お前は俺の地図だ
教団を鎮めてから、幾日が過ぎていた。一行は、王都ルミナリアへ戻っていた。
退いていたガルドスが、その城壁の前に、再び現れた。
ヴァルトの左腕が、轟音と共に吹き飛んだ。
爆散する装甲の向こうでハッチが強制解除され、カイは炎の中から転がり出た。地面を転がって立ち上がる。手の中に残ったのは、ナイフ一本きりだった。
城壁の上で、リラが膝をついているのが見えた。念威を使い果たして青白い顔をしながら、それでも立とうとしていた。
(下がれ。ここから先は俺一人でいい)
古い論理だった。誰かがいると、守ることを考える。守ることを考えると、動きが鈍る。だから一人の方が速い——エルド・ラインで叩き込まれた、生き残るための計算だった。間違っていなかった。今も間違っていない。
ガルドスが機体を捨てた。
装甲が弾け、黒い靄が溢れ出す。人の形をしていたものが、もう人の形をしていなかった。眼球は血のように赤く溶け、指先は爪ではなく刃になっていた。
——気づいた時には、もう熱がなかった。
いつか、ジェイルがそう言っていた。あの参謀は、ガルドスを誰より近くで読んでいた男だ。怒りでも、狂気でもない。人間だった頃の何かが、ただ全部冷めた。その果てが、これだった。
ジェイルは、それを読んで、去った。読めたから、去れた。
カイはナイフを逆手に持ち直した。
行くしかない。一人で。
踏み出した、その瞬間。
「カイ」
城壁の上から、声が来た。
大きくはなかった。叫んでもいなかった。ただ、カイの名前を呼んだだけだった。
足が止まった。
止まってから、気づいた。一人の方が速いという計算が、今夜は一度も頭を動いていなかった。いつの間にか、そういう計算をしない体になっていた。
振り向かなかった。振り向けなかった。それでも足が止まった。口が開いた。
「……お前は俺の地図だ」
自分の声を、一拍だけ聞いた。
ただ今夜は、言葉の後に視線を逃がす川面がなかった。
「え……?」
リラの声が、上から降ってきた。カイはガルドスを見たまま続けた。短く、不器用に。
「目的地じゃない。お前がいるから、俺は迷わなかった。それだけだ」
「……それ、告白じゃないの?」
「うるさい、集中しろ」
地面を蹴った。
白銀の光が、夜の中を一直線に走った。川辺より速かった。農場より速かった。エルド・ラインのどの戦場より速かった。
届く——そう思った刹那、黒い刃が横から薙いだ。
振り向きざまのガルドスの爪が、念甲を裂いた。白銀が砕ける。カイの体が宙で泳ぎ、夜が一度、ぐらりと傾いた。靄が嗤った。声ではない。勝ち誇る形をした、ただの圧だった。間合いが、死んでいた。一人なら、ここで終わっていた。
だが、一人ではなかった。
城壁の上で、リラが両手を前へ突き出していた。青白い顔のまま、最後の一滴まで想像を絞り出している。砕けた念甲の破片が白銀の粒になって宙で止まり、向きを変え、一本のナイフの刃へ、いちどに集まっていく。
刃が、研ぎ直された。
カイの足の裏に、地面が戻ってきた。
「——わるい。今のは、二人ぶんだ」
地図があるから、迷子にならない。一人の時より、ずっと速く、迷わずに。
ナイフがガルドスの胸に届いた瞬間、魔族の怨念が断末魔の叫びを上げた。怒号でも呪詛でもなく、ただの悲鳴だった。安全な場所を求めていた男の、最初の泣き声に似ていた。
黒い靄が、夜の空へ霧散していった。
静寂が来た。
カイは膝をついた。ナイフを地面に突き立て、それを杖にして呼吸を整えた。全身が重かった。城壁の上でリラが何かを言っていた。聞こえなかったが、泣いていないことは分かった。
カイはゆっくりと立ち上がった。
悪くなかった。
* * *
リラは城壁の上から、その背中を見ていた。
(恋というのは、こういうことだったのか)
名前がようやく合った気がした。
ずっと、棚のいちばん高いところにあって、届かなかった言葉だった。おとぎ話の中では何百回も読んだ。薔薇と、誓いと、月夜のバルコニー。そういう飾りと一緒にしか置いていなかった言葉。
違った。飾りは、ひとつも要らなかった。
薪を割る背中と、魚の冷たさと、「二人ぶんだ」という掠れた声。それだけで、棚から落ちてきた。
リラはその名前を、誰にも言わずに、胸の棚に置き直した。急ぐことはなかった。戦いが終わったら、また聞く——そう約束した問いの答えを、まだ、あの人は探している最中なのだから。
* * *
静寂の中、リラはカイの隣に座っていた。城壁の端。戦場の煙がまだ遠くに漂っている。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
「カイ」
「なんだ」
「戦いが終わったら、また聞くって言ったでしょう」
カイは少し間を置いた。遠くで鎚の音がし始めていた。
「……まだ分からん」
「そう」
リラは遠くの要塞都市を見渡し、静かに笑った。
「……ねえカイ。おとぎ話は、いつも正しかったのよ」
「何が」
「守る人がいる場所は、温かくなる。本の中でも、ここでも」
カイは答えなかった。ただ、遠くの煙を見たまま、少しだけ肩の力を抜いた。
リラは視線を遠くへ戻した。鎚の音が、まだどこかで響いていた。
二人の距離は、相変わらず不器用だった。
けれど今この場所に流れる時間は——世界のどこよりも温かいノイズに満ちていた。
歪みは、ひとまず鎮まった。表面はふさがった。だが、完全に閉じたわけではないことを、この時、まだ誰も知らなかった。




