憎悪
ベティが次に案内されたのは小さな部屋だった。やはり人気のない廊下を歩かされたが、此処はさっき案内された資料室へ続く廊下よりかはいつもは人が居るような気配がある。
「此処は仮眠室です。エスペラントでは職員が自由に職場を出入り出来ますが、長い実験も考えて家に帰れない時には、こうしてこの部屋を使うんですよ」
ベティの横に並んでキュルスは説明を行う。
B.F.で言う自室のようなものなのだろう。エスペラントは自分の家に帰れるのか、とベティは内心其方に驚いていた。B.F.では情報を守るために職員は決して外に出さない。自分の場合はレアなケースだが。
「ベティさんにはその一室を使っていただきます。部屋には誰もいれませんから、大丈夫ですよ」
キュルスが足を止めたのは、廊下の最も奥にある扉だった。扉の横のプレートには「空き部屋」と書いてある。キュルスはそのプレートの中身をすり替えた。プレートの中身は「ベティ・エヴァレット様」に代わる。「様」などと付けられては完全にお客扱いだ。
「手厚いもてなしね」
ベティはプレートの中身にある自分の名前をうんざりした顔で眺める。
「貴方がこの会社に足を運ぶと聞いていたので、来る前にはもう既に作っていました。安心してください、中も綺麗ですよ」
キュルスは扉を開いて、ベティを部屋に招き入れた。清潔な白いシーツが敷かれたベッドと質素な木の机、棚には紅茶を淹れるためのセットに始め、何冊か本が置いてあった。
「部屋の出入りは自由にできます。鍵は此方です」
キュルスはベティの手に銀色の鍵を置いた。
「給湯室は廊下を出て左にあります。シャワールームもその奥に行けばありますから、是非活用してくださいね。欲しいものは言っていただければなんなりとお持ち致します」
キュルスは丁寧に説明をし、最後に初めに見たような恭しい礼をした。
「それではベティ様、どうぞごゆっくり」
ベティは何も言わずに彼を見ていた。頭を上げたキュルスがにこりと微笑んで部屋を出た。ベティはそこでようやっと声を出した。
「独房みたい」
そして彼女はベッドにその体を倒すと目を閉じた。
まだ手は震えていた。鍵を握り締めて震えを止めようとしたが、それでも尚、震えは止まらない。
文書の下部を読むことは、上部を読解した彼女からしたら容易いことだった。しかし、それを読んだとして、もう既に褒めてくれるような親友も居なければ、既に読解されている文書に当時燃えていたやる気も湧かなかった。
見れば見るほどあの懐かしい日々が蘇ってくる気がした。リアーナの死が、自分にどれだけのダメージを与えたことか。一体彼女がナッシュを置いて何処に行くというのだ。電話を落としてその場に崩れたあの震えた背中を、まだ昨日の事のように覚えている。ナッシュが泣いているのを見たのはあれが初めてで、最後だった。
「......はあ」
ベティはベッドから起き上がると、手の中の鍵をポケットに入れて部屋を隅々まで見ることにした。
机の上には面白いほど何も無い。もう少しおもてなしの要素をくれたっていいのに、とベティは心の中でベルナルドとキュルスに舌を出し、続いて棚に向かった。棚には本が三冊収まっており、紅茶セットにはベティがよくシャーロットに飲ませてもらったものが一緒に置いてあった。それを見てベティは思い出す。
シャーロットまでも置いて出てきてしまった。
B.F.に彼女を連れてきたくせに彼女を置いて飛び出してきてしまったことに、あとから申し訳なさが込み上げてきた。B.F.から出てくる時に彼女が優しく頭を撫でてくれたのを思い出す。少しひんやりした柔らかい手がベティは大好きだった。
結局見送りは彼女のみだったことに腹が立ったが、同時に今後のB.F.の医者はどうなるのだろうと心配にもなった。シャーロットはもうそろそろ退職をするというのに、自分が出てきてしまっては医者は居なくなってしまう。
自分が戻れば良い話だ。しかし、その心配が込み上げると反対に、寧ろ困ってしまえという気持ちも込み上げてくる。感情が渋滞を起こしている。
ベティは気持ちの落ち着きを取り戻すために紅茶を淹れることにした。自分はあまり淹れたことがなかったが、シャーロットの準備するところはよく見ていた。
ティーポットとカップを取り出して、ベティは給湯室にお湯を沸かすために外に出た。廊下はしん、と静まり返っていた。今は何時かと思って腕時計を見ると、既に夜の10時であった。この時間ならば人気がないのも納得が行く。
給湯室は電気が付いていなかった。壁伝いで歩き、壁に凹凸を見つけて指で押すとパッと明るくなった。コンロが二つ並んでおり、シンクが一つ、電子レンジが一つと狭い給湯室である。
ベティは火をかけて明日の過ごし方を考える。施設の見学をするのも良いが、何せ白衣を脱いだままである。泊まったホテルで脱いだわけだが、既にチェックアウトはベルナルドの手によって済んでいるので、白衣は彼の手にあるのだろうか。明日あたり返してくれなければ、施設を歩く際に目立ってしまう。
ポッドに沸かしたお湯を注いで、その場で紅茶を作った。少し待つ間、給湯室の奥についている扉に目がいった。そう言えばキュルスが奥はシャワー室になっていると教えてくれた。ベティは扉に手をかけた。ゆっくりとドアノブを回すと、簡単に扉は開いた。その奥は薄暗い廊下になっていた。が、奥の方から人の声が聞こえる。どうやらあのモールのような場所と繋がっているようだ。
シャワー室はその扉の先の三歩先にあった。モールまでのショートカットとしても利用出来る扉のようだ。なるほど、と納得してベティは扉を閉めた。
さて紅茶はどうだろうかと振り返ると、誰かの影が見えてベティはびく、と肩を竦めた。いつの間にか給湯室に誰かが立っている。それはある女性だった。ベティはその顔を知っている。何故なら、ずっと前に彼女に強い恨みを抱いていたからだ。
「エリゼ......」
それはエリゼ・ジンデル(Elyse Zindell)であった。
彼女の姿はベティが彼女を突き飛ばした日からめっきり見なくなってしまった。ドワイトにも勘づかれていたのが効いたのか、とにかくドワイトにこれ以上関与しないようになったという点では、ベティはほっとしていた。ドワイトからも、ある日を境に彼女の話は聞かなくなったし、彼女の存在は二人の中でもそれなりに薄まってきていたのだ。
だが、今目の前にいる彼女を見てベティはあの時の憎しみも怒りも全てが蘇ってきてしまった。気づけばキッと彼女を睨みつけていた。
「どうして、アンタが此処に居るのかしら」
ベティの問いに彼女は答えなかった。ただ、ベティの上から下までを舐めるように見たあと、シンクに歩いていった。彼女の手には銀色のフォークがあった。そのフォークを彼女は黙々と水とスポンジで洗い出す。
「質問に答えてくれる?」
ベティは彼女の横にやって来て、彼女の手元を見た。左手の薬指に銀色の輝きを見つけた。ベティは口を噤んだ。それに代わるようにしてエリゼが口を開いた。
「ドワイトは元気?」
フォークを洗い終えると、彼女は水を止めてベティを見た。相変わらず顔だけは可愛い。ドワイトが惚れる理由もよく分かる、とベティは自然と考えてしまったので慌てて「まあね」と答えた。
「優しいからアンタのことなんて忘れてるでしょうけど」
「......そうだといいわ」
エリゼが弱々しく笑った。ベティは小さく眉を上げる。
「傷つけてしまったことを凄く反省しているの。もう顔を合わせる勇気もない。綺麗に忘れてくれた方がこっちとしてはありがたいの」
エリゼはフォークについた水滴をペーパーで吸い取った。
「それで_____」
エリゼがペーパーをゴミ箱に放った。
「どうして貴方が此処に?」
綺麗な弧を描いて吸い込まれていく丸められたペーパーを、ベティは目で追いかけていた。この一瞬のうちに答えを考えてしまおうとしたのに、頭の中は驚くほど空っぽだった。
「貴方に言って得はあるかしら。またお得意の情報盗み?」
嫌味のあるベティの言葉にエリゼは軽く彼女を睨みつけた。
「残念だけれど私はあなたと仲良くする気なんてないのよ。この会社があるのはあなたのおかげでしょう」
「......ドワイトのおかげ」
蚊の鳴くような声でエリゼが返した。ベティは彼女に掴みかかる勢いで近づいた。
「まさか、その指輪は存在もしない相手に対してものかしら。此処の職員は全員馬鹿みたいな夢を見てるの?」
「違う! これは......私、結婚したの。二ヶ月前に、此処の人と......」
「じゃあもうドワイトの名前なんて出さないでちょうだい。アンタ夫がいて未練残してんの? 自分がまいた種じゃない。今更よりを戻したいとか思ってんじゃないでしょうね?」
ベティが詰め寄るのをエリゼは怯えた顔で見上げて、後ろに下がっていく。ベティは彼女を壁際まで追い詰めた。
「アンタのおかげでドワイトがどれだけ苦しめられたのか、分かってんの? 優しさに甘えてずっとそんな夢見てるわけ? いい加減現実見なさいよ! ドワイトがアンタと別れたのはお互いのためだって言ってたわ。アンタが苦しそうだからって。自分とは違う別のものを見ているから別れたんだって。浮気じゃないって彼はしっかり分かってた。最初から全部、分かってたの」
ベティは終わりの方でようやく自分が熱くなっていたことに気がついた。ブライスとの揉め事のためか妙にそれ関連の事にムキになってしまう。
ベティは気持ちを落ち着かせるために大きく息を吐いて、エリゼから離れた。
「感謝しなさいよ。ドワイトがもし気を利かせてくれなかったら、アンタ今どうなってたか分からないんだから」
「......」
エリゼは黙り込んでいた。俯き気味で、何も言わずに突っ立っている。何か言うべきかとベティが言葉を考えていると、彼女が先に口を開いた。
「私、今の夫を心から愛しているとは思えない」
「......」
「ずっとドワイトが頭の片隅に居て、私は彼しか心から愛していないの」
エリゼの目から雫が溢れる。
「私ね、怖いの。最初はドワイトと付き合えるからって言う理由でベルナルドなんかについて行ったんだもの。でもそんな彼とは別れてしまって、此処に居る理由が無くなってしまったの。本当は、此処から出たいの。でも情報を持った職員は_____私なんか特にベルナルドの直属の支配下に置かれているから、出ていくことなんて許されていないの」
エリゼが顔を覆って泣き出した。一瞬だけ前髪の隙間から見えた泣き顔は、幼い少女のようだった。肩を震わせて声を押し殺して泣く彼女は、あの頃に見えた純粋に彼を愛していた面影が確かにあった。ベティは目を細めて彼女を見る。
もしかしたら此処の職員にはこういうケースで入社をした人もいるのかもしれない。エリゼはエスペラントが設立される前からベルナルドの近くにいるが、甘い言葉に誘われてしまった蝶のように、此処に居てしまっているのだ。
「......助けて、助けて」
エリゼが涙声で訴えた。ベティは何も言わずに彼女の頭を抱き寄せた。
どうしたら良いのだろう。
もし先生ならどうするだろう。
ベティは彼女の頭を撫でながら考える。
彼女ならきっと、「わかったわ」と、優しく言うはずだ。




