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氷雨の黙示録  作者: 唯野眠子
第3章-神の思し召し
19/29

第3-7話 分裂の兆し

時刻: 2月7日 午前8時00分

場所: 国連本部、特別控室

浩と洋子は、討論会開始の二時間前、控室で最終準備をしていた。

窓の外には、既に数千人の群衆が集まっていた。IGDE支持派と教団支持派が、それぞれプラカードを掲げている。警察の機動隊が、両派の間に立ち、衝突を防いでいた。

「すごい人数ですね」

洋子が呟いた。

「世界中が注目しています」

浩が答えた。

マリアが控室に入ってきた。

「お二人とも、準備はいいですか?」

「はい」

「セキュリティの最終確認です。会場内に、金属探知機を通過した参加者のみ入場。ザカリアと五名の側近、全員がセキュリティチェックを通過しています。イブラヒム師は既に会場におられます」

マリアは、二人を見つめた。

「これから、人類史上最も重要な討論が始まります。お二人を、信じています」


時刻: 午前10時00分

場所: 国連総会議場

議場は、満席だった。各国代表、メディア関係者、そして厳選された一般参加者、合わせて約千五百名が着席している。さらに、この討論会は世界二百カ国以上に生中継されている。推定視聴者数は、二十億人。

国連事務総長が、開会を宣言した。

「本日、我々は歴史的な討論会を開催します。科学と信仰の対話。人類の未来をかけた議論です」

参加者が紹介された。IGDE代表:堀川浩博士、桜井洋子博士。天啓の教団穏健派代表:イブラヒム・アル=ファディル師。天啓の教団過激派代表:ザカリア・ベン=ユセフ師。

ザカリアの登場に、会場は騒然となった。支持者からは歓声。反対派からは怒号。

「討論は、三部構成です。第一部:各代表からの基調発表。各十五分。第二部:相互討論。六十分。第三部:質疑応答。三十分」

「それでは、第一部を開始します。まず、堀川博士」

浩が演壇に立った。

深呼吸をしたつもりだったが、肺の奥まで空気が入らない。

眼鏡を直す指が、わずかに震えていることに気づき、彼は一瞬だけ唇を噛んだ。

——ここで間違えれば、世界が終わる。

そう思った瞬間、彼はようやく口を開いた。

「皆さん、ザカリア師は、軌道エレベータについて多くの懸念を表明しておられます」

浩は、冷静に話し始めた。

「しかし、それらの懸念の多くは、物理学的な誤解に基づいています。一つずつ、説明させてください」

浩は、最初のスライドを表示した。

地球と軌道エレベータの構造図。

「第一に、『地球の自転が止まる』という主張について」

「ザカリア師の支持者の中には、『巨大な塔を建てることで地球の重心が狂い、自転速度が変化して異常気象や大地震が起きる』と主張する方がいます」

浩は、図を指し示した。

「しかし、物理学的に言えば、軌道エレベータは『置物』ではなく『振り子』のバランスです」

「静止軌道上のステーション。そして、その外側のカウンターウェイト。この二つが遠心力で釣り合っているため、地表にかかる荷重は実質的にゼロに制御されます」

浩の声が、力強くなった。

「むしろ、この安定した構造物を利用することで、氷雨の影響で不安定になった地殻の微細な変動を観測し、抑制することができます」

「軌道エレベータは、『地球の安定軸』として機能するのです」

次のスライド。大気の流出に関するシミュレーション。

「第二に、『大気が宇宙へ流出する』という主張について」

「『ケーブルが成層圏を突き破ることで、そこから地球の大気が宇宙空間へ漏れ出し、人類は窒息する』という恐怖を煽る声があります」

浩は、データを表示した。

「しかし、大気が宇宙へ流出しないのは、穴がないからではなく、重力が空気を引き止めているからです」

「厚さ数メートルのケーブルが通過する断面積は、地球全体の表面積の十の十二乗分の一...一兆分の一にも満たず、流体力学的に無視できる数値です」

浩は、さらに詳しい図を表示した。

「むしろ、このテザーに沿って設置される磁気シールドが、氷雨によって弱まった磁気圏を補強し、太陽風から大気を守る防壁になります」

最後のスライド。崩壊リスクのシミュレーション。

「第三に、『ケーブルが切断されれば、地球が粉砕される』という主張について」

浩の声が、厳しくなった。

「これは、ケプラーの法則を無視した暴論です」

「静止軌道より上で切断されれば、遠心力によってケーブルは宇宙へ飛んでいきます」

「下で切断された場合も、空気抵抗と軌道速度の減衰により、大半は再突入時の摩擦熱で燃え尽きます」

浩は、会場を見渡した。

「何より、現行のロケット技術では、氷雨を止めるための重機を運ぶのに数千回の打ち上げが必要で、その失敗確率はエレベータの切断リスクより遥かに高い」

「軌道エレベータこそが、最も低リスクで確実な『救済の唯一の回廊』なのです」

会場から、拍手が起こった。

次に、洋子が演壇に立った。

「私からは、『神の警告』という解釈について、客観的な事実をお話しします」

洋子は、氷塊の分析結果を表示した。

化学組成。同位体比率。微小な人工構造物。

「ザカリアさん、あなたが『神の警告』と呼ぶ氷雨について」

洋子の声は、静かだが明確だった。

「私たちが解析した四億年前の探査機の記録には、太陽系が銀河系を公転する中で、約二億五千万年周期で遭遇する『高密度分子雲』のデータが残されていました」

画面に、銀河系の構造図が表示される。太陽系の軌道。そして、暗黒星雲の分布。

「四億年前にも、そしてさらにその前にも、地球は同じ現象を経験しています」

洋子は、探査機の記録データを表示した。

「探査機の記録によれば、今回の氷雨はその『銀河の季節』が巡ってきただけに過ぎません」

「四億年前、人類も科学も存在しない時代から、この氷雨が降ることは物理的に決定されていたのです」

洋子の声が、力を帯びた。

「これは神の怒りではありません。ただの『長い冬』です」

「神が私たちに知性を与えたのは、嵐の前に怯えて平伏すためではなく、冬に備えて家を建て、火を焚く...」

洋子は、会場を見渡した。

「つまり、この軌道エレベータを建設して、雲の上にある太陽の光を取り戻すためだと、私は信じています」

洋子の発表は、感動的だった。

会場から、さらに大きな拍手が起こった。


時刻: 午前10時45分

場所: 同上

次に、ザカリアが演壇に立った。

「堀川博士、桜井博士。科学的な説明、ありがとうございました」

ザカリアの声は、皮肉に満ちていた。

「しかし、あなたたちは重要なことを忘れています」

彼は、会場を見渡した。

「あなたたちは、悪魔の使徒です」

会場が、ざわめいた。

「百九十七万人が死んだのは、あなたたちのせいです! なぜなら、あなたたちが科学という傲慢を広めたからです!」

「そして今、あなたたちは一・二兆ドルを無駄にしようとしている! その金を、飢えている人々に配れば、何百万人が救えますか? でも、あなたたちは自分の夢のために——」

「その点について、意見を挟ませてください」

浩が立ち上がった。

司会者が驚いた。

「堀川博士、これは基調発表の時間です」

「重要な事実誤認があります。今、訂正する必要があります」

浩は、タブレットを操作した。

会場のスクリーンに、映像が表示される。

教団が管理している居住区。テント都市。

そして、リアルタイムのエネルギー供給状況がオーバーレイ表示されている。

「これは、ザカリア師の教団が管理している居住区です」

浩の声は、冷静だった。

「赤い線が、IGDEが提供している電力供給です。青い線が、水の浄化システムです。緑の線が、通信ネットワークです」

画面には、無数の線が居住区に伸びている。

「ザカリア師が何を言おうと、今この瞬間に彼らの命を繋いでいるのは、彼が否定する技術です」

浩は、シミュレーションを実行した。

画面上で、全ての線が消える。

居住区が、暗闇に包まれる。水が止まる。通信が途絶える。

「もし、科学の恩恵が止まったら、彼らは二十四時間以内に飢え、渇き、凍えるでしょう」

会場が、静まり返った。

浩は、さらに別の映像を表示した。

「そして、もう一つ」

画面には、豪華な部屋。食料の備蓄。地下シェルター。

「これは、ザカリア師の側近たちの私邸です」

映像には、側近たちが高級な食事をしている様子が映っている。

「信者からの寄付を私的に流用し、自分たちだけ安全なシェルターや備蓄食料を確保している証拠です」

浩は、ザカリアを見た。

ザカリアの表情は変わらなかった。

ただ、ほんの一瞬だけ——彼の視線が、映像から逸れた。

それは怒りでも軽蔑でもない。

何かを思い出そうとして、思い出すまいとしている目だった。

「ザカリア師、お尋ねします。これは悪魔ではないのですか?」

会場が、騒然となった。

ザカリアは、演壇に立ち上がった。

「これが捏造ではないという証拠は?」

「いいえ」

洋子が立ち上がった。

「これらの映像は、教団内部の協力者から提供されたものです」

「師はこれを知りながら、それをそのままに今に至っていますね」

やはりザカリアには、なんの反応もない。

「もし仮に...」

「そんな不届な話が、捏造でなかったとしても...」

「君のような科学者たちが、自分たちのためにプロジェクトを進めていることに、何か変わりはあるのかね?」

ザカリアが、さらに重ねる。

「あなたたちは、名声が欲しい。歴史に名を残したい」

「全て、自己満足のため。人類を救うという話は嘘。それは揺るがない」

ザカリアの発言には、全くブレはない、ように見えた。

しかし、洋子はザカリアの変化を見逃さなかった。

彼の瞬き。視線の揺れ。声の震え。

準備していた「脳内エコー逆探知プログラム」を走らせる。

ザカリアの過去の声明。音声パターン。発言の矛盾点。

プログラムが、特定の聖典引用パターンを検出する。

「...成功」情報分析官のサラ・チェンが、グッと拳を握りしめながら呟いた。

「捏造か、真実か、水掛け論を続けていても無駄でしょう。ザカリア師、演説に割り込んであなたのお話を止めて申し訳なかった」

浩はそう応じて、イブラヒムに譲った。


時刻: 午前11時15分

場所: 同上

司会者が、議事を進めた。

「次に、イブラヒム師、お願いします」

イブラヒムが演壇に立った。

「ザカリア師、堀川博士、桜井博士。お三方の発表を聞きました」

イブラヒムの声は、落ち着いていた。

「まず、ザカリア師に申し上げます。あなたは、神の意志を語ります。しかし、それは本当に神の意志でしょうか? それとも、あなた自身の解釈でしょうか?」

ザカリアの表情が、険しくなった。

「イブラヒム、あなたは裏切り者です」

「いいえ。私は、真実を求めているだけです」

イブラヒムは、会場を見渡した。

「神は、慈悲深いお方です。神は、人間に理性を与えました。その理性を使うことは、神への冒涜ではありません。むしろ、神が与えてくださった贈り物を使わないことこそ、神への冒涜ではないでしょうか?」

「科学は、神の業を理解する手段です。神への冒涜ではありません」

会場から、拍手が起こった。

イブラヒムは、浩と洋子を見た。

「堀川博士、桜井博士。あなたたちは人類のために働いています。それは尊いことです。しかし、謙虚であってください。科学は万能ではありません。その謙虚さを持ち続けてください」

浩と洋子は、深く頷いた。

司会者が、相互討論を開始した。

「それでは、相互討論に移ります。ザカリア師から堀川博士への質問」

ザカリアが立ち上がった。

「堀川浩。あなたは、神を信じていますか?」

会場が、静まり返った。

浩は、立ち上がった。

「……正直に言えば」

浩は、言葉を探すように一度視線を落とした。

「あなたの言う神がいるのかどうか、今も分かりません」

会場がざわめく。

「でも——宇宙の秩序や、法則の美しさに、怖いほど圧倒される瞬間がある。それを、畏敬と呼ぶのなら……私は、確かにそれを感じています」

浩は、イブラヒムとの対話を思い出した。

「私は、宇宙の秩序、自然法則の美しさに、畏敬の念を持っています」

「それは神の業なのでしょう。そして、神が私たちに与えてくださったのは理性だと考えています。」

浩の声が、力強くなった。

「だから、その理性を使うことは、神への感謝だと思います」

洋子も立ち上がった。

「塔を建てるのは、神に近づくためではありません」

彼女は、イブラヒムとの対話での言葉を思い出した。

「神が与えてくれたこの『知性』を使い切るという、被造物としての礼儀に過ぎません」

会場から、拍手が起こった。

しかし、ザカリアは納得していなかった。

彼は、立ち上がった。

「あなたたちは、言葉で人々を騙そうとしている」

ザカリアの声が、高まった。

「しかし、私は、言葉ではなく力を示そうではないか」

彼は、会場を見渡した。

「私は、今ここで宣言します! 神罰を!」

それが、サイバー・ストライキ開始の合言葉だった様だ。

「IGDEのシステムは停止し、君たちの技術は無力化する」

会場は、静まり返った。

10秒...20秒...

しかし、その時。

マリアがすっと立ち上がり、やや伏せがちに話し始めた。

「ザカリア師、残念ですが...」

マリアの声が、静まり返る会場に、沁みる様に伝わっていく。

「その計画は、既に封じてあります」

ザカリアが、振り向いた。

「何...?」

「全てのサイバー攻撃ポイントに、対策を施してあります。教団の独自ネットワークへのアクセスも、既に監視下に置いています」

マリアは、背筋を伸ばして、ザカリアを見据えた。

「全て、封じてあります」

ザカリアの顔が、歪んだ。

「これは...罠か!」

ザカリアは、即座に側近に合図。

その瞬間、会場の外から爆発音が聞こえた。

ドォン!

建物が、揺れた。

「会場外で爆発!」

警備員が叫ぶ。

混乱の中、ザカリアと側近たちは逃走した。


時刻: 午後0時30分

場所: IGDE危機管理センター

サラ・チェンが、早速逆探知プログラムを使ってザカリアを追跡していた。

「ザカリアの位置を特定! 国連本部から南へ...」

しかし、信号が途切れた。

「くっ...ジャミングです! 追跡失敗!」

サラは、舌打ちした。

しかし、彼女は別のモニターを確認した。

「ただし、『情報のディープフェイク爆弾』は阻止成功! 教団の独自ネットワークへの偽情報拡散は、完全にブロックしました!」

マリアが、サラの肩に手を置いた。

「よくやった、サラ」


時刻: 2月8日 午前10時00分

場所: 国連本部、特別控室

浩と洋子は、マリアから報告を受けていた。

「お二人のおかげで、世論が大きく動きました」

マリアは、データを表示した。

「IGDE支持派が、かなり増加。教団支持派は、その分減少しました。当然ですね」

「数字上は...世論は動いています」

マリアは一拍置いた。

「これはしかし、明日も同じとは限りませんが」

「そして」

マリアは、微笑んだ。

「ほとんどの反対国から、IGDE次年度予算案や権限拡大について、再審議を早急に開始する約束を取り付けました」

浩と洋子は、互いを見た。

「本当ですか...」

洋子が呟いた。

「はい。お二人の勇気が、世界を変えました」

マリアは、二人を見つめた。

「もう少しで、プロジェクト・アセンションが本格的に再始動します」

浩と洋子は、手を握り合った。

長い戦いだった。

しかし、ようやく前に進める。

窓の外には、まだ、水没した街が残っている。

その上には青い空が広がっていた。

青い空。美しい。

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