第十三話 後悔を届ける靴
ダリオは、後悔というものを相手に返したかった。
親友だった男がいる。
名を、ルーカスといった。
二人は同じ工房で働き、同じ夢を語った。いつか自分たちの店を持とう。良い革を扱い、長く履ける靴を作ろう。客の足に合う靴を、ひとつずつ丁寧に作ろう。
そう言っていた。
ルーカスは手先が器用だった。
縫い目は細かく、革の癖を見るのが上手い。ダリオは型を考えるのが得意だった。足の幅、踵の高さ、歩き方の癖。二人で一足を作ると、工房の親方もたまに無言で長く眺めた。
「お前たちは、二人で一人前より少し上だな」
親方はそう言った。
ダリオはそれを褒め言葉だと思った。ルーカスも笑っていた。
今思えば、あの言葉を二人とも少し違って聞いていたのかもしれない。
だが、最初に店を持ったのはルーカスだった。
ダリオが病気の母の看病で工房を離れている間に、ルーカスは有力な商人と組み、二人で考えた型を自分のものとして売り出した。ダリオが戻った時には、ルーカスの店は繁盛していた。
さらに悪いことに、ダリオの婚約者はルーカスの店で働いていた。
彼女は言った。
「あなたを待っていた。でも、あなたは何も言ってくれなかった」
ダリオは何も言えなかった。
言えなかったことも含めて、すべてルーカスのせいだと思うことにした。
その方が楽だった。
ダリオが工房を離れたのは、逃げたかったからではない。
母が病に倒れ、家にはほかに看病できる者がいなかった。親方は休めと言った。ルーカスは何度も見舞いに来た。婚約者は、まだ婚約者だった頃、手紙をくれた。
だがダリオは、その手紙に返事を書かなかった。
返事を書く時間がなかったわけではない。書こうとすると、何を書けばいいか分からなかったのだ。
今は戻れない。
いつ戻れるか分からない。
店を持つ夢を待ってくれと言えない。
そういう情けない言葉を、彼は書けなかった。
だから黙った。
黙っている間に、ルーカスは動いた。
ダリオはそのことを、裏切りだと思った。
そう思わなければ、自分が黙っていた時間の重さに耐えられなかった。
母の病は、長かった。
薬草代、医者代、仕事を休んだ日の食費。全部がダリオの肩にのしかかった。ルーカスから届いた手紙は何通もあった。工房のこと、型のこと、戻ってきたら一緒に話そうということ。
ダリオは返事を書かなかった。
書けなかったのではない。書かなかった。
自分がいない間に話が進むのが怖かった。戻った時に、自分の居場所が小さくなっているのを見るのが怖かった。だから手紙を引き出しへ押し込み、読まないふりをした。
そのことも、長い間ルーカスのせいにしていた。
満願堂へ来た時、ダリオはすでに何度もルーカスの店の前を通っていた。
客が出入りする。明るい声がする。新しい靴が窓辺に飾られている。
そのたびに、胸の中が黒くなった。
「あいつに、自分がしたことを後悔させたい」
満願堂のカウンターで、ダリオはそう言った。
リゼットは静かに聞いていた。
「ございます」
出されたのは、短い靴紐だった。
「後ろ向きの靴紐です。表の棚の願具です。相手に少しだけ過去を思い出させます」
「少しだけ?」
「はい。返りとして、ご自身も同じ記憶を思い出すことになります」
「足りない」
ダリオは即座に言った。
「あいつは、俺の人生を奪ったんだ。少し思い出すくらいでは足りない」
「奥の棚に、もう少し強い品がございます」
リゼットはガラスケースから一足の靴を出した。
黒い革靴だった。古いが、よく磨かれている。靴底が少し厚く、歩くたびに重い音がしそうだった。
「後悔を届ける靴です。魔願具にあたります」
「効果は」
「相手が歩くたび、過去の後悔を少しずつ重く感じます」
「返りは」
「貴方自身の後悔も重くなります」
「構わない」
ダリオは笑った。
「俺は後悔していない」
値段は、安い復讐ではなかった。
だが、ダリオは財布の中を見てすぐに頷いた。ここで惜しむようなら、そもそもこの店に来ていない。
ダリオは代金を支払った。
リゼットは納願帳を開いた。
ダリオは書いた。
あいつに、自分がしたことを後悔させたい。
モルが匂いを嗅いだ。
「にがいにおい」
それから、ダリオを見上げる。
「まだ、ぐるぐる」
ダリオには意味が分からなかった。
靴はよく効いた。
ルーカスは店の中で足を止めることが増えた。客の前で言葉に詰まる。職人に指示を出しながら、急に顔色を変える。夜遅くまで店に灯りがついている。
後ろ向きの靴紐を試した夜、ダリオはルーカスの店の前に立った。
窓の向こうで、ルーカスが客の足元に膝をついている。相手の足の形を見て、柔らかい声で説明していた。昔、工房で客の前に出るのが苦手だった男とは思えない。
ダリオは靴紐を握る。
その瞬間、店内のルーカスが少しだけ顔を上げた。
何かを思い出したように、手を止める。
ダリオは息を詰めた。
効いている。
たったそれだけのことで、胸の奥が少し熱くなった。
だが同時に、ダリオの中にも記憶が戻る。
母の寝台のそばで、ルーカスが黙って置いていった小さな袋。中には銅貨と銀貨が入っていた。工房の給金から少しずつ分けたものだと、当時のダリオは気づいていた。気づいていて、礼を言わなかった。
そんな記憶まで戻る必要はなかった。
ダリオは靴紐を強く握りしめた。
違う。
返すべき後悔は、俺のものではない。
ダリオはそれを見て、胸がすく思いがした。
もっと後悔しろ。
もっと苦しめ。
俺が眠れなかった夜を、お前も歩け。
後悔を届ける靴を履くと、足音が変わった。
石畳を踏むたび、靴底が重く鳴る。その音は、誰かの戸を叩く音にも、棺の蓋を閉じる音にも似ていた。
ダリオはルーカスの店の周りを歩いた。
一歩ごとに、ルーカスは顔を曇らせた。
二歩ごとに、彼は手元を誤った。
三歩ごとに、店の奥で長く息を吐いた。
ざまあみろ、と思った。
思った瞬間、ダリオ自身の胸にも重みが落ちた。
婚約者が最後に言った言葉。
「あなたを待っているのが、怖くなった」
その時、ダリオは怒った。待てないなら裏切りだと思った。
今思い出すと、彼女は泣いていなかった。泣き終えた後の顔をしていた。
そのことに気づくと、靴が急に重くなった。
後悔は、相手にだけ届けられるものではなかった。
だが、返りも来た。
ダリオ自身も、昔を思い出すようになった。
工房でルーカスと笑ったこと。
母の病が重くなった時、ルーカスが見舞金を置いていったこと。
婚約者が何度も手紙をくれたのに、返事を書かなかったこと。
自分が店の型を完成させる前に、酒場で夢ばかり語っていたこと。
思い出したくないものが戻ってくる。
ダリオは首を振った。
違う。
悪いのはルーカスだ。
自分は奪われた側だ。
それなのに、記憶は彼を許さなかった。
ある日、ルーカスが店を閉めた後、ダリオの前に現れた。
顔色が悪かった。
「お前だろう」
ルーカスは言った。
「何の話だ」
「最近、歩くたびに昔のことを思い出す」
ダリオは笑おうとした。
笑えなかった。
「お前は、俺から奪った」
「そうだな」
ルーカスは疲れた声で言った。
「奪った。お前と話すべきだった。待つべきだった。店の型も、お前と決めたものだと認めるべきだった」
その言葉は、ダリオが何年も欲しがっていたものだった。
謝罪。
認める声。
自分が被害者だったと言ってくれる証拠。
だが、いざ目の前に差し出されると、思っていたほど甘くなかった。
ルーカスの顔は勝ち誇っていなかった。憎むべき裏切り者の顔ではなかった。眠れない夜をいくつも通った男の顔だった。
ダリオは言葉を失った。
ルーカスは続けた。
「でも、お前も俺を置いていった」
「母が病気だった」
「知ってる。だから待った。手紙も出した。でもお前は返さなかった」
「それは」
「俺も悪い。お前も悪い」
その言葉を、ダリオは聞きたくなかった。
悪いのは一人でいい。
その方が楽だから。
ダリオは満願堂へ駆け込んだ。
靴をカウンターに置く。
「これを納める」
リゼットは両手で靴を受け取った。
「はい。魔願具ですので、納めることはできます」
「後悔は消えるのか」
「届けたものは、すぐ消えません」
「俺の後悔は」
「それも、すぐには消えません」
ダリオは拳を握った。
「じゃあ、何のために納めるんだ」
「これ以上、誰かの足へ後悔を預けないためです」
ダリオは黙った。
リゼットは静かに聞いた。
「ダリオさんは、ルーカスさんを後悔させたかったのでしょうか」
「そうだ」
「それとも、ご自身の後悔を終わらせたかったのでしょうか」
その言葉で、ダリオは顔を上げた。
モルが靴の匂いを嗅いだ。
「にがいにおい」
そして、小さく言った。
「でも、奥じゃない」
リゼットは頷いた。
「ええ」
「なぜだ」
ダリオが聞く。
「願いが、別の場所へ向き始めているからです」
ダリオは靴を見た。
憎かった。
それは本当だ。
だが、もう憎しみだけではなかった。
あいつだけじゃない。
自分も、あの日から動けていない。
なら、この後悔そのものを終わらせたい。
ダリオは魔願具を納めた。
ルーカスと話す前に、ダリオは婚約者だった女の家の前まで行った。
戸を叩くつもりはなかった。会えば何を言うか分からない。謝るのか、責めるのか、もう自分でも分からなかった。
窓の向こうで、彼女は布を畳んでいた。ルーカスの店で働いていた時と同じように、手際よく、丁寧に。以前、ダリオがその手を好きだと言ったことがある。
今、その記憶が後悔を届ける靴の返りのように戻ってくる。
彼女は待っていた。
少なくとも、しばらくは待っていた。
ダリオが母の看病で戻れない日々、手紙を書き、返事を待ち、工房の前を通り、親方から様子を聞いていた。
それをダリオは知っていた。
知っていて、何も返さなかった。
やがて彼女は待つのをやめた。
それは裏切りだったのか。
それとも、ダリオが先に彼女を置いていったのか。
靴の底が石畳に沈むようだった。
ダリオは戸を叩かずに帰った。
帰り道、彼は初めて、ルーカスだけを責めている自分が少し薄汚く見えた。
その薄汚さも後悔だった。
誰かに届けたいものではなく、自分で持たなければならない後悔だった。
数日後、ルーカスの店へ行った。
和解はしなかった。
許しもしなかった。
ただ、店の前で立ち止まり、言った。
「型のことは、一度話そう」
ルーカスは頷いた。
「ああ」
「婚約のことは、まだ許さない」
「分かってる」
それで終わりだった。
何も綺麗にはならない。
失った職も、婚約者も、過ぎた時間も戻らない。
ただ、ダリオはその日、ルーカスの靴音を聞いても、胸の中に靴を投げつけたいとは思わなかった。
ダリオは、新しい靴を作る時、まず自分の足を測った。
ずっと避けていたことだった。
人の靴は何足も作ってきた。母の靴も、婚約者だった女の靴も、ルーカスの作業靴さえ直したことがある。けれど自分の足を丁寧に測ったことはなかった。
紙の上に足を置き、踵から指先まで線を引く。外側が少し擦れている。歩き方に癖がある。悔しいことに、それを指摘したのは昔のルーカスだった。
「お前は、怒っている時に外側へ重心が逃げる」
そんなことを言って笑った。
今なら、その言葉の意味が少し分かる。
後悔を相手へ届けようとしていた間、ダリオの足はずっと外側へ逃げていた。まっすぐ立っているつもりで、片側に傾いていた。
彼は新しい革を切り、縫い始めた。
許していない。
許す予定もまだない。
それでも、自分の足に合う靴を作ることはできる。
数日後、ルーカスが工房へ来た。手には古い型紙がある。
「これ、半分はお前の線だ」
「半分じゃない。もっとだ」
「そうかもしれない」
二人はまた少し睨み合った。
けれど、前より短かった。
ダリオは自分の新しい靴を履き、立ち上がった。まだ硬い。馴染むまで痛むだろう。
それでいいと思った。
歩くための痛みなら、持っていてもいい。
満願堂では、リゼットが後悔を届ける靴を奥の棚へ納めていた。
モルが見上げる。
「あの人、戻った?」
「少しだけ」
「許した?」
「いいえ」
「じゃあ、戻った?」
リゼットは少し考えた。
「許さないまま、歩き始めることもございます」
モルは尻尾を揺らした。
「むずかしい」
「ええ」
リゼットは棚を閉じる。
「けれど、靴は歩くためのものですから」
ルーカスと型紙の話をするのに、三日かかった。
一日目、二人は同じ机に座ったまま、ほとんど何も言わなかった。革の匂いと、壁に掛かった木型の影だけがあった。
二日目、ルーカスは古い箱を持ってきた。
中には、ダリオが忘れていた紙切れがいくつも入っていた。二人で書いた線。消した線。酔って書いた店名の候補。誰の字か分からない数字。
「捨てなかったのか」
「捨てられなかった」
ルーカスはそれだけ言った。
ダリオは、その言葉が少しだけ苦しかった。
三日目、二人はようやく話した。
型紙は、二人のものだった。けれど店はルーカスが守ってきた。ダリオが戻らなかった間、ルーカスもまた怖かった。商人に奪われる前に、自分で形にするしかないと思った。
「なら、なぜ一言言わなかった」
「お前が返事をしなかったからだ」
また同じ場所へ戻る。
けれど、今度はそこで終わらなかった。
ダリオは自分の返事を書かなかった時間を認めた。ルーカスは型を一人の名で売ったことを認めた。
許しではない。
和解でもない。
ただ、後悔を相手の靴に押し込めるのをやめた。
帰り際、ダリオはルーカスの店の窓に飾られた靴を見た。革は良い。縫い目も丁寧だ。腹立たしいほど、良い靴だった。
いつか自分も作る。
そう思った。
見返すためではない。奪い返すためでもない。自分の足で歩くために。
その願いはまだ小さく、願具にもならないようなものだった。
けれど、ダリオにはそれで十分だった。
後日、ダリオは自分の工房の隅に、古い型紙を広げた。
ルーカスと二人で書いた線が残っている。どちらの線がどちらのものか、もう分からないところもある。腹立たしかった。懐かしくもあった。
彼は新しい革を切った。
許してはいない。戻ったわけでもない。
ただ、止まっていた足が少しだけ前へ出た。
その靴音は、後悔を届ける靴の音ではなかった。
お読みいただきありがとうございます。
また満願堂へお立ち寄りいただけましたら幸いです。




