見知らぬフェアリー
日が傾きかけた渓谷の街道は、両側の岩壁が夕光を吸って、橙色に染まり始めていた。足元の砂利道が、踏むたびに乾いた音を立てる。日が落ちる前に次の町の輪郭を掴んでおきたい——二人が黙って急いでいたのは、そういう理由だった。
その頭上から、突如として、信じられないほど甲高い声が降ってきた。
「——カイーーーーーーッ!!!」
「ぶふっ!?」
カイが振り返る間もなく、「光の塊」は彼の頬へと弾丸のように激突し、そのまま髪をぐしゃぐしゃに掻き回し始めた。
「探したんだから! 探したんだからね、カイ!」
「痛っ、ててっ! 暴れるな! 引っ張るなって!」
カイは顔をしかめながら、自分の頭にくっついて泣きじゃくる小さな影を、指先で引き剥がした。
背中に透き通った羽を生やした、手のひらサイズの少女——フェアリーのティアだった。
「ティア……! 無事だったのか……!」
カイの口元に、戦士ではない、等身大の安堵の笑みがこぼれた。
リラは、その瞬間を見た。いつもカイが笑う時——それは苦笑か、不敵な笑みだった。だが今のカイの顔は、そのどちらでもなかった。力が、抜けていた。戦士の顔では、なかった。
(こんな顔をするんだ、この人は)
「……どうやって俺を見つけた」
「思念の流れを追ったら当たりだった! カイの思念の色、どこにいても分かるもん」
ティアはカイの肩に乗り直し、それから、少しだけ声を落とした。
「……でも、変だったよ。カイの思念の流れ、ずっと前からこっちに引っ張られてたみたいで。私のいた場所からでも分かった。何かに呼ばれてたんだよ、カイ」
カイは、黙った。
「……あ、そうだ! 聞いてよカイ、ヴェルナがね——」
ティアはカイの肩の上に座り直し、息を吸った。
「ヴェルナ、カイがいなくなってから、地図を三回も書き直してたよ。ぜんぶ自分で。誰にも手伝わせないで、ひとりで机に向かって、ずーっと。声かけたら、うるさいって言われた」
カイは一瞬目を細めた。何も言わなかった。ただ、小さく息を吐いた。
その名前が、空気に溶けた。
リラの胸の奥で、何かが一瞬だけ静止した。うまく言葉にできない。痛いわけでもない。ただ、呼吸が半拍だけ遅れた感じがした。「ヴェルナ」という名前が、自分には関係のない音のはずなのに、なぜか耳の奥に留まって、消えなかった。
(……誰かしら)
リラはとっさに、この感覚に名前をつけようとした。物語の言葉で包もうとした。きっとこれは——遠い国に残してきた「剣の乙女」への、戦友だけが持つ特別な——
物語が、うまく見つからなかった。
鎧が、合わない感じがした。
「カイ、浮気者! ヴェルナに言いつけるわよ!」
カイの反応は、リラが今まで見たことのない速度だった。
「なっ……!? 変な誤解を生むようなことを言うな!」
ちらり、とカイの視線がリラに向いた。一瞬だった。頬が、わずかに赤かった。
リラはそれを見て、また一瞬だけ、あの半拍の遅れを感じた。
自分が入る隙がない、というよりも——そこに入ることを、自分が想定されていない、という感じだった。
(二人の間に、時間がある)
積み重なった時間の匂いがした。自分とカイの間には、まだ、それがない。それが寂しさなのか、別の何かなのか、リラにはまだ分からなかった。ただ、目を離せなかった。
「カイ、リラのことは気に入ったわ!」
ティアはリラの肩に、するりと飛び乗った。
「あなたが、カイのお姫様?」
「い、いいえ、私はただのリラよ! 翠野農場のリラ!」
「あら、カイと同じこと言う。カイも、自分のことを、ただの居候だって言うから」
リラは、思わずカイを見た。カイは、視線を逸らした。
「……やれやれ。余計なことを言うなよ、ティア」
「なんで? 本当のことじゃない」
「ティア、あなたの言う通りよ。私はあなたのお姫様でもなければ、ロマンチックな薔薇の誓いを交わした仲でもないわ。私は、あなたの『地図』になるって約束した、ただのパートナーですもの!」
「リラ、お前まで何を言い出すんだよ……」
ティアはリラとカイを交互に見て、それから、小さく首を傾げた。
「カイの色、リラといる時だけ、少し変わるね。分かんないけど」
ティアはそれから、リラの顔をじっと見た。羽が小さく傾いた。
「……リラの色も、へんなの」
「私の?」
「この世界の人の色と、ちょっとだけ違う。カイとも違う。カイのは遠くの色。リラのは——」ティアは首をひねった。「分かんない。はじめて見る色」
「あら。……私、ただの農場の子よ?」
リラは笑った。ティアは笑わなかった。でもすぐに別の話を始めた。フェアリーの興味は、長く一つ所に留まらなかった。
リラは答えなかった。答えようとして、物語の言葉を探して、見つからなかった。
ティアはリラの耳元で、ひそひそと囁いた。
「ねえリラ。カイってさ、ひとりの時、全然笑わないんだよ。知ってた?」
リラは、答えなかった。
知っていたかどうか、分からなかった。でも、聞かれた瞬間に、薪を割っていた背中のことを思った。声をかけたいと思いながら、かけられなかった夜のことを。あの時見ていたのは、笑っていない顔だった。笑っていないとは、その時は思わなかった。ただ、目が、離せなかった。
それが何だったのかを、リラはまだ、言葉にできなかった。




