エリゼ
「エリゼ、お腹が痛いのかい?」
暗く青い光がさす廊下にあるベンチに座り込んだエリゼに、ドワイトは優しく問う。隣に腰をかけて、背中を摩ってくれる。エリゼは小さく頷いた。
今日は彼と水族館に来ていた。楽しみで大学の講義とバイトを一週間頑張って、色めいた週末を想像していた。が、一昨日から生理が始まったのだ。生理痛は元から酷い方だったため、今日は断念するか迷っていた。だが、せっかくの彼とのお出かけを先延ばしにするのは絶対に嫌だった。無理をしてでも彼と歩きたかったのだ。
「ごめんね......ドワイト」
「いいんだよ。薬はあるかい? 水を買ってくるからね」
ドワイトが財布を持って席を立った。エリゼはその背中を眺めていたが、彼が見えなくなると目の前に広がる青の中をゆうゆうと泳ぐ魚の大群をぼんやりと見た。
この水族館は、此処らで最も大きな水槽を持つという。週末は家族連れが多く、水槽の前は賑わっていた。母と父に手を繋がれてガラスの向こうに広がる世界に魅せられる子供の顔が眩しい。
いつか自分もあんな子供と手を繋いでこういう場所に来られるのだろうか。父親はドワイトだとして、彼との育児はどんなに楽しいだろう。
時折想像してみるのが、彼女の一番幸せな現実逃避であった。
少ししてドワイトが戻ってきた。手には水が入ったペットボトルがあった。エリゼはそれを彼から受け取り、ポシェットから薬を取り出して飲んだ。
「少し休もうか。ちょうど足も疲れたからね」
ドワイトが椅子に座り直した。エリゼは水を口に含みながら、優しいな、と嬉しかった。
足が疲れたなんて嘘に決まっているのだ。彼はいつだって自分を気遣ってくれる。そんな彼と居ると自分は本当に幸せで、彼がとても好きなのだと再確認してしまう。
しまう、という言葉は間違っていない。自分は彼を利用してしまっているからだ。正確には自分が利用されている。ベルナルドという男に。そしてそれを自覚して、彼から情報を少しずつ抜き取っている。
彼が好きだと言うのは本当の気持ちだが、その裏で行われている行動はその気持ちを黒く染めあげていくのだった。
エリゼは少しの間俯いて座っていた。腹が痛いよりも、心の痛みの方が今は強かった。彼と近くに居たいのに、近くに居ると苦しくなる。
エリゼは膝の上に置いたポシェットの下に手を潜り込ませて、その下で固く拳を作った。
自分にもっと勇気があるのなら、きっと大学に入って彼と出会った初めの頃に、こういう関係になれていたのだろう。
ドワイトがハンカチを拾ってくれた日、素直に彼を追いかければ良かった。
ベルナルドという奴に関わる前に彼と関係を持っていれば、少なからずドワイト達の味方でいられたのだ。
チラリと隣の彼を見ると、青い水槽の前で楽しげに魚を眺める家族客を微笑ましげに眺めているところだった。彼の優しい横顔を見ているだけで暗い気持ちが少しだけ軽くなる。目の光や口元だけで彼が本当に優しい人間なのだと分かるくらい、彼の優しさは外に滲み出す。彼は今まで出会った中で一番の善人と言えた。
もしドワイトが知らぬうちに、付き合っている彼女が自分たちの敵対しているベルナルドに情報を渡していると、読解メンバーが知ったとしたら_____彼もきっと、過去に私が辿ってきた道と同じ道を辿ることになるんだわ。
エリゼはそう思っていた。
小さい頃から苦しめられてきた壮絶ないじめ。あの輪から助けてくれたのは隣の彼だが、今自分はその彼をその輪に入れようとしている。
あのメンバーが例え優しかったとしても、ドワイトを見る目は変わってしまうだろう。彼が被害者だとしても。
「......ドワイト」
此処で真実を話せばどうなるだろうか。ベルナルドには殺されるだろうか。それとも最近一緒に絡んでいるフランチェスカだろうか。どちらにせよ、裏切るのには変わりない。私はどっちの味方になれば良いのだ。
「ん?」
ドワイトが柔らかい笑みを浮かべたまま此方を見た。視線が合ったが、エリゼはすぐに逸らした。目を見ると泣いてしまう気がする。再び俯いてしまったエリゼの背中をドワイトは優しく撫でる。
「どうしたの?」
「......ううん、なんでもない」
エリゼは強く握っていた拳を開いた。潰れていた血管に血が巡っていく感覚が彼女の両手に広がった。
「もう大丈夫そうよ。そろそろ行きましょう」
「無理はしないでね。辛くなったらまたベンチで休もうか」
「......ええ」
弱虫な自分に腹が立った。結局自分は一歩前に進む勇気など持っていないのだ。ずっと同じ場所で止まったまま、気づけば周りが変わって望んでいなかった結果を招いてしまう。
「大きな水槽だね」
少し近くで見てみよう、とドワイトが立ち上がりエリゼに手を差し出した。エリゼはその手を握り、彼と水槽の前に立った。自分の家がすっぽりと入ってしまいそうな巨大な水槽。手のひらサイズの小さな魚から身長を優に超えるような巨大魚まで、その数も大きさも様々だ。
エリゼはこの水槽で一番大きな大群と思われる魚を見た。くるくると竜巻のように真ん中を空けて筒状に泳いでいる。
「魚の渦......」
エリゼが呟くとドワイトもそうだね、と頷いた。
「イワシの群れだよ。ああすると他の魚に食べられないんだ」
「どうして?」
「自分たちを大きな魚に見せているのと、他の魚に自分が食べられる可能性を少しでも減らすためだよ。大きくて強いものにも、小さくて弱いものは多ければきっと勝てるんだね」
「......」
エリゼは自然と彼らの構図を自分に当てはめた。自分もあの渦のひとつになれたなら、他の誰かに紛れて生きることが出来る。ベルナルドという強大な敵から身を守れる。しかし、あの渦に入れる勇気というものを彼女は持ち合わせていなかった。
エリゼは自分たちの前に来た大きくも小さくもない魚を見た。
この子のように、自分は群れにすら入れず、頼りなく漂っているのがお似合いだ。
彼女は彼の手を握る手に少し力を込めた。彼もまた、しっかり握り返してくれた。
*****
彼から別れ話を突然切り出された時、エリゼは一瞬だけ時が止まったような感じがした。比喩ではなく、本当に止まったと思った。
「理由は......?」
理由などたかが知れてる。騙していたからだ。彼を利用して情報を盗んでいたからだ。そんなことされたら誰だって離れたくなるのに、彼の答えは一言、
「分からないんだ」
と、それだけだった。
彼の申し訳なさそうな顔と、その後は固く結ばれた口にエリゼはああ、と思った。彼は優しすぎたのだ。自分にはもったいないほど。それに恋をすること事態が間違いだったと。
エリゼは俯いて、そっか、と言うことしか出来なかった。彼が本当のことを知ったのかは不明だ。だが知ったとして、エリゼのことを考えて彼は同じように答えるだろう。
「ありがとう、私と居てくれて。本当に楽しかったの」
エリゼは俯いたままそう言った。脳裏にあのイワシの大群が回っている。キラキラと輝く銀色の竜巻はエリゼの夢だった。あれに入って彼と共にベルナルドと戦えたら。
そんなもの、最初から叶うはずがないのだ。
「ドワイト」
エリゼは最後くらい、と顔を上げた。ドワイトが息を飲んだのを分かった。熱いものが顔の輪郭を描いて地面に落ちるのを、エリゼは感じた。
「ごめんね」
力になれないことも、騙していたことだって、全ての気持ちを込めてエリゼは言った。
これが今の自分が彼に対して言える最低限の言葉であると、彼女はそう思った。
*****
ベルナルドがエスペラントを立ち上げたのは、それから数年後のことであった。エリゼは彼のもとで情報を入手し始めた最初の職員であるということもあり、彼の傍に置かれることになった。
しかし、エリゼの心は空っぽだった。
ベルナルドに今まで一から十まで従っていたのは、ドワイトという存在があったからだ。そんなドワイトが居なくなれば、当然エスペラントに居る意味というものが薄れてくる。
「エリゼ、手が止まってるぞ」
常にベルナルドからそんな言葉をかけられて、エリゼは慌てて止めていた手を動かすのだ。何も無くなった今、彼女を突き動かすものなど存在しない。
ドワイトは今頃何をしているだろうか。もう新しい人を作っただろうか。彼のあの優しさならすぐに横は埋まるだろう。
柔らかい彼の微笑みを頭に浮かべて、エリゼはその日も仕事をするのだった。




