三日前
この世界は、三日後には分かれる。
それは本来、喜ぶべきことなのだろう。
リラ・マーレンは川辺の石に腰を下ろしたまま、そのことを考えていた。ペンを持っていたが、紙には何も書けていなかった。言葉が、来なかった。正確には——来ているのに、降ろせなかった。
あの時、紛れ込んだこの世界。
最初は戸惑いだけがあった。見たことのない装甲の少年が空から落ちてきて、見たことのない艦隊が空に浮かんで、千年生きた魔法使いが隣を歩いていた。おとぎ話が現実になったと思った。なったのではなく、おとぎ話と現実が文字通り混ざり合っていたのだと、後から知った。
今はもう、これが当たり前だった。
シオン艦隊の灯りが夜空に浮かんでいることも、アルヴィが時々城壁の外の草原に一人で座っていることも、市場にエルド・ラインの金属細工が並んでいることも。最初は腰を抜かしていた老人たちが「今日も浮いとるな」と言いながら畑を耕すように、リラにとってもこの世界はとっくに、自分の一部になっていた。
仲間。友情。自信。矜持。
そして——恋。
その全てが、あと三日で。
「リラ」
声がした。
振り返ると、アルヴィが川辺に立っていた。
らしくなかった。
アルヴィが声をかけてくる時は、たいてい用件が先に来る。「リラさん、あの本を」とか「少し聞いてもいいですか」とか。今日は名前だけだった。それだけで、リラの胸の奥の何かが、静かに身構えた。
「隣、いいですか」
「どうぞ」
アルヴィが石の端に腰を下ろした。杖を膝の上に置く。川を見る。しばらく何も言わなかった。
川は何も知らないように流れていた。
「リラ」とアルヴィがもう一度言った。「この世界って、あなたがいた世界からはおとぎ話って言われてたんだよね」
「ええ」
「元に戻れるとしたら——嬉しい?」
リラはペンを止めた。
止めてから、アルヴィの横顔を見た。川を見たまま、表情が読めなかった。千年生きた人間の横顔は、時々こういう顔をする。深すぎて、どこを見ているのか分からない顔。
「……どういう意味ですか」
「そのままの意味だよ」
アルヴィは川を見たまま続けた。声は静かだった。静かすぎて、川の音に混じりそうだった。
「この世界は、もうすぐ分かれる。元の形に、戻っていく。リラの世界も、カイの世界も、私の世界も、シオンの世界も——それぞれの場所に、戻る」
リラは何も言えなかった。
言葉が、来なかった。さっきとは違う理由で。
「そちらの現実とこちらでは、だいぶ違うからね」とアルヴィは言った。「ただ——王女の世界も、シオンの世界も、私の世界も、完全に離れるわけじゃないかもしれない。おとぎの世界の延長だから、糸口くらいは残るだろうと思ってる」
「じゃあ——」
「リラの世界は」
アルヴィがそこで初めて、リラを見た。
その目に、言い訳がなかった。ごまかしがなかった。千年分の、ただの誠実さだけがあった。
「現実だから。糸口が、あるかどうか分からない」
川が流れていた。
リラは膝の上の紙を見た。何も書けていない紙。白いままの紙。
「カイだよね。気になるのは」
否定しなかった。できなかった。
「……どうなるかは、全部分かってるわけじゃないけど」
リラは立ち上がった。紙をカバンにしまった。ペンをしまった。それから——本だけは、胸に抱えた。
「今からシオンさんに会ってくる」
アルヴィは止めなかった。
リラが歩き始めた時、後ろから声が来た。
「リラ」
振り返らなかった。でも足を止めた。
「あと三日、ちゃんと見ておいて。全部」
リラは少しだけ間を置いた。
「……分かってます」
歩き出した。
本が胸の中で、いつもと違う温度を持っていた。
終わる、という温度だった。




