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Esperanto  作者: 葱鮪命
ベティ編
8/39

関係

 エリゼ・ジンデル(Elyse Zindell)はパソコンの画面から目をそらすことなく、手元のキーボードを打って文字をデスクトップに刻んでいた。


 彼女の仕事の容量の良さと気の利く配慮により、彼女はエスペラントという会社の内で、一定数のファンを持っていた。

 よって彼女の結婚には誰もがガッカリしたが、それがまた彼女の魅力を引き立たせる良いスパイスとなったのかもしれない。


 指輪を付けた彼女は一層美しいのだ。


 パソコンを見つめている彼女は、当然後ろからやって来る黒い影には気づかない。首の両わきからするりと腕が伸びて、胸の前で交差してようやくエリゼの手が止まった。何か話そうと開きかけた彼女の口だったが、後ろから聞こえてきた声がそれ止めた。


「資料室にベティを送り込んだのはお前か?」


 エリゼはその名前にハッとした。


「俺が気づかないとでも思っていたのか」


 キュルスよりはビターだが、それでも甘い彼の声に簡単に落ちてしまう研究員も多い。これだけの長い時間を彼と過ごしたエリゼには何の効果も果たさないが。


 エリゼはキーボードに目を下ろす。


 やはり、バレてしまっていたのか。


 ベティに数週間前に資料室に入れるようパスワードを渡したのは自分だ。彼女の意志の強い目が、エスペラントに入って初めて降りてきた天使の梯子のようだった。彼女ならきっと何とかこの状況を打開してくれる策を練ってくれると淡い期待を抱いていた。抱かずには居られなかった。


 自分の上司にああして顔を輝かせてついていく後輩を、エリゼはもう見たくなかった。


「ベティは無事なの」


 エリゼは彼の質問に答えなかった。答えずとも、彼ならばエリゼが犯人だと確定した上で聞いてくると知っている。ベティが漏らしたとしてもエリゼは彼女を恨まない。彼女だって被害者の一人だ。


「無事、と言えば無事かもな。フランチェスカと様々なことを聞いてみたが、口の硬い女だ」


 エリゼはホッとした。ベティのあの気の強さはベルナルドとフランチェスカでさえ簡単に壊せるものではなかったらしい。このまま切り抜けてくれることを祈っているエリゼだが、ベルナルドが相手ならばそう簡単に事は上手く運ばれないというのに気づいた。


「痛いことはしていないのよね」

「ああ、ただただ話をしただけだ」

「......彼女は今後どうなるの?」


 このまま静かに見逃してくれたらいいのに、とエリゼはデスクトップを見る。最近入社した職員たちの情報をまとめているところだった。また被害者が増えるのだ。


「その心配をするのは自分の方だと思わないか? エリゼ」


 突然、目に入れていた字が右から左へと流れ、エリゼが座っていた椅子がぐるりと回転させられた。ベルナルドがそこには居た。彼は両手でエリゼの椅子の背もたれを掴み、顔を寄せてきた。


「お前は何も思っていないのか? ベティはまだBlack File側の人間だ。それにお前は資料室のパスワードを受け渡した。どんな理由でそうしたのか、俺は是非聞きたいな」


「......」


「......よくもまあ、そんな顔をするようになった。もっと昔は俺が居ないとダメだったろう。ヒヨコのように、頼りない子鹿のようにピッタリ俺について来ていなかったか? 誰がお前を変えたんだろうな? 俺はお前にこうして居場所を与えているのに、親不孝も良いところだ」


 ベルナルドの手がエリゼの髪を撫でる。


「やった事の罰は受けてもらうぞ」


 *****


 ベティはメイガンの部屋を訪ねた。彼女の部屋はベティの寝泊まりしている部屋から九つ離れた扉の奥にあった。既に皆部屋に戻っている時間なので、きっと居るはずだ。


 扉をノックすると中から「はい」と声が聞こえてきて、メイガンが扉を開けてくれた。既に部屋着に着替えており、化粧も取っていた。


 彼女はベティを見るや否や柔らかい笑みを浮かべた。


「どうかしましたか?」

「エリゼを探しているんだけれど、彼女を見ていないかしら」

「エリゼさんですか?」


 ベティは必ず一日一度はエリゼと会っていたが、彼女の姿が今朝から見えない。昨日の夜にベルナルド達に資料室に忍び込んでいるところを見つかってから、ベティは資料室には行っていない。エリゼに何か聞こうとしても、彼女はいつも通り部屋を訪ねては来ない。


「いいえ、見ていないですね......」

 メイガンは少し考えた後に言った。


「もしかしたらベルナルドさんの部屋かもしれません」

「何ですって?」

「ベルナルドさんとエリゼさんは仲が良いので、時々ベルナルドさんがエリゼさんを部屋に呼ぶことがあるんです」

「......」


 ベティは嫌な予感がした。ベルナルドのあの様子......フランチェスカと資料室で体を寄せていたあの光景。エリゼがもし、そうならば。


「......ベティさん?」

「エリゼとベルナルドって恋仲だったりするの?」

「どうなんでしょう......ベルナルドさんと仲が良いのはフランチェスカさんでもありますし......」

「そうなの......わかった、ありがとう」


 ベティはため息をついた。


 エリゼが此処に来て最初に言っていたことを思い出した。


 彼女はベルナルドの直属の部下で、そんな彼とは何十年も一緒に居るのだ。そんな中で恋仲に発展しないわけがない。


「......エリゼの部屋は分かる?」

「えっと、彼処です」

 メイガンが突き当たりの扉を指さした。


「ありがとう。おやすみ」

「はい、おやすみなさい」


 彼女はやはり柔らかい笑みで部屋に戻って行った。ベティはすぐにエリゼの部屋に向かった。


 *****


 彼女の部屋はベティの部屋同様、何も無かった。此処にそもそも住み込みで働いているのか分からないが、彼女のあの様子だとそうなのだろう。エスペラントの職員は外に出られるというB.F.とはまた違う制度だが、エリゼが本気でベルナルドの元から逃げたければ外に出た際に逃げたらいいのだ。それを何十年もしていないというのは、彼女がこの施設に住んでいるということに結びつく。


 それにしても何も無い部屋だ。棚は何も置いておらず、シーツや布団もまるで誰も住んでいないかのように畳まれていた。


 壁についているシミや汚れが唯一生活感を見いだせるものだったが、それ以外には本当に人が住んでいる気配がない。


 ベティは彼女のデスクに向かった。それはベティの部屋にもあるデスクだったが、引き出しが多い。ベティはそれをひとつ開けて、中に携帯電話を見つけた。ピンク色の可愛らしい携帯電話はベティが知る限りかなり古い機種だ。ちょうどベティ達が大学を卒業するくらいの時に最新機種として発表されたものである。それがまだ使われているのかいないのか、机の中に収まっていた。


 ベティはそれを手に取って開く。電源はついた。そして、ベティは電話番号を打ち込んだ。


 せめて、誰か新しい味方を。


 発信ボタンに指を置いてベティは少しだけ考えた。


 もしこの電話を取る相手が彼なら_____自分は一体どんな感情で話したらいいのか。B.F.から逃げて、そしてエスペラントからも逃げるのか?


 何かしようとして、それすら出来ずに逃げるのか。


 自分は、一体何がしたいのか。


「......」


 ベティは携帯電話を閉じた。そしてそれを、そっとポケットに忍ばせて部屋を出た。


 *****


 次の日の朝、エリゼは居た。会ったのは給湯室だった。朝のコーヒーでも、とベティがインスタントの粉をお湯に溶かしていると、彼女は現れた。それはシャワールームの方の扉からだった。今シャワーを浴びてきたようで、髪がしっとりと濡れている。


「おはよう」

 エリゼがベティに微笑んだ。ベティは挨拶を返さず、まずは遠くから彼女を見た。


「......どうしたの?」

 エリゼが小首を傾げる。その動作は彼女の可愛らしさを一層引き立てた。ベティは目を伏せ、コーヒーをかき混ぜたスプーンを流しに置いて、


「なんでもない」


 とコーヒーを啜った。彼女は「何よそれ」と笑って、横に並んで同じものを作り始めた。


 ベティは気づかれないように彼女を横目で見た。コーヒーを作るために顔を下に向けているので、肩にかかっていた髪が前に落ちた。美しい首元が現れる。その首筋に、ベティは赤い華を見た。


「......ねえ」

 思わずベティは彼女に声をかけた。


「ん?」

 エリゼが此方を見た。首元の華は隠れる。


「なに?」

「......資料室、二人に見つかって......」


 言いたいことはそれではなかったが、ベティはまず彼女に謝るべきだと思った。あれだけ見つからないように慎重に動いていたつもりだった。何回も忍び込んでいて注意力も初めに比べれば落ちていたらしい。エリゼにも迷惑をかけたことに変わりは無い。


「いいのよ」

 エリゼは笑った。


「また積み上げればいいわ」

 彼女は角砂糖をカップに落とした。大きな冠ができて、消えた。


 *****


 それから、エリゼはどことなく静かになった。最初の頃に見せていたあの可愛らしい笑顔を見せることも、冗談を言うこともなかった。


 ベティは悶々とした気持ちで、施設の中で過ごしていた。


 エリゼがあの夜、ベルナルドに何かをされたのは間違いがない。彼女の首筋の華がもしベティのせいならば、とそう考えたが言い出すのも気が引けた。


 エリゼがベルナルドと恋仲だとすれば、フランチェスカはどうなるのだ。ベルナルドは一体彼女に何をしたのだ。


 ベティはすることもなくなり、施設を歩き回った。アクセサリーショップは定期的に見た。指輪を選んでいるカップルは後を絶えず、彼らの行く末はこの会社を取り巻く闇とは反対に輝いている。


 ベルナルドの手強さに手の打ち様などなかった。誰も救えないまま、時間は溶けていく。


 自分は一体、何をしているんだろう。


 ベティは冷たいリングの輝きから逃げるようにその場を去った。


 *****


「グズグズするな!! せめて役に立ってから死ね!」


 今日も訓練場は罵倒の嵐だった。高い塔の上から指示を出す少年、ゾーイ・フロスト(Zoe Frost)。


 ベティは暇になると訓練場に顔を見せるようになっていた。壁によりかかり、壁をよじ登ったり地を這ったりして敵に近づく兵士らを見ていた。訓練メニューは次々変わるので見ていて飽きない場所の一番は此処だった。


「情報伝達遅えよ!! アンドレ!! お前何処見てんだ!! 後で腕立て500!! おいイモムシ野郎!! そこのお前だよハビエル!! 役立たずが戦場に行けるか!! 後方のサポートだ!!」

「すみません!!」


 名前を呼ばれた兵士が移動する早さは、目で追うのが大変に思うほど早かった。彼らが戦争に駆り出されてエスペラントの資金源になるのも納得がいった。


「おや、また来ていらしたんですね」


 ベティが訓練場の風景を眺めているとキュルスがやって来た。今日は彼の横にチェルシーが居た。彼女は重そうな服を着て、頭にはヘルメットを被っていた。綺麗な顔は土埃にまみれている。


「暇なのよ、ベルナルドに行動範囲を狭められちゃった」


 鍵は尋問の際に取り上げられてしまった。エリゼがあの日から変わって、職員を自由にする作戦というものも火が消えたようにすっかり冷めていた。


「そうなんですか。それは残念ですね」

 顔と声に貼り付けるその感情は偽物だとベティは気づいていた。本当に顔を作るのが上手い。ベルナルドのお気に入りであるのも頷ける。


「ベティさんも参加してみますか? 訓練」

「誰が」


 ベティが鼻で笑う。人を殺す練習など医者がしてたまるか。


「きっと様になると思うんですが」

「バカにしてんの?」

「いいえ、まさか」

「冗談でもやめて。もう私の居場所なんか何処にもないんだから」


 ベティは言っておいて、ちくりと胸に針が刺さった。


「......じゃあ、気が向いたら、是非」


 キュルスが「行こうか」とチェルシーの肩を抱いて行ってしまう。ベティはその後ろ姿を眺めていた。


 羨ましいなど、思っていない。居場所があることに嫉妬なんて覚えていない。あんな若い子たちに、そんなこと覚えるわけがない。


「バカみたい」

 ベティはその場を後にした。


 拠り所のない寂しさが、彼女についてきた。


 *****


 次の日、ベティがエリゼと共に朝食を食べていると、


「ベティ・エヴァレット」


 ベルナルドがその席にやって来た。彼の左腕にフランチェスカが両腕を絡めて立っている。


「朝食を食い終えたら医務室に来い」

「はあ? 何言ってんの突然」

「待ってるぞ」


 詳しい説明すらなく、その場を立ち去るベルナルドに対してベティはべっと舌を出した。フランチェスカがニヤニヤと面白そうに笑っているのに更に腹を立てて立ち上がりかけたが、エリゼにそれを止められた。


「何? 頭でも見てもらうのかしら」

「ベルナルドの考えることだものね」


 エリゼは元気なくそう言って、パンをスープに浸している。ベティはその様子を見て、いよいよ切り出そうと思った。もう一ヶ月はこの調子だ。元の彼女に戻ってもらわねば、此方だってやりづらい。


「ねえ、ベルナルドと付き合ってんの?」

「......え?」


 エリゼが浸していたパンを持ち上げようとしたが、吸ったスープの重さに耐えられなかったのか、パンはちぎれてスープに沈んだ。


「あの夜から変よ。まるで人形みたいよ、今のアンタ」

「......」

「何かされたんでしょ。ベルナルドに」


 エリゼは目を伏せた。沈んだパンをフォークで掬って、口に運んでいる。


「答えてよ。それとも、しくじった奴に話せないって? 私の事嫌ってるみたいね」

「私が?」


 エリゼが顔を上げた。


「ベティのことは嫌いじゃないわ」

「じゃあ話してよ。ベルナルドが強敵で私だって救おうにも救えないって少しずつ思い始めてるんだから......せめて、仲良くしてよ」


 エリゼはパンを咀嚼していた。そして、フォークをおもむろに置いた。


「これ、見て」

 エリゼが差し出してきたのは自分の左手だった。華奢な手は年齢に合わない美しさだった。だが、ベティはそれに違和感を覚える。


「......アンタ、指輪は?」


 彼女の薬指には指輪がなかった。彼女は結婚しているはずだ。ドワイトでも、ベルナルドでもない、男性と。


「彼は実験材料になったわ」


 エリゼが淡々と言った。ベティは目を見開いた。


「......何ですって?」

「死んだのよ。細胞の移植で。命の永久機関の実験の材料になってね」

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