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氷雨の黙示録  作者: 唯野眠子
第3章-神の思し召し
13/35

第3-1話 信仰の力

時刻: 1月10日 午前0時30分

場所: IGDE危機管理センター

爆発音が聞こえてから、十五分が経過していた。

管制室は、白い光に満たされていた。マリア・ロドリゲスは、メインスクリーンの前に立っている。

浩と洋子も、その隣にいた。三人とも、眠気とは無縁の表情だった。

「爆発地点は……IGDE倉庫施設、マンハッタン南部」

セキュリティ担当官が報告する。声は平坦だが、かすかに震えていた。

「被害状況は?」

マリアの問いに、担当官は別のモニターを指差した。

「建物の一部が損壊。幸い、深夜のため職員はいませんでした。死傷者はゼロです」

マリアは息をついた。安堵というより、次への準備のための呼吸だった。

「犯行声明は?」

「まだです。しかし、監視カメラに不審な人物が映っています」

モニターに映像が表示される。黒い服を着た三人の男が、建物に近づいていく。

夜間撮影特有の粗い画質。それでも、彼らの動きには明確な意図があった。

「顔は見えません。しかし……」

担当官が映像を拡大した。一人の男の腕に、何かが見える。刺青のようなもの。

洋子が、教団のデータベースと照合していた。彼女の指が、タブレット上を滑る。

「間違いありません。神の剣による攻撃です」

浩が尋ねた。

「倉庫には、何が保管されていたんですか?」

「建設資材の一部です。プロジェクト・アセンション用の特殊合金、約五十トン」

担当官が答える。

「む...それは...」

浩の声に、初めて緊張が滲んだ。

マリアは、深刻な表情を浮かべた。彼女は窓の外を見た。ニューヨークの夜景が広がっている。

しかし、その一部は暗かった。水没した地区。まだ復旧していない。

彼女は、静かに言った。

「やはり、イブラヒム師の警告通り、大規模な攻撃が来るのですね」

室内が、沈黙に包まれた。モニターだけが、無機質な光を放ち続けている。


時刻: 1月10日 午前6時00分

場所: 世界各地

マリアは、コーヒーを一口飲んだ。

危機管理センターは、静寂に包まれていた。夜勤のスタッフが、モニターを見つめている。世界各地のIGDE施設からの定時報告。

異常なし。

異常なし。

異常なし。

その瞬間、ドイツのモニターが赤く転じた。

「何!?」

スタッフが叫ぶ。

モニターに映し出されたのは、ミュンヘンのIGDE欧州材料研究所。正門に車両が突入する様子。そして、爆発。炎が建物を飲み込んだ。

「ドイツで爆発! 研究所が——」

報告の声が終わらないうちに、日本のモニターが異常を示した。

「日本のサーバーがダウンしています!」

つくばの計算センター。画面には、真っ黒なモニター。全システム機能停止。技術者が、パニックに陥っている映像。

「全計算能力が失われました!」

次に、オーストラリア。

シドニーの観測所から、異様な音が聞こえてきた。金属の軋み。機械が悲鳴を上げている。主望遠鏡が、制御を失って暴走している。駆動機構が破損し、精密な構造が崩壊していく。

「望遠鏡が自壊しています!」

マリアは、立ち上がった。コーヒーカップが、床に落ちた。

「全拠点の状況を確認!」

彼女は拾おうとしなかった。

次々と、モニターが異常を示していく。

ブラジル。爆発。

インド。サイバー攻撃。

フランス。火災。

南アフリカ。設備破壊。

世界地図に、赤い点が次々と刻まれていく。一つ、二つ、三つ...十二。

日の出と共に、世界が死んでいく。

午前六時。

現地時間の午前六時。

全ての攻撃が、同じ時刻に発生していた。

マリアは、被害状況を確認した。メインスクリーンに、統計が表示される。

冷徹な数字。

しかし、その裏には人間の命があった。

マリアは、深く息を吸い込んだ。

「これは...組織的な攻撃です」

浩が、被害リストを分析していた。彼の表情が、次第に険しくなっていく。

「マリアさん、これを見てください」

彼は、施設リストと建設スケジュールを重ねた。

「ミュンヘンの材料研究所。ここは、ステラーカーボンの量産プロセスを開発していた」

「つくばの計算センター。ここでは、軌道エレベータの応力解析シミュレーションを実行していた」

「シドニーの観測所。L4ラグランジュ点の宇宙船を観測していた」

浩の声は、冷たい。

「これは素人の嫌がらせじゃない。僕たちの設計図の弱点を知り尽くした、極めて知的な攻撃だ」

彼は、イブラヒムの顔を思い出した。元天文学者。かつて、科学を愛した男。

「イブラヒム師が...ザカリアに情報を渡したのかっ」

「これは、知性に対する裏切りだ。やはり彼の申し出はブラフだったのか」

マリアが浩を制する。

「イブラヒム師はそんな人ではありません」

「しかしっ...」

「今は言えません。イブラヒム師のことは今は飲み込んで、被害状況の正確な把握と建設スケジュールの見直しに専念してください。お願いします」

「...わかりました」

洋子は、別のモニターを見ていた。インターネット上の動向。

「神の剣の犯行声明が、拡散されています」

彼女は、ソーシャルメディアの分析結果を表示した。

「ザカリアの映像を見た人々の反応。『科学は悪魔の業』『IGDEは傲慢だ』『神の審判は正しい』……」

洋子は、タブレットを強く指で弾いた。

「...彼は、人の心を壊している」

「彼は、経典を引用し『バベルの塔』と呼ぶことで、世界中の困窮している人々を科学の敵に回そうとしている」

彼女は、データを拡大した。

「彼は、私たちが必死に繋ぎ止めている『人々の心』を、毒の情報で汚そうとしている」

洋子の声には、怒りがあった。情報が間違っていては科学的結論は真実ではなくなるのだ。

マリアは、二人の分析を聞いていた。そして、静かに言った。

「ザカリアは我々に、世界を救う資格があるかを問いかけているのね」

彼女は、窓の外を見た。ニューヨークの朝。しかし、その光には影があった。

「計算センターが落ちた。これで軌道シミュレーションが三ヶ月遅れる……」

浩が呟いた。

「ネット上でこの映像が拡散されてる。みんな、科学を『悪魔の業』だと信じ始めてるわ」

洋子が続けた。

マリアは、携帯電話を取り出した。

「...彼は私たちに、選ばせようとしている。世界を救うか、自分たちの身の安全を守るか」

彼女は、微笑んだ。しかし、それは冷たい笑みだった。

「面白いじゃない。私の覚悟はそんなものではない」

マリアは、各国政府への緊急連絡を開始した。IGDEを政治的に孤立させようとする揺さぶり。それに対抗するには、先手を打つしかない。

彼女は、国連事務総長に電話をかけた。

「はい、ロドリゲスです。緊急安保理の招集を要請します」


時刻: 1月10日 午前10時00分

場所: IGDE危機管理センター

洋子が、犯行声明を発見した。

「神の剣が、声明を出しています」

モニターに、ザカリアの映像が表示された。

ザカリアは、黒いローブを纏い、カメラに向かって座っていた。背景には、神の剣のシンボルと、経典の一節が掲げられている。アラビア語の文字。金色の装飾。

「全世界の信仰者たちへ」

ザカリアの声は、冷静だった。しかし、その奥に強烈な意志が潜んでいる。

「本日、我々は神の意志を実行した。世界十二箇所のIGDE施設を破壊した。これは、神への冒涜者たちへの警告である」

彼は、経典の一節を引用した。

「『高慢な者たちは、地獄の炎で焼かれるであろう』」

ザカリアは、カメラを見つめた。

「IGDEは、現代のバベルの塔を建てようとしている。人間が神の領域に侵入しようとしている」

彼の拳が、握りしめられた。

「我々は、これを許さない。軌道エレベータの建設を、直ちに中止せよ。さもなくば、さらなる破壊が待っている」

ザカリアは、一呼吸置いた。そして、リストを読み上げ始めた。

「次の標的を宣言する」

画面に、施設のリストが表示される。

標的リスト。

一、IGDE本部、ニューヨーク。

二、太平洋建設予定地、準備中の人工島。

三、世界各地の材料工場。

四、主要な協力企業。

ザカリアは、リストを読み終えた。しかし、まだ続きがあった。

「そして……」

彼の目が、鋭くなった。

「プロジェクトの中核人物。堀川浩博士と桜井洋子博士」

浩と洋子は、自分の名前を聞いて凍りついた。

管制室の空気が、一瞬で変わった。周囲のスタッフたちが、二人を見る。

「彼らは、悪魔の使徒である。彼らを排除すれば、プロジェクトは崩壊する」

ザカリアの声が、さらに重くなった。

「堀川浩、桜井洋子。あなたたちに選択を与える」

彼は、別の映像を表示した。テント都市。数百万の人々が、そこで生活している。

「見よ。天啓の教団が提供している通信メッシュネットワーク。独自通貨システム。物資配給網。これらは、数億の人々の生活を支えている」

ザカリアは、冷徹に言った。

「あなたたちがプロジェクトを降りない限り、我々はこれらのシステムを遮断する」

「通信網を切断すれば、家族との連絡が途絶える。独自通貨の口座を凍結すれば、明日からのパンが買えなくなる」

ザカリアの目が、カメラを通して二人を見つめた。

「あなたたちが夢を追う代償として、数億の民が明日からのパンと家族との連絡手段を失うことになるだろう」

「選べ。自分たちの野心を取るか、人々の生活を取るか」

映像が終わった。

センター内が、重い沈黙に包まれた。誰も動かない。誰も話さない。ただ、モニターの青白い光だけが、室内を照らしている。

マリアが、沈黙を破った。

「お二人を、最高レベルの警護下に置きます」

彼女の声は、断固としていた。

「シェルターに避難いただき、二十四時間、武装警備員が同行します」

浩が反論した。

「マリアさん、それでは仕事ができません」

浩は、彼の頭の中で、データを分析し始めた。

破壊された計算センター。失われた演算能力。遅延する建設スケジュール。

「僕がここで止めれば、破壊された十二箇所の施設の被害は、文字通り『無駄死に』になる」

浩の声は、静かだった。しかし、その調子を崩さないこと自体が、彼の意思だった。

「死んだ七人の研究員への唯一の弔いは、彼らが守ろうとした計算式を完成させることだ」

彼は、マリアを見た。

感情の問題じゃない。これは科学の問題なんだ」

洋子は、別のモニターを見ていた。ザカリアの声明が、世界中に拡散されている。ソーシャルメディア。ニュースサイト。掲示板。

彼が経典を引用し、「バベルの塔」と呼ぶことで、人々の心を掌握しようとしている。

「彼は言葉を武器にして、世界を暗闇に閉じ込めようとしている」

洋子の声には、強い嫌悪感があった。

「私が引くことは、彼が流す嘘が真実になると認めることと同じ」

彼女は、マリアを見た。

「軌道エレベータは、空に届く塔じゃない。地上の暗闇を照らすための、たった一本の情報の導線なの」

マリアは、二人の表情を見た。そこには、恐怖もあった。しかし、それ以上に強い決意があった。

「わかりました」

彼女は、深く頷いた。

「あなた達がそう言うのは、今までのお二人を見ていればわかります。しかし、従来の警護では不十分です。ザカリアは、あなたたちの居場所だけでなく、発信する情報すべてを監視しているでしょう」

マリアは、タブレットを取り出した。

「なので、これから、あなたたちには『透明な監獄』に入ってもらいます」

浩が尋ねた。

「透明な監獄?」

「はい。外部ネットワークから完全に遮断された、オフライン・シェルターです」

マリアは、施設の図面を表示した。

「地下に構築された研究施設。外部との通信は、暗号化された専用回線のみ。インターネットへのアクセスは一切できません」

洋子が反論した。

「それでは、研究データの共有ができません」

「できます。しかし、物理的に同じ場所にいることはリスクです」

マリアは、別の図面を表示した。

「浩博士はニューヨークのシェルター。洋子博士は、太平洋の無人島研究所。二人を世界の裏側に引き離します」

「そして、高度に暗号化されたメッシュネットワーク上でのみ、顔を合わせてください」

浩と洋子は、互いを見た。物理的に引き離される。それは、これまでの協働方法を根本から変えることを意味した。

「これは警護ではない」

マリアは、冷徹に言った。

「あなたたちという『人類の資産』を、汚染から守るための防腐処理よ」

「では、直ちに準備を開始します。浩博士は今夜中にニューヨークのシェルターへ。洋子博士は明後日朝、太平洋の無人島へ」

マリアは、セキュリティチームに指示を出した。

「両施設への移動は、最高機密扱い。ルートは直前まで伏せてください。移動中は防弾車両と武装ヘリコプター。到着後は、完全なオフライン環境を構築」

「了解しました」

セキュリティ担当官が、即座に動き始めた。

浩と洋子は、互いを見た。これが、しばらくの間、物理的に会える最後の機会かもしれない。

言葉は交わさなかった。しかし、二人とも同じことを考えていた。

たとえ世界の裏側に引き離されても、彼らの協働は続くのだ、と。


時刻: 1月11日 午前10時00分

場所: サウジアラビア、メッカ郊外

イブラヒム・アル=ファディルは、自分のテントで深く考え込んでいた。

ザカリアの攻撃。七名の死者。そして、浩と洋子への脅迫。

「これは……間違っている」

彼は、長年信じてきた道を振り返った。

かつて、彼は天文学者だった。宇宙の美しさに魅了され、星々の運動を研究していた。夜空を見上げることが、何よりの喜びだった。しかし、ある日、彼は信仰に目覚めた。

科学は「how」を説明できる。どのように星が動くか。どのように物質が反応するか。しかし、「why」は説明できない。なぜ宇宙は存在するのか。なぜ人間は生まれたのか。

その答えを、彼は信仰に求めた。

科学と信仰は、矛盾しない。そう彼は信じていた。科学は神の業を理解する手段であり、信仰は人生に意味を与える。両者は補完関係にある。

しかし今、ザカリアは暴力によって科学を否定しようとしている。

「これは……神の意志ではない」

イブラヒムは、決断した。

彼は、側近を呼んだ。

「全穏健派の指導者を集めてください。緊急会議です」


時刻: 1月11日 午後2時00分

場所: サウジアラビア、メッカ郊外

穏健派の指導者たち、約五十名が集まった。テントの中は、緊張に満ちていた。皆、何が起こるのかを予感していた。

イブラヒムが立ち上がった。

「皆さん、私たちは岐路に立っています」

彼は、ザカリアの攻撃について説明した。十二箇所の施設破壊。七名の死者。そして、科学者への脅迫。

「ザカリアは、暴力によって科学を破壊しようとしています。しかし、これは間違っています」

一人の指導者が尋ねた。

「しかし、イブラヒム師。軌道エレベータは、神への冒涜ではないのですか?」

「いいえ」

イブラヒムは、明確に答えた。

「それは、神が人間に与えた知恵の結晶です。神は、人間に理性を与えました。その理性を使って問題を解決することは、神への冒涜ではありません」

別の指導者が反論した。

「しかし、経典には『高慢になるな』と書かれています」

「高慢とは、自分の力を過信することです」

イブラヒムは説明した。

「しかし、科学者たちは高慢ではありません。彼らは、自然法則に謙虚に従っています」

彼は、一呼吸置いた。

「むしろ、暴力によって他者を支配しようとするザカリアこそ、高慢なのです」

会議室が、静まり返った。

多くの指導者たちが、頷いている。しかし、一部は躊躇していた。天啓の教団を離れることは、人生を変える決断だった。

イブラヒムは、最終的な提案をした。

「私は、天啓の教団を離れます。そして、新しい組織を作ります」

「新しい組織?」

「はい。『地球信仰』。科学と信仰が共存する、新しい信仰の形です」

イブラヒムは、会議室を見渡した。

「そして、私はIGDEに協力します。科学者たちを支援します」

会議室が、一瞬静まり返った。

そして、爆発した。

「師よ、待ってください!」

中堅の指導者、ファリド・アル=ナスルが立ち上がった。彼は、テント都市の食料配給を管理している実務家だった。

「我々のテント都市の食料配給は、ザカリアの息がかかった自警団が管理しています。独自通貨の発行システムも、彼らのサーバーにある」

ファリドの声が、震えた。

「今離脱すれば、八千万人の信者は明日から飢えることになります」

別の指導者、ハッサン・イブン=マリクが続けた。彼は、治安維持を担当していた。

「ザカリアを切り捨てれば、我々は彼らにとって『守るべき同胞』から『排除すべき裏切り者』に変わります」

ハッサンは、窓の外を見た。そこには、武装した自警団が巡回している。

「武器を持たない我々が、どうやって過激派の襲撃から家族を守るのですか?」

さらに別の声が上がった。

「理想は分かります! だが、ザカリアの連中は銃を持っている。我々がここを出ようとした瞬間、彼らは背中を撃つでしょう!」

会議室は、混乱に陥った。恐怖と懸念が、渦巻いている。

イブラヒムは、静かに手を上げた。

「分かっています」

彼の声は、穏やかだった。しかし、その奥に揺るぎない決意があった。

「だからこそ、私はマリア・ロドリゲスと密約を結びました」

会議室が、再び静まり返った。

イブラヒムは、タブレットを取り出した。そこには、IGDEとの合意文書が表示されている。

「三段階の脱却プランです」

彼は、最初のページを開いた。

「第一段階。物資とインフラの公的切り替え」

「IGDEは、ザカリアの独自ルートに代わり、各国政府を通じて穏健派の居住区へ直接、食料と医薬品を空輸します。既に、最初の輸送機が待機しています」

ファリドが、息を呑んだ。

「本当ですか?」

「はい。そして、ザカリアに握られた独自通信網を捨て、IGDEが提供する復興用衛星通信端末へ一斉に切り替えます」

イブラヒムは、次のページを開いた。

「第二段階。治安維持の正規化」

「武力すべてがザカリアの味方ではありません。自警団の中でも暴力を嫌う層を『秩序維持部隊』として再編します」

ハッサンが尋ねた。

「それだけで、ザカリアの攻撃を防げますか?」

「いいえ。だからこそ、マリアを通じて各国政府に交渉しました」

イブラヒムは、地図を表示した。テント都市の周囲に、青い線が引かれている。

「穏健派居住区を、保護対象の難民キャンプとして認定させました。我々が『地球信仰』を宣言した瞬間、IGDEの要請を受けた各国の平和維持軍が、この拠点の周囲に非武装地帯を構築します」

「我々はもはや、過激派の暴力に依存して生きる必要はありません」

会議室に、希望の光が差し込み始めた。

イブラヒムは、最後のページを開いた。

「第三段階。『地球信仰』の経済的裏付け」

「新通貨を発行します。そして、この通貨を、将来的にIGDEの復興事業における労働対価として使用可能にします」

経済担当の指導者、アリ・サイードが驚いた。

「IGDEが、我々の通貨の価値を担保してくれるのですか?」

「はい。実質的に、です。これにより、教団内の経済をザカリアから切り離します」

イブラヒムは、タブレットを閉じた。

「ザカリアが握っているのは、『恐怖』という名の古い鍵です」

彼は、会議室を見渡した。

「私は皆さんに、科学と連携した『生存』という新しい鍵を渡したい」

一人の指導者が、立ち上がった。

「師よ、一つ質問があります。なぜ、IGDEはそこまでしてくれるのですか?」

「簡単です」

イブラヒムは、微笑んだ。

「彼らは、八千万人の支持者を必要としています。世界の世論を動かすために」

「そして、我々は生存のためのインフラを必要としている。これは、互恵関係です」

別の指導者が、ゆっくりと立ち上がった。年配の指導者、ユスフ・アル=ハキムだった。

「イブラヒム師、私はあなたに従います」

「私も」

「私も」

次々と、声が上がった。今度は、恐怖ではなく希望に満ちた声だった。

イブラヒムは、深く頷いた。彼の目には、涙が浮かんでいた。しかし、それは悲しみの涙ではなかった。

「ありがとう。これから、困難な道のりが待っています。しかし、私たちは正しいことをしているのです」

会議は、三時間続いた。そして、最終的に穏健派の大多数が、イブラヒムに従うことを決めた。


時刻: 1月12日 午前9時00分

場所: IGDE危機管理センター

マリアの携帯電話が鳴った。

画面に表示された名前。イブラヒム・アル=ファディル。

彼女は、即座に電話に出た。

「ロドリゲス事務次長、私はイブラヒムです」

「イブラヒム師、お久しぶりです」

マリアの声には、緊張があった。イブラヒムからの電話は、常に重要な意味を持つ。

「重要なお知らせがあります」

イブラヒムは、自分の決断を説明した。落ち着いた声。しかし、その奥に強い決意があった。

「私は、密約通り天啓の教団を離れました。そして、IGDEに協力したいと思います」

マリアは安堵を感じた。

「それは……本当ですか?」

「はい。私の信者、約八千万人も、私に従います。我々は、プロジェクト・アセンションを支援します」

八千万人。それは、わかっていてもやはり巨大な数だった。

「イブラヒム師...ありがとうございます」

彼女の声が、かすかに震えた。

「しかし」

イブラヒムの声が重くなった。

「ザカリアは、私を裏切り者と見なすでしょう。彼の攻撃は、さらに激化します」

「覚悟しています」

「堀川博士と桜井博士を、守ってください。彼らは、人類の希望です」

「必ず守ります。なので、穏健派の皆さんも約束通りの協力をお願いします」

電話が切れた後、マリアは浩と洋子にこのニュースを伝えた。

「イブラヒム師が、私たちに協力してくれます」

「それは...素晴らしいニュースです」

洋子が言った。彼女の表情に、初めて安堵が浮かんだ。

「しかし、過激派の怒りも増すでしょう」

浩が続けた。

「ザカリアは、今まで以上に危険になる」

マリアは頷いた。

「戦いは、これからです」

彼女は、窓の外を見た。ニューヨークの街並み。青い空。

青い空は美しい。

浩と洋子も、それそへれの場所で沈黙していた。三人とも、同じことを考えていた。

イブラヒムの決断は、状況を大きく変えた。八千万人の支持者。それは、プロジェクトにとって大きな力になる。

マリアは、それが正義ではなく取引であることを理解していた。


時刻: 1月12日 午後6時00分

場所: 世界各地

イブラヒムの決断は、世界中に大きな波紋を広げた。

天啓の教団の分裂。

穏健派、イブラヒム派。約八千万人が「地球信仰」に改宗した。過激派、ザカリア派。約二億七千万人が残留した。

穏健派の離脱により、過激派の純度は高まった。もはや、内部からの抑制力は存在しない。ザカリアの意志が、直接的に組織を動かす。

だが一方で、イブラヒムとマリアの密約が、即座に実行に移された。

緊急安保理を招集し、各国の代表や首脳陣の反対を半ばねじ伏せる様に説得した結果である。

世界各地の穏健派居住区に、IGDEの輸送機が到着した。

食料。医薬品。通信機器。

ザカリアの配給網を経由せず、直接、穏健派の手に渡され、各国の平和維持軍が、穏健派居住区の周囲に展開を開始した。

穏健派の指導者たちは、安堵の息をついた。もはや、ザカリアの自警団の暴力を恐れる必要はない。

そして、穏健派の通信網が、IGDEの衛星通信端末に切り替えられた。

ザカリアが管理していた独自メッシュネットワークから、完全に分離。

穏健派の八千万人が、ザカリアの支配圏から離脱した。


時刻: 1月12日 午後8時00分

場所: サウジアラビア、ザカリアの本部

ザカリアの執務室に、緊急報告が次々と入ってきた。

「ザカリア師、穏健派居住区へのIGDE輸送機が着陸しました」

「平和維持軍が、穏健派の周囲に展開しています」

「穏健派の通信が、我々のネットワークから切断されました」

ザカリアは、モニターを見つめていた。そこには、リアルタイムの状況が表示されている。

昨日まで、一日あたり五億人分の食料を流通させていた食量網の数字が三億人に減少した。

穏健派が離脱したことで、物流の効率が落ち、配給が滞り始めている。

ザカリアが発行していた通貨の三十パーセントが穏健派の口座にあった。

今日、その口座が凍結され、通貨の流通量が急減した。

勢力圏だけで通用する通貨価値が、一気に高騰し始めている。

ザカリアは、拳を握りしめた。

「イブラヒム...」

彼の声は、低く、怒りに満ちていた。

側近の一人、ハッサン・アル=マフディが報告した。

「ザカリア師、さらに悪い知らせがあります」

「何だ」

「IGDEが、穏健派の新通貨に価値担保を与えると発表しました。復興事業の労働対価として使用可能にする、と」

ザカリアは、テーブルを拳で叩いた。

「そこまでするのかっ」

側近たちが、息を呑む。

ハッサンが続けた。

「そして...我々の自警団の一部が、穏健派に寝返りました。約二千名が、『秩序維持部隊』として再編されたと」

ザカリアの目が、鋭くなった。

「何?」

「彼らは、暴力を嫌っていた層です。イブラヒムが、彼らに『正規軍としての地位』を約束したようです」

ザカリアは、立ち上がった。

「イブラヒムを何としても探し出せ」

別の側近が答えた。

「しかし、イブラヒムは既にサウジアラビアを出国しています。現在、国連の保護下にあります」

ザカリアは、窓の外を見た。テント都市が広がっている。しかし、その一部に亀裂が入っている。穏健派の居住区。そこには、今、国連の旗が掲げられていた。

「ならば、別の方法で報復する」

ザカリアの策は、まだ尽きたわけではない。

「イブラヒムは、IGDEに協力すると宣言した。ならば、IGDEを破壊すれば、彼の支持基盤も崩壊する」

ハッサンが尋ねた。

「具体的には?」

「堀川浩と桜井洋子。彼らを排除する」

ザカリアは、モニターに二人の写真を表示した。

「彼らがいなければ、軌道エレベータは建設できない。プロジェクトが崩壊すれば、IGDEの威信も地に落ちる」

「そうすれば、イブラヒムは後悔するだろう。『科学との協力』が、いかに無意味だったかを思い知るだろう」

ザカリアは、神の剣の精鋭部隊を招集した。彼らの目にある光は、ザカリアのそれではない。狂信的な光であった。

「これは、聖戦だ」

ザカリアは、精鋭たちに告げた。

「成功すれば、あなたたちは殉教者として天国に迎えられる」

精鋭たちは、熱狂で応えた。

「準備を始めろ。標的は、堀川浩と桜井洋子。彼らの居場所を突き止め、排除する」

「いつ実行しますか?」

「できるだけ早く。しかし、慎重に。失敗は許されない」

ザカリアは、別の指示も出した。

「IGDEの輸送機が着陸する前に、滑走路を破壊しろ」

「自警団の裏切り者たちは、見せしめに処刑しろ」

「独自通貨を持つ者たちに、『IGDEの新通貨は詐欺だ』と宣伝しろ」

側近たちは、次々と指示を受け取り、散っていった。

ザカリアは、一人残された。

彼は、窓の外を見た。砂漠の夜空。星々が輝いている。

美しい。

しかし、その星々も、今は彼にとって敵だった。イブラヒムは、かつて天文学者だった。星を愛していた。

そして今、科学に魂を売った。

「イブラヒム、お前は間違った道を選んだ」

「そして、その代償を払うことになる」

ザカリアの目には、冷徹な計算があった。

彼にとって、元よりこれは信仰の戦いではない。

信仰を使った、生存競争だった。

イブラヒムとIGDEが構築した新しいシステムが成功すれば、ザカリアの支配は終わる。

だからこそ、それを破壊しなければならない。

単純な理論なのだ。


時刻: 1月12日 午後8時00分

場所: ニューヨーク、不明

浩と洋子は、厳重に警備された宿泊施設にいた。部屋の外には、武装警備員が二名。建物の周囲には、機動隊が配置されている。

二人は、窓から外を見ていた。ニューヨークの夜景。

無数の光。

美しい。

「洋子さん」

浩が言った。

「向こうに着いて、ネットワークがつながったら、また、ケーキの話でもしてください」

「あちらにあれば、いいんですけどねぇ」

洋子は答えた。

「ええ。ありますよ、きっと」

二人は、互いを見た。言葉にならない理解が、そこにあった。

彼らは、科学者だった。真実を追求し、問題を解決する。それが彼らの使命だった。

「そして、研究を続けましょう」

「はい。ステラーカーボンの改良。まだやることがあります」



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