第3-2話 神の剣
時刻: 1月13日 午前10時00分
場所: ニューヨーク、JFK国際空港
イブラヒム・アル=ファディルを乗せた特別機が着陸した。
国連の警護チーム、ジェームズ・マクレーンが防弾車両の扉を開ける。
「イブラヒム師、ようこそ」
イブラヒムはマントの裾を整え、車に乗り込んだ。
車列が動き出す。高速道路の継ぎ目を踏む音。ジェームズの無機質な無線。
「現在位置、クイーンズ通過中。異常なし」
窓の外には、水没したニューヨークの街並み。
「ブルックリン橋進入」
その時──
「待て! 前方に不審車両!」
先導車が急ブレーキ。トラックが道路を塞いでいる。後方からも別のトラック。完全に挟まれた。
「罠だ!」
両側から武装した男たち。自動小銃の銃声が橋上に響き渡った。
「コンタクト! 襲撃を受けている! 増援を要請!」
ジェームズがイブラヒムを車内に押し込む。銃弾が装甲に当たる。防弾ガラスに蜘蛛の巣状のヒビ。
襲撃者の一人がRPGを構えた。
「RPG!」
スナイパーが射手を撃つ。しかしロケット弾は既に発射されていた。先導車に命中。爆発。炎上。
「先導車がやられた!」
上空からヘリコプターの音。NYPD対テロ部隊が到着。狙撃が襲撃者を倒していく。
襲撃者の一人が叫んだ。
「天よ、導きたまえ!」
自爆ベストを起動。爆発。衝撃波が周囲の車両を吹き飛ばした。民間車両三台が巻き込まれた。
十五秒の戦闘。そして、静寂。
ジェームズは状況を確認した。イブラヒムは無事。しかし──
「警護チーム五名が死亡。NYPD職員二名が死亡。民間人死者六名、負傷者十二名」
総死者数、十三名。
気づけば、車列はマンハッタンの地下ゲートを潜っていた。
時刻: 1月13日 午前11時30分
場所: IGDE危機管理センター
マリアは、襲撃の報告を受けていた。
「イブラヒム師は無事。しかし、死者十三名...」
彼女は、犠牲者たちのリストを見た。一人一人に名前があった。家族があった。
「犯行声明は?」
「神の剣が、既に出しています」
モニターに、ザカリアの映像が表示された。
黒いローブ。冷徹な目。
「全世界の信仰者たちへ。本日、神の剣はイブラヒムの喉元に届いた」
ザカリアの声は、静かだった。
「だが、神は彼の命をその場では召されなかった。それは、彼に『自らの過ち──科学への加担──を公に悔い改める時間』を与えるためである」
彼は、カメラを見つめた。
「これは慈悲である。神が与えた最後の改心の機会である」
マリアは、画面を睨んだ。
「嘘だ...」
セキュリティ担当官が分析した。
「襲撃は本気でした。RPGまで使用し、死者十三名。警告なわけがない」
マリアは頷いた。
「失敗だと示しがつきませんから。同胞を抑えきれなくなる」
ザカリアの声明が続く。
「マリア・ロドリゲスよ、お前の軍隊は神の意志を遮ることはできない。今回は警告だ。次の一撃がいつ、誰の胸を貫くかは、我々の慈悲次第だ」
映像が終わった。
「イブラヒムを『殉教者』にせず、『惨めな敗北者』に仕立て、我々の警備が無力である宣伝に繋げる」
マリアは思案した。暴力一辺倒で力押し、だけではない狡猾な相手への対抗策。
国際政治と似ている様で異なる精神力がも求められていた。
時刻: 1月13日 午後2時00分
場所: 国連本部、特別警護区画
イブラヒムは、厳重に警備された部屋にいた。
マリアが訪ねた。
「イブラヒム師、ご無事で何よりです」
「ありがとうございます。しかし...多くの人が、私のために死にました」
イブラヒムの声は、悲しみに満ちていた。
「警護チーム五名、NYPD職員二名、民間人六名...十三名です」
マリアは、イブラヒムの肩に手を置いた。
「師、あなたの責任ではありません」
「いいえ」
イブラヒムは首を振った。
「私の決断が、彼らの死に結びついている。故にその責任は私にあるのです」
彼は、深く息を吸い込んだ。
「ロドリゲス事務次長、私はザカリアと直接対話したい」
マリアは、驚いた。
「それは...危険すぎます」
「承知しています」
イブラヒムは、静かに言った。
「しかし、これは私の責任です」
彼は、窓の外を見た。
「教団が巨大化する過程で、私は泥臭い『金集め』や『反対派の排除』を、すべてザカリアに任せました」
「私は綺麗な説法だけをして、汚れ仕事を彼に押し付けた」
イブラヒムの声が、重くなった。
「彼が怪物になったのは、私の甘えの産物です。私が産んだ怪物は、私がその目を見て引導を渡さねばなりません」
マリアは、イブラヒムの決意を見た。
「しかし、どうやって?」
「公開討論会を開催してください」
イブラヒムは、提案した。
「私とザカリア。科学者たちも参加して、世界中に放送する」
「それは...」
「ザカリアを遠隔地から殺せば、彼は『聖なる殉教者』となります。過激派はさらに結束するでしょう」
イブラヒムの目が、鋭くなった。
「公の場で、ザカリアの論理の矛盾を突き、彼がただの『権力に執着する凡夫』であることを暴かなければなりません」
「彼から『聖性』を剥ぎ取ることだけが、教団の連鎖的な暴走を止める唯一の手段です」
マリアは、しばらく考えた。
「わかりました。国連に提案します」
彼女は、一呼吸置いた。
「ただし...他にも理由がありますね?」
イブラヒムは、微かに笑った。
「鋭いですね」
「ザカリアは、教団の独自通貨や通信網の『マスターキー』を握っています。力ずくで彼を殺せば、そのキーは失われ、数億の信者の生活が即座に崩壊します」
「対面して彼を揺さぶり、システムの制御権を奪還する...あるいは、その隙を作る必要があります」
マリアは、深く頷いた。
「情報戦のチームに紹介します」
「はい」
イブラヒムは、静かに答えた。
「私は囮になります。しかし、それが成功すれば、ザカリアの支配は崩壊します」
時刻: 1月14日 午前9時00分
場所: ニューヨーク地下シェルター/太平洋無人島研究所
浩と洋子は、それぞれの隔離された施設で研究を続けていた。
浩のシェルターは、ニューヨーク中心部の地下五十メートル。コンクリートと鋼鉄で作られた要塞。外部との接続は、暗号化された専用回線のみ。
洋子の無人島研究所は、太平洋上の孤島。最寄りの陸地まで六百キロメートル。アクセス手段は、ヘリコプターか船のみ。
二人は、特別回線で繋がっていた。
モニターに、互いの顔が表示される。まるで同じ部屋にいるかのような高解像度。遅延はほとんどない。
「洋子さん、ステラーカーボンの試作品が完成しました」
浩が言った。
彼の手には、黒い繊維のサンプルがあった。
「引張強度のデータを送ります」
浩は、ファイルを転送した。暗号化された回線を通じて、データが洋子のコンピュータに届く。
洋子が、データを確認した。
「引張強度...百八十ギガパスカル。従来のカーボンナノチューブの三・二倍です」
彼女の声には、興奮があった。
「完璧です。これなら、軌道エレベータの建設が可能です」
浩も、微笑んだ。
「構造解析のシミュレーションも、すべてクリアしました」
二人は、画面越しに互いを見た。
物理的には、地球の裏側にいる。しかし、この瞬間、彼らは完全に繋がっていた。
その時、浩のシェルターの警備員がインターフォンで呼びかけた。
「堀川博士、外部から不審なメールが届いています」
「不審なメール?」
警備員が、隔離されたシステムを通じてメールの内容を転送した。セキュリティチェック済み。ウイルスなし。しかし、内容は...
件名:「最後の警告」
差出人:「神の剣」
浩は、メールを開いた。同時に、洋子の画面にも同じ内容が表示される。
「堀川浩、桜井洋子。あなたたちは、神への冒涜者である。我々は、あなたたちを排除すると宣言した。これは最後の警告である。今すぐプロジェクトから離れよ。さもなくば、あなたたちの家族、友人、同僚、全てが標的となる」
メールには、写真が添付されていた。
浩の実家の写真。東京郊外の住宅。玄関の表札まで鮮明に写っている。
洋子の親戚の写真。大阪の叔母の家。庭で洗濯物を干している様子。
そして、IGDE研究棟の詳細な図面。内部構造、警備員の配置、監視カメラの位置。全てが記されていた。
二人は、血の気が引いた。
「これは...内部に協力者がいますね」
警備員が、即座にマリアに報告した。
時刻: 1月14日 午前10時00分
場所: IGDE危機管理センター
マリアは、脅迫メールを見て、即座に行動を開始した。
「FBI cyber crime部門に協力を要請してください。このメールの発信元を特定します」
「そして、浩博士と洋子博士の家族を、全員保護してください。今すぐです」
担当官が答えた。
「了解しました。ただし...」
「ただし?」
「浩博士のご家族は、東京にいます。洋子博士のご親戚は、大阪です。各国政府との調整が必要です」
マリアは、電話を取った。
「日本政府に直接要請します」
彼女は、外務省に連絡を入れた。そして、警察庁にも。
一時間後、浩の両親と洋子の叔母は、警察の保護下に置かれた。
しかし、マリアは知っていた。家族全員を完全に守ることは、不可能だということを。
彼女は、浩と洋子を特別回線で呼んだ。
「お二人に、選択肢を提示します」
マリアの声は、重かった。
「プロジェクトから一時的に離れて、家族とともに安全な場所に避難する。それとも...」
「それとも?」
浩が尋ねた。
「最高レベルの警護下で、研究を続ける。ただし、リスクは非常に高い」
浩と洋子は、画面越しに互いを見た。
言葉は交わさなかった。しかし、二人とも同じことを考えていた。
そして、ほぼ同時に答えた。
「研究を続けます」
マリアは、予想していた答えだった。
「わかりました。ただし、条件があります」
「何ですか?」
「お二人は、今の施設に留まってください。移動は、さらなるリスクを伴います」
「そして、ご家族には、別の場所で保護を続けます」
マリアは、別の指示を出した。
「浩博士のご両親は、米軍横田基地内の保護施設へ。洋子博士の叔母様は、自衛隊基地内へ」
「了解しました」
浩が答えた。
「ありがとうございます、マリアさん」
洋子が続けた。
マリアは、二人の表情を見た。恐怖があった。しかし、それ以上に強い決意があった。
「お二人とも...気をつけてください」
彼女は、通信を切った。
そして、一人呟いた。
「ザカリアは、どう動くのか...」
時刻: 1月15日 午前3時00分
場所: 太平洋無人島研究所
深夜。洋子は、まだ研究を続けていた。
モニターには、軌道エレベータの応力解析データが表示されている。彼女は、データを一つ一つ確認していた。
研究所の外は、静寂に包まれていた。波の音。風の音。熱帯雨林の夜の生き物たちの鳴き声。
警備員が、定時報告をする。
「午前三時。異常なし」
洋子は、コーヒーを一口飲んだ。
その時──警報が鳴った。
瞬間、部屋の照明が落ち、赤い非常灯だけが不気味に回転し始めた。
洋子は、モニターを見ようとした。しかし、画面には「No Signal」の文字が虚しく浮かぶだけ。
通信が遮断されている。
「何が……」
彼女は、タブレットを掴んだ。セキュリティシステムにアクセスしようとする。しかし、指が震えている。汗で滑る。パスワードを一度、二度、また間違えたっ。
外から、音が聞こえてきた。
銃声ではない。低い、持続的な音。まるで、金属を焼き切るような……
「バーナー……?」
洋子は、気づいた。
誰かが、防弾扉を外側から焼いている。
心臓が激しく鳴り始めた。耳の中で、自分の心音が響く。
「浩君……」
彼女は、通信端末に手を伸ばした。しかし、画面は真っ暗なままだった。
何か」が確実に近づいている。しかし、どこまで来ているのか、わからない。
情報がない。見えない。聞こえるのは、自分の心音と、あの低い音だけ。
洋子は、机の下にうずくまった。
呼吸が浅くなる。酸素が脳に届かない感覚。指先が冷たくなり、震えが止まらない。
(まだ終わってない計算があるのに!)
いや、そうじゃない。なぜ今それを考える?
自分でもわけがわからない。
その時、別の音が聞こえた。
防弾ガラスを、硬い何かでゆっくりと引っ掻く音。
不快な、爪が黒板を擦るような音。
洋子は、両手で耳を塞いだ。しかし、音は止まらない。
そして──
パン。
熱を帯びた衝撃が、洋子のすぐ横の壁を砕いた。
銃声は聞こえなかった。消音器を通した、微かな風切り音だけ。
壁に空いた穴は、彼女の耳たぶをかすめるほど近かった。
そこから立ち昇る、火薬の臭い。
洋子は、声が出なかった。叫ぶことさえ忘れた。喉の奥が引き攣る感覚。
これは、殺害の失敗ではない。
「次は外さない」という、愛撫のような警告。
彼女は、机の下で体を丸めた。全身が震えている。涙が頬を伝う。
どれくらい時間が経ったのか、わからない。
突然、照明が戻った。
モニターが再起動する。警報が止まる。
警備員の声が、インターフォンから聞こえてきた。
「桜井博士! ご無事ですか!?」
洋子は、答えることができなかった。
ただ、震えていた。
時刻: 1月15日 午前3時15分(東部時間 午前9時15分)
場所: ニューヨーク地下シェルター
浩のモニターに、緊急通信が入った。
洋子の顔。しかし、その表情は緊張していた。
「浩さん...」
「洋子さん、どうしたんですか?」
洋子は、先ほどの出来事を説明した。侵入者。逸れた狙撃銃。
浩の顔が、青ざめた。
「それは...」
「ザカリアの部隊です。間違いありません」
洋子の声は、震えていた。
「彼らは、いつでも私を殺せると示したのです」
浩は、拳を握りしめた。
彼は、洋子を守りたかった。しかし、彼女は地球の裏側にいる。手を伸ばすことさえできない。
なぜ、自分がここにいて、彼女が向こうにいる?逆だったら、襲われたのは自分だったのに。
彼女だから襲われたのか?何故、俺じゃなかったのか...俺だったらよかったのに...
時刻: 1月15日 午前10時00分(東部時間)
場所: IGDE危機管理センター
マリアは、無人島からの報告を受けていた。
「狙撃手の侵入...」
彼女は、深刻な表情を浮かべた。
情報分析官のサラ・チェンが、データを整理している。
「洋子博士の施設は、既に敵に知られています。そして、おそらく浩博士のシェルターも」
マリアは、モニターを見つめた。洋子の施設の見取り図。セキュリティシステムの配置。そして、侵入経路の分析。
「撃たなかった...」
マリアは呟いた。
「え?」
サラが振り向く。
「ザカリアの狙撃手は、撃たなかった。いや、撃てたのに撃たなかった」
――だが、本当に威嚇か?自分で口に出した予測を信じられなかった。
画面を拡大し、慎重に確認する。壁の弾痕。洋子の耳たぶをかすめるほど近い。
(やはり)
「これは威嚇です。殺害ではなく」
ザカリアの危険度評価を更に上げなければならない。胃に鈍い痛みが走る。
「しかし、なぜ?ザカリアの論理では、科学者たちは今すぐ死ぬべき罪人のはずです」
サラが尋ねた。
マリアは、椅子に深く座り直した。
「いや、違う。彼らは『人質』でもある」
「人質...」
「今すぐ殺せば、IGDEは別の科学者を立てる。能力が二人に及ばなくとも、計画はそれなりに進みます。しかし、恐怖で二人が自らペンを折れば...」
マリアの目が冷徹な光を宿す。
「プロジェクトは内側から崩壊する。ザカリアは、それを狙っている」
「『死よりも重い沈黙』ですね」
「そう。彼女が恐怖に震えて自ら計算を止める時、科学という名の高慢が真に敗北する。ザカリアはそう考えている」
マリアは、別のモニターを見た。
「殺すのは、彼女が希望を捨てた後でも遅くはない...ザカリアはそう判断した」
サラが、別の懸念を口にした。
「しかし、ザカリアはどうやって施設の位置を突き止めたのですか?」
「内通者ね」
「洋子博士の施設の位置を知っている人物は……」
サラは、リストを表示した。
「多すぎる」
マリアは、ため息をついた。
「警備チーム、技術スタッフ、輸送担当、各国政府の連絡官...少なくとも百名以上」
「時間...それが問題だ」
マリアは、立ち上がった。
「ザカリアの目的から考えれば、すぐに暗殺に及ぶとは思えない。しかし...」
彼女は、窓の外を見た。
青い空が広がっている。氷雨のない空。美して。
「内通者を突き止めるまで、二人を安全に保たなければならない」
「移転を?」
「今すぐ」
マリアは、即決した。
「さらに厳重な施設へ。ただし...」
マリアは、サラを見た。
「詳細は、移動直前まで伏せます。知る人間を最小限にする」
「二人には、どう説明しますか?」
マリアは、しばらく考えた。
「威嚇だった程度は、二人も簡単に見抜くでしょう。しかし...」
「しかし?」
「移転が時間稼ぎであることは、伏せます」
サラは、眉をひそめた。
「内通者摘発のために時間を稼いでいると知れば、二人は自分たちが『囮』だと気づく。それは、さらなる心理的負担になる」
マリアは、通信端末を取り出した。
「二人には、『より安全な施設への移転』とだけ伝えます。それが、せめてもの配慮です」
「了解しました。移転先の候補は?」
「米海軍艦艇と、南極観測基地。どちらも、外部からのアクセスが極めて困難です」
マリアは、各国政府への連絡を開始した。
「そして、軍に護衛を依頼します。浩博士と洋子博士を、最優先で守ってください」
彼女は、一人呟いた。
「ザカリアとの情報戦。内通者を見つけ出すまで、時間を稼ぐ手立ては...」
時刻: 1月16日 午前6時00分
場所: ニューヨーク地下シェルター/太平洋無人島研究所
浩と洋子は、一睡もできなかった。
昨夜の狙撃手の出現。それは、明確なメッセージだった。
「いつでも殺せる」
浩は、モニター越しに洋子を見ていた。彼女の顔には、疲労の色が濃い。
「洋子さん、大丈夫ですか?」
「ええ...なんとか」
洋子は、微笑もうとした。しかし、その笑顔は上手く作れなかった。
「でも、怖いです。正直に言えば」
浩も頷いた。しかし「俺も、怖いです」と言うことは己の意地が許さなかった。
二人は、画面越しに沈黙した。
言葉にならない不安。しかし、同時に、互いがいることへの安心感もあった。
その時、マリアからの通信が入った。
「お二人とも、移転の準備ができました。今すぐ出発します」
浩が尋ねた。
「どこへ?」
「浩博士は、大西洋上の米海軍艦艇へ。洋子博士は、別の秘密施設へ。詳細は、移動直前までお伝えできません」
マリアの声は、緊迫していた。
「荷物をまとめてください。持っていけるのは、ノートパソコン、データドライブ、そして最低限の私物のみです」
洋子が言った。
「研究データは?」
「全て安全にバックアップされています。新しい施設には、最先端の機器が揃っています」
浩は、自分のシェルターの部屋を見渡した。
ここで、数日間を過ごした。狭い部屋。
そして今、またどこかへ移動しなければならない。
「行きましょう」
時刻: 1月16日 午前7時00分
場所: IGDE危機管理センター
マリアは、移転作戦の最終確認をしていた。
「浩博士の護衛チーム、準備完了」
「洋子博士の護衛チーム、準備完了」
「ルートは、直前まで秘匿」
「了解」
マリアは、モニターを見た。そこには、世界地図が表示されている。浩と洋子の現在位置。そして、移動先。
二人を、さらに遠くへ引き離す。
それが、最善の策だった。
しかし、マリアの胸には、不安があった。
ザカリアは、既に彼らの居場所を突き止めていた。次の施設も、いずれ見つかるだろう。
「いたちごっこです」
セキュリティ担当官が呟いた。
「わかっています」
マリアは答えた。
「しかし、時間を稼ぐしかありません。お二人が研究を完成させるまで」
そして心の中で付け加えた。
(それよりも早く、内通者を炙り出す)
彼女は、別のモニターを見た。そこには、プロジェクト・アセンションの進捗状況が表示されている。
ステラーカーボンの量産、開始準備中。
軌道エレベータの設計、最終段階。
建設開始予定日、三ヶ月後。
「あと三ヶ月...」
マリアは呟いた。
「それまで、持ちこたえなければなりません」
時刻: 1月16日 午前8時00分
場所: ニューヨーク地下シェルター/太平洋無人島研究所
浩と洋子は、最後に特別回線で会話した。
「洋子さん、次にいつ会えるかわかりません」
浩が言った。
「でも、必ず...」
「ええ」
洋子が微笑んだ。今度は、本当の笑顔だった。
「私たちは、繋がっています。どこにいても」
二人は、画面越しに手を伸ばした。
触れることはできない。しかし、その思いは確かに届いていた。
通信が切れた。
浩は、シェルターを後にした。武装した警備員に囲まれ、防弾車両へと向かう。
洋子は、無人島の研究所を後にした。ヘリコプターが、既に待機している。
二人とも、振り返らなかった。




