第四話 美しさへ続く鏡 前編
帽子には、似合う顔というものがある。
オデットはそう思っていた。
淡い花飾りのついた帽子は、笑った時に頬がふくらむ娘によく似合う。黒いリボンの帽子は、背筋の伸びた婦人に似合う。つばの広い帽子は、目元に影を落としても美しい人だけが選ぶべきだ。
帽子は人を飾る。
けれど、飾られるに値しない顔というものもある。
オデットは、それを口にはしなかった。
月環街の帽子店で、彼女はいつも丁寧に笑っていた。細い指でリボンを整え、客の髪色や肌色を見て、似合う品をすすめる。オデット自身も美しかった。明るい栗色の髪。整った顔立ち。細い首。姿見の前に立つと、帽子よりも先に彼女へ視線が集まることがあった。
だが、客が最後に声をかけるのは、たいていリサだった。
リサは同じ店で働く娘で、特別な美人ではない。笑うと目尻に小さな皺が寄るし、忙しい日は髪が乱れる。けれど客はリサと話すと安心する。迷った時には、リサに聞きたがる。
「リサさん、こちらとこちらなら、どちらがいいかしら」
「リサさんの選んでくださるものなら安心ね」
「あなたに見てもらえてよかったわ」
オデットは横で笑った。
指先に刺した針の痛みより、胸の中に刺さる言葉の方が気になった。
自分の方が美しい。
そう思うたび、その思いが美しくないことも分かっていた。
だからなおさら、腹が立った。
ある日、若い青年が帽子店へ来た。
オデットが何度か街で見かけ、少しだけ気にしていた相手だった。彼は贈り物の帽子を探していると言い、最初はオデットに声をかけた。
オデットは上品な帽子をいくつか出した。彼の服装、持ち物、話し方。そこから相手の好みを考え、丁寧にすすめた。
けれど途中でリサが来ると、青年は自然にそちらへ向いた。
「こちらの方が、贈る方の顔が明るく見えるかもしれません」
リサがそう言うと、青年は笑った。
「では、それにします」
オデットの選んだ帽子ではなかった。
青年が帰った後、リサは申し訳なさそうに言った。
「ごめんね。横から口を出してしまって」
「いいの。お客様が気に入ったなら」
オデットは笑った。
笑いながら、思った。
あなたのせいではない。
ただ、あなたがいるせいだ。
その日の帰り、オデットは満願堂を見つけた。
雨は降っていなかった。疲れてはいたが、喉が渇いているわけでもない。ただ、路地の奥にある文字のない看板が目に入った。
ティーポットと古書と鍵の紋章。ステンドグラス越しの光。古い木の扉。
満願堂という名は聞いたことがあった。
少し変わった喫茶店。願いに応える品を置いている店。そういう噂だった。
扉を開けると、紅茶と古書の匂いがした。
黒髪の管理人が迎える。
「いらっしゃいませ」
その女性を見て、オデットは一瞬だけ息を止めた。
美しい人だった。
青みを帯びた黒髪、色白の肌、琥珀色の目。濃紺のドレスと生成りのエプロン。首元には、月環をかたどった小さなペンダント。どこか喪の気配があるのに、声は穏やかだった。
足元から、白い長毛の魔獣が顔を出した。
「おきゃくさま」
オデットは少し驚いたが、すぐに表情を整えた。
「紅茶をいただけるかしら」
「はい。お好きなお席へどうぞ」
オデットは席に着いた。
紅茶を待つ間、表の棚が目に入った。小さな願具が並んでいる。人形、栞、香草、小瓶、手鏡。
その中で、小さな手鏡が気になった。
銀の縁取りに、花のような模様。特別高価そうではない。けれど、そこに置いて帰るには少し惜しいと思った。
「そちらは、映りの手鏡です」
リゼットが紅茶を置きながら言った。
「覗いた日だけ、少し美しく映ります」
オデットは笑った。
「ずいぶん控えめな品なのね」
「表の棚の願具ですから」
「返りは?」
リゼットは静かに答えた。
「翌日、ご自身の気になるところが少し強く見えるでしょう」
「それくらいなら平気よ」
「使いすぎなければ、可愛らしい品です」
オデットは手鏡を見た。
手に取る前から、もう買うことを決めていた。
「お名前を伺ってもよろしいですか」
「オデットよ」
「では、オデットさん。こちらをお包みしますね」
オデットは手鏡を買った。
翌朝、使ってみた。
鏡の中の自分は、確かに少しだけ美しかった。
肌の色が明るい。目元が澄んでいる。髪の艶もいい。劇的な変化ではない。けれど、一日の始まりに自分を好きになるには十分だった。
帽子店で、客に褒められた。
「オデットさん、今日は一段と綺麗ね」
リサも言った。
「本当に。髪、すごく綺麗」
オデットは微笑んだ。
その笑顔が、いつもより自然に見えることも分かった。
翌日、返りが来た。
目の下の影が気になる。爪の形が気になる。髪の毛先が少し傷んで見える。笑った時の口元が、昨日より崩れているように見えた。
嫌だった。
けれど手鏡を覗けば、また整う。
それだけのことだった。
オデットは手鏡を使う日を増やした。
最初は大事な接客の日だけ。次に、青年が店へ来るかもしれない日。やがて、毎朝。
覗かない日は、自分が少し足りないもののように感じた。
普通の自分が、昨日より醜く思えた。
満願堂へ再び行ったのは、それから二週間ほど後だった。
オデットは手鏡をカバンに入れたまま、リゼットに尋ねた。
「もっと長く続くものはありませんか」
「ございます。ただし、そちらは奥の棚の品です」
リゼットは表の棚を見なかった。
カウンター奥、ガラスケースの方を見る。
「奥の棚?」
「はい。表の願具より効き目が強く、返りもはっきり現れます」
リゼットはケースを開けた。
中から取り出したのは、少し大きめの鏡だった。銀の縁が細く、装飾は少ない。美しいというより、静かな鏡だった。
「美貌を留める鏡です。魔願具にあたります」
「魔願具」
「表の願具より効き目が強く、返りもはっきり現れます」
「返りは?」
「美しくないものが、今よりも気になるようになるでしょう」
リゼットはオデットを見た。
「ご自身のものも、他の方のものも」
「それだけ?」
「それだけ、と感じられるなら」
その言い方が少し引っかかった。
だが、オデットは頷いた。
「構いません」
リゼットは納願帳を出した。
「契約ではございません。願いを、ここへお納めください」
オデットは書いた。
美しくなりたい。
その文字は、思ったよりまっすぐだった。
モルが近づいて匂いを嗅ぐ。
「まだ、にごってる」
オデットは眉を寄せた。
「何?」
「でも、奥のにおい」
リゼットは穏やかに頷いた。
「ええ。まだ満願具の願いではありません」
「満願具?」
「今はまだ、気になさらなくて大丈夫です」
大丈夫ではない言い方だった。
「オデットさん」
リゼットは鏡を黒布に包みながら言った。
「扱いにはお気をつけください」
「ええ」
オデットは魔願具の鏡を受け取った。
帽子店の給金では、簡単に出せる額ではなかった。
それでも、オデットは鏡から目を離せなかった。
鏡はよく効いた。
美しさは一日で消えなくなった。三日、四日と続く。肌は滑らかで、髪は光を含んだように見えた。帽子店の客はオデットを見るようになった。青年も、以前より長く彼女と話した。
オデットは満たされた。
満たされるほど、世界の粗が見えるようになった。
客の荒れた手。リサの笑い皺。帽子を選ぶ婦人の首筋。青年の靴についた泥。店主の指先の乾き。
どれも以前からあったはずなのに、今は目について離れない。
鏡を見るたび、オデット自身もまた許せなくなった。
眠り不足の影。爪の甘皮。髪の一本の乱れ。笑う時の頬の動き。全部が、美しさを濁すものに見えた。
それでも鏡の中の自分は美しかった。
だから、まだ大丈夫だった。
決定的だったのは、青年がリサに贈り物の帽子を注文した日だった。
それは、結婚の申し込みに添えるものだという。
リサは困った顔をした。
「私、そんなつもりじゃなかったの」
オデットは笑えなかった。
そんなつもりじゃない。
いつもそうだ。
望んでいない顔をして、すべて受け取る。
その夜、オデットは鏡を見た。
美しい。
以前よりずっと。
けれど、足りない。
美しくなったのに、選ばれなかった。褒められたのに、足りなかった。青年も、客も、店主も、リサの方へ行く。
では、自分は何が欲しかったのだろう。
選ばれたい?
違う。
リサに勝ちたい?
違う。
青年に見られたい?
違う。
鏡の中の自分が、静かにこちらを見ていた。
オデットは気づいた。
私は、美しくなりたい。
ただ、それだけだった。
美しさ以外は、いらない。
翌日、オデットは満願堂へ行った。
リゼットはいつものように迎えた。
「いらっしゃいませ、オデットさん」
「もっと美しくなれるものをください」
リゼットはすぐには動かなかった。
「誰かに選ばれるためでしょうか」
「違うわ」
「誰かに勝つためでしょうか」
「違う」
「では、何のために?」
オデットは答えた。
「美しくなるために」
言葉にした瞬間、胸の中に残っていたものが落ちた気がした。
リサも、青年も、帽子店も、客も、すべて遠くなった。
「美しさ以外はいらないの」
リゼットは、わずかに目を伏せた。
「それは、おすすめ致しません」
「なぜ?」
「美しさに不要なものが、落ちていきます」
「いいことじゃない」
「普通の暮らしを望まれる方には、不向きです」
「普通なんていらない」
オデットは笑った。
「美しくないものはいらない」
リゼットの表情が変わった。
驚きではない。喜びでもない。けれど、何かを見つけたような、静かな感動だった。
「たいへん澄んでいますね」
声がやわらかく落ちる。
モルは何も言わなかった。
ただ、カウンターから降りて、奥の通路へ歩いた。首元の鍵が、リボンの下で小さく揺れている。
リゼットはそれを見て、静かに頷いた。
「こちらへどうぞ」
満願堂の最奥へ進む。
喫茶の席、本棚、カウンター、ガラスケース。それらを通り過ぎた先に、黒鉄の両開き扉があった。
扉には鍵穴がない。
中央には、閉じた一つ目の意匠がある。根にも、蔦にも、瞼にも見える古い模様。
リゼットはモルの首元から古い鍵を外した。
鍵を、その目へかざす。
光はなかった。
呪文もなかった。
ただ、扉の目が薄く開いたように見えた。
鍵を見たのか、オデットを見たのかは分からない。
次の瞬間には、もう閉じていた。
ガチャリ、と重い音がした。
リゼットは一歩退く。
「開けるのは、貴方様です」
オデットは両手を扉についた。
扉は、驚くほど軽かった。
力を込めるまでもなく、黒鉄の扉は音もなく開いていく。
その先には、地下へ続く石階段があった。
冷たい空気が上がってくる。
オデットは降りた。
地下は、黒鉄と石でできていた。
倉庫ではない。美術館のようだった。満願具が一つ一つ、台座や棚に納められている。布に包まれたもの。箱に入ったもの。暗がりに沈み、形さえ分からないもの。
そのほとんどは、目に入らなかった。
けれど、ひとつだけ見えた。
鏡台だった。
光っているわけではない。そこだけ明るいわけでもない。けれど、闇の中からそれだけが浮かび上がっているように見えた。
初めて見たはずなのに、初めてではなかった。
選んだのではない。
見つけたのでもない。
思い出したのだ。
オデットは、そこへ辿り着くことになっていた。
リゼットの声が、地下の静けさに落ちる。
「こちらは満願具です」
オデットは鏡台から目を離せなかった。
「願いを根付かせます。根付いた願いは、品を離しても仕上がりまで止まりません」
「ええ」
「それでも、お望みですか」
「望むわ」
リゼットは納願帳を開いた。
オデットは書いた。
美しくなりたい。
美しさ以外はいらない。
モルが隣で言う。
「いいにおい」
リゼットは微笑んだ。
「オデット様の願いには、こちらの品がよく合うかと」
鏡台の縁に指を置いた瞬間、オデットは小さく息を吐いた。
冷たくはなかった。温かくもなかった。
ただ、ずっとそこにあるはずだったものへ、ようやく触れた気がした。
鏡の中の自分が、静かに微笑んでいる。
それが今の自分なのか、これからの自分なのか、分からなかった。
「たいへん美しく仕上がると思います」
リゼットの声がした。
オデットは、頷いた。




