第二話 本音を拾う銀針
ルーシャは、人の笑顔を信じるのが得意だった。
客が鏡の前で頷けば、それを満足だと思った。採寸の途中で「任せるわ」と言われれば、本当に任されたのだと思った。仕立屋に必要なのは、布を見る目と、針を扱う指と、客の言葉をきちんと受け取る耳だと教えられてきた。
だから、ルーシャは客の言葉を信じていた。
信じていた、はずだった。
「素敵ね」
婦人はそう言った。
月環街の南通りにある仕立屋の試着室で、婦人は姿見の前に立っていた。仕立てたばかりの外出着は、淡い若草色の布地で作ってある。袖口には控えめに白い刺繍を入れ、首元は少しだけ開けた。重すぎず、地味すぎず、春の午後に似合う服になったとルーシャは思っていた。
婦人も、最初は笑っていた。
けれど、鏡を見ているうちに、その笑顔が少しずつ薄くなっていく。
「……ええ。素敵よ」
その言い方に、ルーシャは小さな棘を感じた。
「どこか、お直ししましょうか?」
「いいえ。とても綺麗」
「では」
「ただ、少し……思っていたのと違うの」
ルーシャは息を止めた。
この客は、採寸の時に確かに言った。
若すぎるものは嫌。けれど、老けて見えるのも嫌。派手なものは困るけれど、地味すぎるのも寂しい。流行は取り入れたいが、流行を追っているようには見られたくない。
その全部を、ルーシャなりに汲んだつもりだった。
それなのに。
「どのあたりが、ご希望と違いましたか?」
ルーシャは笑った。店先で鍛えた笑顔だった。
婦人は困ったように目を伏せる。
「上手く言えないの。でも、もう少し……」
もう少し、何なのか。
ルーシャは聞きたかった。
でも婦人はそれ以上言わなかった。結局、袖と襟の刺繍を少し直すことになった。大きな失敗ではない。代金も支払われる。師匠に怒られるほどではない。
けれど、作業台へ戻ったルーシャの胸の中には、暗い糸玉のようなものが残った。
だったら、最初から言ってくれればよかったのに。
そう思った自分が嫌で、ルーシャは針を持つ手に力を込めた。
その夕方、ルーシャは満願堂へ向かった。
雨ではなかった。ニナを連れてきた時のような、雨宿りの理由はない。けれど、仕事帰りにあの店の前を通ると、どうしても紅茶の香りを思い出してしまった。
月環街の路地裏にある満願堂は、今日も文字のない看板を下げていた。
ティーポットと古書、小さな鍵の紋章。リゼットはこの店を満願堂と呼ぶ。街の人々もそう呼ぶ。けれど看板には、店名の文字はない。知らない者が見れば、ただ雰囲気のいい茶房だと思うだろう。
扉を開けると、鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうで、リゼットが顔を上げる。
青みを帯びた黒髪。琥珀色の目。濃紺のクラシカルなドレスと、生成りのエプロン。胸元の月環のペンダントが、ステンドグラスの光を受けて鈍く光った。
足元では、白い長毛の魔獣が丸くなっていた。
モルは顔を上げると、ふわふわの尻尾を揺らした。
「おきゃくさま、きた」
「こんばんは、モル」
「ルーシャ、雨じゃない」
「今日は雨じゃないよ。お茶だけ」
「お茶だけ」
モルは納得したように頷くと、小さな前足で盆を押した。
ルーシャは窓際ではなく、カウンターに近い席に座った。ニナが納めた晴れ乞いの人形のことを思い出し、表の棚を見る。
小さな願具が並んでいた。
晴れ乞いの人形。探し物の栞。よく眠れる香草。小さな貯金箱。少しだけ顔色が良く見える手鏡。
どれも可愛らしい。
けれど今日は、それらより奥が気になった。
リゼットの背後、カウンター奥の壁に、細い棚があった。初めて満願堂へ来た時にもあったのかもしれない。だが、ルーシャは今まで意識して見たことがなかった。
そこには、小さなガラスケースが並んでいる。
指輪。香水瓶。眼鏡。銀の小箱。黒い革表紙の手帳。細い鎖のついた懐中時計。
そして、小さな針。
銀色の縫い針だった。
ただの針に見える。けれど、ほかの品に混ざっているのに、そこだけ視線が止まった。派手な装飾はない。宝石もついていない。けれど目を離そうとすると、なぜか少しだけ惜しい気がした。
リゼットが紅茶を置いた。
「気になりますか」
ルーシャは少し驚いて、リゼットを見た。
「はい。あの針は……」
「本音を拾う銀針です」
「本音?」
リゼットはカウンターの奥へ回り、ガラスケースに手を伸ばした。鍵を開ける音はしなかった。けれど、リゼットの指が触れるまで、ケースは開かないものなのだと自然に分かった。
銀針は小さな黒い布の上に置かれている。
近くで見ても、やはり普通の針に近かった。ただ、針先がとても細い。糸を通す穴は小さく、銀の表面には光というより、静かな冷たさがあった。
「奥の棚の品です」
リゼットは言った。
「表の願具より効き目が強く、返りもはっきり現れます。満願堂では、こうした品を魔願具と呼んでおります」
「魔願具」
ルーシャはその言葉を繰り返した。
表の棚の願具よりも、少し重い響きがした。
「勝手に触れては、いけないものですか?」
「ええ。触れる前に、私へお声がけください」
リゼットの口調はいつもと同じだった。優しく、穏やかで、押しつけがましくない。
「この針は、布を縫う方に向いた品です。針を通した布は、着る方の本音を少しだけ拾います」
「本当に望んでいることが、分かるんですか?」
「服に関わることでしたら」
ルーシャは銀針を見つめた。
欲しい、とは思わなかった。
ただ、それがあれば、今日のようなことは避けられると思った。
客が何を望んでいるのか分かれば、失敗しない。曖昧な言葉に振り回されなくて済む。任せると言いながら後から不満を言う客にも、最初から正しい服を出せる。
「便利ですね」
「はい」
リゼットは頷いた。
「ただし、拾うだけではございません」
「返りですね」
「ええ」
リゼットは銀針を布ごと持ち上げた。
「この針は、着る方の本音を拾います。けれど同時に、縫う方の本音も布へ滲ませます」
「私の本音も?」
「はい」
「でも、それは……私が口にしなければ」
「言わずに済ませたことほど、針は拾いやすいのです」
ルーシャは黙った。
客の服を仕立てる時、心の中で何も思わないわけではない。
この色は似合わない。
もう少し正直に言ってほしい。
その形では太って見える。
任せると言ったのに、どうせ後で文句を言うのだろう。
見栄っ張り。
臆病。
欲張り。
そういう言葉を、ルーシャは呑み込んできた。
呑み込むのが仕事だと思っていた。
「それは、相手に聞こえるんですか?」
「言葉としてではありません」
リゼットは針を見つめた。
「ですが、服に残ります。袖を通した時、居心地の悪さとして触れることがあるでしょう」
「居心地の悪さ」
「ええ。服に責められているような。布に見抜かれているような。そう感じる方もいらっしゃいます」
ルーシャの喉が少し乾いた。
怖い。
そう思った。
けれど同時に、使ってみたいとも思った。
客の本音が分かるなら。
もう「思っていたのと違う」と言われずに済むなら。
もっと良い服が作れるなら。
「魔願具は、根付きません」
リゼットが言った。
聞き慣れない言葉だった。
「根付く?」
「品を離しても仕上がりが止まらなくなることです。魔願具は、そこまでは至りません。納めることも、使うのをやめることもできます」
「では、戻れるんですね」
「はい」
リゼットは静かに続けた。
「ただし、使った分の返りは残ります」
ルーシャは銀針を見た。
銀の針は動かない。光らない。呼びかけもしない。ただ、そこにある。
けれど目が離せなかった。
「使ってみたいです」
ルーシャは言った。
リゼットはすぐには返事をしなかった。
カウンターの下から、古い帳面を取り出す。深い茶色の表紙には、満願堂の紋章が小さく押されていた。
「こちらは納願帳です」
「納願帳?」
「契約ではございません。お客様の願いを、迷子にしないためのものです」
リゼットは帳面を開き、細いペンを差し出した。
「こちらへ、何を望まれるのかお書きください」
ルーシャはペンを持った。
少しだけ迷う。
書きたいことは決まっている。けれど、文字にすると急に重く見えた。
お客様が本当に望む服を仕立てたい。
そう書いた。
それは嘘ではない。
嘘ではないが、全部でもない気がした。
モルが椅子の下から顔を出し、帳面に鼻を寄せた。
「におい、変わった」
ルーシャはぎょっとした。
「え?」
「でも、まだ奥じゃない」
モルはそう言って、リゼットを見上げた。
リゼットは小さく頷いた。
「ええ。奥の部屋の品ではありません」
「奥の部屋?」
ルーシャが聞くと、リゼットは微笑んだ。
「今はまだ、気になさらなくて大丈夫です」
その言い方で、ルーシャはかえって気になった。
モルの首元で、リボンに下がった古い鍵が小さく揺れている。あの鍵が何の鍵なのか、ルーシャは知らない。
けれど今、知るべきではないのだと思った。
リゼットは銀針を小さな黒布に包み、ルーシャへ差し出した。
「扱いにはお気をつけください」
「はい」
「拾うものは、相手の本音だけではありません。ルーシャさんの中にある、口にしなかったものも拾います」
「……気をつけます」
代金は、仕立屋の見習いが気軽に出せる額ではなかった。
けれど、これで失敗しない服が作れるなら、いつか取り戻せる。ルーシャはそう思ってしまった。
ルーシャは銀針を受け取った。
指先に冷たさが残った。
最初の客は、月環街の北区に住む婦人だった。
年頃の娘を持つ母親で、近いうちに親族の集まりがあるという。注文は外出用の上着。希望は「派手すぎず、けれど古くさくならないもの」。
いつもなら、ルーシャはその曖昧な言葉に悩んでいた。
だが、その日は違った。
銀針を使って仮縫いを始めた瞬間、胸の奥にかすかな感覚が流れ込んできた。
若く見られたい。
娘の隣に立っても、老けて見られたくない。
でも、若作りだと思われるのは嫌。
親族の中で、まだ綺麗だと言われたい。
それは声ではなかった。
言葉でもない。
けれど、ルーシャには分かった。
ルーシャは襟の形を変え、布地の色を少しだけ明るくした。刺繍は控えめにし、袖口だけに華やかさを残した。
受け取りの日、婦人は鏡の前で黙った。
ルーシャは緊張した。
だが、婦人の目に涙が浮かんだ。
「そう」
婦人は自分の姿を見つめたまま言った。
「こういうのが欲しかったの」
ルーシャは胸が熱くなった。
やっぱり、銀針は正しかった。
その次も上手くいった。
さらにその次も。
首元を隠したい客。
本当は目立ちたい客。
婚約者に綺麗だと言われたい客。
安く済ませたいが、貧しく見られたくない客。
娘より老けて見られたくない母親。
友人たちに羨ましがられたい若い娘。
客の口はいつも曖昧だった。
けれど銀針は曖昧ではなかった。
針を通せば、本当の望みが分かる。ルーシャの手は迷わなくなった。仕立屋の師匠も、最近は客の満足そうな顔を見て、何度も頷いた。
「ルーシャ、よく分かるようになったね」
その言葉は嬉しかった。
嬉しかったが、同時にルーシャは少しずつ疲れていった。
人の本音は、思ったよりも綺麗ではなかった。
誰かのためと言いながら、本当は自分が目立ちたい。
地味でいいと言いながら、本当は誰よりも褒められたい。
娘のためと言いながら、本当は娘より若く見られたい。
任せると言いながら、本当は失敗した時の責任をこちらに預けたい。
ルーシャは笑顔で聞いた。
笑顔で採寸し、笑顔で布を選び、笑顔で仮縫いした。
でも針を持つたびに、思うことが増えた。
どうして言ってくれないの。
どうして隠すの。
どうして私に当てさせるの。
その感情を、ルーシャは言葉にしなかった。
言葉にしないからこそ、銀針は拾った。
返りが出始めたのは、六着目の服だった。
客は服を受け取り、最初は喜んだ。色も形も希望通りだった。寸法も合っている。けれど、袖を通したまま鏡の前に立っているうちに、眉を寄せた。
「……何かしら」
「どこか、きついですか?」
「いいえ。そうじゃないの」
客は胸元に手を当てた。
「綺麗なのに、なんだか責められている気がするわ」
ルーシャは息を呑んだ。
「責められている?」
「ええ。変ね。服がそんなことをするはずないのに」
客は笑った。
けれど、その服は受け取られなかった。
次の客も同じようなことを言った。
「この袖、私の腕を笑っているみたい」
また別の客は、服を着た瞬間に顔を曇らせた。
「私、あなたに何か失礼なことを言ったかしら」
ルーシャは否定した。
そんなことはありません、と。
けれど、彼女たちが感じたものに覚えがあった。
ルーシャは心の中で思っていた。
この袖では腕が太く見える。
見栄を張るから似合わない色を選ぶのだ。
本当はもっと目立ちたいくせに。
任せると言ったくせに。
銀針は、相手の本音だけを拾ったのではなかった。
ルーシャの本音も、拾っていた。
決定的だったのは、婚礼衣装の依頼だった。
花嫁は若く、優しい声で話す人だった。希望は、清楚で控えめな白の衣装。母親が隣に座り、何度も「派手なものは似合わない」と言った。
花嫁は頷いていた。
けれど、銀針は別のものを拾った。
本当はもっと華やかにしたい。
胸元に花を入れたい。
友人たちに羨ましがられたい。
婚約者に、一番綺麗だと言われたい。
ルーシャは迷った。
だが、花嫁の本音は確かにそこにあった。だからルーシャは、控えめな白の中に、光を受ける刺繍を入れた。裾には薄い花模様を忍ばせ、袖口には淡い銀糸を使った。
仕上がりは美しかった。
受け取りの日、花嫁は息を呑んだ。
「綺麗……」
その声を聞いて、ルーシャは安堵した。
しかし、花嫁が衣装を羽織った瞬間、表情が変わった。
彼女は鏡ではなく、ルーシャを見た。
「……そんなふうに思っていたの?」
ルーシャは何も言えなかった。
「私が、見栄を張りたいだけだって」
花嫁の声は震えていた。
「清楚なんて言いながら、本当は誰より目立ちたいんだって」
「違います」
咄嗟に言った。
だが、違わなかった。
少しは思った。
思ってしまった。
花嫁は衣装を脱ぎ、泣きながら店を出ていった。
師匠は何も言わなかった。
言わなかったことが、かえって痛かった。
その夜、ルーシャは銀針を持って満願堂へ行った。
店はまだ開いていた。
客は少ない。カウンターの端で、モルが丸くなっている。白い服のエリアスはいつもの席にいて、静かに紅茶を飲んでいた。
リゼットは、ルーシャを見るなり小さく頷いた。
「いらっしゃいませ、ルーシャさん」
ルーシャは銀針を差し出した。
「これ、返したいです」
声は、思ったよりかすれていた。
「もう使いません」
リゼットは両手で銀針を受け取った。
「はい。魔願具ですので、納めることはできます」
その言葉に、ルーシャは少しだけ息を吐いた。
戻れる。
そう思った。
しかしリゼットは続けた。
「ただし、縫い込まれた返りは、すぐには消えません」
ルーシャは顔を上げた。
「じゃあ、どうすればいいんですか」
リゼットは銀針を黒布に置いた。
「ほどくことです」
「ほどく?」
「ルーシャさんが縫ったものですから」
雨の日に、ニナが言われた言葉を思い出した。
雨が降るのを、待つことです。
満願堂は、何でも直してくれる場所ではない。
願いをなかったことにはしてくれない。
ルーシャはそのことを、ようやく理解した。
「魔願具は、戻れます」
リゼットは静かに言った。
「けれど、使った分まで、なかったことにはできません」
「私は……」
ルーシャは拳を握った。
「お客様が本当に望む服を作りたかっただけなんです」
「はい」
「でも、本当は……失敗したくなかったんです。文句を言われたくなかった。私が正しかったって、思いたかった」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥に絡まっていた糸が、少しだけゆるんだ気がした。
リゼットは微笑んだ。
「願いは、ひとつだけとは限りません」
モルが近づき、銀針の匂いを嗅いだ。
「本音のにおい」
それから首を傾げる。
「奥?」
リゼットは銀針を見た。
「奥の棚で休ませましょう」
「表じゃない?」
「ええ。表には戻せません」
モルは納得したように頷いた。
「奥、もってくる?」
「お願いね」
「大事にもってくる」
モルは黒布に包まれた銀針を咥えず、前足でそっと抱えるようにして運んだ。いつもの軽い足取りではなかった。まるで、それが小さな生き物であるかのように慎重だった。
ルーシャはその後ろ姿を見送った。
「私は、戻れますか」
自分でも、何を聞いたのか分からなかった。
リゼットはすぐに答えなかった。
「戻る、というのが、以前と同じになることでしたら」
琥珀色の目が、静かにルーシャを見る。
「それは難しいでしょう」
ルーシャは唇を噛んだ。
「ですが、進むことはできます」
翌日から、ルーシャは服をほどいた。
婚礼衣装の銀糸を一本ずつ抜く。裾の花模様をほどく。刺繍を外す。
美しいと思っていたものが、少しずつ布へ戻っていく。
その作業は苦しかった。
縫い目を解くたびに、自分が何を考えていたのか思い出す。花嫁の本音を拾った時、自分が少しだけ見下したこと。母親に従うふりをして、本当は目立ちたがっているのだと決めつけたこと。
その全部が、針跡に残っている気がした。
数日後、ルーシャは花嫁に謝りに行った。
簡単には許されなかった。
花嫁は泣いた。母親は怒った。仕立屋の信用にも傷がついた。師匠はしばらく、ルーシャに大きな仕事を任せなかった。
それでも、花嫁は最後に小さく言った。
「本当は……もう少し華やかにしたかったの」
ルーシャは、その言葉を銀針なしで聞いた。
聞いて、待った。
花嫁が次の言葉を探すまで、口を挟まなかった。
「母には、言いづらかった。でも、あなたにまで見透かされた気がして、怖かった」
「ごめんなさい」
ルーシャは頭を下げた。
「今度は、言葉で聞かせてください」
花嫁はすぐには頷かなかった。
それでも数日後、仕立屋へ戻ってきた。
仕立て直した婚礼衣装は、以前より少し控えめだった。けれど胸元には、花嫁自身が選んだ小さな花の刺繍を入れた。
完璧ではなかった。
ただ、ルーシャは初めて、客の沈黙を急かさずに待てた。
満願堂では、リゼットが納願帳を開いていた。
ルーシャの書いた頁。
お客様が本当に望む服を仕立てたい。
その横に、リゼットは細い文字を添える。
魔願具使用。
返り確認。
奥の棚へ。
モルが隣で覗き込む。
「ルーシャ、戻った?」
「ええ」
リゼットは少し考えてから答えた。
「今回は、まだ戻れました」
「よかった?」
「そうですね」
リゼットはペンを置いた。
「願いが、服の外へ出られましたから」
奥の棚には、銀針が納められている。
見た目は、ただの針だった。
細く、冷たい銀の針。光ることもなく、模様が増えることもない。何も変わっていないように見える。
けれど、その棚の前を通ると、ほんの少しだけ音が遠くなる。
モルが鼻を鳴らした。
「まだ、いいにおい」
リゼットはそれを聞いて、静かに微笑んだ。




