微笑
暖かい。
柔らかい香りがする。懐かしい香りだった。小さい頃から大好きな香りで、この香りがする医務室が自分は好きだった。
優しい音がする。彼女が出す音が全て愛おしくなる。シーツが擦れる音、紅茶を用意する時の、カップに液体が注がれる音、陶器がぶつかる音、カルテを書くペン先の音、椅子が軋む音。
大好きな人が居る、大好きな場所。
ベティはゆっくりと夢の世界から戻ってきた。
目に入ってきたのは、白い天井だった。そして、柔らかい微笑み。
「おはよう、ベティ」
シャーロットだった。
「......先生」
久しぶりに彼女を見た。まだ夢の続きかもしれない。だが、夢なんて見ていただろうか。もしかして、B.F.から出てきたのも、エスペラントという会社でエリゼと再会したのも、全部夢か。最初から、夢だったのか。
「起きましたか?」
カーテンが開いた。そこから顔を覗かせたのは、マーガレットだった。ベティは彼を見て一気に現実に引き戻された。
「此処......エスペラント......?」
ベティはシャーロットを見る。彼女はゆっくり頷いた。
戻ってきてしまったのだ。せっかくエリゼと共に、マーガレットに手伝ってもらって出てきたというのに。だとしても、此処にシャーロットが居るのはおかしい。彼女が居るはずがない。
彼女が此処に居てたまるか。
「先生、逃げて_____っ......!!!」
ベティは動こうとして、後頭部に強い痛みを感じた。枕から頭を持ち上げるだけでズキズキと痛む。触ると、腫れていた。コブになっている。
「ダメよ、動いちゃ。安静にしていなさい」
シャーロットの手が肩に添えられて、ベティは枕に頭を戻された。
「でも先生......此処は危険なんです......!」
「大丈夫よ。もう大丈夫なの」
「大丈夫って......何が大丈夫なんです......?」
ベティは訳が分からず、マーガレットを見る。マーガレットはいつものニコニコとした笑みを浮かべるだけだった。
「今は寝ていて、ベティ。また後でお話するから」
「そんなの納得しません! 先生、どうしてエスペラントに居るんですか!! 先生が此処に来ちゃいけないです!!」
戻された頭をベティは再び浮かせる。痛みの度合いが分かったので、もう驚きはしないがやはり痛みは強かった。
だが、そんなこと気にしていられるほど呑気な状況ではないのだ。
彼女まで巻き込むわけにはいかない。恩師を巻き込もうと思うほどベティはわがままじゃない。自分のことはなるべく自分で片したい。
「私、夕飯買ってきます」
マーガレットがシャーロットに言った。シャーロットは「行ってらっしゃい」と彼に笑いかけて、ベティをもう一度ベッドに戻した。
マーガレットが部屋を出て行くと、シャーロットは小さくため息をついた。
「色んな奇跡が重なって、私は此処に来たのよ」
「奇跡......?」
「ええ、そう。少しだけ話すわね」
*****
ベティがB.F.を出て行くと、シャーロットはB.F.の医務室を一人で管理することになった。医務室のベッドを一つだけ自分用にし、24時間、患者が運ばれてきても良いように医務室に寝泊まりをするようにした。
研究員全員が心配する声に、紅茶とお菓子さえあれば乗り越えられるわと笑って返した。だが、やはりほとんど寝ずに患者を待つのは辛いことではあった。
ブライスと話し合った結果、シャーロットへの負担を減らす対策を考えてくれるという。
一番の案は研究員達が全員、自分で怪我をした際に最低限の処置をできるようにしておくことだった。
昇格試験の内容にでもしたら、誰もが必ず通る道なので良いかもしれない。
そんなことを考えながら、シャーロットはうつらうつらとカルテを書く。
目が覚めると、医務室にはもちろん誰もいない。それは、自分の助手が居なくなったことを示していた。
自分の助手はまだまだ心が幼くて、まだまだ女の子だ。好きな人に振り向いて欲しい気持ちは誰でも持っている。
彼女はよく我慢した方だ。ブライスだって、部下のことで精一杯だとよく理解している。ベティもきっと分かっている。それでも、長い我慢は良くなかった。
シャーロットも少し反省していた。二人の間にある亀裂を和らげる処置をしてあげればよかった、と。あんまり間に入るのはよくないが、まさかベティの方が出ていくとは。
恋は難しい。重すぎても軽すぎてもダメなのだ。天秤がどちらかに傾いた瞬間、それは簡単に崩壊してしまう。
だが、シャーロットはベティを探そうと四苦八苦するブライスを見て少しだけ安心したのだ。彼の気持ちは本物だと、ちゃんと分かったのだ。あとは、彼がどうやってそれをベティに伝えるか。口下手な彼が、ベティにどうやって愛を伝えるか。それは彼の手で探してもらわなければ。
*****
シャーロットはベティの居る居ないに関わらず、予め決めていた日程にB.F.を退職するということになっていた。その日、元助手のリディアやその同期、ブライス、ナッシュ、ドワイトたちに見守られる中でシャーロットはエレベーター前にてお別れ会のようなものを簡易的に開いて貰っていた。
「医務室をよろしくね」
泣きじゃくるリディアにそう言っていると、ナッシュがやって来た。
「シャーロットさん、少しお話があるのですが、いいですか?」
ナッシュは少し離れた場所にシャーロットを連れて来た。
「どうしたの?」
「少し気になっていることがありまして......ベティのことです」
ナッシュの顔が深刻げなのでシャーロットは嫌な予感がした。自分の教え子が、何か良からぬ目にあっているのではないかという考えが頭をよぎる。
「見つかったの?」
「少し前に電話がかかって来ました。本人から、僕らのオフィスに」
「それで、何て?」
「それが......彼女は僕らの大学時代の同級生のところに居るそうなんです。それも、文書を無理やり奪おうとしてくるような......」
ナッシュの声は元気がなかった。
「ベティはその人のところに居るってことかしら......」
「そう考えられます。ただ、彼女はそこから逃げようとしています。僕らの会社に来ると言うので、仮施設のエレベーターを開けておいて欲しいって言われました。ただ、日時を聞く前に電話が切れてしまって......」
「そうなの、じゃあベティは取り敢えずは無事なのかしら」
「あの電話からかなり経過しましたが......あの時に聞いた声では......おそらく」
シャーロットは「わかった」と頷いた。彼女は取り敢えず生きているようだ。これだけ分かればあとは自分の足で探すしかない。
「この話はブライスさんにはしてあるの?」
「軽く話はしました。ただ手がかりが何も無いのでどう動けばいいのか我々は分かりません。地上に出て探すしかないのかもしれないですが......その役、シャーロットさんにお願いすることはできますか?」
「もちろんよ」
自分の助手、そしてナッシュらが困っているなら助けるのが自分の役割だ。困っている人を助けるのは医者として最低限のことなのだ。シャーロットのモットーだ。
「ベティは私の助手で、患者よ。どちらも守らなければならないものなの。断る理由などあって?」
シャーロットの言葉にナッシュはほっとした顔で息をついた。
「ありがとうございます。連絡があったらすぐに電話をします」
「ええ、わかった」
こうして、シャーロットは外に出た。
*****
ベティは見つかった。それよりも先に、彼女を見つけた路地から少し離れた路地でシャーロットは、ある女性が倒れているのを見つけた。腹部から血を流して、既に絶命していた。
周りを屈強な男が取り囲んでいる。シャーロットはそれに近づこうとしたが、ある声が聞こえてきた。
『ベティ・エヴァレットを見つけました。気絶しています』
それはある男性の無線機から流れてきた声だった。無線を受けた男性は「すぐに行く」と言って歩き出した。シャーロットはそれを聞いて、彼にこっそりついていった。
そして、自分の助手を見つけた。路地裏でうつ伏せに倒れていた。頭を殴られたことはすぐに分かった。シャーロットがついて行った男性は誰かと電話で話をしていた。彼が、ナッシュが言っていた男だと予想して、シャーロットは彼に声をかけた。
ベティに苦しい思いをさせてたまるか。
彼女の心にあるのはそれだけだった。
*****
シャーロットはエスペラントという施設に連れてこられた。車の中で説明されたのは、エスペラントが危機的な医療不足であるということだった。医療不足と聞いて医者が見捨てるわけにもいかない。
「戦争に介入していると医療面で足りない場所も出てきます。マーガレットさんは時折戦場に赴いて治療をしますが、そうするとエスペラントの医者が足りないんです」
説明をくれたのは白髪の男性だった。何処と無くよく知る雰囲気を漂わせている。
「それでベティが必要だったのね」
シャーロットは自分の太ももを枕にしている助手の髪を優しく撫でていた。
「ええ、そうです」
「それは大変なことね。実はB.F.もかなりの医療不足でね。もう少しお医者さんが増える世の中になればいいんだけれど......」
シャーロットは話しながら、チラリと助手席の座る男を見た。彼の名前はベルナルド・ウィンバリー(Bernard Wimberley)というようだ。右目の下に大きな古傷がある、冷たい目の彼はさっきから話さない。完全に説明を白髪の彼に任せているようだ。
「シャーロットさんは一般の医者を退職したという話だったんですが......」
「ええ、そうよ。ベティがね、小さい頃に診てもらったからって私を師匠にしたくてB.F.に連れてきたのよ。全く、困った子でしょう」
ベティはまだ目覚めない。さっき軽く後頭部を触るとコブができていた。あとで冷やしてあげなければ。
「簡単な医療なら私もできるわ。困っていることがあればなんでも言ってね」
ルームミラー越しに運転手の白い髪の男性を見る。
「ええ、ありがとうございます」
「でもね、条件があるのよ」
「条件、ですか?」
「そうよ」
シャーロットは頷いた。ブライスと少しだけ話はしていた。
*****
「彼らがベティを拐うとすれば、理由は大きく二つあります」
B.F.を出て少しして、ブライスは国への資料の提出に外に出てきた。その際にシャーロットはブライスと会っていた。街中のカフェのテラスで、彼はシャーロットに色々な意見を共有してくれたのだ。
「まずは俺らの情報をベルナルドが欲しがっているとして、それを聞き出すため。もう一つは」
「お医者さんの必要性ってところ?」
「ええ、そうです」
「私も考えたのよ。その可能性は高そうね」
ベティは頼んだ紅茶に砂糖を落とした。
「どうする? ブライスさんは、どうしたいの?」
「......」
「私と情報を共有するということは、私に何かやって欲しいことがあるってことかしら」
ブライスは黙っていた。シャーロットは彼の言葉を待つ。相手が心の内側で葛藤している時は、常に静かに待つのが鉄則だ。無理に言葉を引き出そうとして考えを掻き乱すより、待つのが良い。砂糖が溶け終わるまで、ブライスは待っていた。いや、考えがまとまらなかったのだ。
シャーロットが砂糖を溶かし終わり、金のティースプーンをカップから上げたところで彼の口は開いた。
「シャーロットさんは、ベティの為なら何処まで出来ますか」
シャーロットは微笑んだ。
「分かっていて質問していない?」
「......」
「そうねえ」
シャーロットは目を閉じた。小さな頃の彼女が目に浮かぶ。大人の目に押しつぶされそうになり、そして徐々に子供らしさを取り戻していった彼女。
ただ、やはり子供らしさを取り戻すのが遅れてしまった。彼女はああして感情を表に出すのが難しい子になってしまった。
だが、失敗だとは思っていない。治療は失敗していない。
シャーロットはあの彼女が好きだ。上手く言葉にできずモヤモヤしている彼女は可愛らしく、応援したくなる。簡単に嫉妬してしまう自分に嫌気がさす彼女もまた愛おしい。
我が子のように。
そう、我が子のように。
「こんな老いぼれに、もう先は長くないの。愛おしい我が子に余生を捧ぐなんて素晴らしいことないわよねえ」
「......」
「さあ、今度は私の番よ。ブライスさん」
シャーロットはにっこり笑った。
「あなたは彼女のためなら何処まで出来る?」
*****
「私がお医者さんとしてエスペラントに居られることになったの」
シャーロットの言葉にベティの目から涙が溢れた。
「またお仕事が出来るなんて、こんな嬉しいことあっていいのかしら?」
「......いや」
「またカルテを書かなきゃね」
「いや、先生、なんで......」
ベティは泣き崩れた。
そこまでしなくていいのに。
彼女はどうしてそこまで自分を守ろうとするのだ。
逃げなければ彼女を巻き込まなくて済んだのだ。これではまるで、まるで_____。
「人質の交換なんかじゃないのよ、ベティ」
シャーロットは泣き崩れたベティの頭に優しく手を置いた。
「ベルナルドさんにある条件をつけさせてもらったの」
「条件......ですか?」
「そう。私は両社に対して中立の立場にある、というね。エスペラントが困ればエスペラントのお医者さん、B.F.が困ればB.F.のお医者さんになれる。彼も許可をしてくれたわ。だから、大丈夫。いつだってあなたに会える。いつだってお外に出られるの」
「そんなの......」
ベルナルドが嘘をついている可能性なんて十分に考えられる。彼がシャーロットに何か痛いことでもしたら、と考えるとベティは耐えられない。
「私は幸せなのよ? 二つの会社を掛け持ちで面倒見られるんだから。まあ、言い方を変えれば、面倒を見てもらう、って感じだけれど。楽しそうじゃない、全く知らない会社でまた一から始められるなんて」
シャーロットはベティの涙を指で拭った。
「私の子はみんな泣き虫さんねえ」
ベティの涙は止まらなかった。
中立の立場とは言え、それが本当なのか。ベルナルドが本当にそう言ったのか。
まだ不安しかない。
少しの間シャーロットに涙を拭かれていると、医務室の扉が開いた。マーガレットが入ってきた。が、その後ろからキュルスも入ってきた。
「ベティさん、迎えが来ています」
「迎え......?」
「あらあら、随分早く来たわねえ。さあ、ベティ。動ける? 私がおんぶしましょうか」
「待ってください先生......先生も一緒に......」
「いえ、私は此処に居るわ。大丈夫。私を信じて」
その言葉は、ベティがエリゼに言った言葉だった。入院している患者によく彼女が言っていた言葉だ。その言葉にどれほどの人が助けられたか。だが、自分はエリゼを助けられなかった。
「......」
ベティは最後にシャーロットの胸に抱きついた。マシュマロのような柔らかい彼女は、しっかりベティを抱き締め返した。
「大丈夫。また会いましょう」
ベティはシャーロットと離れた。彼女は此処に居るようだ。キュルスに支えられるようにして廊下に出ると、ベルナルドが立っていた。彼の手には白衣があった。
ベティはそれを受け取り、玄関まで歩いた。誰も何も話さなかった。
何故シャーロットを連れていくのか、聞いたところでベルナルドからは大した答えが返ってこない気がした。
だが、本当に彼女を置いてきていいのか。
立ち止まって確認しようとしたが、後ろから迫るベルナルドがそれをさせてはくれない。
玄関を出ると、白いバンが停車していた。外は霧雨が降っていた。湿った森の夜の空気は澱んでいた。
「山の麓まで出ます。乗ってください」
キュルスがバンの後部座席を開けてくれた。
ベティはそれに乗り込んだ。ベルナルドは隣に乗った。
「......エリゼは、死んだの?」
キュルスが運転席に乗る僅かな間、ベティは口を開いた。泣きすぎて声が枯れていた。
「......」
ベティの問いにベルナルドは答えなかった。
「......あなたの恋人だものね。ショックよね、そりゃ」
「......ネズミに恋などせん」
ベルナルドが小さく言った。ベティは彼を睨みつけた。あれだけこき使っておいて、その言い方をまだするか。
「最後までアンタの考えは理解できない」
ベティが言うと、キュルスが乗ってきた。バンが麓に向かってゆっくりと動き出す。
「先生に何かしたら許さないから」
「手荒なことはしない。中立という立場で仕事はしてもらう」
「アンタの言葉は信用ならないのよ」
考えていたらまた涙が出てきた。
シャーロットは今頃何をしているだろう。もう既に仕事を始めているだろうか。
彼女がもしエリゼのように居なくなったら_____。
「降りましょうか」
キュルスの言葉にベティは我に返った。長い間物思いに耽っていたようで、気づくと車は麓で止まっていた。
キュルスが先に運転席から降りて、後部座席の扉が開いた。ベルナルドに続いてベティは車から降りる。
道に一台の車がエンジンをかけたまま停まっていた。
そして、暗闇の中に立つ「彼」を見た。
安心したからか、それとも悔しいからか。
ベティは再び前がぼやけた。
一瞬だけ躊躇ったが、ゆっくりと彼の元に向かった。彼は着ていたコートを脱いだ。
ベティが彼の胸の中に飛び込むと、彼はしっかりとそれを受け止めた。背中からコートを被せて、コートごと彼女を腕に抱いた。それはベルナルドから彼女を隠すような仕草だった。
「お前の医者は返したぞ」
ベルナルドがそう言った。彼は鋭い目つきでベルナルドを睨みつけていた。
「また会うことがあれば、次は懐かしい友も連れて来るがいい。是非文書001について話をしたいな」
「断ろう」
短く彼は言った。
「貴様に会うことは二度とないようにする」
「そうか、ならばまた会おうとは言えないな」
ベルナルドは向きを変えた。
「貴様もいつか分かるだろうな。永遠の命がどれほど素晴らしいものか。今はせいぜい、いつか終わる命に怯えて暮らせばいい」
ブライスは何も返さず、車の助手席にベティを乗せた。扉を閉め、運転席側に回って車に乗り込むと、闇と霧雨の中に姿を眩ませた。
「......私達も戻りましょうか」
キュルスが扉を開けてくれる。ベルナルドは少しの間車が消えた辺りに目をやっていたが、やがてバンに乗り込んだ。




