火番
夜半、カイは火の番をしていた。
リラは焚き火を挟んだ向こうで、本を抱えたまま眠っていた。眠るまでが早かった。あれだけのことがあった日だ。当然だった。
カイは眠らなかった。二時間ごとに交代という相手はいないから、朝まで一人だ。慣れていた。エルド・ラインの野営ではいつもそうしてきた。
手順は体に入っている。火の大きさを保ち、煙は最小限に抑える。風向きを確かめ、獣の声や枝の鳴りを数える。変化があれば、起きる前に体が動く。
そこまではいつも通りだった。いつも通りでないものが、一つだけあった。
野営地を選んだのは日暮れ前だ。カイは三つの候補を見た。一つ目は岩陰で、防御に向く。二つ目は高台で、視界が利く。三つ目がここだった。防御は並、視界も並。ただ地面の草が柔らかく、水の音が近かった。
選んだのは三つ目だった。
(……なぜだ)
火に枝を足しながら、カイは自分の判断を検分した。戦術的な最適は岩陰だった。分かっていて外した。地面が柔らかい方があいつがよく眠れる。水音があった方があいつが怖がらない。判断の中にそういう項が、いつの間にか増えていた。
計算が汚れている。
エルド・ラインの教官ならそう言うだろう。守るべき対象は変数であって、係数を狂わせるものであってはならない。ナイラを護衛していた時も、ヴェルナと組んでいた時も、この計算は正確だった。守る。ただし判断は独立に保つ。それができたから生き延びてきた。
なのに今夜の計算には最初から余計な項が入っていた。しかも外す気にならなかった。
焚き火の向こうでリラが寝返りを打った。
「……ん……ガレンは、そこで、竜に……」
寝言だった。寝言までおとぎ話だった。
カイは口元が緩みかけたのに気づいて、火に視線を戻した。
(笑うところじゃないだろ)
異界に飛ばされて機体はなく、帰る手がかりもない。守るべき王女とも、口やかましい副官とも切り離されている。状況はキャリアで最悪の部類だ。焦りはある。あるはずだ。手順として、あることになっている。
だが探してみると、胸の中の、いつも焦りの鳴っている場所が、今夜は妙に静かだった。
代わりに別のものがあった。焚き火の向こうの寝息と、腕の中の古い本と、「あなたを信じるわ」という声の残り。それらが静けさの正体だった。
(名前は、つけない)
いつかの夜、川辺で決めたことだった。つけてしまえばもっと欲しくなる。欲しくなれば失う時の計算が狂う。狂った計算は人を死なせる。だからつけない。
つけないが——
カイは立ち上がり、リラの側に回って、ずり落ちていた上掛け代わりの外套を肩まで引き上げた。リラは起きなかった。本だけを少し強く抱き直した。
(地図は濡らさない。冷やさない。……それだけだ)
理屈は通っているとカイは思った。地図が読めなくなればこの世界で迷う。だから守る。単純な任務の論理だ。
火のそばに戻って座り直す。
理屈は通っている。通っているはずなのに、外套を引き上げた自分の手が任務の手つきではなかったことを、カイは認めないことにした。
東の空はまだ暗かった。
夜明けまであと三時間。カイは枝を一本、火にくべた。




