こえた。

少しして、聞こえなくなった。

私は一人でコーヒーの残りを飲んだ。

片付けの途中のカウンターに、カップが二つある。

どちらも空だ。

閉店中の店は、静かだ。

ここ数年で一番静かに感じた。

いや、そうではないかもしれない。


時刻: 回想・説明

私が「表と裏の両方に通じている」という意味を、少し説明しておく必要がある。

表の世界とは、科学、ジャーナリズム、法律、企業経営など、名刺に書ける仕事のことだ。

会社名、役職、実績で評価される。

失敗は記録されるが、それでも評価の対象になる。

裏の世界とは、情報の売買、組織の内偵、身元調査、隠れた人脈の管理など、名刺には書かない仕事のことだ。

そこでは信頼が通貨になる。

失敗は、姿を消すことを意味する。

私はその両方に足をかけている。

どちらか一方の人間は多い。

しかし両方を行き来できる人間は少ない。

その希少性が、今回の仕事では役立つだろう。

ザカリアのスリーパー工作員は、表の顔を持ちながら裏で動いている。

七十万人の中に、普通の建設労働者として溶け込んでいる。

どこかの班に属し、仕事をこなし、同僚と飯を食っている。

それが表だ。

その一方で、何かを準備している。

指示を待っている。

あるいは、もう受け取っている。

それが裏だ。

彼らを見つけるためには、両方の視点が必要だ。

正面から身元を調べても、表は問題ない。

書類も職歴も整っているはずだ。

裏は見えない。

裏を見るためには、裏から近づかなければならない。

同じ目線で、同じ場所に立たなければならない。

もう一つ。

私には「聞く力」がある。

バーテンダーとして五年、私は人の話を聞き続けた。

人は、信頼できると思った相手には話す。

また、話すつもりがなかったことを、気づかずに話すことがある。

会話のパターン。

言葉の選び方。

沈黙の種類。

視線の外し方。

自分でも気づいていない話題の回避の仕方。

呼吸のリズム。

相槌の間。

それを読む技術が、私にはある。

これは科学データの解析と、本質的には同じだ。

パターンを見つける。

異常値を検出する。

ノイズと信号を分ける。

背景の中に紛れた一点の乱れを、見逃さない。

スパイの技術は、本質的にはデータ解析だ。

それを私は学界を追われた後に知った。

皮肉だが、そういうことだ。

七十万人の中からスリーパーを洗い出す。

それは、膨大なデータから信号を見つける作業に近い。

私は、その仕事ができる。

ただ、できることと、したいことが一致しているかどうかは、別の話だ。

今この瞬間も、確信はない。

しかし、やると決めた。

理由については、書かない。

一つだけ記録しておくとすれば。

学界を追われた時、私は「真実を前に黙った」という事実と共に生きてきた。

今回は、真実を探す側に回ろうとしている。

それが贖罪になるとは思っていない。

贖罪というのは、物語の言葉だ。

現実には、ただ仕事があり、仕事をする。

それだけだ。

そういうことだと思っている。

それも書かない方がよかったかもしれない。

しかし書いた。

記録者にも、判断を誤る瞬間がある。


時刻: 翌日朝

場所: 東京→太平洋、ヘリコプター内

翌朝、私は出発した。

ヘリコプターで太平洋に向かう。

窓の外に、雲がある。

その下に、海がある。

かつて観測データの画像で見ていた、青い球の表面がそこにある。

今は乗り物の中から見ている。

実際に自分の目で見ると、画像とは違う。

光の質が違う。

スケールが違う。

今から自分が乗り込む場所が、水平線の向こうにある。

七十万人が集まり、人類最大の建設プロジェクトが動いている場所が。

私はその場所へ、広報担当として向かっている。

同じヘリに浩も乗っていた。

席に着いた瞬間から端末を開いて、データを確認していた。

どこにいても仕事をしている。

学生の頃からそうだった。

手が止まるのは、問題が解決した後だけだ。

「先輩」

しばらくして、浩が端末から目を上げた。

「何だ」

「ありがとう。本当に」

浩は真剣な顔で言った。余分な言葉はない。

私は窓の外を見たまま答えた。

「まだ礼を言う段階じゃない。成果が出たらにしてくれ」

「そうだな」

しばらく沈黙が続いた。ヘリの振動だけがある。雲が流れていく。

「洋子さんを、よろしく頼む」

浩が言った。

「無人島での研究は、彼女一人でやってきた。孤立した環境で、長い間。信頼できる相手が傍にいると、違うはずだ。それが、俺には提供できないことだった」

浩は、それだけ言った。

言いすぎとも、足りないとも思わない言い方だった。

「分かった」

私はそれだけ答えた。

浩は頷いて、また端末に戻った。

それ以上は言わなかった。

雲が窓の外を流れていく。

水平線が近づいてくる。

その向こうに人工島がある。

その向こうのさらに向こうに、無人島がある。


時刻: 午後

場所: 太平洋人工島

人工島は、ヘリから見ると想像以上に大きかった。

鉄板と鋼鉄の骨格。

その上に立ち並ぶ建物群。

海の上に人工の地盤がある。

離れた場所から見ると整然としている。

近づくにつれ、規模が実感に変わってくる。

これが、七十万人が働く場所だ。

この中のどこかに、スリーパーがいる。

「よく来てくれた」

着陸パッドで、浩が言った。ヘリを降りた直後から、別の顔になっていた。

建設総責任者の顔だ。

周囲からの視線が変わる。

浩に向けられる目に、それぞれの信頼と重荷が見える。

「洋子さんは?」

「無人島にいる。明日、案内する」

「了解」

浩が、セキュリティチーフのサラ・チェンを引き合わせてくれた。

三十代後半の女性だった。

資料を抱え、姿勢がいい。

目が鋭い。

この人物は、人を観察する習慣がある。

そういう目だ。

出会った瞬間から、こちらを測っていた。

「田所さんのことは聞いています」

サラが言った。田所は私の仮名だ。

広報担当としての名前だ。

プロジェクト側で用意した名前で、書類も整っている。

「内部調査の自由裁量を与えます。ただし、暴力的な手段は最終手段として」

「分かっている。俺のやり方は、基本的に観察と情報収集だ。必要なら人と話す。それだけだ」

「了解です。マリアさんも同じことを言っていました」

マリアという名前が出た。

やはり、そういうことだ。と私は思った。

それ以上の考察は書かない。

「協力できることがあれば、いつでも。まず、入島記録の最初期のデータが必要になると思います」

「明日の朝、用意します」

「ありがとう」

それだけで、打ち合わせは終わった。

サラが資料を閉じて部屋を出た。

浩も次の会議に向かった。

私は一人で、着陸パッドのそばに立っていた。

風がある。

海の匂いがする。

東京とは違う空気だ。

当然だが、実際に感じると、別の場所に来たという確信になる。

視界が広い。

水平線が、どの方向にもある。

東京のバーカウンターから、ここに来た。

三日前とは全く違う場所にいる。

それが正しいことなのかどうか、今は考えない。

その日の夜、私は島を歩いた。

食堂、宿舎、休憩所、工具の保管庫、通路、運搬車両の待機スペース。

整然としているが、巨大だ。

歩き切れない広さだ。

人々が話している。

笑っている。

疲れた顔で黙っている。

十数カ国語が、夕食時の食堂に混ざり合っている。

それぞれの生活があり、それぞれの疲労がある。

七十万人のうち、スリーパーはどこにいるか。

まだ分からない。

しかし、観察は始まっている。

誰が誰と親しいか。

どのグループがどこで集まるか。

新参者には見えない緊張の種類がないか。

表情が固い人間がいるか。

目線の動きが不自然な人間がいるか。

それを、私は記憶に刻んでいった。

一夜では終わらない。

しかし、積み上げるしかない。

バーで客を観察していた五年間が、今夜役に立っている。

あの五年間が無駄ではなかった、と言い切る気はない。

ただ、役に立っていることは確かだ。

この夜は、情報収集の初日だ。

何も分からない。

しかし、始まった。

明日、洋子の島に行く。

無人島での10年ぶりの再会。

──それに対して私がどう思っているかは、ここでは書かない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ