第7-1話 バーテンダーの過去
時刻: 7月初旬 午前2時
場所: 東京・神楽坂、バー「ステラリウム」
私は、グラスを磨いていた。
最後の客が帰ってから、三十分が経つ。
バー「ステラリウム」。神楽坂の裏路地にある、小さな店だ。カウンターが八席と、二人掛けのテーブルが三卓。
天井が低く、照明は暖色。
木のカウンターに、年数のにじんだ傷がある。
名前は星空儀という意味で、かつて私が好きだったものから取った。
もっとも、開店してからの五年、私が夜空を本気で見上げたことはほとんどない。
それでも名前は変えなかった。
五年前に開いた。
それまでは、宇宙物理学の研究者だった。
天体観測データの解析を専門としていた。
しかし十年前にすべてが変わり、五年間の寄り道の後、ここに辿り着いた。
グラスを磨きながら、窓の外を見る。
東京の夜空。星は、都市の光に埋もれている。
毎晩、この時間に同じ窓を見ている。
あの光の向こうにあるものを、私はかつて仕事として追いかけていた。
今は、ただ見ている。それで十分だ、と私は思っている。
本当にそう思っているかどうかは、自分でもよく分からない。
プロジェクト・アセンション。
氷雨の後から世界中が注目するその名前は、カウンターで聞こえてくる客の会話にも混じるようになっていた。
軌道エレベータの進捗、海面の回復予測、ケフィリアンのメッセージ。
人々は酒を飲みながら、宇宙のことを話していた。
今夜も、若い会社員の二人組が「高度五万キロって想像できる?」と言いながら帰っていった。
私は、「おやすみなさい」と言って、扉を閉めた。
どのテレビも、毎日建設の映像を流している。
高度を増すケーブルの先端、ロボットたちが作業する無音の宇宙空間。
数字は毎週更新される。
六週間前には四万キロだった高度が、今は五万キロに近い。世界は、前に進んでいる。
私は、それをカウンターの向こうで聞いている。
この三ヶ月で、客の言葉は変わった。
「本当に成功するのか」という懐疑から、「どこまで行くのか」という期待へ。
氷雨が残した傷は、まだ癒えていない。
しかし、人々の視線が少しずつ変わっている。
――記録者として言えば、このあたりで私の話を始めるのが正直なところだ。
しかし記録者には、自分のことを書く習慣がない。
その夜、扉が開いた。
時刻: 午前2時15分
場所: 同上
「久しぶりだな、先輩」
立っていたのは、堀川浩だった。
大学の研究室の後輩だ。私より三学年下で、軌道工学が専門だった。
今は、プロジェクト・アセンションの建設総責任者として世界中に名前が知られている。
世界を救う建設の頂点にいる男が、午前二時に神楽坂の裏路地に立っていた。
「何を飲む」
私はグラスを置いた。戸惑いは、顔には出さなかった。
こんな時間にここへ来た理由より先に、何を出すかを考えた。
バーテンダーとして覚えたことだ。
「ウイスキー。ストレートで」
浩はカウンターに座った。疲れ切った顔をしていた。
目の下に薄い影がある。
もともと無駄のない男だが、今夜はその無駄のなさが、消耗した人間のそれに見えた。
学生の頃から、浩は問題を前にすると物静かになる男だった。
喋らなくなるのではなく、余計なことを言わなくなる。
今夜もそれと同じ顔をしていた。
私はシングルモルトを注いだ。
「大変そうだな」
「まあ」
浩は一口飲んで、少し息を吐いた。
「世界が注目している割に、顔色が悪い」
「七十万人の命を預かっていたら、顔色も悪くなる」
それだけだった。それ以上の弁解も、愚痴も、言い訳もなかった。
その簡潔さは、確かに昔と変わっていなかった。
あの頃から、浩は余分なことを言わない男だった。
話したいことがあって来た、という空気だった。
私は急かさなかった。
バーテンダーとして学んだのは、黙って待つことだ。
客は、必要なタイミングで話し始める。
目的があって来た客も、沈黙の中でその準備をする。
急かすと、相手は本来言おうとしていたことの半分しか言わない。
しばらく、二人で黙って飲んだ。
「内部に、問題がある」
浩が言った。
「建設が始まる前、三月から四月にかけて現場に潜入した工作員がいる。
組織的な破壊活動は封じたが、そいつらがザカリアの再建活動に呼応して動き始めた可能性がある」
「セキュリティはいるだろう」
「いる。でも足りない。ずっと現場にいた人間と、新規で潜入した工作員では、見分け方が違う。七十万人の中に隠れている人間を、正面から見ても分からない。内部に長くいる人間は、長くいることそのものが偽装になる」
「表と裏の両方が分かる人間が、今いないということか」
「そういうことだ」
私は、黙って聞いていた。七十万人の建設現場。スリーパー工作員。見えない脅威。それは、膨大なノイズの中からひとつの信号を見つける作業に似ていた。
「先輩には、独特の人脈がある。学界を離れた後に足を踏み入れた世界の」
「どこで知った」
「ある筋から。名前は出せないが、信頼できる情報だ」
私は、グラスを拭く手を止めた。
浩が言った「ある筋」が誰なのか、あの世界にいれば当たりはつく。
浩がマリア・ロドリゲスという人物に近い立場にあることは、ニュースで知っていた。
IGDEの危機管理責任者として、彼女の名前は何度も耳にしていた。
「情報を集めてほしい。内部のスリーパーを洗い出してほしい。表向きは広報担当として雇う。外からは記録者として見える。プレスリリースの作成、メディア対応。それが表の仕事だ」
「裏は?」
「内部監視と情報解析。誰にも、本当の任務は知らせない。セキュリティチーフとマリアさんを除いて」
「断る」
即答した。
浩が少し止まった。
「理由を聞かせてほしい」
「俺はあの世界と関係ない。これからも、関係するつもりがない。今ここで、それで生きている」
浩は、何も言わなかった。
しばらくして、立ち上がった。追い縋るような気配はなかった。
その潔さは、学生の頃から変わっていなかった。
断られることを想定して来た人間の、落ち着いた引き際だった。
「分かった。無理は言わない」
名刺をカウンターに置いた。
「もし気が変わったら」
そして帰っていった。
足音が路地を遠ざかった。
扉が風を連れて閉まった。
私は、一人で名刺を見た。
「堀川浩 プロジェクト・アセンション 建設総責任者」
立派になった、と思った。
それ以上のことは書かない。
時刻: 浩が帰った後、深夜
場所: 同上
その夜遅く、私は一人で酒を飲んだ。
記録者として言えば、ここで過去の話をするのが正しい順序だ。記録は、現在から始めるより、どこかで遡行しなければ意味をなさないことがある。
十年前。私は東京の大学の博士課程にいた。
指導教官のもとで、天体観測データの解析を担当していた。
深宇宙サーベイのデータ処理、観測装置のキャリブレーション、統計的ノイズの除去。
地味な仕事だったが、私はそれが好きだった。
データの中に構造を見つける瞬間の、静かな手応えが好きだった。
ある日、数値に気づいた。
きれいすぎる。
ノイズが、理論値よりも遥かに少ない。最初は観測装置の精度が高いのかと思った。
精密な測定機器は、ノイズが少ない。
それは当然だ。しかし計算を重ねるうちに、分かった。
これは精度の問題ではない。
データが、外から触られていた。
指導教官が、理論に合わないデータを削除し、都合のいいデータだけを残していた。
論文に使う数値が、きれいに見えるように。
誰もが信じたい結果に向けて、地道に歪められていた。
私は、指導教官に直接尋ねた。
最初は否定された。
証拠を示すと、観念した。
「頼む。このことは内密に。私の研究人生が終わる」
老いた研究者が、そこにいた。二十年以上のキャリアを持つ人物が、私の前で頭を下げた。
私はその顔を見て、判断を間違えた。
庇うことにした。
しかし別の研究室の学生が同じ異常に気づき、大学に告発した。
調査が始まった。
指導教官のデータ改ざんが明らかになった。
そして私も疑われた。
「知っていたのではないか。庇ったのではないか。それは共犯と同じだ」
私は否定した。
事実として、私は改ざんに加担していない。
しかし「知っていた」という点については、否定できなかった。
信じてもらえなかった。
結果、私は学界を追われた。
「科学が俺を裏切った」
そう思った。
しかし今でも、正確にはそうではないと知っている。
俺が、真実を隠蔽した。そこに立ち返ると、怒りは向かう先を失う。
その後悔は、バーを開いてからも消えない。
ただ、名前をつけずに抱えている。
名前をつけると、それで終わった気になるから。
終わっていないうちは、名前をつけない方が誠実だと思っている。
それは今も変わらない。
浩の名刺を、カウンターの引き出しにしまった。
その夜は眠れなかった。
時刻: 回想(学界を離れた後)
場所: ―
学界を離れてから、私はいくつかの世界を経由した。
最初は、サイエンスライターとして働いた。科学記事を書き、取材を重ねた。
研究機関を訪ね、データを読み、研究者の言葉を一般向けに翻訳した。
そこで情報収集の技術を学んだ。
何が重要で、何が煙幕で、どこに本当のことが隠れているか、を読む技術を。
文字を書くことと、文字の裏を読むことは、おそらく同じ技術の表裏だった。
次に、ある探偵事務所で働いた。
主な業務は企業スパイの摘発と情報漏洩調査だった。
尾行、記録、分析。
対象の行動パターンを読み、異常値を検出し、構造を浮かび上がらせる。
科学データを解析するのと、本質は変わらなかった。
ただ、データではなく人間が対象だった。
人間の方が、データより複雑だ。
しかし、複雑さのパターンには一定の法則がある。
それが面白くなり、スイス連邦情報局(NDB)の科学技術分析官になった。
情報局員は、情報の取り扱いだけではなく、アルプス山岳地帯での過酷なサバイバルや市街地戦の基礎も習得する。
その後、スイスでの経験をベースに、情報ブローカーと呼ばれる人物の下で仕事をした。
詳細は書かない。
ただ、これまで出会った人々の多くは、今でも連絡が取れる。
互いに詳しいことを聞かない関係だが、必要な時には動いてくれる。
そういう人脈だ。
そうして五年間で、表と裏の両方に人脈ができた。
情報ブローカー、ジャーナリスト、元諜報員、ハッカー、弁護士。
彼らの共通点は、「公式には存在しない情報」を扱う仕事をしていることだ。
表の顔と裏の仕事を持ち、どちらにも完全には属さない人々だ。
バー「ステラリウム」は、そういう意味でも機能している。
カウンターの向こうにいると、人は話す。
仕事の話、業界の裏話、他では言えないこと。
バーテンダーは聞き役だ。記録はしない。
しかし、覚えている。会話のパターン、言葉の選び方、沈黙の種類、視線の外し方。
それを読む技術が、私にはある。
これは科学データの解析と、本質的には同じだ。
パターンを見つける。
異常値を検出する。
浩が「独特の人脈」と言ったのは、正確だった。
私はそれを認めている。
ただ、使いたいかどうかは、別の話だ。
あの世界に戻ることは、過去に戻ることでもある。
十年前、真実を前に目を逸らした自分のところへ。
それだけの話だ、と私は思っていた。
時刻: 浩が来てから翌朝3時
場所: 自宅アパート
浩が来てから三日、私は店を開け、グラスを磨き、客の話を聞いた。
普段と変わらない日々だった。
しかし何かが引っかかっていた。
浩が言った言葉ではなかった。
十年前の研究室の記憶だ。深夜まで続く議論。
データを前にした時の集中。モニターの前で何かを見つけようとしていた頃の手の感覚。
あの時間は確かに、悪くなかった。
バーを開いてからの五年は、静かだった。
静かであることと、充実していることは、同じではない。
その違いを、私はずっと見ないようにしていた。
浩の名刺は、引き出しの中にある。一度取り出して、また戻した。
二日目の夜、テレビの音が聞こえた。
カウンターの常連が点けっ放しにしていたチャンネルで、建設の最新映像が流れていた。
宇宙空間でロボットが作業している映像。
音がない。光だけある。
無音の宇宙で、人間が設計した機械が、精密に動いている。
「あれが成功したら、海面は元に戻るんですよね」
常連の田村さんが言った。
「そうですよ」
「すごいですよね。人類って、やるじゃないですか」
「そうですね」
私は、グラスを磨きながら答えた。
映像が切り替わった。今度は洋子の記者会見の映像だった。
白いシャツを着た女性が、スクリーンの前に立っていた。
数式の説明をしていた。静かな声だった。
私はその映像を見た。それ以上のことは書かない。
壁のカレンダーを見た。
七月。
氷雨から四ヶ月以上が経っている。
世界は今も、人類の歴史上最大の建設プロジェクトを動かしている。
七十万人が動いている。
高度五万キロで、ロボットたちが黙々と作業を続けている。
私はここで、グラスを磨いている。
どちらが正しいかは、問いとして成立しない。
そもそも正しさで測るものではない。
ただ、引き出しの中の名刺のことを、毎夜考えていた。
それだけを書く。
時刻: 三日後の朝
場所: バー「ステラリウム」、開店前
開店準備をしていたら、扉が開いた。
女性だった。
「すみません、まだ営業前ですが」
言いかけて、私は止まった。
「……洋子さん」
桜井洋子。
別の研究会で知り合った天文物理学者だ。
十年前、観測データ解析で共同研究をしていた。
深宇宙サーベイの補助データを私が処理し、彼女がそれを理論的に解釈した。
会議室の外の廊下で、よくコーヒーを飲んだ。
議論が長引いた夜は、そのままデータを見続けた。
夜中の二時に「この波形、どう思いますか」と聞かれた記憶がある。
私は答えた。
それが合っていた。
そういう仕事をしていた。
その後、学界を去った私は連絡を取らなくなった。
こちらから切った。
彼女が今、プロジェクト・アセンションの中核にいることは、ニュースで知っていた。
天文物理学者が世界を救っている、という話を、私はカウンターの向こうで何度も聞いていた。
「お久しぶりです」
洋子がカウンターに座った。
私はコーヒーを淹れた。深煎り、ブラック。
好みを覚えていた。
なぜ覚えているかについては、書かない。
「ありがとうございます」
洋子はそれを一口飲んだ。
目を閉じて、少しだけ止まった。
それから、開いた。
変わっていない部分と、変わっている部分があった。
その両方を確認するのに、私はしばらくかかった。
何を感じたかについては、ここでは書かない。
「浩から頼まれました。あなたを説得してほしいと」
「聞いた」
「でも、私自身にも頼みたいことがあって来ました」
「何を」
「量子メモリーの残り〇・三%の解読支援です。あなたのデータ解析のスキルが必要です。私が必要だと思いました」
私は黙って聞いていた。
洋子は続けた。
「あなたが科学を諦めたのではない。科学があなたを諦めただけです。でも今、科学は...人類は...あなたを必要としています」
私は、その言葉の内容よりも、洋子が「私自身が必要だと思った」と言ったことを聞いていた。
その一点だけを。
浩は「組織が必要としている」と言った。
洋子は「私が必要だと思った」と言った。
その違いを、私は考えた。
ずいぶん長い間、考えた。
それ以上は書かない。
洋子は立ち上がった。
「考えてください」
帰っていった。足音が路地へ消えた。浩が帰った時と同じ方向に。
私は一人でコーヒーを飲んだ。
カップの中の黒い液体が、揺れてからゆっくり静まった。
窓の向こうに、朝の光が差し始めていた。
夜空はもうない。星も見えない。
代わりに、薄い青がある。
引き出しを開けた。
名刺を取り出した。
表を向けた。
文字が見えた。
...なぜ決意したか、について、私はここで書かない。
翌日、浩に連絡した。
「話がある。来られるか」
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