7話
目を閉じて僕を待つ、朝比奈怜奈の顔。 薄暗い掃除用具入れの中。
(キス、するのか……?)
ほんの少し顔を近づければ、届いてしまう距離。彼女の柔らかい唇の感触が脳裏に蘇る。
甘い香りが、僕の理性を溶かそうとしていた。
(でも……ダメだ。外には結衣がいるんだぞ!ここでキスなんてしたら、僕は完全に引き返せなくなる。涼介だって裏切ることになる!)
でもーー
一瞬脳裏に朝比奈さんとキスした情景が浮かぶ。
絶対にダメだ!僕は震える手で勢いよく扉を押し開けた。
「……」
夕日が差し込む教室には、もう結衣の姿はなかった。
「……行った、みたいだね」
「うん……」
ロッカーから抜け出し、大きく息を吐く。助かった。なんとか最悪の事態は免れた。
でも、僕は隣に立つ朝比奈さんの顔を、どうしても正面から見ることができなかった。
「……残念」
ポツリと、彼女が呟いた。その言葉が痛かった。
「……ごめん。僕、行くから」
「……」
僕は何も考えられないまま、逃げるように教室を飛び出した。
* * *
カバンをひったくるようにして昇降口を抜け、校門へと向かう。
「あっ!蓮、どこ行ってたの?」
校門の前で、結衣が待ちくたびれたように頬を膨らませていた。
「あっ……あぁ。ゴメン! 先生にちょっと捕まってて……」
「……どうしたの?なんか顔、真っ赤だよ?」
「えっ、そ、そうかな?走ってきたからかも」
「ふーん?まあいいや。さあ、行こうっ♡」
結衣は無邪気に笑って、僕の腕に軽く触れた。さっきまで朝比奈さんと密着していた感覚が蘇って、僕はビクッと肩を震わせてしまった。
「うん……ゴメン。遅くなって」
引きつる笑顔を誤魔化しながら、僕は結衣と一緒に街へと歩き出した。
* * *
「ぬぬぬっ……!今日も取れないっ!」
ゲームセンターのクレーンゲームの前で、結衣がアームのボタンをバンバンと叩いた。中には、あの子猫のぬいぐるみが、憎たらしい顔で転がっている。
「惜しかったけどね、今のは」
「もう、お金なくなっちゃうよー……私のイメトレは完璧だったのにぃ」
涙目で僕を見上げてくる結衣の顔が、あまりにも子供っぽくて笑いがこみ上げてくる。
「クスクスッ」
「ちょっと!笑ってる場合じゃないよ!私、真剣なんだから!」
「あはは、ゴメンゴメン。でも、なんか可愛くてさ」
「っ……!」
結衣の顔が、一瞬でボンッと赤くなった。
「……急に、そんな事言うなっ!」
「うん。ごめん」
「……まあ、でも、たまにはいいかな。そういうのも」
照れ隠しのようにそっぽを向く結衣。 その態度は、付き合って一年経っても変わらない、僕の大好きな彼女そのものだった。
そのまま僕たちはゲーセンを出て、夕暮れの街を駅に向かって歩き出した。
「……もう、夏も終わったね」
「そうだね」
「このままさ、卒業まであっという間なんだろうね」
「……」
少しだけ涼しくなった風が、結衣の髪を揺らす。
「このまま……私も蓮も、地元から離れない予定だしさ」
「うん」
「このまま……続いていけるといいね、私たち」
結衣は立ち止まり、少しだけ不安そうに僕を見上げた。
「……うん。そうだね」
僕は、結衣の小さな手をそっと握った。結衣は嬉しそうにはにかんで、僕の手を握り返してくれた。
いつもの安心する結衣の手の感触。 僕が守るべき日常は、間違いなくここにある。
――それなのに。
繋いだ手の温もりを感じれば感じるほど、『残念』という朝比奈さんの声が、耳の奥から離れなかった。




