343 前略、愛しいあなたたちへ(6)
どうぞ。
こうやってほおずりしていると、化粧っけがない女で良かったな、と思える。クラゲ系はもっとバチバチにメイクしている人も多いけど、食事ならと思ってグロスも甘いのを薄く引いたくらいだった。
「ふへへー。すごい、男の人の肩って感じです」
「いつか見てもらうときのために、もう少し鍛えておきます」
私の肩もけっこうしっかりしている方だけど、墨帖さんの肩はがっしりしていて、かなり固い。父に肩車してもらったときよりも、寄りかかれる力強さを感じた。風が吹くたびに髪の毛がふわふわして、彼の息遣いを感じられた。口元に当たっているみたいだから、くっと掴んで背中の方に回す。
「日が沈むまで、というのは長すぎますか」
「それじゃ帰るの間に合わないですよー」
ほっぺたを肩から離して、ゆっくり立ち上がる。そして、彼の手を取った。
「ここ、デートスポットじゃなくて……カップルがつい盛り上がっちゃうところです」
「ごみや犯罪対策として、灯りを多く配置するというのは聞いたことがありますが。カップルについても同じだと?」
「そんな色気ないこと言わないで、ほら。行きましょう?」
「赫祢さん、ですね……分かりました、そう引っ張らないで」
橋の下に入ると、どこかの下水道から出てくる音が大きく聞こえた。ふわりと吹いた風が吹き過ぎる二人の隙間を、きゅっと引っ張って埋める。
唇を、合わせた。
――ああ、と。きっと男の人には分からない、全身がまったく同じ色に溶けていくような、甘いしびれが私を溶かしていく。熱の色と愛の色が同じになって、すべての感情がひとつになっていく感覚があった。心と体が一緒になって叫んでいる。
「む……、――」
「んふふ。……」
抱きしめようとした手が、壁に近すぎてこんとぶつかった。いったん唇を離して道の方にターンしてから、もう一度キスする。ぎゅう、と……私が後ろから不意打ちしたときよりずっと強い、男の人の力が、とろけて流れていきそうな私をそこにとどめていた。
優しくとんとんと叩いた背中のリズムに気付いて、唇を離す。
「ファーストキス、です」
「僕は、すこし練習してしまいました。そのぶん、あなたをリードできれば」
「もー、せっかくの思い出なのにー」
「あっ、逃げるなんてそんな……!」
するっと逃れて階段の方に走り、エコバッグを掴み上げてたたたっと駆け上がる。
「こっちでーすよー!」
「すぐに――」
橋の方からぶわっと強い風が吹いて、もともと前が短めで軽いフィッシュテールが、思いっきり持ち上がった。
「むっ、……そ、その」
「なんですかー、さっき見ちゃったじゃないですか」
「お互いに、“準備万端”と言いますか。の、ようですから。少し、はしたないかと……」
「んぇっ!? ん……」
急いで隠した。墨帖さんがちょっとズボンを上げて、突起の方向性を調節して隠そうとしている。通りに戻るまで、お互い言葉少なのままで、隣に並んでいるけど距離は保っていた。商店街の通りが見え始めると、「あ」と声が聞こえた。
「そういえば、端末の方はアドレスを交換していませんでしたね。今、しておきましょう」
「ん、そうですね。っと」
お互いの端末をつんと触れ合わせると、墨帖さんの連絡先が表示された。そのまま「墨帖さん」という名前で登録しておく。
商店街に出て、今日たどった道をゆっくり戻るように歩いて、オレンジ色になり始めた太陽に見守られながら駅に着いた。
「今日は楽しかったです、墨帖さん。お土産もできましたし」
「こちらこそ、とてもいい時間を過ごせました。あなたの可愛いところがたくさん見られた……今後、あなたにお願いしたい仕事も増えました」
「これですか?」
エコバッグを掲げて見せると「ええ」とうなずかれてしまった。
「あなたは、パフォーマーを兼ねたキャンペーンガールになれる。ポーズ再現だけでなく、殺陣を魅せられるような人は未だに希少です。衣装に抵抗がない、というだけでは価値がなくなる時代が来ている」
「コネでの仕事、って言われませんか?」
「そういった声は当然あるでしょう。しかし“あなた”は……いや、赫祢さんは、なかなか希少な個性をいくつか併せ持っている。あなたを使いたいという声は、これ以後だんだんと高まっていくでしょう」
デート終わりにする話じゃないけど……この人はこういう人だ、とこれまでの付き合いで分かっていた。
「また改めて、お話をさせてください。今日の配信、僕も映りますが……楽しみにしていますよ」
「ふっふっふー、楽しみにしちゃってください。それじゃ、準備早めにしなきゃなので、失礼しますね」
「また今夜に」
「ではまた!」
改札を抜けて、軽く手を振って階段を登る。
ファーストキスはレモンの味、だなんて、どこかで聞いた気がするけど。
(私のファーストキス、合わせ出汁の味だったなー)
小さく、小さくつぶやいた言葉は、階段を登り切ったときに吹いた風に流されていった。いるかな、と思って探したら見つかった、駐車場に歩いていく墨帖さんの背中が、小さいのになんだか広く感じる。アナウンスの声と電車の音と――とにかくいろんなものが、確かに胸の中にある鼓動より小さかった。
日陰になってずいぶん暗いビルの横を通るとき、自分の顔が車窓にはっきり映った。エコバッグを提げたクラゲ系女子の顔は、なんだか……見たこともないくらいのいろいろな色彩が混じった、けれどすごく綺麗な顔をしていた。けっこう似た印象の顔をしていた同級生に、自分が何と言っていたか。
(めっちゃ恋してるじゃん、って言ったんだ、私)
電車がトンネルに入った。




