根菜スープ
誰かが、根菜を集めてきていた。
ティアが村人から分けてもらったらしい。リラはそれを受け取り、要塞都市の仮設厨房へと向かった。鍋の底に油を引き、野菜を切る。ルミナス湾のものとは、形も色も少し違う根菜だった。
野菜を切りながら、リラはあの夕暮れのことを考えていた。
言ってしまった、と思った。言うつもりはなかったのに、言葉が先に出た。カイの沈黙が、まだ耳の奥に残っている。
怖くはなかった。ただ、少し静かだった。
言葉は放った矢に似ている、とどこかの本に書いてあった。放った後は、もう自分のものじゃない。届くかどうかは、相手が決める。
鍋が、小さく音を立て始めた。
煮えてきた頃、カイが黙って入ってきた。
気づいたら、厨房の前に立っていた。扉の向こうから、何かが煮える音がした。入るつもりがあったかどうかは、分からなかった。手が、扉を開けていた。
リラは何も言わなかった。椀によそって、テーブルに置く。カイも何も言わずに、腰を下ろした。
一口、飲んだ。
「……悪くない」
リラは少し笑った。
「ルミナス湾のと、少し違うわ。根菜の種類が違うから」
カイは椀を見たまま、もう一口飲んだ。
「ああ。でも、悪くない」
二人は黙って食べた。鍋が小さくぐつぐつ鳴る音だけが、厨房に満ちていた。
* * *
要塞都市の市場は、日ごとに大きくなっていた。
鋼鉄の梁の下に、翠野でも見かけた根菜が並ぶようになった。世界が混ざってから、第一層の農村の荷も、ここまで届くようになっていた。リラはその匂いを懐かしいと思いながら、棚のあいだを歩いていた。
呼ばれたのは、その時だった。
「リラ……? リラでしょ!」
振り返ると、荷車の脇に、見覚えのある顔が立っていた。日に焼けた頬。麦わらの帽子。エプロンの裾に、土がついている。
「……クロエ」
翠野農場の、隣の畑のクロエだった。一緒に絵本を読んだ。
クロエは荷車を放り出して駆けてきた。リラの両手を握って、上から下まで見た。
「やだ、なにこれ。すっかり、その……えらい人みたいになってる」
「えらくはないわ」
「ううん、なってる。歩き方が違うもん」
クロエは笑った。それから、少しだけ泣きそうな顔になった。
「いなくなっちゃったと思った。空が割れて、変な船が浮かんで、リラもどっか行っちゃって。エルマさんなんて、毎晩あんたの分のスープ、よそってたんだよ」
リラは、すぐには言葉が出なかった。
「あのね」クロエが言った。「絵本、まだ持ってる? あたしたちで、声に出して読んだやつ」
リラの手が、一瞬だけ止まった。
あの絵本は、もうない。ルミナリアの城壁の上で、燃やした。物語を力に換えて、戦った。あの夜の白いページの中に、クロエと読んだ頁も、混じっていた。
「……ごめんね」リラは言った。「もう、ないの」
クロエは、きょとんとした。それからリラの顔を見て、何かを察したらしかった。詳しくは聞かなかった。聞かないでくれた。
「そっか」
「ごめん」
「いいよ」クロエはリラの手を握り直した。「だってあんた、覚えてるでしょ。あのお話」
リラは頷いた。
覚えていた。一行も忘れていなかった。本は燃えても、読んだ言葉は、どこにも行っていなかった。
「だったら、いいじゃん」クロエは笑った。麦わら帽子の下で、昔と同じ笑い方だった。「また、あたしに聞かせてよ。今度はリラが、お話しする番だよ」
リラの胸の奥が、温かくなった。
帰り際、クロエは荷車から布の包みを下ろして、リラに押しつけた。翠野の根菜だった。形は、ここのものと少し違った。
「エルマさんから。あんた、ちゃんと食べてないだろうって」
リラは包みを抱えた。土の匂いがした。厨房に立つエルマの背中が、その匂いの向こうに見えた気がした。
「ありがとう」
「またね、リラ」
クロエは荷車を引いて、混ざりあう街の雑踏へ消えていった。麦わら帽子が、人混みの中で一度だけ揺れて、見えなくなった。
リラは包みを抱えたまま、しばらくそこに立っていた。
本はもうない。でも根菜の匂いはここにあった。読んできた言葉も、まだここにあった。
夕暮れの空に、星が出はじめていた。




