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氷雨の黙示録  作者: 唯野眠子
第6章-バベルの塔
33/34

第6-4話 言葉を超えて

時刻: 6月初旬 深夜 午前2時19分

場所: 中央棟、共同作業室B

壁一面のスクリーンに、ロボット建設区間のデータが広がっていた。

到達高度。接続精度。制御遅延の実測値。温度分布。振動パターン。数百のパラメータが、リアルタイムで更新されている。

第一基:47,823メートル。第二基:47,201メートル。全12基が、それぞれのペースで伸び続けている。

浩は一人でいた。

コーヒーが冷めていた。いつから冷めているか、分からない。

机の上のカップに触れてみると、室温と同じになっていた。2時間以上は経っている。

このところ、深夜が続いている。

管制室のデータが気になって眠れない夜が増えた。

問題があるわけではない。全12基とも、建設は順調に進んでいる。

電波干渉の問題も解決した。ロボットは問題なく動いている。

見ていないと落ち着かない──という感覚でもなく、ただ見ていたい、という感じに近い。

そして、誰かと見ていたい。

データの中に、何かがある。パターンがある。そのパターンを読み解くことが、単純に面白い。

浩は高度35,000メートルから40,000メートルの区間のデータを見ていた。ロボットの制御精度が、他の区間より0.03%低い。設計値内だ。問題ではない。しかし、なぜこの区間だけ低いのか。

気圧か。温度か。あるいは、その両方の相互作用か。

「まだ起きていると思いました」

ドアが開いた。

洋子がコーヒーを二つ持って立っていた。

「洋子さん」

「データを見ていたら、浩くんのログイン記録が出ていました。午前0時から、ずっと」

「気になることがあって」

「私もです。だから来ました」

洋子が浩の向かいに座った。コーヒーを一つ置いた。湯気が立っている。

淹れたてだ。


時刻: 午前2時30分

場所: 同上

「何を見ていたんですか?」

「高度35,000メートルから40,000メートルの区間のデータです。ロボットの制御精度が0.03%低い。設計値内ですが、理由が気になって」

浩が画面を指した。洋子は自分の端末を開いた。

二人は、それぞれの画面を見ながら、並行して考え始めた。話しているのか独り言なのか、境界が曖昧なまま言葉が流れ出す。

洋子は自分の端末で、大気の熱力学モデルを開いた。浩はロボットのアームの振動データを引き出した。

「ロボットのアームの振動が...35,320メートル付近から乱れている」

浩が低く言った。

「乱れ方のパターンが不規則じゃない。周期がある。慣性モーメントの計算ミスか? いや、違う。構造全体の共振が、どこかに逃げていないんだ」

画面の波形を見ながら、独り言のように続ける。頭の中で組み立てながら、声が漏れているだけだ。

洋子は別の画面を開いていた。大気の熱力学モデルを解き直している。指が止まる。

「原子レベルの熱拡散率が...設計値より0.03%高い。この区間の境界層で、対流抑制が起きている」

「それが、マニピュレーターの粘性に影響しているの?」

自分への問いかけだった。隣に浩がいることを、意識していないような声だった。

「熱の問題か...」

浩の声がした。

洋子は顔を上げなかった。浩も画面から目を離さなかった。

「なら、物理ラッチに――」

浩がカーソルを動かした瞬間だった。

洋子の画面から、数式がスライドしてきた。浩が手を伸ばそうとしていた設計変数の欄に、「熱拡散率」の値が静かに滑り込んだ。

浩は手を止めた。

自分が直そうとしていた箇所が、すでに修正されていた。

浩が「現象」を掴み、洋子が「原因」を特定した。

二人の思考が、モニターの上で火花を散らすこともなく、静かに、しかし光速で融け合っていく。

浩はマウスを動かした。洋子のプログラムがそれに応答した。

洋子がコードを書き換えると、浩の設計図が生き物のように形を変えた。

「──排熱スリットを兼ねたトポロジー設計を流し込む」

洋子が言った。浩の言葉が終わる前に始まっていた。

「浩くん、ジョイントの3Dモデルを開放して」

「もう開けている」

浩はすでに、形状を動的に変形させながら答えた。

「スリットの角度は、君の計算した熱流体のベクトルに合わせる。ラッチの締め付けトルクを、排熱サイクルとフェーズロックさせればいいな?」

「...ええ。制御アルゴリズムの変数を今、そっちの設計変数にリンクさせたわ。動かしてみて」

浩がパラメータを入力した。

3Dモデルが動く。形状が変わる。洋子のプログラムが、その変化を即座に読んで制御値を書き換える。

「応答速度は」

「0.031秒。改善前の7分の1」

「振動の位相は」

「もう揃っている。ラッチのロック機構と、排熱サイクルの周期がフェーズロックした」

二人は、しばらく画面を見た。

数値が安定していく。0.03%の誤差が、画面の上で静かに消えていった。

制御精度が基準値に戻っている。全区間でほぼ均一になっている。35,000メートル付近の特異点が、消えた。

その中に、作業とは別の何かがある。

だが、それを言葉にはせず、ただ画面を見ていた。


時刻: 午前3時15分

場所: 同上

問題の核心が見えてから、二人の作業は分岐した。

浩は「剛」で解こうとした。

高度35,000メートルで気圧と温度の変化に耐えられる、新しいラッチ構造の設計を始める。

振動に負けない締め付け機構。力でねじ伏せる器。金属の形が、浩の頭の中で組み上がっていく。

ラッチを太く、重く、硬く。振動が来ても動じない。揺れを力で押さえ込む。

洋子は「柔」で解こうとした。

振動を逃がすための制御アルゴリズムを書き換える。硬く抵抗するのではなく、流体のように変動のリズムに乗る。数式の中に、柔らかな回路が生まれていく。

振動に逆らわない。リズムに乗る。エネルギーを殺さず、流す。

それぞれが、それぞれの解に向かって作業し、浩がラッチ構造の最終形状を出力した。

洋子が制御アルゴリズムの最終版を統合し、二つのデータが、一つの画面に重なった。

浩は画面を見た。

浩の作った「新しいラッチ」の形状変化のリズムが、洋子の書いた「流体アルゴリズム」の変動周期と、完璧に位相が合っていた。

フェーズ・ロック。

力で抑えるラッチと、力を流すアルゴリズムが、同じ周波数で振動している。一方が収縮するとき、他方が膨張する。一方が固まるとき、他方が解放する。まるで呼吸のように。

打ち合わせはなかった。設計の方向性を話し合ったこともなかった。それぞれが別の問題を解いていたはずだ。

しかし、出てきたものは、最初から一つの生命体として設計されたかのように噛み合っていた。

僕がハードを作り、彼女がソフトを入れる──浩はそう思った。

その二つは最初から一つの生命体として設計されていたかのように噛み合う。

器と魂。形と流れ。どちらが先にあったか、分からない。しかし、合わさった瞬間、それは完全になる。

「修正完了」

浩が言った。

それから、少し間があった。

「...一言も説明していないのに、なぜ僕が欲しかったラッチの強度が分かった?」

洋子が手を止めた。

「あなたが線を引いた瞬間に、そこに流れるべきエネルギーの形が見えたから」

洋子が答えた。

「...それ以外に、あり得ないでしょう?」

浩は、その言葉を聞いた。

それ以上言えることはなかった。

浩がコーヒーを飲んだ。もう冷めていた。しかし、不思議と気にならなかった。

「不思議だな」

「ええ」

それ以上は続けなかった。どちらも。この現象に名前をつけようとしたことは、何度かあった。

しかし言葉を当てはめた瞬間に、何かが違うと感じた。

だから、名前はつけない。

二人は、そのまま作業を続けた。


時刻: 午前4時30分

場所: 同上、会話の途中で

作業の合間に、浩がふと言った。

「子供の頃から、こういう時間が好きだったんです」

「こういう時間?」

「深夜に、誰かと何かを考えている時間。大学院で、祖母の研究を引き継いで最初に頭を悩ませた夜も、こんな感じでした」

洋子が手を止めた。

「お祖母様の研究、ですか」

「量子神経動態学です。意識がなぜ存在するか、という問いを科学にしようとした」

「記録は残るが、対話は消える」

洋子が言った。

浩は、その言葉を聞いた。今まで自分が考えていたことを、そのまま言われた感覚があった。言葉にするより先に、伝わっていた。

「...よく分かりましたね」

「浩くんが祖母さんの話をする時、毎回、その続きで止まるから」

浩は少し間を置いた。

画面を見た。

35,000メートルの区間が、安定している。振動が消えている。

やがて浩が言った。

「洋子さん。君の目には、このタワーは『数式の波』に見えているんだろう?」

洋子が画面から顔を上げた。少し、考えた。

「...数式の波、かしら。実体があるようには見えない。ただ、宇宙が自分を記述しようとしている、長い一文のように見えるわ」

浩はそれを聞いた。

「僕には、宇宙を刺し抜くための針に見える」

浩が言った。

「宇宙の構造を貫いて、その外側へ向かうための道具。人類が初めて宇宙の外を目指す足がかり。長い一文の中に針を通すことで、その一文そのものを書き換えようとしている」

「...全く逆ね」

洋子が静かに言った。

「そうだ。僕たちは同じものを見ているようで、全く逆側から触れている。...なのに、なぜ僕が線を引こうとした場所に、君はいつも既に『点』を置いているんだ?」

洋子は答えなかった。

答えられなかった、というより、答える必要がなかった。

浩も、答えを求めていなかった。

問いを出した瞬間、その問いが答えそのものだと、浩には分かっていた。

続きは来なかった。浩も言わなかった。

異なる道を歩んできた二人が、なぜ今、同じ場所にいるのか。説明はない。

しかし、ここにいる。同じ画面を見て、同じ問題を考えている。

そして同じタワーを、全く逆の方向から見ている。

それでも、手が触れようとした場所は同じだった。


時刻: 午前5時00分

場所: 人工島西端、海辺デッキ

「少し、外に出ませんか」

洋子が言った。

二人で、建物の外に出た。

夜明け前の空気だった。

潮の匂い。波の音。風が吹いている。暖かい風ではないが、冷たすぎもしない。6月の太平洋の夜明け前は、ちょうどいい温度だ。

東の空がわずかに明るくなり始めていたが、西はまだ星が出ていた。

軌道エレベータの第一基が、空に向かって伸びているのが分かる。その上端は見えない。どこかで夜の暗さに溶けている。しかし、確かにそこにある。昨日より少しだけ高く。

洋子がふと言った。

「私たちは...一体、何なんでしょうね。この感覚は、既存の語彙には存在しない」

浩は、その言葉を聞いた。

「ああ。世間なら『最高のパートナー』と呼ぶだろう。だが、そんな安っぽい言葉では説明できない。今この瞬間、僕たちが宇宙の法則の一部を書き換えているという事実は」

答えが出ないまま、二人はそこに立っていた。

波の音だけが続いた。遠くで、海鳥が鳴いている。夜が明ける前の、静かな時間だ。

しばらく、波の音だけがあった。

東の空がほんの少し白み始めていた。星の数が減っている。

やがて浩が、第一基のケーブルを見上げながら言った。

「僕たちが何なのかは、まだわからない」

低い声だった。しかし、迷いのない声だった。

視線は空に向いていた。暗闇に溶けるケーブルの先を、見ようとしていた。

「...だが、そんなことはどうでもいい。この『何か』をエンジンにすれば、人類が4億年かけても辿り着けなかった場所に、僕ら二人なら数年で行けると思わないか?」

浩の目が、夜明け前の空に向いていた。針のように伸びるケーブルを、見上げていた。

その目にある光は、野心というより...確信だった。

洋子は、少し息を呑んだ。

浩の言葉が、胸の奥で何かに触れたのだと分かった。

それから、確信を持って言った。

「...ええ。宇宙そのものが、私たちの味方をしているような気がするわ」

東の空が、少しずつ明るくなっていく。星が消えていく。水平線の向こうから、太陽が昇ろうとしている。

「戻りましょうか」

「そうですね」

二人は、建物に戻った。背後で、波の音が続いていた。


時刻: 翌日 午前9時

場所: 中央棟管制室

「今週の建設効率、先週比で20%向上です」

リン・シャオフェイが報告した。

「ロボット制御精度の改善が効いています。気圧勾配境界領域のモデル修正が、ほぼ全区間の安定性に寄与しました」

20%。

浩はその数値を見た。

(これは流石に出来過ぎではないのか?)

と思ったが、口には出さなかった。

『辿り着けなかった場所に行く』為には、これで良いのかもしれない。

昨夜の作業の結果が、数字に出ていた。0.03%の誤差を修正しただけで、全体の効率が20%上がる。

それは、その誤差が他の区間にも影響を与えていたことを意味する。

しかし、管制室を支配する空気は、それとは違った。

荒木が、隣の技術者に何かを言っていた。技術者が画面を見て、黙った。その静まり返り方が、いつもの「問題がない」という静けさではなかった。

「昨夜の修正ログを見たか」

荒木が小さな声で言った。浩に向けていない。

「浩さんの設計変更が02:14:05。洋子さんの計算反映が02:14:05。...コンマ以下の秒数まで、完全に一致している」

「...打ち合わせをした記録はない」

「ログがおかしいんじゃないのか?間違った箇所を参照してるとかさ」

別の技術者が、ログを見ながら言った。

「二人は背中合わせで、別々の画面を見ていたはずだ」

誰も何も言わなかった。

モニターの前に立っている技術者たちが、静まり返っていた。報告書を見る者、ログを見つめたまま動かない者、視線を外して床を見る者。

やがて誰かが言った。声が少し、低かった。

「協力しているんじゃない。あれは...一人の神が二つの腕を使って作業しているんだ」

誰も笑わなかった。

「...俺たちは、人間じゃない何かを相手にしているのかもしれない」

管制室に沈黙が広がった。

誰かがログを閉じた。誰かがコーヒーに手を伸ばして、飲まずに置いた。

荒木だけが、そのまま画面を見ていた。

浩は、その会話を耳に入れながら、次のデータを確認していた。

画面の隅に、洋子からのメッセージが入った。

「昨夜の作業、効果が出ましたね」

「はい。ありがとうございました」

「お疲れ様でした、浩くん。今夜も、また何か出てきたら連絡します」

「こちらこそ、お願いします」

どちらも喜びを言葉にしなかった。しかし、その日の作業のペースは、前日より明らかに速かった。


管制室の窓から、第一基のケーブルが見える。

昨夜見た時より、少しだけ高く伸びている。目に見えるほどの差ではない。しかし、確実に伸びている。

浩は、その線を見ていた。

今この瞬間も、数百台のロボットが動いている。浩の設計と洋子の制御が噛み合ったまま、静かに動き続けている。

荒木が隣に来た。

「Prof. Hiroshi、次のフェーズの準備、始めてもいいですか」

「はい。どうぞ」

「では、静止軌道到達後の計画を詰めていきます」

荒木が資料を開いた。静止軌道以降の建設計画。カウンターウェイトの配置。月軌道までの最終区間。

8月末には到達する。第一基が最初に到達し、続いて他の11基が順次到達していく。

そこまでに、まだいくつかの問題が出るだろう。

しかし、解決できる。

昨夜のように、洋子と一緒に考えれば。

浩は、そう思った。

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