罪
アーサー・バークス(Arthur Barks)は素朴な男だった。エリゼより17歳年下で、彼は四年前にエスペラントに入社した。そばかす顔がチャームポイントで、性格上あまり集団では目立たない彼が一生懸命に仕事に励む姿を、エリゼは先輩として陰ながら見守っていた。
よく喋る、よく笑いかける後輩だとは思ったが、彼が抱いていた思いはエリゼが考えている以上のものだったのだ。エリゼは迷った末に彼との結婚を決めた。
折角の彼の優しさに蓋をするようなことをしたくないのだ。
彼女はそんな時でさえ後輩のことを思っていた。
それが間違った選択だったと気づくことも無いまま。
*****
「彼はネズミ側の人間だったの。ベルナルドからしたら、捨てても良い命だった」
エリゼは食事の手を止めた。
「簡単に彼の命が消えてしまった。私が悪いのよ。結婚を決めてしまえば彼は囮のようなものだもの。ドワイトの頃よりたちが悪い。だって命を奪っているんだもの」
ベティは何も無くなった彼女の薬指を見つめた。怒りは奥の奥から湧いてくる。
「ベルナルドとはどういう関係なの、エリゼは」
「......都合の良い『人間』ってところかしら」
エリゼは力なく笑った。
「大学時代から一緒だとね、関係だって出来上がるのよ。気づいていたんでしょう、此処の......」
エリゼが自分の首筋を指さした。彼女の首の痕はもう消えていた。
「此処で働くベルナルドのお気に入りは彼に何をされたって文句は言えないの。フランチェスカは寧ろ彼に何をされても喜んでいるけれど。彼女だけよ、彼を本当の恋人として見ているのは。ベルナルドは何がなんでもお気に入りを手離したくない主義なのよ。その手段を選ばない。言葉で、体で、がんじがらめにしちゃうの」
「......」
「ベティもいつか_____」
「冗談じゃない」
エリゼの言葉をベティは遮った。
「私、誰かのものになるならこの人がいい、ってもう決めてるの。誰がベルナルドの奴なんかに」
「声が大きいわ」
ベティの声には周りに座っていた職員たちが反応した。エリゼはそれにいち早く気づいて唇に人差し指を当てる。
「この会社ではベルナルドは教祖みたいなものなの。彼を下げる発言をしていたら周りから誰も居なくなっちゃう」
「そんなのお構い無しよ。はっきり言わせて貰うけど、アイツはワガママなだけよ」
ベティは腕組をして椅子の背もたれに背中を付けた。
「私、ベルナルドの所有物なんかに絶対ならないから」
エリゼはぽかんとしていた。
「......良かった、ベティなら本当に私たちを救ってくれそう」
彼女は笑った。久しぶりに見た陽だまりのような可愛い笑顔だった。
*****
朝食をとったあと、ベティはベルナルドに言われた通り医務室に向かった。エリゼも一緒についてくるようだ。
「大切な友達があんな奴に変なことされたくないでしょ」
エリゼがそう言って微笑んだ。
一人では少し心元なかったベティも、エリゼとならば強くなれた。
医務室前には既にベルナルドとフランチェスカが居た。
「遅いんだけど」
フランチェスカがベティを見て、エリゼを睨んだ。
「私たちが来るのが楽しみで早食いでもしたの?」
ベティが負けじと言い返す。
「生意気な奴だねえ、ベルナルド。本当に実験体にしないのかい? 此奴」
「ああ。ベティ・エヴァレットには今日から医務室に入ってもらう」
ベルナルドが突然ベティに向かって何かを放った。白い布だ。よく見ると白衣だった。ベティがB.F.を出て行った時に持ってきたもので、長い間ベルナルドに預かられていたのだ。洗濯されたのか新しい香りがした。
「医務室って......私に医者になれって言ってんの? エスペラントの?」
ベティは自分の顔を指さして問う。
「そうだ。マーガレットの手伝いをしてもらう」
「でもアンタは私を医者として連れて来たわけじゃないでしょ」
「前まではな。だが、資料室に入って情報のこそ泥をされるくらいなら、何か我々に役立つことをしてもらいたい」
「バカじゃないの」
ベティはふん、と笑った。
「どうしてアンタ達に尽くさないといけないわけ? アタシ、こういうことやるくらいなら役立たないことを永遠にやってる方が自分のためになると思うの」
「ではお前は目の前で倒れている患者は例え敵味方関係なく見殺しにできると言いたいんだな」
ベルナルドが冷たい笑みを顔に貼り付けた。
「師匠からそういう風に教わったみたいだな」
ベティは全身の毛が逆立つような気がした。背中から嫌な感覚が迫ってくる。
「......先生の悪口を、言わないでくれる?」
「悪口など言っていない。そういう教育方針だったのかと感心しているんだ」
「そんなわけないでしょ!」
「ならやってくれるな」
「......」
ベルナルドが自分の白衣のポケットを探った。そこから出てきたのは首から下げられるように紐がついたカードだった。
「此処で生活する上で欠かせないものだ。持っておけ」
ベルナルドがそれをベティに押し付け、エリゼの肩を抱いてその場を去ろうとする。
「生憎、この会社でも怪我をする人間が後を絶たん。ネズミ以上の価値がある者がな」
「......」
ベティがキッと彼を睨みつけると、目が合ったのはエリゼだけだった。
彼女はベティから目を逸らして、やがてベルナルドに連れて行かれた。
一人残されたベティは白衣と手の中のカードを見る。『Betty Everette』と書かれたそのカードは、此処で働く職員たちが首からぶら下げているものだった。買い物などを行う際に使うものなのだろう。
数日此処に身を置くつもりが、こんなものまで用意されるようにまでなってしまった。
ベティは白衣をまとった。
ベルナルドの言葉が気に入らない。
自分は困っている人を見捨てたりしない。シャーロットにはそんなふうに教わってはいない。彼女はいつも相手が誰であろうと救おうとする。それがどんなに難しい病の患者でも。
紅茶とお茶菓子さえあれば、病の大半は治ってしまう。自分もそうだった。かつて、彼女に診てもらった時にそうだった。
此処にはそんな医者居ない。なら、自分が彼女になって此処を、此処の職員を守りたい。
翻す白衣は久しぶりの感覚だった。
*****
「おや、あなたは」
ベティが医務室に入ると、エスペラントの医者、マーガレット・バートレット(Margaret Bartlett)がカルテを書いているところだった。
彼も久しぶりに見た。
医師免許を剥奪され、今はこうして免許が無い状態で医者をしている。彼自身それが悪い事だと分かっているようだったが、ベティは何も言わなかった。
「ベルナルドさんから話は伺っていますよ。いやあ、誰かと一緒にお仕事をするのは久しぶりです。どうぞ宜しくお願いします」
マーガレットが片手を差し出してきた。ベティはおずおずとその手を握る。しっかりとした手だ。こんなに温和な人が何故免許を剥奪されたのか。きっと言えない秘密を抱えているのだ。エスペラントに居る職員の大半がそうなのだから。
「ベティさんの机は簡易的ですが、此方に作らせていただきました。必要なものがあれば言ってくださいね」
マーガレットの机の横にベティの机が増えていた。上は彼の机と比べて閑散としていたが、自分の机がある感覚は久々だった。
「お医者さんはマーガレットさんだけなんですか?」
「そうなんですよー。私が来る前はもう少し居たそうですけれど、今はひとりぼっちなんです。でもベティさんが来てくれて嬉しいですよ。こんな美人横目で見ながら仕事できるなんて、私は幸せ者だなあ」
ニコニコと笑うマーガレットにベティは呆れ顔を向けて、自分の席に着いた。認めたくないが、この医務室には心地良さがあった。
このまま自分が、一生此処で暮らしていくことになるのか_____。
ベティは首から下がったカードを見た。
*****
医務室に来る患者の大半があの訓練場の兵士だった。皆、ベティを見ると「誰っすかあの美人」と、マーガレットにコソコソ聞いていく。餓鬼だな、とベティはそれを遠くから眺めていた。
「人気者ですねえ、ベティ先生」
マーガレットが消毒液を取り替えてニコニコと笑いながら言った。
「一応訓練場には何度も顔を出していたから、初めましてではないはずなんですけど」
「みんなゾーイ君の命令を聞き逃さないように神経を集中させているものですから、案外気づかないんですよー」
ベティは適当に流しながらカルテを書いていた。この医務室に入って半日が経過したが、マーガレットの腕の良さはシャーロットに匹敵するものだとベティは思った。
彼は相当良い医者だったようだ。治療の早さが自分よりも遥かに早い。医務室が治療待ちの患者で混むなんてことはこの半日、一度もなかった。彼一人でこのエスペラントが支えられているのは、すごいことだ。
「わあ、包帯がもう無いなー。全く、怪我ばかりするんだから、うちのやんちゃっ子たち」
包帯が入っている箱を見てマーガレットが呆れ顔で言った。
「すみませんが、ベティさん。少し此処をお願いしても良いですか? ちょっと包帯を買ってきますね」
「ええ、大丈夫です」
マーガレットは「じゃあお願いしますー」と笑って医務室を出て行った。ベティは書き終えたカルテをファイルに挟んで、暇なので医務室を軽く見た。薬品棚、ベッド、給湯室。ほとんど知らない場所だが、懐かしかった。
シャーロットは元気だろうか。もう少しで退職なのだから、いよいよB.F.に医者は居なくなる。ブライスらが此処に自分が居ることは気づいたろうか。
ベティは下を向いた。不意に襲ってくるこの寂しさは、B.F.の賑やかが恋しいからだ。ごちゃごちゃした医務室、シャーロットのお茶会に参加する研究員たち、無茶をする恋人、反抗するその相棒、そして柔らかい笑みで何でも許してくれる親友。此処にはそれが何も無い。
もう数ヶ月だ。
そろそろ、戻ってもいいかもしれない。
エリゼも連れて、戻っても_____。
ガチャ、と後方で扉が開いたのでベティは慌てて振り返った。ノックもなしに入ってきたのは、深緑の軍服に身を包んだ大男だった。白い髪、黒いサングラス。サングラスすら透かして見える痛々しい古傷。
「......どうかしましたか?」
彼はその場に突っ立ったままだったのでベティは困っていた。治療をされたいのか、何か取りに来たのか。どっちにしろ話して貰わなければ伝わらない。
ベティの言葉に彼はおもむろに両手を胸の前に持ってきた。そして、その手を動かし始める。指を折り曲げたり、交差させたり、素早く上下させたり。ベティはそれが手話だと分かるのに少しだけ時間を要した。
すると、
「ああ、マヌエルさん」
大男の後ろからマーガレットが顔を覗かせた。
「こんばんは。戻ってきていたんですかー。一週間ぶりですね」
ベティはその名前を知っていた。マヌエル......マヌエル・プリチェット(Manuel Pritchett)。キュルスからもエリゼからも聞いていた。
彼が、このエスペラントの軍の最も偉い人なのだ。
マーガレットはマヌエルの前に回ってきて、ふんふんと彼の手の動きを見て頷いた。
「なるほど、部下が四人も......それは災難でしたね。でも作戦は成功に持っていけたんですね。それは良かった。久しぶりにベッドで寝られますね」
マヌエルの手が動く。マーガレットがそれを見て笑った。
「良いですね、じゃあその話、あとでゾーイ君達にも聞かせてあげてください。全く、マヌエルさんが居ないと暴れ回るんですよ、あの子たち」
マーガレットは買ってきた包帯をいくつかマヌエルに手渡した。
「じゃあ、また。はい」
マヌエルがベティに一礼し、そして医務室を出て行った。
「ベティさんは初めてお会いしたみたいですね」
「ああ......なんか、ベルナルドの片腕って言われてる......」
「はい、マヌエル・プリチェットさんです。彼、声帯を病気で取っているので声が出ないんですよ。ですから手話で会話をします」
「手話で......」
ベティも昔患者とのコミュニケーションのために手話をシャーロットから習ったことがあった。B.F.には手話を使う患者が居なかったのですっかり頭から抜けており、マヌエルの手話はほとんど分からなかった。
「彼が来てエスペラントの軍は強くなったって知っています?」
「そういえば、そんなことキュルスが言っていました。どうしてです?」
「戦場において、音は敵に気づかれる最大のコミュニケーションです」
「......」
「マヌエルさんが居ると、そもそも音が出ません。会話は手を使いますもんね。これで敵には自分たちの居場所が分かりません。因みに、ゾーイ君達も手話は完璧ですよ。彼らの軍も手話で会話するんです。戦場では、彼らは無音の軍隊です」
エスペラント軍が強い理由はそれにあるらしい。ベティは納得した。もしベルナルドがそうなると分かってマヌエルをエスペラントに連れてきたとすれば、彼はかなり良い戦術を考えついたのだ。
「ね、あまり悪い人たちばかりじゃないでしょう? エスペラントって」
マーガレットが柔らかく笑った。
「私は、心地良いんですよね。此処が」
*****
マーガレットと仕事をするのは、エスペラントに来てようやく面白いと思えることだった。医者が天職だと思っているベティはやはり医務室が、最も自分が居るべき場所だと思っていたのだ。
気づけば一ヶ月以上、医務室で仕事に没頭する日々が続いていた。
「最近楽しそうね」
エリゼがいつもの朝食の席で言った。
「そう?」
ベティが首を傾げるとエリゼは頷いた。
「マーガレットさんとは気が合うの?」
「まあね。ベルナルドやフランチェスカよりは」
「なら良かった」
「エリゼは?」
「え?」
「エリゼは、最近どうなのよ。変なことされてない?」
エリゼは「そうねえ」と考えるように下を向いた。
「実は最近、ベルナルドの実験を手伝わされるようになってね」
「......え?」
ベティは思わず聞き返す。エリゼの言葉を頭の中で繰り返した。
ベルナルドの実験を手伝わされる。
彼女の頭の中に様々なシーンが蘇る。
クラゲの細胞を入れられるエリゼの夫、目玉を抉り出そうと話しているフランチェスカ、命の永久機関......。
「それって、アンタ、死ぬんじゃ」
「まだ決まったわけじゃないわ。私は記録係なの。事務的な仕事から少しレベルアップしただけよ」
「でも、分からないじゃない!! 実験室には入ってるの!?」
「まあ、そうね」
エリゼが曖昧に頷く。
ベティはずっと前にマーガレットが言っていたことを思い出した。実験室の前の廊下には近づかないように、と。彼処は睡眠ガスが漂っていて、患者がよく運ばれてくると。
エリゼが、その中に。
「ねえ、エリゼ。この施設からはどうやって外に出るの?」
「え......? ベティ、突然何言い出すの?」
「逃げなきゃ。アンタこのままだとアイツに殺されるわよ!」
「......」
エリゼは目を伏せた。
「私、すぐに手を打ってみるから」
「いいの」
「何がいいの、よ。死ぬ事が怖いって前に言ってたじゃない」
「もう、いいの」
エリゼが力なく微笑んだ。
またこの笑みだ。
「......もう、思い残すことが何も無いわ」
彼女は独り言のように呟いた。
「そんなわけないわよ」
「だって、夫もドワイトも、何も無いんだもの。実験材料になるだけなら、十分じゃない?」
「アンタ洗脳されてるのよ!!」
ベティは腕を伸ばしてエリゼの肩を掴む。エリゼは柔らかく笑った。ベティは気づいた。エリゼの首筋、鎖骨にまた華が咲いていた。
「私、『ネズミ』にされちゃったんだわ」




