深夜の病棟
ベティ・エヴァレット(Betty Everette)は小さな頃から周りとは少し違かった。何か話せば驚かれ、何かすれば驚かれ。少し頭を使うと嬉しげに大人たちは次の質問をしてくる。
ギフテッドと呼ばれる分類に自分が属すると知った時、納得がいかなかった。普通に過ごしてきたつもりだったのに、そんな言葉をつけられるほど異常な振る舞いをしていたのか、と。
確かに、いつも自分を褒めて嬉しそうにしていたのは周りの子供ではなく、大人であった。子供にはそもそも自分の言葉が伝わっていなかったのだ。
彼女は子供から孤立する代わりに大人に囲まれた。毎日似たような質問をされて、それに答えるだけで大人は手を叩いて喜んだ。その姿は周りの子供よりも子供らしかった。
ベティは12歳の時に、人生で一番の出会いを果たす。それは、当時両親に連れてこられた病院での出来事だった。周りの大人の反応を見ることにうんざりして、すっかり口を開くこともしなくなった彼女を心配して、両親が彼女を病院へと連れてきたのだ。
医師に二人が説明している間、ベティは別室に案内されて軽い計算を解かされていた。その計算も周りの大人が見れば気を失うような難しさだったものだが、ベティからすればなんと言うことはない。ペンを持つだけで紙に答えが描き出されていく。
彼女が黙々とペンを動かしていると、扉が二度ノックされた。ベティが手を止めてそちらを見ると、扉はなかなか開かない。ベティが眉を潜めていると、扉はやっと開いた。
顔を覗かせたのは優しそうな女性だった。白衣を着ているので恐らく医者だろうが、その顔にはいたずらっぽい笑みが浮かんでいる。深刻そうに話し合う大人や、明らかに何かを期待しているというあの笑みとは異なっていた。
「今この扉を開ける時、少し間があったでしょう。私は一体何を考えていたと思う?」
彼女の問いにベティは首を傾げた。答えのない質問は久々だった。国語の問題にしては答えがあやふやすぎる。
ベティが黙っていると、彼女は完全に部屋の中に入っていた。後ろに手を組んでいる。
「あなたはどんな顔かしら? 扉の向こうに居る女の子は一体どれを選ぶのかしら?」
そう言って彼女はベティが座っているテーブルの傍らにやって来た。テーブルの上に色とりどりの正方形の袋を置いていく。
赤、青、緑、黄色。つやつやとした紙の袋の中に何かが収まっているようだ。ベティは分からないまま青色を指さし、摘み上げてみた。何となく近くにあったから、という理由がほとんどだが、女性は笑った。
「ダージリンね? 良いセンス。でも私はこっちが好き」
彼女は青色の袋の隣にあった赤い袋を手に取った。袋には「レディー・グレイ」と書かれていた。
ベティは彼女の言葉に驚いて袋を持っていた手から力が抜けた。故に袋はかさりと音を立ててテーブルの上に落ちた。
否定をされた。
ベティはもう一度彼女の言葉を頭の中で反芻させた。『でも』、という単語を彼女は久しぶりに聞いたのだ。それが全前文とは反対の意味を表す言葉であることは誰だって知っている。だがここ数年、ほとんど自分に対してその言葉を使われることはなかった。つまり、自分の意見とは異なる意見を面と向かって言われることがなかった。
しかし今彼女は『でも』と言った。確かにそう言った。自分とは違うものを指さした。
それはベティにとって、雷が落ちたような衝撃だった。悲しいという感情も嬉しいという感情もまだ湧き上がってこない。石のように固まったまま、テーブルに落ちた自分が持っていた青い袋と彼女が指さした赤い袋を、ただ目を動かすだけで見比べている。
「ショックだったのかしら?」
柔らかい声に質問を乗せて、彼女はベティの顔を覗き込んだ。ベティはそこでようやく動き出した。落とした袋を手に取って、並べられていた列に綺麗に戻した。
「好きなものが違うのは、そんなにすごいことでもないわよね」
そう言って、彼女は列に戻った青い袋と赤い袋を手にしてもう一枚ある扉から何処かへと行ってしまった。ベティは残った袋を見つめて、再び彼女が言った言葉を頭の中で反芻させた。
*****
数分後、遠くの方でカチャカチャと陶器同士が軽くぶつかる音がして、やがて彼女は戻ってきた。さっきと違うのは、手に持っているものだ。赤と青の袋が今は小さなトレーに変わり、その上に白い皿とティーカップ、ティーポットが乗っている。そして彼女が部屋に入ってくると、ふわりと柔らかい香りがベティの鼻腔をくすぐった。初めて嗅ぐ匂いだった。
「これは紅茶よ。初めて飲む?」
彼女がテーブルの上にトレーを置いた。この国のものでは無さそうな、異国の模様があしらわれた綺麗なカップとポットだった。皿の上にはクッキーがあったが、この香りはポットから香ってきているようだった。オレンジなのか、何なのか、爽快感のある柑橘類の香りがする。
「これは私が選んだアールグレイという紅茶よ。不思議な香りがするわね。ベルガモットが入っているの」
「ベルガモット......」
知らない言葉である。ベティは彼女の言葉を繰り返した。
「柑橘類ね。オレンジとか、ミカンとかのお友達よ」
彼女がポットを手にして傾けた。カップにとぽとぽと色付いた液体が溜まっていく。
「お名前はなんて言うの?」
「ベティ・エヴァレット」
「ベティ。良い名前ね。私の名前はなんて言うと思う?」
ベティは思わずカップから彼女に目を戻す。名前なんてこの世に幾多に存在するのに、それを当てるなんて無茶なことを言う。
「わからない。わかるはずがないわよ」
ベティは声を小さくして言った。すると彼女は声を出して笑った。
「そうよね。じゃあ私のことはシャーロット先生と呼んでくれる? みんな私をそう呼ぶの」
「......」
まるで正解ではないようだ。彼女が本当にシャーロットなのか、確実な答えではないように聞こえた。しかし他に思い浮かばないのでベティは彼女をシャーロットと認識し、再びカップに目を戻す。琥珀色で満たされたカップを、シャーロットはベティにそっと差し出してきた。
「はい、どうぞ。熱いから気をつけてね」
ベティは恐る恐るカップを手にした。口元に持っていく前に鼻を近づけて香りを楽しんだ。ベルガモットと彼女はさっき言ったが、一体どんなものなのだろう。見たことがないベルガモットを頭に思い浮かべながら、ベティは一口目を口に含んだ。そしてもう一口、また一口と続き、
「......美味しい」
ため息をつくようにそう言った。実際安心するような温かさに本当にため息が出た。シャーロットはそんなベティを見て柔らかい笑顔で「良かった」と言った。そしてベティと向かい合うように座ると、
「好きな食べ物はあるかしら」
と聞いてきた。ベティは少し考えてみた。何を言えば前の大人が喜ぶかを常に考えてきた彼女には、完璧な答えを用意する必要があると判断したのだ。琥珀色を眺めながら黙り込んだベティを見て、シャーロットは、
「私はりんごが好きよ」
とそう言った。
「理由は簡単。美味しいから」
ベティは「え?」と目を丸くして彼女を見た。シャーロットの優しい光を含んだ目とかっちり目が合って、慌てて目を逸らした。
「あら、他に理由があって? りんごは美味しいから私は好きなのよ。丸くて、赤くて、しゃくっとしているところが良いわよね」
当たり前のことを挙げていく彼女にベティは何も言えなかった。だが同時に、
この大人は違う_____、
と小さな希望が芽を出したような感覚があった。
「私......この紅茶が好き」
ベティは両手で包んでいたカップの中身を見てぽそりと言った。シャーロットは「あら、嬉しいことを言うわね」と笑っている。
「じゃあこれも好きになるわ」
そう言って白い皿を手の甲でベティの方へと差し出してきた。その上にはクッキーが乗っている。ベティも小さく笑って、
「好きになるかも」
とクッキーを摘んだ。曖昧な返事である。
頭を使わない大人の会話は久しぶりだった。
ベティは、両親が自分を扉の向こうから迎えに来るまで、彼女との会話を心から楽しんだ。
*****
ベティは、それからその病院に通うことになった。両親が深刻そうな顔をして車を運転するが、彼女は車の中でソワソワしていた。
今日も自分はあの人に会えるのだ。彼女に会うのは今日で五回目になるが、今日は両親が車にいつもより荷物を積んでいたことが気になった。
もしかしたら自分は入院するのかもしれない。もしそうなったら、彼女と一緒に居る時間が増えるということで、飛び跳ねたいくらいに嬉しい事だった。
病院に着くと、ベティは病室に案内された。両親が言うにはやはり自分は入院をするようだ。医師と話をしている両親の隣でベティはシャーロットがいつやって来るのかとワクワクして待っていた。しかし、医師が部屋から出ていって、両親も家に戻っても彼女は現れなかった。暇つぶしにと手渡された数学のワークを解きながら彼女は辛抱強く彼女を待った。
夕食を食べても彼女は尚姿を表さなかった。時計は進み、やがて消灯時間になった。ベティが暗闇の中でぼんやりとしていると、誰かが個室の扉を開ける音がした。ベティはベッドから飛び起きた。
「こんばんは」
それは今一番聞きたいと願った声だった。ベティはカーテンを開けて彼女を見つけた。ベッドサイドのランプをつけて、ベティはシャーロットに抱きついた。
「ベティ、よく来たわね。ごめんなさいね、遅くなってしまって」
シャーロットはベティの頭を優しく撫でた。その手の重みが心地よくて、ベティは首を横に振った。
「私はどうして入院するの?」
ベティが彼女に問うと、シャーロットはベティの頭を撫で続けながら、
「私が提案してみたのよ。貴方は少し休むべきだわ。お家にいて疲れることはある?」
「ある」
ベティは思い出す。家に限らず、外でも過度の期待を背負わされてきたのだ。ミスなくそれに答えることは、小さな彼女とって重すぎることだった。ベティの返答にシャーロットは「じゃあ」とベティのいるベッドに腰を下ろした。
「此処で少しお休みしましょう。痛いことは何もないわ。紅茶を飲んだり、クッキーを食べたり、マフィンを食べたり......いっぱい楽しいことをして自分を甘やかすのよ」
シャーロットの言葉にベティはワクワクしていた。いつまでかは分からないが、これから始めることが宝探しのように楽しいことには違いないのだ。
「私、いつまでも此処に居たい」
「素敵。私もいつまでもベティとお話していたいわ」
二人は薄暗い部屋の中で声を押し殺して笑った。
*****
自分が思っていたよりもずっと自分の気持ちの沈みようは深刻だったことに気づいたのは、それから何十年も後の事だった。大人の期待が原因でベティは心に重い病気を患っていたようだ。シャーロットはそこでベティには誰からも注目を受けない場所を用意するように提案した。もちろんそれには様々な医師の反対があった。
「小さな女の子一人に病室を用意するのは、大袈裟すぎるですって?」
シャーロットは今聞いた言葉を繰り返した。その口調はゆったりとしていて、逆に彼女の提案を否定した医師がしどろもどろになっている。
「ですから......他の患者さんはいるわけですし......それにあの子はただ、ギフテッドという特性です。心の病は家での治療が可能ですから、わざわざ病室一部屋を確保しなくても......」
「そうねえ......じゃあ、少しだけ話を変えるわ。貴方は好きな物はある?」
「え? 好きなものですか?」
話が180°回転したので医師が目を丸くして聞き返す。
「そうよ。私はりんごが好きなの」
「は、はい」
質問の意図がよくわからず、医師は曖昧に相槌を打った。
「それが、何か不思議なことかしら。それに対して特別な興味を持たれて、話す度にそれ以外のことを話したら期待から逸れるという目を向けられるのは少し荷が重すぎるんじゃない?」
医師は口を閉ざした。ばつ悪そうに視線を床に落としている。シャーロットはそんな彼に手を差し出した。医師は手にバインダーを持っている。どうやらそれを手渡せ、ということらしかった。
医師はそれを彼女に手渡す。彼女は受け取ってそれに目を通した。ベティに関する資料で、何やらミルクパズルを解かせるという話が出ているようだ。それで彼女のIQでも測るのだろう。
シャーロットは柔らかく笑って、胸ポケットからペンを取り出すとその案に二重線を引いた。そして何かを書き始めた。医師が立っている場所からはそれは見えない。
「ベティは、好きな時に好きなことを考える権利があると思うの」
シャーロットはペンを走らせながらそう言った。
「それに対していちいち過剰に反応していたら、彼女は私たちを喜ばせるような言葉しか言わなくなっちゃうわよ」
シャーロットのペンが二行目に移る。再び二重線が引かれた。そしてペンがサラサラと動いていく。バインダーについている銀色のチェーンが、彼女がペン先を紙につける度にシャラシャラと揺れて音を立てた。
「だって彼女、素直で優しい子だから。子供なら子供のままでいいの。好き勝手に自分の好きなことしていいの。周りの反応とか、そういうのを見て育ったって空っぽ人間になっちゃうわ」
彼女がペンを胸ポケットにしまった。
「私はそんな子供、見たくない」
そしてバインダーを医師に返してきた。医師はそのバインダーに目を通す。
ミルクパズルと計算ドリル、シャッフルカードという単語に二重線が引かれ、クッキーと紅茶、おしゃべりに書き換えてある。医師が顔を上げると、ゆっくりと散歩をするように揺れる背中が見えた。
*****
「そうなの、じゃあそのお姫様はきっと幸せに暮らしたわね」
ベティが入院して二日目の昼。シャーロットはやはり病室に姿を表した。今日は好きな時間にプレイルームという子供用の遊び部屋に行って良いと言われており、そこで彼女は本を読んだのだ。一度も手をつけたことがなかった童話だった。読んでいるうちに夢中になり、昼食の時間には病室に居るようにと言われたのも忘れて楽しんでいたのだ。看護師に部屋に戻され、昼食をとっているとシャーロットが来てくれた。そして読んだ本の感想を彼女に話した。
「ベティにもいつか素敵な人が現れるわ」
「シャーロット先生は好きな人が居るの?」
ベティは前のめりになって問う。シャーロットは「えー?」といたずらっぽく笑って、
「まだ見つからないみたい。もしかしたら白馬に乗ったまま通り過ぎちゃったのかも」
とそう言った。ベティは声に出して笑った。
「じゃあお城からお手紙が届くまで待つしかないわね」
「そうなのよ。ベティも、いつかきっとお手紙が来るからね」
「馬車も?」
「もちろん」
ベティはまた笑った。あれが作り話だと知っていても、シャーロットが言うと本当になってしまうような気がした。彼女の言葉にはそんな魔法がかかっているようだ。
*****
その夜、ベティは特別にプレイルームから持って行って良いと言われたお気に入りの絵本を持ってベッドに潜った。消灯時間を過ぎてもランプをつけ、柔らかい光の中で夢のようなその物語を楽しんだ。
絵本の中にいる可愛らしいお姫様がいつの間にか自分になっていれば、と誰もが一度は描く夢を、彼女はまさに見ていた。
夢中になってページを捲っていると、誰かが廊下を歩いてくる音がした。ベティは慌てて電気を消し、絵本を枕の下に突っ込んだ。布団を被って息を潜めていると、足音は自分の部屋の前で止まった。続いてガラガラと扉が開く音がし、ベティはまずいと思った。
夜遅くまで起きていたことがバレてしまったかもしれない。
大人に怒られるというのはどんなことか、自分はまだ実際に経験がないのだ。学校に通っていた頃に大人が子供を叱っている場面を多く見てきたが、どれも強い言葉で真っ向から言葉を投げているので周りは酷く怖がったものだ。もちろんベティもそうである。悪いことをしていないのに、まるで自分が怒られているかのような気持ちだった。しかし、実際に怒られている方の気持ちはきっとこんなものではない。
ついにその気持ちがわかる日が来てしまったのか、とベティは布団の下で寝たフリを続けた。あくまでランプをつけたまま寝てしまい、今たまたまその眩しさ故に起きてしまいちょうど消したところだった、という言い訳が浮かんできたので、それを頭の中で台本としてしまおう。
そうしているうちに人物は部屋の中に完全に入ってきた。ベティはぎゅっと目を瞑った。
「夜の舞踏会に行くわよ、ベティ」
それはシャーロットの声だった。ベティは聞こえてきた単語に目を見開いた。そして恐る恐る毛布から顔を覗かせた。シャーロットがランプをつけた。
「素敵な音楽を聞きましょうね」
「今から部屋の外に行くの?」
ベティは体を起こす。シャーロットは「ええ、そうよ」と頷いてベティに靴を履かせてくれた。『シンデレラ』のワンシーンのようでベティはワクワクした。そしてベッドから出ると手を繋ぎ、夜の廊下へと踏み出した。
*****
入院をしている子供が退屈をしないよう、病院にはイベントを行うためのホールが設けられている。本当に小さなホールで、30人も人が入ればパンパンだろうが、その夜のホールにはベティとシャーロットの他にもう一人の子供が居るだけだった。
ホールの中心には立派なグランドピアノが置いてある。その椅子に座り、その子はピンと背中を伸ばしていた。綺麗な顔立ちの、中性的な子だった。シャーロットが、
「彼は小さなピアニストなのよ」
と教えてくれた。
ベティはまじまじと彼を見た。ピアニストにしては幼すぎるような気がした。まだ三、四歳だろうか。親はいないのだろうかと周りを見たが、それらしい大人は居ない。もしかしたらシャーロットの......と思ったが彼女はそもそも結婚をしていない。昼間の白馬の王子様の話を聞いている限り、そんな出会いをまだしていないのだから。
「あの子も私と同じような心の病なの?」
ベティはシャーロットに問う。シャーロットは首を横に振った。すると、柔らかく儚い旋律が奏でられ始めた。見ると男の子が鍵盤の上で手を動かしている。子供にしては難しすぎるような気がしたが、その綺麗な音は大人のピアニスト顔負けと思えるほどの洗練された力を持っていた。
「すごい......」
思わずベティは声を漏らす。シャーロットも隣で静かに彼の演奏を聞いていた。
小さな手であれだけの鍵盤を押すのは大変だろうに、目をつぶればそれは大人が弾いているように感じられてしまうのだ。
「あの子はね、数年後に目が見えなくなるの」
シャーロットの言葉にベティは驚いて彼女を見上げた。シャーロットは寂しげな表情を顔に浮かべて彼を見ていた。
「先天性の疾患でね、目に重い病気があるのよ。少ししたら少しずつ視力が奪われてしまうと思うわ」
「......そうなの」
ベティはそれ以上言葉が出なかった。目が見えなくなったら、彼はピアノを弾かなくなるのだろうか。そうしたら彼は一体何をして過ごすのだろう。点字というものを当時彼女は知らなかった。盲目になると何もかもできなくなってしまうのではないかという心配をしてしまい、彼女は泣きそうになった。
「でもね、目が見えなくたって彼は演奏を続けると思うの」
シャーロットの声は明るかった。
「目を閉じてピアノを弾くのは簡単なことではないけれど、彼なら完璧に弾くより楽しく弾くことの方が重要だから、きっと耳で楽しむだけでも大差ないのよ」
「耳......」
「それにね、彼とはよくお菓子を食べるけれど嗅覚も優れているのよ。目が見えなくたってこの世界を楽しむ方法は沢山あるわ」
ベティは再度彼をじっくり眺めてみた。
彼には、彼が弾くグランドピアノよりも、彼に注ぐ光を作る照明よりも明るい未来が確実に待ち構えていると、ベティは思った。
彼の舞踏会への馬車は、きっと、これから確実に来ると、ベティは思った。
*****
やがて、ベティは家に返されることになった。彼女は両親が迎えに来るその瞬間まで、彼女と離れるのを嫌がった。
「また会えるわ」
シャーロットがベティの髪を柔らかく撫で、いつもの柔らかい笑みでそう言った。
「ずっと一緒がいいわ」
ベティが彼女の片手をぎゅっと握る。この手を離せば、もう二度と会えないように感じた。
「私も。あなたと一緒に居たいわよ」
「どうしたら一緒に居られるの?」
「それは、これから先見つけていくのよ」
ベティはすぐには思いつかなかった。
やがて、その手が彼女から父親に渡り、ベティは車へと歩き出さなければならなかった。
車の後部座席の扉が開いた。これは、舞踏会行きの馬車ではないと、ベティは暗い気持ちでそう思った。むしろ、嫌な現実に自分を連れて行く魔の乗り物だ。
「さ、乗って」
母親に言われて、ベティは車に乗り込んだ。
シートベルトを締めながら、パッと頭の中で何かが思い浮かんだ。それが消えないように、糸を手繰り寄せるようにベティは目の前にある運転席の椅子を凝視した。
集中して導き出した答えは_____。
ベティは車の窓を開けた。
「先生!」
ベティが叫ぶと、シャーロットは微笑みを返してくる。
「私、お医者さんになるわ!」
シャーロットが少しだけ目を見開いたのが分かった。
ベティは自分で考えておきながら、なんて素敵な考えだろう、と思った。
そうなのだ。彼女と一緒に居たいなら、彼女と一緒に働けばいいのである。
「私、たくさんお勉強するわ! 先生と一緒に働けるように!」
ベティは祈るようにシャーロットを見た。もし、首を横に振ったらどうするか、また案を練らなければならない。
ベティは彼女が大好きだった。彼女の声をずっと近くで聞いていられるような、そんな環境をどうしても作りたかった。
車のエンジンがかかった。
ベティは穴が空くほど彼女を見つめる。
すると、
「わかった。待ってるからね」
シャーロットが微笑んだ。
その瞬間が、今までの人生で最も嬉しかったとベティは思った。
待ってる、とそう言ったのだ。彼女は待っていてくれるのだ。
明日も、明後日も。
それまで、自分は医者になるための勉強をしなければならない。
構わない。なんだって構わない。
もしかしたら、彼女の舞踏会への招待状は、恩師と再会する未来への切符なのではないかと、ベティは思った。




