守りたいもの
車内は本格的に降り出した雨の音と、カーステレオから流れるジャズで、沈黙の計りが軽くなっていた。
泣き腫らした瞳が、ネオンの光の街を映すガラスに浮かんでいる。
信号で車が停止すると、ワイパーの音が大きくなった。
「戻るか」
低い声に乗せられた質問だった。ベティは何も言わなかった。口を開いたら負けであるかのように、意味の無い勝負に無駄な労力を使っていた。
だんまりを決め込むベティをブライスはチラリと見ただけで、やがて車は動き出した。
他の車の水を跳ねて回るタイヤをベティは眺める。
頭の中で交差するのは、色々な場面とそれに伴った感情だった。
シャーロットが自分の代わりにエスペラントに居ることになった。あれだけ好き勝手やって、迷惑をかけたのにまだ彼女は世話を焼くつもりらしい。患者にあれだけ尽くせる医者を、彼女の他にベティは知らない。
エリゼは、亡くなった。ベルナルドにネズミと呼ばれて。彼だってきっとエリゼのことが好きだった。そしておそらくだが、エリゼも、ベルナルドを好いていたのだろう。
彼女を取り巻く環境が自然とそうさせたのだ。
彼女がもっとすぐに自分たちと会っていたら。
きっと彼女の狂った恋は、ねじ曲げられた恋はきちんと修正されたのだ。
ベティはそう信じたかった。
そして、
ベティは逸らしていた目を、自分の太もも辺りに持ってきた。だが実際は横の彼を見ていた。
迎えは来た。助けは来た。
ベティは思い出す。子供の自分を、氷よりも冷たい大人の檻から連れ出してくれた恩師が言っていた言葉を。
『ベティも、いつかきっとお手紙が来るからね』
『馬車も?』
『もちろん』
馬車では無いけど。王子も乗ってきてるし。
ベティの心は決まっている。
隣の王子には、この先を更に幸せに過ごしてもらうようにしてあげたいと。
だから_____。
*****
空いている部屋は、まず自分なら選ばないだろうスイートルームだった。
割と現実的な彼女は、使う用途が変わらなければ払う額は少ない方が良いと考える方なので、スイートなど泊まったこともないのだ。
「帰りたくはない、って言ったけれど......ホテルに連れてくるほど、度胸ある人だったかしら」
最上階に近いので夜景は綺麗だ。ベティは窓を一通り眺めて、後ろでクローゼットやベッドを念入りに調べている彼を振り返る。
「警備はあった方が安心だ。お前が捕まったホテルは、ベルナルドの支配下にあった」
「私は彼に自分からついていったの」
ベティが息を吐くように言った。枕を元の位置に戻していたブライスがチラリと此方を見たのが分かった。
言ってしまった、とベティは思った。
また自分は、言いたくもないことを。
「何がどうなってるのか教えて。シャーロットさんに何したわけ。なんであの人が彼処に居ないとなんないのよ」
ブライスは黙っていた。
いつもだ。彼は都合の悪いことをすぐ黙ってやり過ごそうとする。ナッシュが居れば代弁してくれるのに。私には話す価値すらないのか。
私と話したくないのか、彼は。
話したら止まらない性分であることは自分でも分かっている。興奮すると、つい言ってはいけないことまで言ってしまうことも、掘り出さなくていい事まで掘り出してしまうことも。
面倒な女だと分かっている。
だが、今一番知りたいのは、どうして彼が一人で立ち上がらず、恩師まで巻き込んだのか、だった。
シャーロットは今回のことに関して、ほぼ無関係だ。唯一、ベティが彼女の助手であるからという理由だけが、彼女がエスペラントに留まらなければならなくなった理由だ。
自分が居なければ、彼女は危険な目に会うことなんてなかった。職務の枷から開放されたはずなのに。
「なんで......先生を......」
ベティの声は震えた。
悪いのは全部自分だと分かっている。シャーロットをB.F.に連れてきたこと、勝手に嫉妬をして家出をしたこと。
自分のせいだからたまらなく悔しい。黙ったままの彼に何か言ってもらいたい。
それなのに、黙っている彼がベティの心の炎をゆっくりと、静かに鎮火させていく。
「......ごめんなさい。疲れたのよ。朝から走り回っちゃって」
ベティはシャワールームに向かった。
「もう、帰っていいから。明日からまた、何処か違う場所で暮らすわね」
ぱたん、とシャワールームの扉が閉まった。
*****
体を拭きながらベティは考える。
明日からの自分の生活を。バイトなどしたことない。大学生は親の仕送りで生活していた。ドワイトやナッシュ、ブライスは大学時代から忙しくバイトをしていた。リアーナだってモデルの仕事で給料は入っていた。
するなら、薬品関係か。だが、そんな場所で自分が働いて、もしシャーロットとばったり会ったりなんかしたらどう思われるだろう。命が飛びそうなこの状況で自分は働いているのに、助手はのうのうと金と時間を貪って_____。
こんなこと思うほど、彼女は意地悪でない。
ベティは軽く頭を振った。
ドライヤーで髪を乾かしながら、近くの地図を頭に思うかべる。
考えるに、肉体労働は向いていない。重いものを運んだり、走ったりする仕事は体力の面から考えて厳しいだろう。そう考えれば、やはり座って行う仕事か。
そんな天職、医者以外にない。
それもB.F.の医者。同期に頼れて、恩師も居る。決して簡単な仕事では無いが、やりがいが感じられる職業をそれ以外に知らない。
「......我慢しときゃ良かったのよね」
自分勝手な発言だった。
結局は我慢だった。
黙って恋人に医者として見られて働いていれば、エリゼは死ななかった、シャーロットは医者を辞められた、エスペラントという会社を知らずに生きられた。
「......」
髪を梳いて、ベティは俯いた。
でも、B.F.に戻りたくは無い。
*****
シャワーから出たベティは驚いた。
ブライスがまだ居たのだ。てっきりもう帰ったものだと思っていた。シャワーに入っている間も物色していたらしい。物の配置が変わっていた。
「......」
彼は椅子に座って熱心に紙の束を読んでいた。報告書だ。仕事の紙だ。こんな時まで、仕事、仕事。
「......シャーロットさんの教え子に、手が空いている者が二人居るらしい」
報告書から顔を上げず、ブライスが口を開いた。
「ノースロップの郊外に小さな診療所を建てる計画があがっているそうだ。お前の名前を立候補しておいた」
「......はあっ?」
ベティが眉を釣り上げた。
「何勝手なことしてくれてんのよ? 私、やりたいなんて一言も_____」
「ならB.F.に戻ってくるか」
ブライスが言葉を被せた。ベティは心から苛立った。こういうところだ。
「......誰が、あんたなんかのとこに」
ああ、また。
「じゃあ、それでいいだろう。仕事先の提供をしたまでだ」
「......頼んでないし」
ブライスは報告書をファイルに閉じた。カバンにそれを入れると、椅子にかけていたコートを腕にかけて立ち上がった。
「帰るの?」
ベティは自然と口から出てきたその問いに自分で驚いた。
「会議をナッシュに投げてきた。報告を聞かんとならん」
「......」
彼には会社がある。もう関係ない自分の会社が。大切にしなければならない部下がいる。
その枠からすら外れた自分は、赤の他人とも言えるのだ。
「......ブライスは、どうして私を助けに来たわけ」
ベティは俯いた。彼の顔は見られなかった。当分、今夜は涙が止まないだろうと思った。
「恋人だから? 医者だから? それとも、気まぐれ?」
ブライスに喋る隙を与えず、ベティは言葉を吐き出した。この際、言いたいことを全部言ってやろうと思った。
「私、どうしても理解できないの。どうしてあなたが苦しいところに向かうのか。恋人よりも部下を大事にするのか、どうしてそんなに頑張るのか」
一つ目の雫が床に落ちた。
「迷惑ばっかりかけるから、嫌われるんだって心の底では分かってたの。私もあなたが嫌いになってった。今気づいた。部下に対する嫉妬だけじゃない」
ベティは思い出す。大学時代の、自分のボロボロの教科書を。使い古したペンケースを、中指にある固いペンだこを。
「私の努力を、どんどん超えていくあなたが嫌い」
勉強にしか精を出さなかった自分が積み上げたもの。ブライスはその横で、ゆっくりながらも確実に土台を作っていた。努力という努力を重ねて、加速して、ベティを超えた。越えられた時の苦しさも、悲しさもベティは自分も気づかない心のクローゼットに閉じ込めたのだ。
「私の後ろをついてきてたはずなのに、もうずっと、見えないくらいに遠くに行くんだもの」
床は湿っていた。
「私、苦しいの」
ベティの口から嗚咽が漏れた。
「わがままで、ごめんなさい。でも、もう終わりにする。あなたに迷惑はかけない。ブライス」
ベティは顔を上げた。ぼたぼたと、涙が落ちた。
「別れましょう」
言えた。
ベティは全身から力が抜けるようだった。
この関係を絶てば、もう自分が苦しめる人はシャーロットだけだ。ブライスにも、ナッシュ、ドワイト、そしてB.F.の後輩たちにも、迷惑など、わがままなどかけられなくなる。
「......」
ブライスは黙っていた。
鉄仮面が分かると、彼の表情は恋人である自分になら分かると、勝手に誇っていた自分が恥ずかしい。
だが、きっと清々するのだ。彼はこれで、一つ足枷が外れた。いや、自分は足枷にすらなっていなかったりして。彼の眼中に最初から居なかったりして。
「......ベティ」
持っていたカバンとコートを、彼は椅子に置いた。
「俺は、恋人としてお前を助けに来た」
「取ってつけたような嘘はいいの」
「嘘に聞こえるか」
「聞こえるに決まってんでしょ」
ベティは唇を噛んだ。
「今まで、なかったくせに。そんなふうに見てくれたの、大学生の最初くらいだった」
恋人のふりでもしていたみたいだ。馬鹿らしい。
「シャーロットさんの差し金に決まってるでしょって言ってんのっ。バレバレなのよ、何もかも!!」
ベティは声を荒らげた。
「助けてなんて頼んでないの! シャーロットさんを置いてきてなんて頼んでないの!! ナッシュの電話のメモも、次の勤め先も、頼んでないっ......私が、わがままだから? お姫様ぶって、何でもかんでも用意してあげないといけない赤ん坊だから? みんな、揃いに揃って私に良い顔しようとしてるのっ?」
放っておいて、とベティは喚いた。
「帰るなら帰ってよっ!! 何が恋人だからよ! 好きでもないくせに! 女として見てないくせにっ......恋人面しないでよ......別れたばっかで......」
声のボリュームが下がっていく。ベティの力が腰から抜けた。彼女はベッドに腰を下ろした。
「......最後くらい、夢見せて欲しかった。昔読んだ絵本は、幸せなページで幕を閉じるのに......私は、違うのね」
支離滅裂な、願望のパンドラだとベティは思った。
「......すまなかった」
ブライスの静かな謝罪が聞こえた。ベティは顔をあげなかった。
「部下しか見ていないのは、お前が出てってからようやく気づいた。自分でも遅くて愚かだったと、今は思ってる」
ベティは反応しなかった。彼から初めて聞く言葉だった。
「一度、お前を探しに街をさ迷った。仕事も部下も放ってだ」
「......」
「お前は見つからなかった。あの日から、仕事に上手く手がついていない。挙句に病に伏した。まだ、本調子ではない」
ブライスの声が違和感があると、ベティは彼が迎えに来た時に少しだけ思った。風邪特有の声だった。治りかけだが、きっと酷いときでは声すら出なかったと思うくらいに。
「周りに気付かされた。大切なものは何か」
ブライスがベティの視界に入るように、前にしゃがんだ。
「すまなかった、俺の勝手を通して。叶うなら、俺にチャンスをくれ」
ブライスがゆっくりと手を伸ばす。それはベティの頬についた。暖かった。
ベティの涙をブライスは指で拭った。
「......いいわよ。私は優しいから、チャンスの一つくらいくれてやるわ」
ベティが小さく笑った。
「私だけ見ること。今はね」
ブライスが腰をあげる。そのまま、ゆっくりと前に体を倒した。




