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氷雨の黙示録  作者: 唯野眠子
第2章-水の黙示録
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12/80

第2-7話 終わりの始まり

時刻: 1月8日 午前2時00分

場所: IGDE危機管理センター

科学者たちが、モニターの前に集まっている。睡眠不足で疲れた顔。

しかし、その目には興奮の光があった。

大型スクリーンには、L4ラグランジュ点の画像が表示されている。

巨大な円盤状の構造物。直径は約5キロメートル。明らかに人工的な形状。

洋子は、画像解析ソフトウェアを使って、構造物の詳細を分析していた。

「表面には...損傷の痕跡があります」

彼女は、画像を拡大した。無数の小さなクレーター。

「隕石の衝突跡です。そして、ここ...宇宙線による劣化も見られます」

洋子は、年代推定の計算を実行した。

損傷の深さ、宇宙線による変質の度合い、それらから逆算する。

数分後、結果が表示された。

「推定年齢...約4億年」

「4億年...」

浩が呟いた。

「氷塊と同じ時代ということか」

彼は、氷塊の年代測定結果を表示した。両者の数値が、ほぼ一致している。

マリアが尋ねた。

「これは、宇宙船ですか?」

洋子が頷いた。

「おそらく。構造から判断すると、恒星間航行が可能な宇宙船、のように思えます」

彼女は、構造の分析結果を表示した。

「円盤状の形状は、回転による人工重力を生成するためのものと推測されます」

浩が、別の分析結果を表示した。

「中央部に、推進システムと思われる構造があります」

彼は、スペクトル分析のデータを示した。

「この部分から、異常な放射線パターンが検出されています。おそらく、高エネルギー推進系ですね。これが推進システムならば、ですが」

「そして、周辺部には居住区と思われる区画が...」

洋子が、別の画像を表示した。

しかし、その居住区は、破壊されていた。大きな穴が開いている。内部構造が、宇宙空間に露出している。

「しかし、全てが破壊されています。この宇宙船は...もう機能していないでしょうね」

センター内が、静まり返った。

4億年前の宇宙船。

そして、それは死んでいる。

マリアが決断した。

「探査ミッションを立ち上げます。無人探査機を派遣し、詳細を調査するのです」

「軌道エレベータのリソースを割くのですか?」

スケジュールに影響する項目を、浩は放置するわけにはいかない

「氷雨の構造を、軌道エレベータに使える、と発見したのはあなた達でしょう」

マリアはこともなく答えた。


時刻: 1月8日 午後2時00分

場所: サウジアラビア、メッカ郊外

イブラヒムの顔には、怒りと悲しみが浮かんでいた。

天啓の教団の勢力は、氷雨終了後もさらに拡大しており、現在の信者数は既に5億人。

テント都市は、さらに巨大化し、数百万人が、ここに集まっている。

宗教家としては申し分ないであろう。しかし、...

教団本部では、イブラヒムとザカリアが再び対峙していた。

「ザカリア、ボリビアの観測所での攻撃は...行き過ぎです」

彼の声は、震えていた。

「ミゲル・コルテス博士には妻と二人の子供がいたのですよ?」

ザカリアは、冷ややかに答えた。

「それは殉教です。摂理のための犠牲です」

「殉教?」

イブラヒムの声が、高まった。

「彼は私たちの敵ではありません。ただ、自分の仕事をしていただけです。気象を観測し、人々を救おうとしていただけです」

ザカリアは、椅子に深く座り直した。

「イブラヒム師、あなたは物事の本質を見誤っています」

彼の声は冷やかだった。計算された冷静さであり、狂信者のそれではない。

「これは、政治的取引なのです」

「政治的取引?」

イブラヒムは、眉をひそめた。

「そうです。私は、IGDEに我々の要求を認めさせるための交渉材料を作っています」

ザカリアは、書類を取り出した。

「教団の自治権認可。過去の超法規的活動の免責。そして、復興後の政治的地位の保証」

「これらを獲得するためには、我々は力を持たなければなりません。交渉できるだけの力を」

イブラヒムは、書類を見た。そこには、詳細な要求事項が記されていた。

「しかし、暴力で...」

「暴力しかありません」

ザカリアは、立ち上がった。

「イブラヒム師、考えてみてください。IGDEが成功すれば、世界は元の国家体制に戻ります」

「その時、氷雨の最中に泥をすすって物資を奪い合い、手を汚して同胞を守った『我々』は、どうなりますか?」

ザカリアの目が、鋭くなった。

「ただの犯罪者として裁かれるのです」

彼は、イブラヒムに近づいた。

「あなたは、我々の働きで得たパンを食べながら、最後には我々を科学者に売り渡して、自分たちだけ赦しを得るつもりでしょう」

「そんなことは...」

「そんなことはない?」

ザカリアは嗤った。

「しかし、現実はそうなります。穏健派は生き残り、過激派は消される。それが、権力の論理です」

彼は、窓の外を見た。テント都市が広がっている。氷の雨は美しかった。

「それは後付けの理屈でしょう。あなたの信仰と信念を守るためだけの」

イブラヒムはそう反論した。しかし、

「そして、もう一つ」

ザカリアは、ゆっくりと人差し指を立てながら言った。

「我々の経済圏は、既存の経済が死んでいるからこそ――」

ザカリアは、言葉を切った。

ほんの一瞬、視線が逸れる。

「……だからこそ、守らなければならない」

「労働交換、独自通貨、物々交換。これらは、ドルや円が機能していないからこそ力を持っています」

「しかし、世界が安定し、基軸通貨が価値を取り戻せば...」

「我々の経済圏は崩壊します。私が握っているリソースの支配力は消滅します」

ザカリアは、イブラヒムを見た。

「教団という独立国家を維持するためには、外敵が必要なのです。科学という、わかりやすい敵が」

イブラヒムは何かを言おうと、言葉を探した。

その時、部屋の隅にいた男が声を上げた。

ザカリアの副官、ハッサン・アル=マフディ。

「ザカリア師の言う通りです」

ハッサンは、前に出た。

「我々は野盗から人々を守ってきました」

「穏健派の信者たちも、それを知っています。『ザカリアのやり方は怖いが、彼がいなければ自分たちは野盗に殺されていた』と」

「イブラヒム師、あなたの美しい言葉だけでは、人は守れないのです」

ザカリアは振り返り、控えるハッサンを見ながら語った。

イブラヒムは、深く息を吸い込み、そして吐いた。

ザカリアの言葉を胸に吸い込んだかのように。

「ザカリア、私はあなたの懸念を理解しています」

イブラヒムの声が、静かになった。

「そして、私はあなたの自警団の活動も把握しています」

彼は、数枚を束ねたメモを取り出した。

「物資の配分における特権化。自警団のメンバーが、優先的に食糧を受け取っている」

「一般の信者には1日2食。しかし、自警団には3食。そして、より質の高い食事」

ザカリアの目が、わずかに細くなる。

「あなたたちにとって、混乱の継続は『特権階級であり続けるための条件』ではありませんか?」

「私は、そこまで無理解なトップではない、つもりです」

彼は、ザカリアがしたように書類を広げた。

「第一に、あなたの自警団を解散させるのではなく、IGDE公認の『復興支援部隊』として再編します」

「将来の警察・軍事組織への優先採用を、IGDEに約束させます」

「第二に、このテント都市を『実験的自律都市』としてIGDEに認めさせます」

「あなたたちが築いた経済の仕組みを破壊せず、むしろ公的な制度へと格上げします」

イブラヒムは、続けた。

「そして第三に、『殉教』を再定義します」

「暴力的破壊ではなく、建設という困難に立ち向かうことを『新たな殉教』と位置づけます」

「過激派のエネルギーを、破壊から復興へと転換させるのです」

イブラヒムは、ザカリアに向けて両手を差し広げた。

「一緒に、新しい道を歩みましょう」

ザカリアは、しばらくイブラヒムの手を見つめていた。

目を閉じて上を向き、じっと何かを考えているようだった。そして、イブラヒムの方を向き直すと、首を横に振った。

「イブラヒム師、それは強者の施しに過ぎません」

彼は、ゆっくりと吐き出すように言った。

「『公認』される。『認めさせる』。『格上げする』」

「全て、IGDEの許可が前提です。つまり、我々は管理される側に戻るということです」

「私は、依存を拒否します」

「公認されるということは、IGDEの予算やシステムに依存する、すなわち、生殺与奪の権を、再び科学者に握られることです」

ザカリアの目に火が灯る。

「私たちは、混乱期に手を汚しました。人を殺し、物資を奪い、野盗と戦いました」

「平和な世界では、これらは必ず『過去の罪』として掘り返されます」

「今、力を持っているうちに『対等な交渉相手』としての地位を暴力で勝ち取らなければ、未来はありません」

イブラヒムは、ザカリアを見つめた。

「ザカリア、それは...」

「血の川を流し、交渉のテーブルそのものをひっくり返す」

ザカリアは、宣言した。

「IGDEが最も痛がる『成果』を人質に取ります」

「そして、私がルールを作る側に回る」

イブラヒムは、言葉を失った。

ザカリアは、扉に向かった。

「イブラヒム師、あなたは良い人です。それは間違いないと信じている。しかし、...」

彼は、その先の言葉を飲みこむと扉を開けた。

「これから起こることを止められるのは、あなただけです。IGDEの計画を中止させなさい」

ザカリアは、出て行った。

イブラヒムは、携帯電話を取り出した。

画面を見つめ、親指を浮かせ...そのまま、机の上に置いた。

テーブルに両手をつき、しばらく動かなかった。

やがて、もう一度携帯電話を手に取った。


時刻: 午後6時00分(東部時間正午)

場所: IGDE危機管理センター

マリアの携帯電話が鳴った。

発信者表示: 「Unknown」

彼女は、警戒しながら電話に出た。

「はい、ロドリゲスです」

「ロドリゲス事務次長、私はイブラヒム・アル=ファディルです」

マリアは、驚いた。

彼女は、情報分析官のサラ・チェンに合図した。二人は、即座に録音を開始した。

「イブラヒム師...なぜ私に?」

「警告です」

イブラヒムの声は、深刻だった。

「ザカリアが、次の攻撃を計画しています。規模は、ボリビアの比ではありません」

マリアの表情が、緊張した。

「どこを標的にしていますか?」

「わかりません。しかし、彼は『血の川が流れる』と言いました」

「イブラヒム師、なぜ私に教えてくれるのですか?」

マリアが尋ねた。

「あなたも教団のリーダーでしょう」

イブラヒムは声を詰まらせた。

「ザカリアは、もはや制御できません。彼は狂信者です」

「あなたは、私たちに協力してくれますか?」

イブラヒムは、しばらく沈黙した。

マリアは、彼の呼吸音を聞いた。重く、深い呼吸。

「私にできることは限られています」

イブラヒムが、ようやく答えた。

「しかし...はい、協力します」

「ありがとうございます」

マリアの声に、安堵が滲んだ。

「しかし、条件があります」

「何ですか?」

「私の信者たち、穏健派を守ってください」

イブラヒムの声が、懇願するようになった。

「ザカリアの過激派は、私たちを攻撃するでしょう。『裏切り者』として」

「そして、国際社会も『天啓の教団』として」

マリアは、約束した。

「わかりました。IGDEの権限で、各国政府に保護を要請します」

「ありがとうございます」

「私は、できる限りの情報を提供します。ザカリアの動きを監視します」

「連絡先は?」

「この番号です。24時間、繋がります」

電話が切れた。

マリアはサラを見た。

「記録は?」

「完璧に取れています」

「すぐに全施設に警告を出します」

「そして、各国の治安機関に協力を要請します」

事態は、新たな局面に入った。


時刻: 1月9日 午前10時00分

場所: IGDE科学諮問委員会

大会議室には、世界中から招集された科学者たちが集まっていた。

天文学者、物理学者、生物学者、惑星科学者。約50名の専門家。

発表のタイトルは『氷塊が地球外文明によって製造された探査装置であることの可能性の考察』と書かれている。

洋子は、過去3週間のデータを統合し、最終的な分析結果を発表していた。

「氷塊の詳細分析により、以下のことが確認されました」

彼女は、電子顕微鏡画像を表示した。

氷の結晶構造。しかし、それは通常の氷とは異なっていた。

「第一に、結晶構造の規則性」

洋子は、拡大画像を表示した。

「この構造は、六方晶系の変形です。しかし、通常の氷Ihとは異なり、特定の方向に規則的な配列が見られます」

「これを、自然形成する理論は現在のところありません」

次の画像。氷塊の内部構造。

「第二に、空洞のネットワーク」

洋子は、3Dレンダリング画像を表示した。氷塊の内部に、複雑な空洞のネットワークが広がっている。

「この空洞は、ランダムではありません。明確なパターンがあります」

彼女は、パターン解析の結果を表示した。

「これは、情報を保存するための構造と推測されます。いわば、氷で作られたハードディスクです」

委員会のメンバーが、ざわめいた。

浩が、続けた。

「軌道計算からも、人工的な軌道修正の痕跡が確認されています」

彼は、軌道図を表示した。複雑な曲線が、3次元空間に描かれている。

「この軌道は、自然な重力摂動では説明できません」

浩は、比較データを表示した。

「自然な軌道の場合、木星や土星の重力により、このような軌道になるはずです」

赤い線が表示される。

「しかし、実際の軌道は、これです」

青い線が表示される。二つの線は、明らかに異なっていた。

「この差は、意図的な軌道修正によるものです。つまり、氷塊は推進装置を持っていることを意味します」

「そして、地球に向けて、意図的に送られてきました」

メンバーから質問があった。

「どこかに向けて送った先に、偶然地球があった可能性は?」

「...確かに、その可能性はありますね。地球がなかったものとして、氷塊を送る可能性がある惑星や空間を、後で検討します」

浩は自分の思い込みを少し反省した。

そして、洋子が、結論を述べた。

「つまり、氷塊は約4億年前に高度な地球外文明によって製造された探査装置です」

彼女は、一呼吸置いた。

「私たちは、これを『ケフィリアン・プローブ』と呼ぶことを提案します」

委員会のメンバーから、質問が飛んだ。

「その文明は...どうなったのですか?」

アメリカの天文学者が尋ねた。

洋子が、L4ラグランジュ点の画像を表示した。

破壊された宇宙船。

「おそらく、滅びました。この宇宙船は、彼らの墓標かもしれません」

浩が、別のデータを表示した。

「宇宙船の損傷パターンを分析しました」

彼は、損傷部位を赤くハイライトした画像を表示した。

「損傷は、主に内部から発生しています。外部からの攻撃の痕跡は、わずかです」

「内部の破壊?」

中国の物理学者が尋ねた。

「はい。内戦、あるいは自己破壊的な技術の暴走、いろいろ考えられますが、確かなことは内部からの破壊によるもの、ということです」

浩は、別の画像を表示した。

「この損傷パターンは、高エネルギー兵器による破壊と一致します。しかし、それは外部からではなく、内部から発射されたものです」

洋子が続けた。

「私たちは、探査機を派遣し、宇宙船内部を調査する予定です」

彼女は、探査ミッションの概要を表示した。

「そこに、彼らのメッセージが残されているかもしれません」

「メッセージ?」

日本の惑星科学者が尋ねた。

「はい。彼らが、なぜ滅びたのか。そして、私たちに何を伝えたいのか」

洋子は、氷塊の内部構造画像を再び表示した。

「この空洞ネットワークに保存されている情報を解読できれば、答えが見つかるかもしれません」

「しかし、氷塊の大部分は、大気圏で蒸発しました」

ヨーロッパの生物学者が指摘した。

「情報は失われたのでは?」

「一部は失われました」

浩が答えた。

「しかし、いくつかの氷塊は、地上や海上で回収されています。約500個のサンプルがあります」

「それらを分析すれば、断片的ですが、情報を復元できる可能性があります」

洋子が続けた。

「既に、解析チームを編成しています。量子コンピュータを使って、データの復元を試みています」

委員会の議長が、まとめを求めた。

「つまり、私たちは今、何を知ったのでしょうか?」

洋子と浩は、顔を見合わせた。

「4億年前、高度な文明が存在しました。彼らは、恒星間航行の技術を持っていました。しかし、彼らは滅びました。内部から」

浩が続けた。

「そして、彼らは私たちに何らかのメッセージを送ったのだと推察されます。氷塊という形で」

「ですが、私たちが受け取れたのは、氷雨による災害だけです。滅びていなければ、正しいメッセージを犠牲者なしで受け取れたでしょう」

洋子が結論を述べた。

「メッセージというならは、それが、ケフィリアンのメッセージとなります。彼らの意図とは別の意味になりますが」

全員が、頷いた。


時刻: 1月9日 午後3時00分

場所: IGDE危機管理センター

マリアは、各国政府への緊急報告を準備していた。

彼女のデスクには、膨大な資料が積まれている。氷塊の分析結果、L4ラグランジュ点の宇宙船の画像、そして各国への報告書の草稿。

浩が尋ねた。

「氷塊が地球外文明の探査機である可能性を、各国に報告するんですか?」

「はい」

マリアは、頷いた。

「これ以上隠蔽することはできません。そして、これは人類全体に関わる発見です」

洋子が懸念を表明した。

「しかし、これが公表されれば...社会的な混乱が起きるのでは?」

「人々には真実を知る権利があります。そして、真実を隠蔽し続けることは、長期的にはより大きな混乱を招きます」

「正しい判断かどうかは、後に誰かが決めるでしょう」

マリアはそう言って、指示を出し、また、報告書を読み直しはじめた。

ページを前後に何度も指で繰る。目線が忙しなく上下に動いている。

その時、セキュリティ部門から緊急連絡が入った。

「ロドリゲス事務次長、不審な活動を検知しました」

マリアは、即座に応答した。

「どこですか?」

「世界各地のIGDE関連施設周辺で、教団の過激派メンバーと思われる人物が確認されています」

モニターに、監視カメラの映像が表示された。

筑波の材料開発施設。黒い服を着た男たちが、施設の周辺を歩いている。

マサチューセッツの研究所。同様の人物が、建物を撮影している。

ジュネーブの計算センター。複数の不審者が、周辺に集まっている。

「イブラヒム師の警告...血の川」

洋子が呟いた。

「全施設に警戒レベル最大を発令。職員の避難準備を開始してください」

「了解しました」

「そして、各国の治安機関に緊急連絡を。テロ攻撃の可能性があると」

スタッフが、次々と電話をかけ始めた。

マリアは、浩と洋子を見た。

「二人とも、今夜は本部に泊まってください」

彼女の声は、命令口調だった。

「外出は危険です」

浩と洋子は、頷いた。

「わかりました」

マリアは、窓の外を見た。

ニューヨークの街。通常通りに見える。

しかし、その平穏は、脆いものだった。

いつ、崩れてもおかしくない。

「イブラヒム師に連絡を」

マリアが指示した。

「より詳細な情報が必要です」

攻撃は、いつ来てもおかしくなかった。

マリアは、入念な指示をした。

「重要な研究データを、全てバックアップしてください。複数の場所に」

「データが失われれば、プロジェクトは終わります」

量子シミュレーションのデータ、材料開発のデータ、建設計画のデータ。

全てを、クラウドサーバーにアップロードする。

そして、物理的なバックアップも作成する。

万が一に備えて。

夜とともに、何かが来る。

マリアは、なぜかそれを感じていた。


時刻: 1月9日 午後11時00分

場所: 同上

浩と洋子は、仮眠室で休息を取っていた。

深夜だがIGDE本部は、厳戒態勢下にあった。

建物の周囲には、武装した警備員が配置されている。入口には、検問所が設置され、全ての来訪者が厳重にチェックされていた。

こんな状況では、さすがに二人とも眠れなかった。

「洋子さん、起きていますか?」

浩が、隣の部屋に声をかけた。

「眠れませんね。夜食もそっけなかったですし」

洋子が、浩の部屋に来た。

彼女も、疲れた表情をしていた。しかし、目は冴えていた。

二人は、窓際に座った。

外は、厳重な警備が敷かれている。武装した警備員が、巡回している。サーチライトが、建物の周囲を照らしている。

「これから、どうなるんでしょうね」

洋子が呟いた。

「わかりません。でも...」

浩は、夜空を見上げた。

雲の切れ間から、星が見える。

「私はですね、また、余計なことを考えずに、好きな研究に没頭する日々が戻ればいいな、と」

「そしてちょっと疲れたら、コーヒーを片手に甘いケーキを楽しむんです」

「俺は、甘いものはちょっと...でもお酒とかも好きなわけじゃないしなぁ...軌道エレベータはこれから作ってるし...」

二人は、そのまま何も言わず、ぼーっと空を見上げていたが、やがて洋子が口を開いた。

「私たちは...成功すると思いますか?」

浩は、洋子を見た。

甘いものの話をしていた時のような柔らかい表情は、そこには全くない。

「成功させます。必ず」

洋子は、すぐには頷かなかった。

「...必ず、ですか」

それでも最後には、静かに言った。

「そうですね。一緒に、頑張りましょう」

二人は、互いを見つめた。

そして、不思議な感覚を覚えた。

まるで、以前からずっと一緒に戦ってきたかのような既視感。

互いの思考が、自然に同期する感覚。

言葉を交わさなくても、相手が何を考えているかわかる、不思議な絆。

その時、遠くで音が響いた。

鈍い、爆発音。

浩と洋子は、窓から外を見た。

遠くの空が、オレンジ色に染まっている。

「あれは...」

洋子が息を呑んだ。

「火事...いや、爆発か?」

浩が言った。

彼は、スマートフォンを取り出した。ニュースアプリを開く。

速報が表示された。

「ブルックリンのIGDE関連施設で爆発。複数の負傷者」

浩は、即座にマリアに連絡した。

「マリアさん、ニュース...」

「知っています。今、状況を確認しています」

マリアの声は、苛立っていた。

「他の都市でも、同様の報告が入っています。東京、ロンドン、パリ...」

「同時多発攻撃...」

洋子が呟いた。

「はい。これは、宣戦布告です」

電話が切れた。

浩と洋子は、窓の外を見続けた。

遠くで、サイレンが鳴り響いている。

「行きましょう」

浩が言った。

「マリアさんを手伝いに」

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