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満願堂の仕上がり  作者: 高山 墨人
第一章 表の棚に並ぶもの

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第一話 晴れを借りる人形

願いが叶う古書茶房、満願堂の物語です。

静かな不思議と、願いの行き着く先をお楽しみください。

月環街では、雨の日に花がよく売れた。


そう言ったのは、ニナの師匠である花屋の女主人だった。


雨に濡れた石畳の通りで、灰色の空を見上げながら、師匠はいつものように笑っていた。軒先には白い小花、青い釣鐘草、薄紅の花束が並んでいる。雨に弱い花は奥へ下げ、雨に映える花だけを表に出す。その手際は見事で、ニナは何年もそれを見てきた。


けれど、今のニナには、雨の日に花が売れるなどという言葉を信じる余裕がなかった。


五日後、月環街の広場で春市が開かれる。


その日は、ニナが初めて自分の仕入れた花を並べる日だった。選んだのは、淡い黄色の花弁を持つ小さな花。晴れた日の光を受けると、花弁の縁が透けるように輝く。雨の日に売る花ではない。曇った空の下では、どうしても色が沈んで見えてしまう。


よりによって、その日が雨の予報だった。


「そんな顔してたら、花までしおれちゃうよ」


師匠にそう言われて、ニナは慌てて表情を直した。


「すみません。でも、せっかくの春市なのに」


「雨なら雨で、飾り方を変えればいい。花は逃げないよ」


師匠はそう言ったが、ニナは素直に頷けなかった。


逃げるのは、たぶん花ではない。


客だ。


晴れていれば人が集まる。人が集まれば、花も見てもらえる。自分の選んだ花が、初めて誰かの手に渡るかもしれない。


だが、雨なら。


誰も立ち止まらないかもしれない。


そう思うと、胸の奥に小さな石でも置かれたようだった。


ニナが花屋に来たのは、十二の年だった。


はじめは花の名前を覚えるだけで精一杯だった。水を替える時刻、茎を切る角度、雨の日に外へ出していい花と、そうでない花。覚えることはいくらでもあった。


けれど、仕入れだけはなかなか任せてもらえなかった。


どんな花が売れるのか。どの色を並べれば通行人の目が止まるのか。祭りの日と葬儀の日で、同じ白い花でも求められ方が変わること。師匠はそれを、簡単には教えてくれなかった。


今回の春市は、初めての機会だった。


自分の選んだ花が売れなければ、ただ損をするだけではない。師匠の店に、まだ自分は早かったと思われるかもしれない。


それが、ニナには怖かった。


昼過ぎ、配達に出た帰りに、ニナは友人のルーシャと会った。ルーシャは仕立屋の娘で、天気の悪い日でも足取りが軽い。雨粒を避けるように、軒から軒へと器用に渡ってくる。


「ニナ、また空見てる」


「だって、五日後も雨かもしれないの」


「春市の日?」


「うん」


「じゃあ、満願堂に行ってみる?」


聞き慣れない名前に、ニナは首を傾げた。


「満願堂?」


「知らない? 古書と紅茶のお店。小物も置いてるの。ちょっと変わってるけど、いいところだよ。モルっていう、ふわふわの子もいる」


「猫?」


「猫……かなあ。猫ではないと思う。でも、撫でたくなる」


ルーシャの説明はよく分からなかったが、雨宿りにはちょうどよかった。


月環街の古い通りを抜け、石畳の細い路地へ入る。大通りから一本外れただけなのに、そこは少しだけ時間が遅いように見えた。古書店、仕立屋、薬草屋、小さな額縁の店。そのさらに奥、曲がり角の先に、温かな色の明かりが見えた。


吊り看板には文字がなかった。


ただ、ティーポットと古書、それから小さな鍵のような紋章が彫られている。よく見ると鍵の中央には、閉じた目のような意匠があった。目に見えるのは一瞬だけで、見直すとただの飾りだった。


「ここ?」


「うん。満願堂」


扉を開けると、鈴の音がした。


最初に届いたのは、紅茶の香りだった。次に、古い紙と木の匂い。店内は外から見たよりも奥行きがあり、淡い色のステンドグラスから落ちる光が、床やテーブルに青や橙の影を作っていた。


客席はすべて室内にある。小さな丸テーブル、二人掛けの席、壁際の長椅子。壁の一面には古書が並び、ところどころに小瓶や栞や陶器の飾りが置かれている。喫茶店であり、本屋でもあり、雑貨屋でもあるような、不思議に居心地のいい場所だった。


カウンターの向こうで、黒髪の女性が顔を上げた。


青みを帯びた黒髪を低くまとめ、生成りのエプロンを身につけている。肌は白く、琥珀色の目は紅茶に灯りを落としたように静かだった。胸元には、月環をかたどった小さなペンダントがかかっている。


「いらっしゃいませ。お好きなお席へどうぞ」


声は柔らかく、丁寧だった。


その足元から、白い毛玉のようなものが顔を出した。


長毛の猫に似ている。けれど耳は少し長く、尻尾もふさふさしていて、首にはリボンと古い鍵が下がっていた。鍵は小さな飾りに見えたが、金属だけは妙に古く、重そうだった。


「おきゃくさま」


それが短く喋ったので、ニナは思わず足を止めた。


「いま、喋りました?」


「喋るよ」


ルーシャは慣れたように笑った。


「この子がモル」


「モル、お茶はこぶ」


モルはそう言うと、小さな前足で器用に盆の端を押し、カウンターの内側へ戻っていった。


ニナは少しだけ緊張しながら、窓際の席に座った。


満願堂は、誰かが大声で話す店ではなかった。


カップが皿に触れる音。雨粒が窓を叩く音。頁をめくる音。モルが床を歩く、ふわりとした足音。


それらが重なって、なぜか静かだった。


ニナは、ここなら少しだけ失敗しても許されるような気がした。雨のことも、春市のことも、師匠に認められたいことも、全部カップの湯気の中へ沈めておける気がした。


紅茶は美味しかった。雨で冷えた指先が、カップの熱でほどけていく。ルーシャは菓子を選び、ニナは壁の本棚を眺めた。古い詩集、草花の図鑑、月環街の地誌、子ども向けの童話。その間に、小さな雑貨が混ざっている。


隣の少し離れた席には、白い服の女性が座っていた。


白銀に近い髪を軽くまとめた、小柄で柔らかな印象の人だった。歳はニナより少し上に見える。けれど、落ち着き方はずっと大人びている。白を基調にした服は雨の午後の店内で不思議と目立ち、ステンドグラスの淡い色を受けても、色を変えずに静かにそこにあった。


場違い、というほどではない。


ただ、綺麗すぎる人だった。


まるで満願堂の席の一つとして、初めからそこに置かれていたような綺麗さだった。


女性は本を開き、ゆっくり紅茶を飲んでいる。ニナの視線に気づくと、ほんの少し微笑んだ。ニナは慌てて会釈を返した。


その笑顔にも、どこか雨音から切り離されたような静けさがあった。


「あの方、常連なの?」


ニナが小声で聞くと、ルーシャはちらりと見て、頷いた。


「エリアスさん。私が来る時はだいたいいるかな」


「綺麗な人だね」


「うん。初めて見ると、ちょっとびっくりするよね」


それ以上の話にはならなかった。


ニナの視線は、すぐに別のものへ戻った。


白い布で作られた小さな人形があった。


丸い頭。短い胴。首元に小さなリボン。顔はない。窓辺に吊るす飾りのように見える。特別に美しいわけでも、高価そうなわけでもなかった。


それなのに、ニナは一度視線を外したあと、またその人形を見ていた。


ここでは、少しだけ願ってもいいような気がした。


だから、棚の人形に目が戻ったのかもしれない。


リゼットが静かに近づいてきた。


「気になりますか」


「あ、いえ。かわいいなって」


「晴れ乞いの人形です」


「晴れ乞い?」


リゼットは棚から人形を取ると、ニナの前へそっと置いた。


「寝る前に窓辺へ吊るすと、翌日の空が晴れへ傾きます」


ニナは思わず笑った。


「そんな都合のいいものがあるんですか?」


「ございます」


リゼットは微笑んだ。


「ただし、返りもございます」


「返り?」


「雨は、消えるわけではありません。少し後ろへ送られるだけです」


ニナは人形を見た。


白い布は柔らかく、いかにも無害そうな飾りに見える。


「後ろへ、というと」


「明日降るはずだった雨が、明後日へ回ることもあります。あるいは、その次の日へ。一度なら小さな雨で済むでしょう。けれど、続けて使えば、そのぶん雨も戻ってまいります」


モルがカウンターから顔を出した。


「雨、あとでくる」


「じゃあ、その日だけなら平気ですね」


ニナがそう言うと、リゼットは少しだけ目を伏せた。


「使いすぎなければ、可愛らしい願具です」


「願具?」


「願いに応える品を、満願堂ではそう呼んでおります。こちらは表の棚の願具ですから、初めてのお客様にも扱いやすいかと」


値段は、気軽に買える飾りではなかった。


表の棚の願具は、買い求める品なのだとリゼットは言った。


けれど、春市が晴れるなら、出せない額でもない。


ニナは少し迷ってから財布を開き、晴れ乞いの人形の代金を支払った。


ルーシャは面白がっていた。


「本当に使うの?」


「春市の日だけ」


「返り、来るって言ってたよ」


「一回だけなら、大丈夫でしょ」


そう言った時、ニナ自身もそれを信じていた。


春市の前夜、ニナは人形を窓辺に吊るした。


雨雲が空に残っていた。夜風は湿っていて、明日も雨だろうと告げているようだった。


ニナは布人形を見つめる。


「明日だけでいいの」


声に出すほどのことではないと思った。けれど、口からこぼれていた。


翌朝。


空は晴れていた。


晴れすぎているくらいだった。


青い空に、薄い雲が一筋だけ伸びている。雨上がりの石畳は光を返し、広場へ向かう人々の足取りは軽い。


ニナの花はよく売れた。


淡い黄色の花は、陽の光を受けて本当に透けるように輝いた。立ち止まった婦人が「春の光みたいね」と言い、若い男が恋人への贈り物に一束買っていった。


ニナは忙しかった。


春市の広場では、他の店も驚いたように空を見上げていた。


「昨夜まであんなに降りそうだったのにね」


隣の菓子屋が言った。ニナは曖昧に笑った。


自分が晴れにしたのだ、とは思わなかった。そこまで信じるのは怖かった。ただ、あの人形を吊るした夜のことを思い出すと、胸の奥が少しだけ温かくなった。


願いが通じた。


そう思うのは、悪いことではない気がした。


午後には、師匠も広場へ顔を出した。売れ残りが少ないのを見て、目を丸くする。


「やるじゃないか、ニナ」


その一言で、ニナは人形のことをほとんど忘れかけた。


忘れかけた、というより、忘れたかった。


これは自分の力だったのだと、思いたかった。


忙しくて、嬉しくて、夕方に遠くの空が少し黒くなっていることなど、ほとんど気にしなかった。


その翌日、雨が降った。


けれど小雨だった。


店の前を濡らす程度で、昼には上がった。ニナは窓辺の人形を見て、小さく息を吐いた。


返りとは、こういうものなのだ。


それなら、使い方を間違えなければ大丈夫だと思った。


最初は、春市の日だけだった。


次は、大事な配達の日に使った。荷車に積んだ花を濡らしたくなかったからだ。


その次は、洗濯物を干したい日に使った。花屋の布やリボンは、雨が続くと匂いがこもる。


その次は、ルーシャと出かける日だった。


どれも大した願いではなかった。


誰かを不幸にしたいわけではない。誰かを騙したいわけでもない。ただ、雨より晴れの方が都合がよかった。それだけだ。


人形はよく効いた。


吊るすと、翌日は晴れる。雨はあとで戻る。けれど、少し降るだけなら受け入れられた。


次の雨の日、ニナは一度だけ人形を吊るさずに眠ろうとした。


窓の外では、細い雨が降り始めていた。明日は朝から配達がある。花は布で包めばいい。濡れない道を選べばいい。師匠ならそうする。


そう思って、寝台に入った。


けれど、目が冴えた。


机の上の人形が、暗がりの中で白く見える。顔はない。こちらを見ているわけでもない。ただ置いてあるだけだ。


それでも、ニナは何度も寝返りを打った。


使えばいい。たった一日だ。返りだって、きっと小さい。


結局、夜半を過ぎてから起き上がり、人形を窓辺に吊るした。


翌朝、空は晴れた。


ニナはほっとした。


ほっとしてしまったことに、少しだけ嫌な気持ちになった。


やがてニナは、雨の日の予定を見ると窓辺の人形を思い出すようになった。


今日は雨でもいいはずだった。


そう思う日でも、人形を吊るさない理由がうまく見つからなかった。


満願堂へも、何度か行った。


リゼットはいつも変わらず迎えてくれた。モルはお茶を運び、時々カウンターの端で丸くなっている。


エリアスも、何度か見かけた。


いつも白い服を着て、同じ席のあたりにいる。ニナが入ると静かに顔を上げ、薄く微笑む。初めて会った時と少しも変わらない姿で、満願堂の空気に溶けていた。


綺麗な人だと思った。


でも、その綺麗さは花の綺麗さとは違う。


花は朝と夕方で少し変わる。水を吸えば開くし、光が足りなければ俯く。触れれば揺れる。時間が経てば、少しずつ傷む。


エリアスは、どの時も同じように綺麗だった。


ニナはそれを羨ましいとは思わなかった。


ただ、少しだけ不思議だった。


ある夜、ニナは人形を吊るし忘れた。


疲れていたのだ。


雨の予報だったことは覚えていた。明日は店先に新しい花を並べる日だった。だが、夕食の後に少しだけ横になったつもりが、そのまま眠ってしまった。


朝、雨音で目が覚めた。


激しい雨だった。


窓を叩く音が、いつもの雨とは違う。ニナは跳ね起き、窓辺を見た。人形は机の上に置かれたままだった。


雨は昼になっても止まなかった。


花屋の軒先は濡れ、並べていた花の一部が駄目になった。客は少なく、通りを流れる水は靴の縁まで上がってくる。夕方には、小さな横路が水浸しになった。


師匠は花を奥へ下げながら、困ったように言った。


「急に来たねえ。しばらく降らなかったぶん、まとめて落ちてきたみたいだ」


その言葉に、ニナの胸が冷えた。


しばらく降らなかったぶん。


まとめて。


夜になっても雨は止まなかった。


ニナは濡れた外套を羽織り、晴れ乞いの人形を握りしめて満願堂へ向かった。


満願堂の扉は、日没後だというのに明かりを残していた。


扉を叩く前に、内側からモルが顔を出した。


「おきゃくさま」


「リゼットさんは?」


「いる」


モルは濡れたニナを見上げると、首を傾げた。


「雨のにおい」


奥からリゼットが現れた。


「ニナさん。どうぞ中へ。お体が冷えてしまいます」


ニナはカウンターの前で、人形を差し出した。


「これ、止められますか」


声が震えた。


「もう使いません。だから、雨を止めてください」


リゼットは人形を受け取った。


白い布は湿っていた。顔のない丸い頭が、少し重たそうに傾いている。


「願具ですので、止めることはできます」


ニナは顔を上げた。


「本当ですか」


「はい。ですが、送った雨は戻ります」


リゼットの声は変わらなかった。


優しい。丁寧。だからこそ、残酷なほどはっきり聞こえた。


「願具は、願いを軽く叶える品です。けれど、叶えたぶんの返りまでは、消して差し上げられません」


「じゃあ、私は何をすればいいんですか」


リゼットはしばらく黙っていた。


それから、静かに答えた。


「雨が降るのを、待つことです」


ニナは泣きたくなった。


怒鳴ることもできた。こんな品を売ったのはそちらだと。もっと強く止めてくれればよかったのにと。


けれど、リゼットは説明した。


雨は消えない。後ろへ送られるだけだと。


モルも言っていた。


雨、あとでくる。


分かっていたはずだった。


分かっていて、自分に都合よく小さく見積もった。


「この人形を、満願堂へ納めることはできます」


リゼットは言った。


「納める?」


「捨てるのではありません。壊すのでもありません。ここで休ませるのです。その場合、これ以上この願具で晴れを借りることはできません」


ニナは人形を見た。


持っていれば、また使うかもしれない。


そう思う自分が怖かった。


モルが人形に鼻を寄せた。


「雨のにおい」


それから、小さく言った。


「まだ、表」


ニナには意味が分からなかった。


リゼットは、モルに頷いた。


「そうですね。まだ表の棚に戻れる品です」


「表?」


「軽い願具です。願いを覚えすぎる前なら、まだ休ませられます」


ニナは両手を握った。


「納めます」


言ってから、胸の奥が少しだけ軽くなった。


惜しい気持ちはあった。晴れが欲しい日は、これからもいくらでもあるだろう。


でも、窓辺の人形を見るたびに吊るす理由を探す自分には、もう戻りたくなかった。


雨は三日続いた。


雨が戻ってきた三日間、ニナは何度も満願堂へ行きかけた。


もう一度だけ、別の願具を借りればいいのではないか。雨を止める願具だって、満願堂ならあるのではないか。


そんな考えが浮かぶたび、ニナは自分で自分の手を握った。


人形を納めた意味がなくなる。


それでも、雨音が強くなるたびに、満願堂の明かりを思い出した。


あの店なら、何かあるかもしれない。


そう思えてしまうことが、いちばん怖かった。


三日目の午後、雨は細くなった。


花屋は少し損をした。ニナも師匠に叱られた。けれど、月環街が沈むほどではなかったし、誰かが怪我をすることもなかった。


ニナは軒下に花を並べた。濡れても色が沈みにくい花、雨粒が葉の上で丸く残る花、曇った空の下で白く映える花。


雨の日には、雨の日の飾り方がある。


師匠が前に言っていたことを、ようやく少しだけ理解した。


数日後、ニナは満願堂へ紅茶を飲みに行った。


人形のことを聞くつもりはなかった。もう納めたのだから、あれは満願堂のものだ。


けれど、カウンターの向こうでリゼットが小さな箱を閉じているのを見て、何となく分かった。


箱の中には、白い布の端が見えた。


モルが横から覗き込む。


「表?」


「少し休ませましょう」


リゼットは箱を棚の奥へ置いた。


「願いを覚えすぎる前に」


その時、扉の鈴が鳴った。


入ってきたのは、月環街逓便局の制服を着た小柄な獣人だった。長い耳があり、腕には荷物を抱えている。


「逓便局です。お届け物です!」


明るい声だった。


モルがぱっと立ち上がる。


「ココ」


「モルさん、今日も受け取りお願いします!」


ココと呼ばれた逓便局員は、茶葉の包みと古書らしい荷物をカウンターに置いた。モルは誇らしげに前足で受け取りの印を押している。


そのあと、ココの表情が少しだけ変わった。


鞄の奥から、黒い紐で括られた小箱を取り出す。暗い赤の封蝋には、月環と扉、それから閉じた目に見える古い紋章が押されていた。


箱の脇には、古い納め札が下がっている。


「それと……納め物です」


声が、ほんの少し丁寧になった。


店内の空気が変わった気がした。


けれど、リゼットは柔らかく微笑んだ。


「ありがとうございます」


モルの耳がぴんと立つ。


「納め物」


モルは小箱の周りをくるりと回った。


「いいにおい」


ニナは思わず、小箱を見た。


いい匂いなど、しなかった。


雨上がりの湿った空気と、紅茶と、古書の匂いだけがある。


リゼットはモルの頭をそっと撫でた。


「今はお客様がいらっしゃいます」


「あとで?」


「ええ。後で一緒に開けましょう」


「たのしみ」


モルは満足そうに、小箱の横へ座った。


リゼットは何事もなかったように、ニナの前へ紅茶を置く。


「雨の日によく合う茶葉です」


ニナはカップを受け取った。


温かい香りが、胸の奥まで入ってくる。


満願堂は、やはりいい店だった。


ただ、カウンターの上の黒い紐の小箱から、ニナはしばらく目を離せなかった。


お読みいただきありがとうございます。

また満願堂へお立ち寄りいただけましたら幸いです。

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