第五話 美しさだけが残る 後編
オデットは、鏡台を自室に置いた。
大きすぎるものではなかった。華美すぎるものでもない。黒に近い深い木の台に、細い銀の縁を持つ鏡がついている。引き出しは三つ。取っ手は古い月環を思わせる形をしていた。
ただ、その鏡台が部屋に入った瞬間、そこが中心になった。
帽子の箱も、布も、リボンも、香水瓶も、壁の絵も、すべてが鏡台の周りへ下がったように見えた。
朝、オデットは鏡台の前に座った。
鏡を見る。
美しい。
昨日よりも、ほんの少し。
肌のきめが整っている。目元が澄んでいる。唇の色が柔らかい。髪は絹のように肩へ落ちている。
オデットは笑った。
笑った顔も、美しかった。
最初に落ちたのは、疲れだった。
寝不足の影が消えた。肌荒れが消えた。髪の乱れがなくなった。朝の顔と夜の顔の差がなくなった。
オデットは喜んだ。
それらは美しさの邪魔だった。落ちて困るものではなかった。
帽子店で、客が彼女を見る。
「オデットさん、最近本当にお綺麗ね」
店主も言った。
「店の帽子がよく映える」
リサも笑った。
「本当に綺麗。どうしたの?」
オデットは微笑んだ。
「少し、整えただけよ」
整えた。
それは正しい言葉だった。
余分なものが落ちて、整っていく。
それなのに、リサは少し心配そうな顔をした。
「でも、ちゃんと食べてる?」
オデットは答えなかった。
食事は、最初に少しずつ遠くなった。
焼き菓子の甘い匂い。肉を焼く匂い。スープの湯気。どれも以前は好きだった。けれど今は、重く感じる。
口を開けること。噛むこと。飲み込むこと。
そのすべてが、生々しかった。
鏡の前の自分には似合わない。
オデットは少しずつ食べなくなった。
空腹は来なかった。
来ないなら、必要ないのだと思った。
次に、声が落ちた。
話すと喉が震える。口の形が変わる。感情が表情を動かす。笑いすぎれば頬が崩れる。怒れば目元がきつくなる。
言葉は、美しさを乱す。
そう思うようになった。
オデットは店で話す回数を減らした。客への説明も短くなり、代わりにただ微笑む。すると、客は少し緊張した顔で頷いた。
美しいが、近寄りがたい。
その距離が、オデットには心地よかった。
美しいものは、少し遠くにあるべきだ。
次に、触れることが落ちた。
帽子を仕立てるには、手を使う。
針を持つ。布を押さえる。リボンを結ぶ。客の髪に触れ、角度を直す。
だが、指先に針跡が残ることが嫌になった。糸が爪に引っかかることが嫌になった。他人の髪や肌に触れることが、ひどく雑に思えた。
オデットは仕事を減らした。
店主は困った。リサはさらに心配した。
「オデット、少し休んだ方がいいよ」
「休んでいるわ」
「そうじゃなくて」
リサは言葉を探す。
オデットはその様子を見ていた。
リサの頬には、笑った時にできる小さな皺がある。髪の根元には、少し汗が滲んでいる。指先は布と糸で荒れている。
以前は、それが人の温かさに見えたのかもしれない。
今は、ただ乱れに見えた。
オデットは静かに言った。
「リサ、あなたは平気なの?」
「何が?」
「そうやって崩れていくこと」
リサの顔色が変わった。
その日から、リサは少しだけ距離を置くようになった。
それでも数日後、彼女はオデットの部屋を訪ねてきた。
部屋は静かだった。
鏡台の前に、オデットが座っている。
食器はない。履き古した靴も見えない。帽子の材料は片付けられていた。生活のためのものが、少しずつ部屋から消えている。
「オデット」
リサは扉のところで立ち止まった。
鏡の前のオデットは、美しかった。
怖いほどに。
肌はなめらかで、髪は白い光を含むように艶めいている。目は澄み、唇は花弁のようだった。
だが、椅子に座る姿がどこか奇妙だった。
足元の布の影が、以前より静かすぎる。
「病気なの?」
リサの声は震えていた。
「違うわ」
オデットは鏡の中の自分を見ている。
「綺麗になっているの」
「こんなの、変だよ」
「そうかしら」
「食べないし、店にも出ないし、誰とも話さない。そんなの、幸せじゃないよ」
オデットはゆっくり振り返った。
その動きは美しかった。
美しすぎて、人が振り返る動作ではないように見えた。
「私、今がいちばん好きよ」
リサは何も言えなくなった。
翌日、リサは満願堂へ駆け込んだ。
満願堂はいつも通りだった。
紅茶の香り。古書の匂い。ステンドグラスの光。窓際にはエリアスが座り、同じように紅茶を飲んでいる。
リサはその静けさに苛立った。
「リゼットさん」
カウンターの前で、彼女は声を荒げた。
「オデットを助けてください」
リゼットは手を止めた。
「どうなさいましたか、リサさん」
「あれはおかしいです。食べないし、外にも出ない。鏡の前から動かない。どんどん……人じゃなくなってるみたいで」
モルがカウンターの上で顔を上げる。
「オデット」
短く言ってから、少しだけ鼻を鳴らした。
「あの人、澄んでる」
「澄んでるとか、そんな話じゃない!」
リサはモルを睨んだ。
「友達なんです。助けてください」
リゼットは静かに聞いていた。
「オデット様は、助けを求めていらっしゃいますか」
リサは言葉を失った。
「それは……」
求めていない。
オデットは、綺麗になっていると言った。今がいちばん好きだと言った。
けれど。
「あんなの、幸せじゃない」
「そうお感じになるのですね」
「あなたは違うんですか」
リゼットは少しだけ目を伏せる。
「満願具は、願いを根付かせます。根付いた願いは、仕上がりまで止まりません」
「そんなの、ひどい」
「はい」
あまりにも素直に頷いたので、リサはかえって息を詰まらせた。
リゼットは続ける。
「ですから、それは、おすすめ致しませんと申し上げました」
「止めればよかったじゃないですか」
「私は止めました」
「渡したじゃないですか」
「オデット様が望まれたからです」
リサは何も言えなかった。
リゼットは責めていない。怒ってもいない。正しいことを言っているつもりでもない。ただ、事実を並べている。
だから怖かった。
「では、私は何をすればいいんですか」
リサの声は小さくなった。
「会いに行って差し上げてください」
「それで止まるんですか」
「いいえ」
「じゃあ」
「止まりません」
リゼットは言った。
「けれど、願い以外のものが落ちる時、そばに残る声があるなら、それもまた仕上がりの一部になることがございます」
リサには意味が分からなかった。
けれど、その日の夕方、もう一度オデットの部屋へ行った。
オデットは、鏡台の前にいた。
声はほとんど出なくなっていた。代わりに、微笑む。微笑みだけで返事をする。
手は鏡台の縁に添えられている。
足元は、もう布の影のようだった。スカートの下に、歩くための輪郭があるのか、リサには分からなかった。
怖かった。
でも、美しかった。
そのことが、リサには悔しかった。
「オデット」
リサは泣いた。
「私、あなたのこと、羨ましかったよ」
オデットの瞳が少しだけ動く。
「あなたは綺麗だった。最初から。私は、人に好かれるのが上手いだけで、あなたみたいに綺麗じゃなかった」
オデットは鏡越しにリサを見る。
唇が少し動いた。
声は聞こえなかった。
でも、形だけは分かった。
ありがとう。
それがリサに届いた最後の言葉だった。
数日後、満願堂に納め物が届いた。
その日、店に来たのはココと、もう一人の逓便局員だった。
扉の鈴が鳴る。
「逓便局です。納め物です」
先に入ってきたココは、いつもの明るい声より少しだけ丁寧に言った。腕には受け取り帳を抱えている。
その後ろで、逓便局の制服を着た青年が大きな箱を持っていた。
背はリゼットと同じくらいか、少し低い。まだ若く、肩に力が入っている。両手には、大きな箱。黒い紐。暗い赤の封蝋。その封蝋には、月環と扉、それから閉じた目に見える古い紋章が押されていた。
箱の脇には、古い納め札が下がっている。
「ロイさん、ここが満願堂です」
ココが小声で言う。
「納め物の時は、リゼットさんに直接お渡しします。中身は見ません。傾けません。置く時は両手で。ここだけ気をつければ大丈夫です」
「分かった」
ロイの声は少し硬かった。
「あと、モルさんがたぶん一番に来ます」
「モルさん?」
「白くてふわふわの子です。納め物、いつも楽しみにしてるんですよ」
「楽しみに……?」
「はい。嬉しそうに来ます」
ロイは返事に困った顔をした。
その時、カウンターからモルが顔を出した。
「納め物」
白い尾が、ふわりと揺れる。
「いいにおい」
ロイの肩が跳ねた。
「い、いいにおい……?」
「いいにおい」
モルは箱の周りをくるりと回った。
ココは少し得意げに笑う。
「ね、来たでしょう?」
ロイは箱から目を逸らした。中身を見たわけではない。見てはいけないとも言われている。けれど納め物は、見なくても何かが分かることがある。
リゼットがカウンターの奥から現れた。
ロイは彼女を見た。
一瞬、言葉が止まった。
リゼットはいつものように、静かに頭を下げる。
「いらっしゃいませ」
その声で、ロイは我に返ったように背筋を伸ばした。
「つ、逓便局です」
「はい」
「納め物を、お持ちしました」
リゼットは箱へ目を落とし、柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます。ココさん、ロイさん」
名前を呼ばれて、ロイはわずかに目を見開いた。
ココが横でにこにこしている。
「ロイさん、今日からこの区画の担当になりました」
「ロイ・ベルナです。よろしくお願いします」
「リゼットです。こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」
ただそれだけだった。
それだけなのに、ロイはなぜか胸元を押さえたくなった。
「ロイ、こえ、かたい」
モルが言った。
「あ、すみません」
「大丈夫ですよ」
リゼットは小さく笑った。
ほんの少しだけだった。
けれどロイには、それがステンドグラスの光よりも強く残った。
リゼットは箱へ手を添えた。
「今日は、よく澄んでいますね」
ロイは、その言葉の意味を尋ねようとして、やめた。
聞けば、答えてくれる気がした。
けれど、答えを聞いたあと、自分が前と同じ顔で逓便局へ戻れるかは分からなかった。
「では、僕たちはこれで」
ココが帳面を閉じる。
「はい。お気をつけて」
リゼットがそう言うと、ココは耳を揺らして手を振った。
「また来ます、モルさん」
「ココ、また」
ロイは礼をして、ココの後に続いた。
外へ出る直前、もう一度だけ振り返る。
リゼットは箱を見ていた。
モルも箱を見ていた。
二人とも、怖がってはいなかった。
むしろ、どこか穏やかだった。
そのことが、ロイには一番怖かった。
そして、それでも。
ロイは、もう一度この店へ来ることになるのだろうと思った。
扉が閉まる。
鈴の音が、細く残った。
リゼットは封蝋に指をかける。
「開けましょうか、モル」
「うん。たのしみ」
黒い紐がほどけた。
箱の中には、鏡台の鏡があった。
鏡面は割れていない。曇ってもいない。ただ、その中に、オデットが映っていた。
鏡の中の彼女は、とても美しかった。
顔。髪。瞳。唇。首筋の一部。
それ以外は、薄い光の中へ溶けるように曖昧だった。
人間が映っている、とは言い切れない。
けれど美しいものがある、とは言えた。
鏡の中のオデットが微笑む。
「ありがとう」
声は、鏡面に指を滑らせた時のように薄かった。
「あなたのおかげで、綺麗になれたわ」
リゼットは首を横に振った。
「いいえ」
その声は優しかった。
「オデット様の願いが、とても澄んでいたからです」
オデットは微笑んだまま、静かに聞いた。
「もっと、綺麗になれる?」
リゼットは少しだけ目を細めた。
「ございます」
間が落ちる。
「ですが――」
いつもの言葉が続くのだと、誰かがそこにいれば思ったかもしれない。
それは、おすすめ致しません。
けれど、リゼットは言わなかった。
鏡の中のオデットは、もう普通のお客様ではなかった。
「今のオデット様には、次の品もよく合うかと」
モルが鏡を覗き込む。
リボンに下がった鍵が、小さく揺れた。
「あれ、きれい」
リゼットはモルを咎めなかった。
ただ、納願帳を開いた。
そこには、オデットの文字が残っている。
美しくなりたい。
美しさ以外はいらない。
リゼットはその横へ、細い文字を添えた。
満願具使用。
仕上がり確認。
「奥?」
モルが聞く。
「ええ」
リゼットは鏡に布をかけた。
「奥の部屋へ納めましょう」
鏡の中から、オデットの微笑みだけが最後まで見えていた。




