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氷雨の黙示録  作者: 唯野眠子
第6章-バベルの塔
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第6-5話 廃墟からの声

時刻: 6月中旬 深夜

場所: シリアの地下施設

薄暗い部屋だった。

発電機の音が低く響いている。コンクリートの壁に、その振動が伝わっている。外の気温と乾燥した空気。地下十メートル。地上と完全に切り離された空間だった。湿気がなく、かえって冷える。

ザカリア・ベン=ユセフは、タブレットを見ていた。

画面には、十二本のタワーが映っている。世界各地の建設現場のライブ映像だ。一番左は太平洋の人工島。その隣はインド洋。アフリカ大陸の東海岸。南米のアマゾン河口。南極圏に近い島。どの映像も、タワーが空に向かって伸びている。

そこに。

人類が、天に塔を築いている。

ザカリアは、何も言わなかった。しかし、手は動いていた。

タブレットの画面に、計算式を叩き込んでいた。スクロールしては止まり、数値を修正し、また先を展開する。その手の動きは、タワーの映像を流し見しながらも、止まらない。

スクリーンの光が、暗い部屋を照らしている。その光の中に、自分の手が見えた。かつては実験室で方程式を書いた手だ。論文の草稿を修正した手だ。子どもたちの頭を撫でた手だ。

かつて数百万人が自分の言葉を待っていた。今、この部屋に自分の声を聞く人間は、二十人だ。

数百万から二十へ。その変化を、ザカリアは数字として認識している。感傷的に受け取ってはいない。ただ、数字として。

タブレットの光が、コンクリートの壁を照らしている。

タワーが、また少し伸びている。昨日よりも。おとといよりも。毎日少しずつ、確実に伸びている。

ザカリアは計算を続けた。

発電機の音だけが続いた。


時刻: 同上

場所: 同上

ザカリア・ベン=ユセフは、かつて物理学者だった。

ヨルダン大学で量子力学を研究した。博士号を取得した。素粒子の振る舞いを数式で記述することに、本物の喜びを感じていた。自然界の法則が数式に収まる瞬間。理論と実測が一致する瞬間。あの感触を、ザカリアは今でも覚えている。粒子は嘘をつかない。数式は裏切らない。そこに、ある種の神聖さを感じていた。

家族がいた。妻のラヤーン。長男のカリム、八歳。次男のイヤード、六歳。アンマンの郊外に家があった。穏やかな日常があった。土曜日には家族でコーニッシュ沿いを歩いた。ラヤーンはコーヒーが好きだった。カリムはサッカーをやっていた。イヤードは父親の本棚から勝手に本を取り出して、絵だけを眺めていた。将来は、自分のような科学者になると思っていた。

氷雨が降り始めた日、ザカリアは大学の会議室にいた。

気候変動の影響を議論する、国際シンポジウムの分科会だった。気象学者たちが、降水量の変化について発表していた。グラフが映し出された。数十年のデータが並んでいた。ザカリアはその場にいた。数式を見ていた。議題は科学的に正確だった。しかし、部屋の中の誰も、その数字が三時間後に現実になるとは思っていなかった。

三時間後、洪水の知らせが来た。

自宅の地区が、排水路の容量を超えた水に沈んだ。妻と子どもたちは逃げる時間がなかった。

ザカリアは、その後の記憶がうまくつながらない。

葬儀があった。誰かが手を握った。何日かが過ぎた。研究室には戻れなかった。方程式を見ると、妻の声が聞こえた気がした。

やがて、言葉が来たのではなく、計算が来た。

ある夜、熱力学の教科書を開いた。

閉じた系におけるエントロピーは、常に増大する。秩序は自発的には生まれない。秩序を作ろうとすれば、系の外部でより大きな無秩序が生まれる。

それは、物理の基礎だった。しかし、その夜のザカリアには、全く別の意味を持って響いた。

浩たちが人工島に建設しているタワー──局所的な秩序の極致。数万キロメートルに及ぶ精密な構造体。そのために消費される地球のエネルギー。その計算を、ザカリアは始めた。

タブレットに、計算式を打ち込んだ。

タワー建設に消費されるエネルギー量。そのエネルギーを生産するために地球環境が支払うコスト。そのコストが誘発する大気変動の増幅係数。

数字が並んでいく。

「君はエントロピーの法則を無視しようとしている」

ザカリアは静かに言った。誰も聞いていない部屋で、浩に向けて語りかけた。浩が誰であるかを、まだ知らなかった。しかし、あのタワーを設計している人間に向けて、確かに語りかけていた。

「局所的な秩序を築くために、この惑星全体の負のエントロピーをどれだけ消費しているか理解していないのか」

文明の急激な改造は、物理的な反動を生む。大気のエネルギー収支を変え、海流のパターンを変え、生態系の連鎖を変える。

しかし、それだけではない。

人間という種には、変化の速度に対して、生物学的な適応限界がある。それを超えた変化は、精神をかえってより原始的な状態へと押し戻す。歴史が証明している。急速な工業化の後に必ず反動が来た。

そして今、人類は宇宙進出という最大の変化を、最短の時間で実現しようとしている。

ザカリアは計算書の余白に書いた。

「軌道エレベータは、人類を宇宙に解き放つ翼ではない。人類という種を物理法則の報復に晒すための、避雷針だ」

神への畏れ、という言葉を使わなくても、この結論に辿り着く。

物理学の言葉で。

熱力学の言葉で。

バベルの塔の話を、ザカリアは子供の頃から知っていた。かつては神話として読んでいた。今は違う。エントロピーの帰結として読んでいる。秩序を無限に積み上げようとする人間の傲慢が、必ず物理法則の反動を招く。聖書の著者がその法則を知っていたかどうかは関係ない。正しい結論には、正しい到達経路が複数ある。

それが、ザカリアの確信だった。宗教的な狂信ではない。数式の末尾に書かれた、冷静な帰結だ。

だから、止めなければならない。

「止めなければならない」

「...そして誰かが、憎まれ役となるそれを引き受けなければならない」

ザカリアは低く言った。

今は誰も聞いていない。自分の言葉を誰かに向けるより先に、自分の内側に向ける。そういう習慣になっていた。

間違っているとしても、それはザカリアにとって疑いがない。

間違っていたとしても、もう引き返せない。

タブレットの画面に、また目を向けた。タワーが伸びている。毎日伸びている。誰にも止められていない。


時刻: 翌日、幹部会議

場所: 同上

「電波干渉工作が無効化されました」

情報担当の幹部が報告した。

「彼らは制御経路をケーブル内部に移行させました。外部からの電波が届かない構造になっています」

ザカリアは答えなかった。

部屋には六名がいた。全員、神の剣の残党だ。第一部の戦いで組織の大半が失われた後、残った中でも特に忠実な者たちだ。かつてはその十倍、百倍の組織があった。今は、この六名だけが残っている。

ザカリアは別の画面を凝視していた。IGDEの対応パターンを記録したログだ。電波干渉を開始した時刻、システムが検知した時刻、対抗措置が実施された時刻。数字が並んでいる。

「ザカリア? 聞いていますか」

「聞いている」

「では、失敗をどう受け止めますか」

「失敗?」

ザカリアがゆっくり振り返った。

「いや、成功だ」

幹部たちが顔を見合わせた。

「これで、アトラスがどの周波数帯のノイズを優先的に排除するか、そのアルゴリズムの輪郭が解析できた」

ザカリアがモニターに近づいた。

「彼らは壁を厚くしたつもりだろうが、その厚みがそのまま、我々が突き破るべき脆い箇所を教えてくれている。対抗措置を実施するということは、そこに脆弱性があることを自ら告白しているのと同じだ」

「具体的には?」

「ケーブルへの移行は、柔軟性の喪失を意味する。固定経路は、予測可能な経路だ。予測可能なものには、予測可能な干渉が効く」

ザカリアがデータを指した。

「見ろ。制御信号の切り替えは、確認工程の直後に行われている。ロボットが動作を一時停止する、その2秒の窓。毎回、同じタイミングで。規則正しく。完璧に」

部屋が静まった。

「彼らは効率を求めて、パターンを作ってしまった。パターンは、突破口だ」

「つまり、次は?」

「目先の妨害ではない。建設システムそのものが持つ、構造的な宿命を突く。それが、最後の一手だ」

ザカリアは画面から目を離さなかった。

「ただ、一つのものを手に入れる必要がある。準備が整ったら話す」

誰も何も聞かなかった。

その後、旧信者ネットワークへの接触が始まった。資金調達の試み。特定の物質の入手を、複数のルートで依頼した。その「何か」は、部屋の中でもほとんどの人間に知らされなかった。

ザカリアだけが知っていた。

そして、その「何か」が何であるかを知っていれば、誰も賛成しなかっただろうということも、ザカリアは知っていた。

だから、言わなかった。


時刻: 同日 深夜

場所: ザカリアの執務室

幹部たちが去った後、ザカリアは一人になった。

地下の静寂は、墓石の下のそれに似ていた。机の上には、一冊の使い古されたクルアーンと、旧式のタブレット、そして一枚の写真はなく、データの奥底に暗号化された「記録」があるだけだった。

ザカリアは画面を開く。

十年前のコーニッシュ沿い。

妻のラヤーン、息子のカリムとイヤード。太陽の下で笑う彼らの姿は、デジタル符号の羅列に過ぎない。しかしザカリアの目には、それが「かつて存在した完璧な熱平衡」に見えていた。

「科学が守れなかったのではない」

ザカリアは、低く、呪詛のように呟いた。

かつての自分なら、ここで自問自答しただろう。科学の警告を無視した政治が悪いのか、それとも偶然の天災だったのかと。しかし、今の彼は違う。

「科学という名の『加速』そのものが、お前たちを焼き尽くしたのだ」

彼は画面の中の息子たちの瞳を見つめる。

氷雨は偶然ではなかった。人類が分不相応なエネルギーを消費し、地球という閉じたシステムに過剰な負荷をかけた結果生じた、必然的な「排熱」だったのだ。

浩たちが作っているタワーも同じだ。重力を否定し、宇宙へ逃げようとするその行為は、地上に残される何十億もの人間を、さらなるカルト的な「摩擦」の中に置き去りにする。

「...本当に、そうか?」

その言葉が口をついて出た。だが、それは迷いの言葉ではない。

自分自身の論理に「穴」がないかを確認する、科学者としての冷徹な検証。

「救いなど、最初から存在しない。浩が提示しているのは『選別』であり、私が提示しているのは『安らぎ』だ。どちらが残酷かなど、問うまでもない」

ザカリアはクルアーンを手に取った。

彼が読むのは、審判の日について記された箇所ではない。

万物が土に還り、全ての動的な混乱が静止へと向かう「秩序の回復」についての記述。

それは彼にとって、全てが等しく冷えていく死の美学――と完全に同義だった。

「塔が伸びるほど、その根元には絶望という名の熱が溜まる。それはいつか爆発し、全てを無へと帰すだろう。浩、君が積み上げた偽りの秩序を、私が『自然な崩壊』へと導いてやる。それが、この星に対する唯一の誠実さだ」

ザカリアは家族の記録を閉じた。

感情は、まだ消えていない。

だが、それを優先する猶予は自分にはないと、ザカリアは知っている。

彼は再び、建設中の12本のタワーのライブ映像を見つめる。

その光は、彼にとって「宇宙を汚すノイズ」でしかなかった。

「ラヤーン。まもなく、全てが静かになる。君たちが還った、あの静寂の中へ」

その言葉は祈りというより、巨大な崩壊を導くための、最後の方程式を解く仕草だった。


時刻: 翌日

場所: 同上

一人の部下が言った。

元学生だった彼は、かつてザカリアが教壇で説いた「調和」を信じてここに来た。だが、目の前の現実はあまりに暗く、遠い。

「ザカリア、正直に言います...もう、手遅れではないですか」

地下室の湿った空気が、彼の声を重く沈ませる。

「タワーはもう雲を超えた。世界はあちらを選んだ。私たちは、ただのテロリストとして、この穴ぐらで朽ち果てるだけではないのでしょうか」

ザカリアは答えなかった。

彼は手元の古い真鍮製のコンパスを見つめていた。

それは彼が物理学者だった頃から持っている、重力に従うだけの単純な道具だ。

やがて、ザカリアはゆっくりと立ち上がった。

発電機の唸り音が、まるで彼の内面から響くBassのように部屋を支配する。

「...お前の兄は、死んだのではない」

その声は、囁きに近いほど低かったが、壁に反射して部下の鼓膜を直接震わせた。

「彼は、浩たちが作った『偽りの未来』という暴力的な摩擦に巻き込まれ──削り取られただけだ」

ザカリアは部下の前まで歩み寄り、その瞳を覗き込んだ。そこには怒りではなく、底なしの慈愛と、その奥に潜む狂気が同居していた。

「あいつらは星へ行こうとしている。だが、そこにあるのは光ではない。絶対零度の虚無と、死んだ岩塊の墓場だ。あいつらは、生命のゆりかごであるこの重力を『足枷』だと呼び、神が定めた『有限』という名の安らぎを捨てようとしている」

ザカリアの手が、部下の震える肩を掴んだ。

「思い出せ。なぜ我々は、一日を愛おしいと思う? それは、必ず夜が来るからだ。なぜ一輪の花に涙する? それは、明日には枯れると知っているからだ。命に終わりがあるからこそ、我々の存在には質量がある。浩が築いているのは、死を忘れた機械の墓標だ。あんなものが完成すれば、人類は永遠に終わることのない、魂なき運動へと墜落する」

「私はあいつらから、この聖なる地上を奪還する。重力に縛られ、泥にまみれ、命を使い切る権利を、人類に返すのだ。...私と共に来い。宇宙を夢見る傲慢な魂たちが、加速の果てに自滅する瞬間を、特等席で見せてやろう。その時、お前の兄の叫びは、ようやく宇宙の摂理として完結する」

「たとえその過程で、私自身が今の連中が綴る歴史の中に、最悪の名で記録されようとも、だ」

部下は言葉を失った。

ザカリアの言葉は、論理的な正解なのか、それとも、抗いようのない「物語」なのか。

「...はい」

部下は、絞り出すように答えた。

ザカリアの声は、完成された一つの「世界の理」としてそこに存在していた。

「行っていい。計算の続きは、私がやっておく」

一人になったザカリアは、タブレットの画面に指を走らせる。

十二本のタワー。それは巨大な熱の源泉だ。構造が高度化し、秩序を増すほど、その周囲には莫大なエントロピーが排出される。

「浩。君が積み上げたその美しさが、そのまま君自身の首を絞める絞縄になる。熱力学の第二法則からは、神ですら逃げられはしない」

かつての自分なら、あの構造の美しさに震えただろう。

数式としては、あれは完璧に近い。

だからこそ、危険なのだ。

ザカリアの口元に、氷のような微笑が浮かんだ。

それは、自分が引き受ける役割を受け入れた者の表情だった。


時刻: 同日(人工島)

場所: 中央棟、セキュリティチーム

「成分の特定が取れました」

サラが報告した。

「取得ルートを追う過程で、現物サンプルの分析に成功しました。塩素系化合物と特定の有機物の組み合わせです。単体では無害ですが、組み合わせ方次第で高い毒性あるいは爆発性を持ちます」

浩は、その報告書を見た。

「成分が分かったなら、何に使われるか特定できますか」

サラが少し間を置いた。

「それが問題です」

マリアが画面の向こうから口を開いた。

「データ上は、その物質は『無害な触媒』として移動しているわ。サラが現場で抜き打ち検査をしても、容器の中身は常に空か、別の物質にすり替えられた後」

「どういうことですか」

「彼らはIGDEの正規のサプライチェーンに侵入して、電子タグを書き換えている。物質の『名前』だけをロンダリングしているの。システムの死角で」

マリアが続けた。

「成分は分かった。でも、その成分を使って何を作ろうとしているか──レシピが巧妙に偽装されている。接続先の業者ごとに、注文の組み合わせが微妙に変えてある。一つ一つを見ると無意味に見えるが、全部を繋げると一つの目的が見えてくる、という構造ね」

「全部を繋げると?」

「まだ、最後のピースが見えていないわ。だから、泳がせている」

浩は少しの間、考えた。

「物質の動きを追い続けてください。物理的なすり替えが行われている結節点が必ずある。そこを特定することが優先です」

「当然です。サラ、引き続き」

「はい」

それだけが、浩の判断だった。

動くには、まだ早い。

しかし、見逃してはならない。

廊下に出た浩は、一瞬立ち止まった。

成分は分かった。しかし、意図が分からない。

レシピが分からなければ、何が来るか予測できない。

ザカリアは、自分たちが追っていることを知っているはずだ。

それでも動いている。

知られていることを計算した上で、動いている。

それは、今更に浩の背筋を冷やした。

窓の外に、第一基のケーブルが見える。今日も伸び続けている。

そして、どこかで、ザカリアがそれを見ている。

あのタワーを、自滅するための避雷針と呼んで。

同じものを、全く異なる意味で見ている二人の人間が、同じ時刻に存在している。

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