第十四話 拍手を集める手袋
ヴィルは、拍手の音が好きだった。
月環街の広場で芸をする。玉を投げ、布を出し、帽子の中から小鳥の形をした紙を飛ばす。子どもが笑い、大人が足を止める。最後に一礼すると、ぱちぱちと手が鳴る。
その音が好きだった。
ヴィルが初めて拍手をもらったのは、十歳の時だった。
市場の片隅で、落とした林檎を空中で三つ続けて受け止めた。それを見ていた酔った職人が、面白がって手を叩いた。たった三度の拍手だった。
それでもヴィルは、その音を何年も覚えていた。
家に帰っても、誰も褒めてくれなかった。食卓には余ったパンと薄いスープがあり、母は疲れていて、父はもういなかった。けれど、昼間の拍手を思い出すと、胸の中が少しだけ明るくなった。
それから彼は、物を投げ、布を隠し、帽子を使い、笑いを取ることを覚えた。
芸は食べるための手段だった。
けれどいつしか、食べることよりも拍手の方が大事になった。
その日投げ銭が少なくても、拍手が多ければ満たされた。逆に銅貨が多くても、客が黙っていれば一日中空っぽだった。
ヴィルはそれを、自分でも少しおかしいと思っていた。
でも、拍手が鳴れば、そのおかしさまで消えた。
拍手の音は、雨の音にも似ていた。
細かく、途切れず、手のひらから手のひらへ跳ねていく。ヴィルが帽子を深く下げると、音は少し大きくなる。最後に顔を上げると、子どもが笑う。
その瞬間だけ、ヴィルは自分がこの街に必要なのだと思えた。
芸人は名前を残しにくい。広場の芸は、その場で笑われ、その場で忘れられる。昨日拍手してくれた客も、明日には別の芸人の前で同じように笑うだろう。
それでも、拍手の間だけは違った。
けれど、拍手はすぐに終わる。
客は立ち去る。子どもは母親に手を引かれて帰る。投げ銭を拾い終えると、広場には石畳と風だけが残る。
その瞬間、ヴィルは自分の中が空っぽになるのを感じた。
誰かに見られている間だけ、自分はある。
見られなくなった途端、自分が薄くなる。
満願堂へ来たのは、雨の日だった。
広場で芸ができず、投げ銭もなく、客の笑い声もなかった。路地裏で明かりを見つけ、温かい紅茶でも飲もうと思った。
店内には古書の匂いと、静かな光があった。
「いらっしゃいませ」
黒髪の管理人が迎える。
ヴィルは喫茶席に座り、紅茶を飲み、表の棚に置かれた小さな鈴を見つけた。
「そちらは、小さな喝采の鈴です」
リゼットが言った。
「鳴らすと、その場の空気が少し明るくなります。芸や話が、少し受けやすくなるでしょう」
「返りは?」
「終わった後、少し寂しくなることがございます」
ヴィルは笑った。
「それなら、いつものことだ」
ヴィルは小さな喝采の鈴の代金を支払い、雨上がりの広場で初めて鳴らした。
ちりん、と澄んだ音がした。
すると、通り過ぎようとしていた子どもが足を止めた。パン屋の娘が顔を上げた。普段なら急いでいる商人が、荷物を抱えたまま少しだけ立ち止まった。
ヴィルは帽子を投げる。帽子は風に乗り、くるりと回って戻ってくる。
笑い声が上がった。
鈴は小さな品だった。派手な奇跡は起こさない。だが、場の空気がほんの少しだけヴィルに味方する。
終わった後、寂しさが来た。
それはリゼットが言った通りだった。けれどヴィルは笑った。
寂しさなら、前からある。
拍手が増えるなら、返りと言うほどのものではない。
そう思った。
最初は本当に、そう思えた。
鈴はよく効いた。
最初の一鳴りは、小さかった。
ちりん、と鈴が鳴る。広場の空気がほんの少し丸くなる。急いで通り過ぎようとしていた婦人が足を止め、退屈そうにしていた子どもが顔を上げた。
ヴィルは玉を三つ投げた。
いつもなら二人か三人で終わる観客が、その日は十人になった。十人が二十人になり、最後の紙の鳥が空へ舞う頃には、投げ銭用の帽子の底が見えなくなっていた。
拍手は短かった。
でも、いつもより確かだった。
広場で鳴らすと、客の顔がやわらぐ。子どもが笑う。大人が立ち止まる。いつもより拍手が少し多い。
終わった後の寂しさも、いつもより少し濃かった。
だが、また鈴を鳴らせばいい。
しばらくして、ヴィルは満願堂へ戻った。
「もっと拍手が欲しい」
リゼットは奥の棚から、白い手袋を出した。
「拍手を集める手袋です。魔願具にあたります」
手袋は薄く、指先に小さな銀糸が縫い込まれていた。芸人がつけるには少し上品すぎるほどだった。
「これを身につけて芸をすると、客が強く引き込まれます。拍手も増えるでしょう」
「返りは?」
「拍手がない時間に、耐えづらくなります」
「もう耐えづらい」
ヴィルは言った。
「なら、同じだ」
手袋は、芸人が気軽に買える額ではなかった。
けれど、拍手が増えるなら、すぐに取り戻せる。ヴィルはそう思った。
ヴィルは手袋の代金を支払った。
リゼットは納願帳を開く。
ヴィルは書いた。
もっと拍手が欲しい。
モルは手袋に鼻を近づけた。
けれど、何も言わなかった。
首元の鍵だけが、小さく揺れた。
拍手を集める手袋を使い始めると、ヴィルの周りに人垣ができるようになった.
子どもたちは前列に座り、大人は後ろで腕を組む。広場の鳩まで、彼の足元を歩くようになった。
手袋の指先に縫い込まれた銀糸は、光を受けるたび細く光った。玉を投げる指が美しく見える。布をひるがえす手が、まるで舞台の上の役者のように大きく見える。
ヴィルは自分が上手くなったのだと思った。
いや、実際に上手くもなった。客が見る。見られると、手が軽くなる。手が軽くなると、芸が決まる。芸が決まると、拍手が増える。
幸せな輪だった。
だが、輪の外に出ると何もなかった。
宿の部屋に戻る。手袋を外す。指が冷える。窓の外で馬車が通る。誰も拍手しない。
ヴィルは、何度も両手を叩いてみた。
ぱち。
自分の手から出る音は、客席の拍手とは違っていた。
ひどく薄い音だった。
手袋は、鈴よりずっと効いた。
広場は人でいっぱいになった。ヴィルが玉を投げれば歓声が上がる。布をひるがえせば拍手が起こる。小さな失敗さえ、客は芸の一部だと思って笑った。
ヴィルは人気者になった。
誰もが彼を見た。
誰もが彼に手を叩いた。
誰もが、次の芸を待った。
幸せだった。
舞台に立っている間は。
舞台を降りた瞬間、音が途切れる。
その落差が、以前より大きくなった。広場の隅で靴紐を直しているだけなのに、客席から落ちたような気がする。宿屋の部屋で手袋を外すと、自分の手が急に何の役にも立たない肉の塊に見えた。
拍手がない時間は、ただの静けさではない。
自分がいなくなる時間だった。
だが、芸が終わると空虚が来た。
以前より深い。
拍手が止まると、胸の中まで止まる気がした。手袋を外すと、指先が冷える。誰も見ていない路地を歩くと、自分の輪郭が崩れていくようだった。
夜、眠る時にも耳を澄ます。
どこかで拍手がしていないか。
していない。
その静けさが、耐えられなかった。
ヴィルは満願堂へ行った。
「鳴り止まない拍手が欲しい」
リゼットは彼を見つめた。
「誰に認められたいのでしょうか」
「誰でもいい」
「誰の顔も、名前も、いらないのですか」
「いらない」
ヴィルは言った。
「拍手が欲しい。拍手以外はいらない。ただ、鳴り止まない音の中にいたい」
リゼットは静かに目を伏せた。
「それは、おすすめ致しません」
そう言いながら、彼女はカウンターの奥へ歩き出した。
ヴィルは思わず追いかける。
「おすすめしないのに、案内するのか」
「おすすめは致しません」
リゼットは振り返らずに言った。
「けれど、ヴィルさんの願いは、たいへん澄んでいます」
「どうして」
「拍手以外の静けさが、落ちていくからです」
「いらない」
ヴィルは笑った。
「静けさなんて、いらない」
モルはすでに足元にいた。
首元の鍵が、小さく揺れている。
満願堂の最奥。
黒鉄の両開き扉。
リゼットは鍵をかざす。ガチャリ、と重い音がした。
彼女は一歩退く。
「開けるのは、貴方様です」
ヴィルは両手で扉を押した。
軽くはなかった。
だが、重くもなかった。
拍手が欲しい。それだけは疑いようがない。けれど、どこかでまだ、誰かの顔を思い出していた。最初に笑ってくれた子ども。雨の日に銅貨をくれた老女。芸を始めたばかりの頃、下手な玉投げに拍手してくれた友人。
それらをひとつずつ置いていくように、ヴィルは扉を押した。
扉は開いた。
奥の部屋で、ヴィルは舞台靴を見つけた。
赤い靴だった。踵には銀の飾りがあり、靴底は不思議なほど傷ついていない。見た瞬間、ヴィルの耳には拍手が聞こえた。
まだ誰も手を叩いていないのに。
「鳴り止まない舞台靴です」
リゼットは言った。
「満願具は、願いを根付かせます。根付いた願いは、仕上がりまで止まりません」
「望む」
ヴィルは納願帳に書いた。
拍手が欲しい。
拍手以外はいらない。
「ヴィル様の願いには、こちらの品がよく合うかと」
靴を履くと、拍手が始まった。
最初は広場だった。
ヴィルが一礼する。拍手が鳴る。次の芸をする。拍手が鳴る。玉を投げる。布を出す。紙の鳥を飛ばす。拍手。拍手。拍手。
客の顔は、だんだん見えなくなった。
名前も、声も、笑い顔もいらない。
手を叩く音だけがあればいい。
やがて、広場は消えた。
ヴィルはどこかの舞台に立っていた。幕は上がったまま。客席は暗い。誰がいるのか分からない。
それでも拍手は鳴っている。
鳴り止まない。
ヴィルは笑った。
満面の笑みだった。
舞台の上で、ヴィルは疲れなかった。
喉も渇かない。膝も笑わない。指先が震えることもない。拍手がある限り、次の芸が思いつく。帽子を投げれば戻ってくる。玉を落としても、落ちた音すら拍手に混じる。
客席の暗がりから、誰かが名前を呼んだ気がした。
ヴィルは聞かなかった。
名前はいらない。
音だけがあればいい。
手袋を使うようになってから、ヴィルには名前を呼ぶ客が増えた。
「ヴィル、今日もやるのか」
「昨日の鳥をもう一度見せて」
「うちの子があなたの真似ばかりするのよ」
その声は嬉しかった。
嬉しかったが、拍手ほどではなかった。
名前を呼ばれると、相手の顔を見なければならない。顔を見ると、昨日来た子ども、銅貨をくれた老女、雨の日にも立ち止まってくれたパン屋の娘を思い出す。
思い出すと、拍手以外のものが入ってくる。
それがだんだん邪魔になった。
ある日、子どもが芸の後に駆け寄ってきた。
「ヴィル、僕もできるかな」
「練習すればな」
そう答えた時、子どもは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、ヴィルは一瞬だけ胸が温かくなった。
けれどすぐに、後ろの客席から拍手が起こった。
温かさは音に飲み込まれた。
ヴィルは一礼した。
子どもの顔より、拍手の方を選んだ。
そのことを、彼はすぐに忘れた。
忘れたかったわけではない。
拍手があれば、忘れられた。
ヴィルが広場から姿を消したあとも、そこにはしばらく彼の話が残った。
子どもたちは、帽子を投げて受け止める遊びをした。パン屋の娘は、広場の端に立つと、つい彼がいつも使っていた場所を見た。老女は銅貨を一枚、広場の噴水の縁に置いた。
「芸人さん、今日は来ないのかい」
誰かが言った。
来ない。
けれど、夕方になると、広場の石畳の上で一度だけ拍手が聞こえることがあった。風のせいかもしれない。通り過ぎる馬車の音かもしれない。
それでも、子どもたちは顔を上げた。
満願堂では、モルが時々、奥の部屋の方を見た。
「ぱちぱち、まだ」
「ええ」
リゼットは紅茶を注ぎながら答える。
「止まりません」
「みんな、さみしい?」
「ヴィル様を覚えている方は、少し」
「ヴィル、覚えてる?」
リゼットはすぐには答えなかった。
舞台靴の中で、拍手は鳴り続けている。ヴィルにとって、それ以外は落ちていった。名前も、顔も、広場の石畳も、最初に拍手してくれた子どもも。
「覚えているかどうかは、分かりません」
リゼットは言った。
「ですが、拍手は届いています」
「それでいい?」
「ヴィル様には」
モルは首を傾けた。
満願堂の奥で、ぱちぱちと小さな音がした。
賑やかなのに、少し寂しい音だった。
舞台靴が根付いた後、ヴィルがどこへ行ったのかを知る者はいない。
広場から消えたわけではない。宿にも荷物は残っていた。帽子、古い布、少し欠けた玉、投げ銭を入れる革袋。だが本人だけが、どこにもいない。
ある夜、パン屋の娘が広場のそばを通った時、拍手を聞いた。
誰もいない。雨も降っていない。馬車も通らない。
けれど、ぱちぱちと手が鳴っている。
彼女はしばらく立ち尽くした。怖いとは思わなかった。むしろ、懐かしかった。
「ヴィル?」
呼んでみる。
返事はない。
ただ、遠くで誰かが帽子を高く投げたような気配があった。
彼女は翌日、満願堂へ来た。
願具を求めたわけではない。ヴィルのことを聞きに来たのでもない。ただ、広場で聞いた拍手が胸に残っていた。
リゼットは紅茶を出した。
「拍手は、まだ聞こえますか」
娘は驚いた。
「やっぱり、あれは」
「ヴィル様の願いは、たいへん賑やかに仕上がりました」
「幸せなんでしょうか」
リゼットは少しだけ考えた。
「拍手が鳴っている間は」
その答えは不十分に思えた。
けれど、ヴィルを知る者なら、十分でもあった。
娘はカップを両手で包んだ。
「じゃあ、たまに拍手しておきます」
「広場で?」
「ええ。聞こえるか分かりませんけど」
リゼットは微笑んだ。
「届くかもしれません」
その日の夕方、広場で小さな拍手が一つ鳴った。
誰かの手から始まり、すぐに消えた。
だが、満願堂の奥で、赤い靴の底が一度だけ軽く鳴った。
数日後、満願堂へ納め物が届いた。
赤い舞台靴だった。
黒い紐。暗い赤の封蝋。封蝋には、月環と扉、それから閉じた目に見える古い紋章が押されている。
納め札の下で、靴の中から、かすかな拍手が聞こえた。箱を閉じても聞こえる。布で包んでも、音は残る。
モルは箱に耳を寄せた。
中から聞こえるかすかな音に、耳だけをぴくりと動かす。
リゼットは舞台靴を黒布に置いた.
「たいへん賑やかな仕上がりです」
モルは首を傾けた。
「うるさい?」
「ヴィル様には、きっと美しい音なのでしょう」
靴の底が、誰もいない舞台を踏むように小さく鳴った。
拍手は止まらない。
止まることを、もう誰も望んでいなかった。
お読みいただきありがとうございます。
また満願堂へお立ち寄りいただけましたら幸いです。




