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第三話「側面を降りた」
側面を降りた者がいる、という話を聞いた。
ずっと昔の話だった。
その者は、柵を越えて、側面を降りた。
重力が変わっていく感覚の中を、降りた。
最初は横向きになり、やがて逆さまになった。
そして、下面に着いた。
どうなったか、という話は二つあった。
一つは、下面で暮らして、戻ってこなかったという話。
もう一つは、戻ってきたが、上面の重力に馴染めなくなっていたという話。
どちらが本当か、分からなかった。
しかし、どちらにしても、側面を降りた者は、元に戻らなかった。
男は、その話を何度も聞いた。
聞くたびに、側面のことを考えた。
重力が変わっていく感覚を、想像した。
ある朝、柵まで歩いた。
越えようとした。
止まった。
柵のところで、止まった。
隣に、誰かがいた。
女だった。
同じように、柵の向こうを見ていた。
「降りるつもりですか」と女は言った。
「考えていました」と男は言った。
「私も」と女は言った。
二人で、側面を見た。
垂直に続く側面を。
その向こうの、霧の中を。
「怖いですか」と男は言った。
「怖いです」と女は言った。「でも」
「でも?」
「見たいです」と女は言った。「下面を。逆さまの世界を。直接」
男も、そう思っていた。
(第三話 了)




