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Esperanto  作者: 葱鮪命
ベティ編
5/43

目的

 ベティは目を覚ました。まだ慣れない景色だからか、目を開いた瞬間に彼女は混乱した。


 自分はエスペラントのアジトに居るのだった。


 そう気づいてもう一度体を横たえようとすると、今度は体が痛いことに気づいた。そういえば昨日は、床に毛布を一枚だけ敷いて眠ったのだ。

 ベッドの上にはと言うと、今まで敵と認識していたドワイトの元恋人であるエリゼ・ジンデル(Elyse Zindell)がすやすやと眠っていた。


 エリゼは瞼を腫らしている。彼女の思いは痛いほど伝わってきた。ドワイトという支えが居なくなって、此処に居る意味さえ無くなってしまった。ベルナルドという凶悪な存在によって彼女はこの施設に縛り付けられている。何十年間も。


 泣いている彼女の話を聞きながら、ベティは自分の身軽さを恥じた。自分は何のわがままもあの場所で聞いて貰えた。それはあの仲間が皆自分に優しかったからである。あの仲間の中なら何をしても受け止めてくれるというのが分かっていたから、勝手に出てきたって良かったのだ。あの施設での自分は相当なお嬢様扱いをされていた。しかし、彼女はどうか。


 ベティは眠りから覚めないエリゼの髪を撫でる。そんな自分とは対照的に我慢に我慢を重ねた結果、此処まで辛い思いをしてきた彼女を前にして自分は心から恥ずかしい。医者として、シャーロットの助手として、絶対に彼女は助けるべきだ。これはもう、一人の人間としてやるべきことだとベティは思った。


 一人でも多く、彼女のような境地に立たされている者を救う。


 ベティはそう決めて、立ち上がった。


 *****


「エリゼ、おはよう」

「おはようございます、エリゼさん」


 ベティはエリゼと共に、朝食を食べるために食堂に来ていた。


 此処の食堂は開放感がある。外の大自然を見ながら食べられるし、広い部屋が丸々食堂になっており、テレビやゲームなど娯楽も充実していた。


 エリゼはベティの横にいたが、すれ違う者ほとんどに挨拶をされていた。ほとんどが腰の低い者で、エリゼに対して丁寧に話しかけるので彼女の地位の高さをベティは感じていた。


 食堂はビュッフェ制で、自分の好きな物を自分で皿に分けて食べるというものであった。B.F.では完全に注文性なのでベティは久しぶりのこういった食事に心が踊っていた。自分に置かれている状況を忘れて彼女は食事を楽しんだ。

 エリゼはというとまだ目は腫れていたが、昨日の夜で全て話し終えたからか何処かすっきりした表情を見せている。


 二人は黙って朝食を食べ進めた。ベティは食べながら食堂を改めて見回す。全員研究員なのか白衣を着ている者がほとんどだ。自分はまだ着ていないのでそれなりに目立つ。


 食堂の中心部ではキュルスが朝食をとっていた。彼の横には何やら金髪の少女が見える。一瞬だけベティはB.F.に居たイザベル・ブランカ(Isabelle Blanca)という研究員が頭によぎった。あの子は自分の先輩であるシャーロットの助手、リディア・ベラミー(Lydia Bellamy)と仲が良かった。よく医務室に来ていたな、とベティは思いながら少女を見る。見たことがある顔のような気がするが、はて、何処かで会っただろうか。


 ベティがぼんやりしていることに気づいたのか、エリゼが口を開いた。


「どうしたの?」

「え? ああ......なんだか見覚えのある顔が居たような気がしたんだけれど。気のせいだったかしら」

「そうなの......でもB.F.から此方に移ってくる人は居ないとも限らないから」


 エリゼの言葉にベティは彼女を振り返る。彼女はポテトのポタージュを啜っていた。


「それ、どういう意味?」

「そのままよ。B.F.からエスペラントに移動する人は居るの。実際、最近も一人女の子が来たわ。B.F.で酷いいじめを受けてエスペラントで保護したの。名前は確か_____」

「おはよう」


 突然降ってきた低い声にエリゼもベティも驚いて其方を見た。いつの間にか自分たちの席の横にベルナルドが立っていた。彼の横にはブロンド髪の綺麗な女性が立っている。歳はベティと同じくらいで、爽やかな香りのする香水を付けているようだった。エリゼが立ち上がる。


「おはようございます、ベルナルド、フランチェスカさん」

「おはよう、エリゼ・ジンデル。ねえ、ベルナルド、こいつがアンタが言ってたB.F.の裏切りもんかい?」


 エリゼの挨拶に対してブロンドの女は素っ気なかった。彼女の意識は完全にベティにあるようで、ベティのことを見下ろして隣のベルナルドに問う。ベティは彼女の言葉が癪に障った。ベルナルドが肯定も否定もしない前に、


「情報が上手く伝わっていないみたいだけど」


 と立ち上がった。


「裏切りなんてしてないわ。初めましてにしてはもう少し言葉は選ばないといけないんじゃないの?」

「へえ? 随分目力のある子を連れてきたじゃないか。文書の解読はコイツがしたって言っていたね。頭は良いんだろうけど、時間の中で衰退していったのかねえ?」

「なんですって?」


 ベティは彼女をこれでもかと睨みつける。エリゼが「落ち着きなさいよ」とベティの手を掴む。フランチェスカという女性はふん、と彼女を鼻で笑うと、


「コイツが情報を持っているとは到底思えないけれど......まあ、人質にしては生き生きしていて良いかもね」


 とベルナルドの腕に抱きつくようにしてその場を去っていった。


「何なのアイツっ!!!」


 ベティは彼女の背中にべーっと舌を出した。それと同時に周りの目を引いていることに気づいた。キュルスもいつの間にか此方を見ていた。その顔には呆れ顔か驚きか分からない表情が浮かんでいた。その隣に居た金髪の少女も此方を向いている。

 ベティはその少女の顔を見て思い出した。あちらもピンと来たのか、少しの間二人は視線を交わらせていた。


「ベティ、座って」

 エリゼに言われてベティは素直に腰を下ろした。周りの目が離れていくと、ベティはようやく止まっていた食事を再開した。


「で? 何なのよアイツ」

 ベティは魚の切り身をフォークで乱暴に裂いた。エリゼは周りをチラッと見て、


「ベルナルドの右腕よ」


 とそう言った。ベティが眉を顰める。


「はあ? じゃあ左腕も居るの?」


「ええ、それはマヌエルさん、って言う元軍人のお偉いさんなの。エスペラントの軍のトップの一人よ」


「ふーん。何か複雑なのね。アンタがベルナルドの横っちょに付いてるもんかと思ってたわ」


「確かに私もそれなりの地位だとは思うけれど......でもフランチェスカはベルナルドのお気に入りなの。私なんかより。恋人、というか、相棒、というか。状況によって色々変わる関係っていうのが正しいかしら」


「ふーん......」


 話を聞きながら、ベティは自分とブライスの関係を頭の中で描いていた。時には恋人、時には相棒、上司、部下、親友。一体彼とはどういう関係を築くのが正解だったのだろう。今この瞬間に自分を探してくれていたりしないだろうか。


「フランチェスカは私よりも後にベルナルドと知り合ったのよ。同じ大学に通っていたから、もしかしたら貴方も会っていたかもね」

「あんなやつと同じ大学に居たなんて信じたくない」


 ベティが眉を顰めたまま言うと、エリゼは今日初めて声を出して笑った。


「私も」


 彼女の笑みは可愛らしかった。年齢を感じさせない子供らしさで周りがパッと明るくなるのだ。


「......それで、フランチェスカは一体何の立場なわけ?」

「そうね......ベルナルドと同じ目的を持っているわ」

「それって、永遠の命?」

「ええ、そうよ。ベルナルドしか入れない部屋に彼女も入ることができるの。あとは基本的に、何もしていないと思う」

「はあ? そんな奴クビにしたらいいのに」

「頭はそれなりに良いのよ、彼女。もう少しであなた達が大学で研究していた文書のメンバーに入る予定だったと思うくらい」

「冗談でも止めてよ」


 ベティは気分が悪くなり、魚の切り身を口に放り込んでオレンジジュースで腹に流した。


「あとはベルナルドのお気に入りっていう意味が大きいの。彼は好きなものを近くに置きたがるのよ。あとは都合の良い人も。嫌いなものは即排除。それで殺された人は何人居たか分からないわ」

「最悪な上司ね。じゃあ、みんなどうしてこんな場所に居ようと思うわけ?」


 ベティは周りを見回した。誰も死に脅えている様子は見えない。近くのテーブルの会話にしても特に不穏な単語は聞こえてこない。


「死ぬのが怖いの」


 周りのざわめきが無くなったように思ってベティはエリゼを見た。彼女は目を伏せて、皿の上に残っているグリンピースをフォークに刺していた。


「矛盾していない?」

「ええ、そうね」


 死ぬのが怖いくせに、役立たずを殺してしまう上司に皆ついていくと言うのか。


「みんな悲しい過去や思いを背負っているの。こういう特別な人達が集まっているのよ。でも大半は私のように騙されてしまった人達だけれど」

「......」


 エリゼが意味ありげに微笑んだのを見て、ベティは口を噤んだ。周りのざわめきが戻ってきて、ベティは空になった皿にフォークを置いた。


「あんな奴らについて行かなくても良い方法を見つけないと」


 ベティが言うと、エリゼは驚いたように手を止めた。


「それは......難しいと思うけれど」

「でもアンタは私に助けてって言ったわ」

「言ったけれど......まさか、本当にそうなるとは思っていないもの」

「一度言った言葉を取り消せるなんて思ってない? 私は見捨てたりなんかしないの。そう教わったもの、先生からね」

「......先生」


 エリゼはぼんやりとした顔をしていた。ベティは口元をナプキンで拭うと、立ち上がった。


「作戦を立てるのよ。自由になるためのね」


 *****


 朝食をとった後、エリゼはオフィスに向かっていった。彼女の仕事は主に事務作業らしい。彼女が仕事を終わるまでは話す相手も居なくなる。かといってすることもないので、ベティは適当に施設の中を散歩しようと考えた。キュルスが近くにいては好きに回れないので、一人になれるのは好都合だ。


「じゃ、また後でね」

「ええ」


 二人は廊下で別れた。キビキビと歩いていく後ろ姿を見て、ベティは彼女と自分の関係がこの一日で180度変わってしまったことに素直に驚いた。


 彼女にも彼女なりの理由があったのだ。ドワイトを騙していたことを許せるというわけでもないが、ベルナルドという存在、そしてあのブロンド髪の女の存在が今のベティにはそれ以上に腹立たしいのであった。


 さて、最初は何処に行こうかなどと考え、ベティは食堂から抜けてモールの大通りに出た。大通りは昨日の夜ほど人はいないが、それなりに賑わっている。どんな店があるのかと通りの真ん中に設置されたマップを見ていると、


「ベティさん」


 後ろから声をかけられてベティは驚いて振り返った。そこに立っていたのはキュルスである。隣にはあの金髪の少女が居た。ベティはやはり彼女を知っていた。


「あなた......」

「チェルシー・ブランカ(Chelsey Blanca)です。その節はお世話になりました」


 チェルシーという少女が深深とお辞儀をした。


「エスペラントに居たなんて」


 彼女はある日を境に姿を消してしまい、B.F.では行方不明ということになっていた。研究員が脱走したという話も聞かないのでどうやって出てきたのか。


 取り敢えず、エリゼが言っていた「B.F.からやってきた研究員」というのが彼女のことなのだとベティは理解した。


「チェルシーを助けてくれたと聞いて、本当に感謝しているんです」


 キュルスがベティに微笑んだ。ベティは「別に」と目をそらす。


「助けたのは先生だし、私は何もしてない。ただ災難だったわね。最悪な上司に助手入りしちゃって」

「いいえ、あの人のおかげで私は今此処にいるので」


 チェルシーは微笑んだ。彼女の笑みに偽りはなかった。ベティは「そう」と頷いて、キュルスに視線を向ける。


「それで、何か用?」

「いえ、声をかけてみただけですよ。今日はどちらへ?」

「暇だから施設を歩き回るの。アンタは?」

「今から射撃訓練です」

「射撃訓練?」


 ベティの声が裏返る。まさか、とチェルシーを見ると彼女は頬を掻いてはにかんでいた。


「少しでも戦力になればと思って......」

「そう......」


 ベルナルドの護衛でも頼まれたというのだろうか。それにしてはキュルスの立場が謎だが、きっと彼も銃を持つのだろう。ベティは言うことも思い浮かばず、


「頑張ってね」


 と短く言った。チェルシーが「はい」と頷いてキュルスと共に歩いていく背中を、ベティは見た。


 彼女が此処に居る意味は何だろうか。イザベルの妹で、いじめられっ子。彼女はエリゼと違って輝いている。


 キュルスは兄との接触を増やすため。フランチェスカは、何なのだ。自分はおそらく、エリゼや似た境遇の研究員を助けるため。ならば、チェルシーは確実に敵に回るだろう。


 ベティは小さくなった背中から目を逸らしてマップを見た。カフェや服屋、レストラン、医務室の文字が目に飛び込んでくる。少し離れた場所に兵舎と射撃場の文字が見えた。今からあの二人が向かう場所だろう。時間があれば覗いてみても良いな、とベティはまず服屋に向かってみた。


 *****


 服屋に入っているのは国内外の有名ブランドを含めたメンズとレディースの両方で、価格は書いていなかった。職員が首からぶら下げているカードのようなものがお金の役割を果たしているようだ。ベティは当然持っていないので購入はできない。


 服に興味を持ち始めたのは大学生最後の冬である。文書の解読メンバーの中に居たリアーナに、見事ブライスへの恋心を読まれたので服屋に連れ回されたのだ。それまで服など着られれば良いと言うもので、ファッション雑誌など見向きもしなかった。今では服屋に入るだけでワクワクするし、相手のことを考えて選ぶ服選びはそれなりに楽しめるものだった。


「試着しますか?」

 店員がベティに問う。


「見ていただけだから」

「そうですか。では、ごゆっくり」


 店員が離れていく。ベティはゆっくりと服屋を歩き回って一通り見終わって店を出た。続いてその隣にあったアクセサリーショップに向かった。思わず魅入ってしまうような宝石や銀色が目に飛び込んでくる。エリゼの指輪も此処で購入したのだろうか。


 店内には一組のカップルらしき研究員が居るだけだった。会話を盗み聞きすると、何やら来月結婚するようだ。結婚式は街中で挙げるようだ。それを聞いてベティの頭にはまた大学時代の思い出が蘇ってきた。


 ナッシュとリアーナはまだ結婚式を挙げていなかったはずだ。B.F.の創立とモデルの仕事のバタバタの中で、リアーナは息子であるチャールズを産み、夫婦は地下と地上に別れてそれぞれ忙しい日々を送っていた。結婚式など挙げている暇もなく、リアーナとチャールズは飛行機事故によって帰らぬ人となってしまった。


 ナッシュはあの日からか指輪を着けなくなった。今は何処にあるのやら、それからは結婚していることを知らない研究員が増えて、皆あたかもナッシュが独身だと思っているかのようだ。ブライスやドワイトも彼が既婚者であることを専ら口にしないので、やはりリアーナの死はメンバーの中で禁忌となっているのだろう。


「もう少しシンプルなのがいいな」

「じゃあ、こっちとか?」

「んー......ちょっと高いしなあ、それ」


 仲睦まじく指輪を選ぶ姿は例えエスペラントの職員であろうが一般人と何ら大差はなかった。羨ましい、と彼女らを見ていると男性の方と一瞬だけ目が合って、ベティは慌てて目の前のケースに目を落とした。


 自分にもいつか指輪を選ぶ日が来るのだろうか。その相手とは今喧嘩中なのだが。果たして彼は此処まで来てくれるのだろうか。


 ベティは店員に話しかけられる前に店から出た。


 *****


 続いて向かったのは、やはり気になっていた医務室であった。当たり前だがこの会社にも医者はいるようだ。一体どんな医療がされているのやら、と覗いてみると、


「おや、こんにちは」

 どうやら取り込み中だったようだ。


 キュルスより少し年上くらいの男性の医者が、顔を覗かせたベティに微笑んだ。彼の前にはグレーの髪を持つ若い男性がムスッとした表情で座っていた。彼は上半身裸で、椅子の上に片足を乗せていた。膝小僧と右脇腹に銃で撃たれた跡のようなものがあってベティは目を丸くする。


「少々お待ちくださいね」

 医者の男性が若い男の腹をぐるぐると囲むように包帯を巻いている。傷はまだ新しかった。適切な処理はされていたようだが、ベティはキュルスとチェルシーが向かった射撃場のことを頭に思い浮かべた。


「はい、また明日包帯を取り替えに来るんだよ。いいかい? サボっちゃダメだからね」

「わかってるよ。うるせーな」


 若い男性の方は随分機嫌が悪そうだ。包帯が巻き終わるとそそくさと服を着て椅子から立ち上がった。


「じゃあ」

「はーい、お大事にね。ゾーイ君」


 ゾーイと呼ばれた男性が医務室を出ていき、ベティはそれと入れ替わるように医務室に入った。ベッドが五つ、医者用のデスクは一つだけだった。


「どうかしましたか?」

「ああ、いえ、見学に」

「見学ですか。珍しい」


 特に怪しむ様子もなく、男性は嬉しそうに笑った。


「マーガレット・バートレット(Margaret Bartlett)です。エスペラントのお医者さんです」


 彼の柔らかい声に乗せられた自己紹介に、ベティは目を見開いた。彼もそれに気づいたのか、


「驚きました? 実は偽名なんですよ、これ」


 と笑った。


 マーガレットは女性名として一般的に名付けられているので、ベティは驚いたのだ。そしてさらりと偽名ということにも。


「本名はとうの昔に捨てちゃいました。お医者さんの資格を剥奪されてしまって、そっからはお医者さんらしいことをしているんです。まあいわゆる、もぐり、ってやつですね」


 ペロリと舌を出して言われたが、サラリと凄いことを言われたことにベティは気づいた。医者の免許を剥奪されるということは彼は前に何かよからぬ事をやったということである。同じ医者としてベティは声が出なかった。


「此処での生活も悪くないので、間違った選択ではなかったんですけれどね」

 マーガレットは頷いて、ベティに椅子を進めた。さっきまでゾーイという若者が座っていた椅子だ。


「ゾーイ君、なかなかやんちゃなんですよ。毎日のように傷を作ってくるんですから。発砲痕は先週の訓練でマヌエルさんのが当たっちゃったみたいです。本人曰く痛いよりも悔しいの気持ちの方が大きかったみたいですけれど」


 マヌエルという名はエリゼから食堂で聞いていた。ベルナルドの左腕と言われている元軍人だ。彼がこの会社の軍を動かすのだとすれば、さっきのゾーイはその部下だろうか。まだ若かったし、兵士の一人なのだろう。


「さて、それで貴方は......エスペラントの人ではないようですけれど」

 少しだけ空気が変わったのでベティは警戒をした。このマーガレットだって敵という立ち位置に居るのだから、自分の情報を易々と言うことなどできない。


「最近ベルナルドに連れてこられたの。だからこの施設に慣れようと思って散歩をしていたのよ」

「なるほど、医務室を覗くということは同業者でしょうか?」

「まあ、そうだけれど......」


 ベティは頷くのを躊躇ったが変に嘘をついては面倒なので頷いた。「そうなんですね」とマーガレットは微笑んだ。


「目が真剣なのできっと素晴らしいお医者様なんですね。私なんかすっかり目も澱んでしまいました。ああ、白内障とかじゃなくてね?」


 冗談を一人で言って彼はケラケラ笑っていた。根は悪い人ではないようだ。一体何で医師免許を剥奪されたのだろう。気になるが聞いてはいけないような暗黙の了解がそこには存在しているようだった。


「そうだ、もしこの施設を散歩するなら注意点があるのですが......実験室の付近は基本的に有害物質が漂っているので避けて通ることをおすすめします。週に二度くらいは患者さんが運ばれてきてしまうんですよねえ」

「はあ......有害物質って、例えばどんな?」

「まあ詳しいことは秘密事なので話せませんが......睡眠ガスです」

「睡眠ガス」


 何に使うのだろうと考えをめぐらせていると、


「マーガレット先生〜」

 ベティの後ろから次の患者がひょっこり現れた。若い女性の研究員だった。


「指を切っちゃって......絆創膏あります?」

「はーい、ちょっと待ってねー」


 ベティは邪魔になるといけないのでそっとその場を後にした。そろそろ小腹が空いてきたな、と歩き始めたところで彼女の視界が突然真っ黒になった。

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