第3-6話 絆
時刻: 2月3日 午前10時00分
場所: 太平洋無人島研究所、仮設医療室
洋子は、医療室のベッドで休んでいた。
襲撃の際、階段で転倒し、右足首を捻挫していた。幸い、骨折はなかったが、歩行は困難だった。
「痛みますか?」
医師が尋ねた。
「ええ、少し...」
「鎮痛剤を処方します。あ、普通なら...二、三日あれば回復するでしょう」
医師が退室した後、洋子は特別回線を開いた。
タブレットの画面に、浩の顔が表示される。
「洋子さん、大丈夫ですか?」
浩の声には、心配があった。
「はい。大したことありません」
洋子は微笑んだが、その笑顔には疲労が見えた。
「五名の警備員が、私たちのために...」
洋子は一度、口を閉じた。
「……そう言っていいのか、まだ分かりません。でも、人類の未来のために死にました」
「俺も、昨日はそう考えていました」
洋子は、驚いて浩を見た。
「考えて『いた』...」
「マリアさんが、資料を見せてくれました。彼らは皆、この任務に自ら志願した人たちばかりでした」
「氷雨で家族を失った者。科学の敗北を認めきれない者...理由は様々です」
浩の声は、静かだった。
「でも、彼らが何を思って引き金を引き、何を思って倒れたのか」
彼は、資料を閉じた。
「それを、俺が勝手に意味づけするのは...」
浩は言葉を探した。
「傲慢だった、というより――怖かったんだと思います」
「...傲慢...怖い?」
洋子は、少し眉をひそめた。
「はい。彼らの死に意味を与えてしまえば、俺は前に進める。でも、それで本当にいいのか分からなくなって」
「俺たちができるのは、彼らの死を『聖化』することじゃ、ないのではないか」
「彼らが命を懸けて守ったこの『時間』を、俺は、俺のために一秒も無駄にせずに使うこと」
「それで良いのではないか、と」
洋子は、深く息を吸い込んだ。
「そう...かもしれないですね...」
彼女は、涙を拭った。
「私たちは、彼らが遺してくれた時間で、何をすべきか、ですね」
浩が頷いた。
「俺は計算を進め、数式を解き、プロジェクトを成功させたい」
二人は、画面越しに互いを見つめた。
時刻: 2月3日 午後2時00分
場所: 国連本部、IGDE危機管理センター
マリアは、世界各地からの反応を確認していた。
無人島研究所への襲撃のニュースは、世界中に衝撃を与えていた。
アメリカ大統領が声明を発表した。「この襲撃は、テロ行為である。我々は、いかなるテロにも屈しない」
EU委員長も同様の声明を出した。「科学者への暴力は、人類への攻撃である」
日本政府は、自衛隊の派遣を申し出た。
一般市民からも、SNS上で#ProtectScientists、#StandWithHiroAndYokoといったハッシュタグがトレンド入りした。
しかし、教団支持者たちは別の解釈をした。「これは、神の警告である」「彼らがプロジェクトを中止すれば、暴力は止まる」
世論は、依然として分断されていた。
マリアは画面を閉じたあと、無意識に肩を回していた。
カップのコーヒーにはほとんど口をつけていなかった。
時刻: 同時刻
場所: サウジアラビア、教団本部
ザカリアの側近が、報告書を持って入室した。
「師、襲撃の件が全世界に報道されました。我々への批判が...」
「高まっている。わかっている」
ザカリアは、窓の外を見ていた。
「しかし、師。テロが明るみに出れば、世論からの批判は強まるのは私でさえわかります。なぜ、実行を命じたのですか?」
ザカリアは、振り向いた。
「お前は、世論を『味方につける』ことが目的だと思っているのか?」
「違うのですか?」
「違うな」
ザカリアの冷笑に、側近は冷たいものが喉を通る様な感覚を覚えた。
「世論は、味方につけるものではない。無効化し、分断するものだ」
彼は、そこにあった資料を表示した。
「見ろ。IGDEが警備のために投じている費用だ。年間十億ドル。一方、難民キャンプには、一人当たり年間わずか百ドルしか配分されていない」
側近は、資料を見た。
「これを...」
「拡散する」
ザカリアは、断言した。
「『一人の科学者を守るために、何千人の子供が飢える予算が使われている。科学は選ばれた命しか救わない』と」
「そして、こちらも見ろ」
ザカリアは、別の映像を表示した。
軌道エレベータの建設予定地。周辺で発生している微小な地震。気象変化。
「これらを『IGDEによる意図的な気象兵器の実験』として、被害を受けている地域の言語で直接配信する」
側近は、息を呑んだ。
「それは...フェイクニュースでは」
「事実かどうかは、問題ではない」
「世論が私を悪魔と呼ぶのは構わない。そして、彼らが科学者を『救世主』だと信じることだけ阻止すればいい」
「疑念という名の楔を打ち込めば、塔は自重で崩れる」
側近は、ザカリアの狂気を感じた。
しかし、恐ろしいのはその論理と説得力に狂いがないのだ。
「すぐに、実行します」
ザカリアは、再び窓の外を見た。
砂漠。灼熱の太陽。神の大地。灼熱の太陽。
美しい。
「科学者たちよ、お前たちは既に敗北している」
時刻: 2月4日 午後8時00分
場所: 太平洋無人島研究所/ニューヨーク地下シェルター
夜。浩と洋子は、特別回線で繋がっていた。
二人とも、それぞれの場所で夕食を終えたところだった。
「洋子さん」
浩が口を開いた。
「不思議なことを聞いてもいいですか?」
「何ですか?」
「あなたは、なぜ科学者になったんですか?」
洋子は、少し考えて答えた。
「私は...祖父母を、災害で失いました。氷雨が降る十年前の津波で」
浩は、驚いた表情を見せた。
「それは...」
「私は当時、十五歳でした。祖父母と仙台の海岸近くに住んでいました」
洋子は、無意識に足首をさすっていた。
声は思ったよりも、少しだけ上ずっていた。
「地震が起きた時、私は学校にいましたが、祖父母は家にいました」
「津波警報が出ましたが、祖父母は逃げ遅れました。波に飲まれて...」
洋子は、一呼吸置いた。
「その時、私は思いました。もし、もっと正確な予測システムがあれば。もっと早く警報が出せれば。両親は助かったかもしれない」
「だから、科学者になりました。自然災害を予測し、人々を救うために」
浩は、画面越しに洋子を見つめた。
「それで、天文学を?」
「はい。災害の多くは、宇宙からの影響を受けています。太陽フレア、小惑星、そして...氷雨のような現象」
「宇宙を理解すれば、地球を守れる。それが、私の信念です」
浩は、深く頷いた。
「洋子さん、あなたは...個人的な悲しみを、人類への貢献に変えたのですね」
「そんな大袈裟なものではないですよ」
洋子は、微笑んだ。
「浩さんは、なぜ軌道工学を?」
浩は、自分の過去を語り始めた。
「私の祖母、堀川美咲は、量子神経動態学の研究者でした」
「存じています。有名な方ですね」
「祖母は、意識の不滅化を研究していました。人間の意識を、情報として保存し、永遠に生き続けさせる」
浩は一度、咳払いをした。
それが必要だったのかどうか、自分でも分からなかった。
「しかし、祖母は研究中の事故で亡くなりました。私が、まだ子供の頃」
「実は...私も、その事故に巻き込まれました。脳に損傷を受け、一時は脳死状態でした」
洋子は、息を呑んだ。
「でも、どうやって...」
「祖母の同僚が、祖母の装置を使って、私を救ってくれました。詳しいことは、わかりません。しかし、私は生き延びました」
浩は、遠くを見るような目をした。
「祖母は、よく言っていました。『宇宙に昇る道を作れば、人類の意識も昇華される』と」
「だから、私は軌道エレベータを研究し始めました。祖母の夢を、実現するために」
二人は、しばらく沈黙した。
数千キロメートル離れた沈黙が続いた。
このまま沈黙でよいのか、迷いながら。
時刻: 午後8時30分
場所: 同上
浩は、コーヒーメーカーを操作していた。
地下シェルターは、凍えるように寒い。外気温はマイナス五度。暖房はあるが、常に底冷えがする。
「お湯の温度、八十五度になってますか?」
洋子の声が聞こえた。
浩は、温度計を確認した。
「はい。ちょうど八十五度です」
「よかった。それ以上だと、苦味が出ちゃうんです」
洋子も、同じようにコーヒーを淹れていた。
太平洋の無人島。熱帯の湿気。外気温は三十度を超えている。
洋子は、額の汗を拭いながら、冷たいコーヒーを準備していた。
「そのコーヒー、イブラヒム師から贈られた?」
洋子が言った。
「はい。エチオピア産の特別な銘柄だそうです」
浩が答えた。
「『討論会の前に、心を落ち着けて飲んでください』と」
二人は、ほぼ同時にコーヒーを口に運んだ。
ニューヨークの浩は、熱いコーヒーで冷えた指先を温める。
太平洋の洋子は、冷たいコーヒーで火照った体を冷やす。
しかし、味も同じか、と言われればそうではないかもしれない、と洋子は思った。
実際には、少し薄く感じたから。
「美味しいですね」
二人は、ほぼ同時に呟いた。
そして、互いを見て笑った。
「高性能な通信回線を、コーヒーの淹れ方の確認に使うなんて」
浩が笑った。
「でも、こういう時間も大切です」
「ええ。明後日の討論会が終わったら...」
洋子は、少し考えた。
「もし、エレベータが完成して、自由に旅ができるようになったら、浩さんはどこに行きたいですか?」
浩は、しばらく考えた。
「そうですね...月の裏側、とか?」
「スケールが大きいですね」
洋子が笑った。
「洋子さんは?」
「私は...」
洋子は、窓の外を見た。
「ニューヨークのセントラルパークに、アイスクリームを食べに行きたいです」
浩は、少し驚いた。
「セントラルパーク...ですか?」
「はい。昔、学会で訪れたことがあるんです。公園の中のアイスクリーム屋さん。チョコチップが美味しかった」
洋子の声は、懐かしそうだった。
「でも、今は...」
「水没してますね」
浩が言った。
洋子は、頷いた。
「ええ。だから、エレベータを完成させて、水を宇宙に戻して、もう一度あの公園でアイスクリームを食べたいです」
浩は、微笑んだ。
「いいですね。俺も、一緒に連れて行ってください」
二人は、コーヒーを飲みながら、しばらく他愛もない話をした。
まるで同じ部屋にいるかのような時間だった。
時刻: 2月5日 午前10時00分
場所: 太平洋無人島研究所/ニューヨーク地下シェルター
浩と洋子は、特別回線で繋がっていた。
しかし、今日は二人だけではなかった。
画面には、イブラヒム師も参加していた。
「お二人とも、討論会まであと二日です」
イブラヒムが穏やかに言った。
「はい」
浩と洋子が答えた。
「ザカリアとの対決で、最大の争点は何だと思いますか?」
イブラヒムが尋ねた。
浩が答えた。
「技術的な実現可能性...ではないと思います」
「では?」
「神、です、か?」
洋子が言った。
「どちらが、神を味方につけているか」
イブラヒムは、深く頷いた。
「その通りです。ザカリアは、神の言葉を独占しようとしています」
「しかし、お二人は、それと戦う準備ができていますか?」
浩と洋子は、顔を見合わせた。
「正直に言うと...わかりません」
浩が答えた。
「私たちは科学者です。そもそも、神について語る資格があるのか」
イブラヒムは、微笑んだ。
「では、一つ、お話をさせてください」
彼は、姿勢を正した。
「神は言葉で語るのではなく、この宇宙を貫く『法則』として姿を現しました」
浩と洋子は、静かに聞いていた。
「浩博士、洋子博士。あなたたちが解き明かそうとしている数式は...」
イブラヒムは、二人を見つめた。
「...神がこの世界を書いた『言語』だと、私は考えているのです」
イブラヒムは一拍置いた。
「ですが、それをどう受け取るかは、お二人次第、ではないでしょうか」
沈黙が流れた。
浩は、その言葉を噛みしめていた。
「神の姿は...想像できません」
浩が、ゆっくりと話し始めた。
「でも」
「宇宙のどこへ行っても変わらない定数。あまりにも美しい物理法則」
「それらに触れるとき、そこには知性を超えた『意志』のようなものを感じます」
浩は、目を閉じた。
「計算機の前で目を閉じ、次の桁を探す瞬間、あれは私の祈りなのでしょうか」
洋子も、話し始めた。
「私は...人類が限界を超えようとする『衝動』こそが、神が私たちに植え付けた唯一の火種だと信じたい」
彼女は、窓の外の空を見た。
「塔を建てるのは、神に近づくためではありません」
「神が与えてくれたこの『知性』を使い切るという...」
洋子は、イブラヒムを見た。
「被造物としての当然の行為...なのですね」
イブラヒムの目に、涙が浮かんでいた。
「...素晴らしい。ええ。素晴らしいと、私は思います」
彼は、深く頷いた。
「あなたたちはすでに、ザカリアが独占しようとしている『神』から自由になっています」
イブラヒムは、二人を見つめた。
「彼は『神の言葉を解釈する権利』を争っています」
「しかし、あなたたちは『神の業』そのものに触れている」
イブラヒムの声が、力強くなった。
「その確信を持って語れば、彼の言葉がどれほど空虚なものか、世界は気づくでしょう。そして、おそらくザカリアには、これ以上付け入る隙はないでしょう」
浩と洋子は、互いを見た。
そして、頷いた。
「ありがとうございます、イブラヒム師」
浩が言った。
「あなたの言葉で、私たちは自分の立ち位置を理解できました」
洋子も頷いた。
「私たちは、神と戦うのではないのですね」
「神の業を、誠実に遂行する...ただそれだけ」
イブラヒムは、微笑んだ。
「その言葉を、忘れないでください」
時刻: 2月6日 午前6時00分
場所: 太平洋無人島研究所、ヘリパッド
洋子は、ニューヨークに向けて出発する準備をしていた。
デイビッド・チェンが、見送りに来た。
「桜井博士、必ず成功させてください」
「はい。必ず」
洋子は、ヘリコプターに乗り込んだ。
離陸の瞬間、彼女は島を見下ろした。
この島で、五名の警備員が命を落とした。
彼らが遺してくれた時間を、私は無駄にしない。
時刻: 同時刻
場所: サウジアラビア、教団本部
ザカリアは、側近たちに語っていた。
「言葉で彼らの魂を折るのが最良だ」
彼の声は、冷たかった。
「しかし、もし彼らがその偽りの光で世界を再び欺こうとするなら...」
ザカリアは、窓の外を見た。
「その『光』そのものを闇に変えてやればいい」
側近が、息を呑んだ。
「塔が完成に近づけば近づくほど、それは天に届く階段ではなく、世界を焼き尽くす『避雷針』となる」
ザカリアは、振り向いた。
「IGDEが誇るエネルギー伝送システム...あれに我々の『祈り』を一つ流し込むだけで、ニューヨークは神の雷に打たれることになるだろう」
側近は...言葉が、何も浮かばなかった。
「彼らが壇上で言葉を発するたびに、死のカウントダウンが進む」
彼は、独白するように呟いた。
「明日、世界は変わる。科学の光が、絶望の闇に変わる日だ」
時刻: 2月6日 午後6時00分
場所: ニューヨーク、JFK国際空港
洋子を乗せたヘリコプターが着陸した。
空港には、厳重な警備体制が敷かれていた。武装した警備員が、周囲を警戒している。
「桜井博士、ようこそニューヨークへ」
マリア・ロドリゲスが、自ら出迎えた。
「マリアさん...」
洋子は、ヘリコプターから降りた。
「よく決断してくださいました」
マリアの目には、涙が浮かんでいた。
「明日の討論会、必ず成功させましょう」
「はい」
洋子は、頷いた。
そして、周囲を見回した。
「浩さんは...?」
「国連本部で待っています。すぐに会えますよ」
洋子は、防弾車両に案内された。
車列は、厳重な警護のもと、国連本部に向かった。
窓の外には、ニューヨークの街並みが広がっている。しかし、その街の一部は、まだ水没したままだった。
「あの街を、私は、取り戻したい」
洋子が呟いた。
時刻: 午後7時00分
場所: 国連本部、特別警護区画
車列は、まるで要塞のように警備されている国連本部に到着した。
廊下を歩いていると、前から一人の男性が歩いてきた。
二人は、互いを見つめた。
「浩さん...?」
「洋子さん...?」
浩が答えた。
特別回線の画面越しに、何度も見た顔。しかし、実際に会うと。
「やっと会えましたね」
「はい。やっと」
二人は、数歩近づいた。
浩は、手を差し出した。
洋子は、その手を握った。
温かい手。画面越しには感じられなかった、人間の温もり。
温かい、というより少し汗ばみ、ざらざらとした感触の手だった。
予想より力が強くて、洋子は一瞬だけ指を引きかけた。
でも二人は、しばらく手を握り合っていた。
何か言おう。言葉を探そうとして、浩はやめた。
言葉は必要なんだろうか...
数千キロメートル離れて、特別回線で繋がっていた二人が、今、同じ場所にいる。
「明日、一緒に...」
浩が言った。
「はい。一緒に」
洋子が答えた。
時刻: 午後10時00分
場所: 同上、洋子の部屋
洋子は、ベッドに横になっていたが、眠れなかった。
討論会。ザカリアとの対決。三十億人が見ている。
そう思った瞬間、右足首がじくりと痛んだ。
さっきより腫れている気がする。気のせいかもしれない。
「怖い...」
洋子は、呟いた。
しかし、同時に、心には安心もあった。
浩がいる。同じ建物に。すぐ近くに。
特別回線ではなく、物理的に。
彼女は、タブレットを取り出した。
浩に連絡する。
「浩さん、起きていますか?」
「はい。眠れません」
浩の声が返ってきた。
「私も、です」
二人は、しばらく沈黙した。
「浩さん」
「はい」
「会えて、嬉しかったです」
「僕も、です」
「明日、頑張りましょう」
「ええ。一緒に」
洋子は、タブレットを置いた。
窓の外には、ニューヨークの夜景が広がっている。
以前とは違う明かりの少ない暗い夜景。
美しい。
そして、ゆっくりと目を閉じた。




