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リングリング  作者: 三国司


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【その後の話】純情な二人

書籍化を記念しての小話です。

「そろそろお店閉めるね」


 詩織は随分と上達したこの国の言葉を使って、薬草を煮ているロッシェに声をかけた。と同時に、店の扉に下げられている『営業中』のプレートをひっくり返しに行く。

 夏が近いのでまだ日は完全に沈んでいないが、この時間になると緊急でもない限りお客は来ないだろう。

 

「あ、クラスト」


 プレートを裏返して店に戻ろうとしたところで、薄暗い路地を歩いてこちらに向かってくる人物に気づいた。この国の英雄であり、今では詩織の夫でもあるクラスト・オーフェルトだ。

 

「迎えに来た。今日は仕事が早く終わったから」


 銀髪を涼しげに靡かせてクラストが優しく笑う。彼の声は、詩織と会った喜びで少し弾んでいた。

 現在は二人一緒に住んでいるので今朝だって顔を合わせているのに、日中会えなかっただけでクラストはいつもこんな反応を示す。

 こちらを見つめる瞳にはいつだって過剰な愛がこもっていて、詩織は何だかそわそわしてしまう。女性なら誰だって目を奪われずにはいられないような存在であるクラストに、こんな風に愛おしげな眼差しを向けられている事が信じられない。彼と結婚して三ヶ月経った今でも詩織はそう思っている。自分にはもったいない夫だと。

 なんて、そんな事を考えていると突然、無言でクラストがこちらへ腕を伸ばしてきた。


「……!」


 自分の黒髪に触れた大きな手に、詩織は思わず一歩後ずさる。

 恥ずかしさから僅かに顔を引いただけのつもりが、予想以上に大きなリアクションをしてしまった。

 クラストも驚いたのか一瞬目を見開いた後、申し訳無さそうに言った。


「すまない、急に触って……。髪に葉がついていたんだ」


 クラストの指先に摘まれていたのは、乾燥させた薬草の欠片だった。


「あ、そうだったんだ。ごめん、ありがとう」


 詩織は笑顔で礼を言うと、クラストに触れられた自分の髪を無意識に撫でた。まずいタイミングでまずい反応を見せてしまったかもしれない、と内心慌てる。

 クラストに触られるのはもちろん全然嫌じゃない。だけど彼はそう思っていないかもしれない。”昨日の事”を重く考えている可能性がある。

 詩織は気まずく視線をさまよわせた後、店の前でごちゃごちゃと弁解するのはよくないと思い直し、


「帰る準備するから、少し待っていてくれる?」


 クラストが元気の無い笑みを見せて頷いたのを確認してから、店の中へと入った。お気に入りの白いシンプルなエプロンを脱ぎながら、店の奥の壁に掛けておいた通勤鞄へ突っ込む。


「ケンカか? お前らまだ新婚だろうが」


 ぐつぐつと煮立つ鍋を木べらでかき混ぜながらロッシェが言った。心配しているような顔だけど、実は面白がっているのが全部声に出ている。詩織は軽くロッシェを睨んだが、彼の視線は店の外で待っているクラストに向いていた。肩が少し落ちてしょんぼりしているようだ。


「いつもなら店の中まで入って来て、帰り支度をしているお前にくっついて回ってるのにな」


 クラストから詩織へ視線を移して、ロッシェが笑う。

 くっついて回っているというか、店の片付けを一緒に手伝ってくれているだけなのだが。


「私が『待ってて』って言ったから」

「離婚したら、今は旦那に言われて減らしてるお前の勤務日数増やしていいか?」

「離婚はしません」


 ロッシェに向かって『べぇ』と舌を出すと、強烈なデコピンで応戦された。


「ちょっと痛い! ひどい!」

「おい、やめろ。外見ろ」


 涙目になりつつロッシェの背中を殴ったが、あまりダメージは与えられなかったようだ。ロッシェの注意はクラストに向いていた。

 捨てられた犬のような目でこちらを見ていたクラストは、詩織と目が合うとさっと視線を逸らした。

 

「やっぱケンカ中なんだろ。いつもならあいつ、俺にガンつけてくるくらいはするのに」

「ロッシェじゃあるまいし、クラストは人を睨んだりしないよ」

「いやいやいや、お前は何を見てんだよ。俺しょっちゅう睨まれてるだろうが」


 呆れたように言って、ロッシェは再び鍋へと向き直る。


「ケンカはしてないけど……」


 詩織は小さな声で言ってから、昨日の出来事を思い返した。

 昨日はクラストが非番だったので、それに合わせて詩織も休みを貰っていて、二人で街へ買い物に出ていたのだ。

 お昼を食べた後でぶらぶらと大通りの店を見て回ったのだが、何せクラストは有名人なので、ゆっくりと買い物を楽しむ事はできなかった。妻である詩織も一緒に、行く先々で注目を浴び、歓迎を受ける。

 が、それはクラストとの結婚を決めた時に覚悟していた事なので不満はない。今では笑顔で自然に対応ができるようになったと自負している。


 しかし詩織が気になったのは、クラストが人前で遠慮なく触れてきた事だ。

 この国の人々の気質は結構日本人に似ているところがあって、真っ昼間の街中で男女が過剰に仲良くする事を良しとしない。慎みを持つべきだという考え方なのだ。

 若い恋人同士だったり新婚だったりすると「しょうがないな」と見守ってもらえるけれど、クラストも古風と言うか真面目なので、普段は外でべたべたしてくる事はほとんどない。

 しかしそれが昨日は違った。馴染みの果物屋に行って、そこで買い物をしていた時の事だ。


「いつも妻が世話になっているようで、ありがとう」

 

 クラストは詩織の腰を自分の方へ引き寄せながら、果物屋の跡継ぎであるコリンにそう挨拶をしたのだ。しかもその後、コリンがおつりを用意している間には肩を抱かれ、頭にキスを落とされた。何度も、何度もだ。

 クラストはにこにこと上機嫌だったが、詩織は知り合いであるコリンに夫といちゃついているのを見られたのが恥ずかしくて、つい強い口調で彼を拒否してしまった。


「ちょっとクラスト、やめて」


 小声で怒って、クラストの体を押す。


「わざわざ言った事はなかったけど、こういうの苦手なの。あまり触らないで」


 自分たちを見ているのはコリンだけじゃないのだ。街の人たちも英雄とその新妻の様子が気になるらしく、ちらちらと視線を向けてきている。

 そんな中でクラストに甘く触れられる気持ちにはなれなかった。街中ではどうしても恥ずかしさが勝ってしまう。


「……すまない」


 本気で嫌がっている事を感じ取ってくれたらしく、クラストはすぐにキスを止めてくれた。拒否されたのがショックだったのか、少し傷ついた顔をしていたので慰めたくなったが、人前でいちゃつくのは嫌なのだという自分の気持ちを分かってもらわなければと、詩織は心を鬼にした。

 とはいえクラストはその後、「今度は向こうの店に行こう」といつも通りにほほ笑んでいたので、さっきの傷ついた表情は気のせいだったのかもと思っていたのだが……。


 詩織は腕を組んでうなった。

 どうやら気のせいどころではなかったようだ。昨日の自分の言葉と行動は、クラストに効き過ぎるほど効いたらしい。

『”人前で”いちゃつくのは苦手だ』というのが上手く伝わらず、『クラストに触られるのが嫌だ』という風に取られたのかもしれない。

 どうにかしなきゃと悩みつつ、詩織は鞄をかけて帰り支度をした。


「じゃあ帰るね。また明日」


 おざなりにロッシェに手を振ると、「ああ」と言いながらにやにやとした笑みを向けられた。これ以上ロッシェを楽しませないためにも、早くクラストと仲直りしなければ。


「お待たせ」


 店を出て、こちらに背を向けていたクラストに声を掛けると、彼は振り返って優しく目を細めた。笑顔だが、どこか寂しそうな表情だ。


「持つ」


 短く言って詩織の鞄を奪うと、クラストは馬車を停めてある大通りへ向かって歩き始めた。荷物を持ってくれるのはいつもの事だが、今日は手を繋いではくれなかった。おまけに気を遣うようにして、詩織との間に微妙な距離を保っている。並んで歩く時は、腕が触れ合うほど近づくのがクラストの常だというのに。


 馬車の中でもクラストは詩織に一切触れようとはしなかったし、必要以上に近づこうともしなかった。乗る時に手を貸してくれただけで、いつものように詩織の体を自分の方に引き寄せて座る事もない。

 一瞬クラストは昨日の事を怒っているのかもと思ったが、詩織に触れないだけで、その他の態度は普段通り。「仕事はどうだった?」と話しかけてくれて、詩織が面白いお客さんの話をすると、クラストも楽しそうに笑う。


 けれど、どこか笑顔がどこかぎこちない。何かがおかしい。


 やはり『気を遣われている』という表現が一番しっくりきた。クラストはとても慎重に詩織との距離を計っている。近づきすぎてまた拒否されるのを恐れているようだ。

 おそらく無意識なのだろう、たまに手を伸ばして詩織に触れようとするが、すぐにハッと腕を引っ込めては緊張した面持ちでこちらを観察している。


(……こんな事思っちゃ悪いけど、ちょっとクラストかわいい)


 詩織は横目で彼の様子を見ながら思う。付き合いたての恋人同士ならまだしも、自分たちは様々な障害を乗り越えて結婚した夫婦なのに、妻が触れられるのを嫌がっていると本気で思っているなんて。

 素直にクラストの事を愛おしいと思う。にんまりと唇が弧を描きそうになったので懸命に我慢した。


「あの、昨日の事なんだけど……」


 緩んだ表情筋を引き締めてから詩織は口を開いた。クラストに触れられる事自体は決して嫌ではない、と伝えようとして。

 しかしクラストは詩織が切り出した途端、あからさまに顔をこわばらせて話を遮った。


「すまない……昨日は少し調子に乗ってしまった。俺は詩織の気持ちを分かっていなかった」


 緊張した面持ちで見つめられ、詩織は首を横に振った。


「ううん、私もちょっときつい口調で言っちゃったし、ごめんね。でもどうして昨日だけ……というかあの果物屋さんでだけ触れてきたの?」


 他の店を回っている時はそうでもなかったのに、果物屋についた途端にクラストの態度は変わった。やたら甘ったるく。

 詩織がその事について尋ねると、クラストは決まり悪そうに視線を逸らして説明し始める。


「コリンと言ったか、あの果物屋の息子と詩織は仲が良いと聞いたから……その、少し、独占欲が出てしまったというか……」


 クラストの声は段々と小さくなっていった。つまり、コリンに見せつけるために腰を抱いてきたりしたという事か。

 詩織はくすりと笑った。


「そんな事しなくたってコリンは私を口説いてきたりしないよ。それに万が一アプローチされたとしても、私の好きな人はクラストだけだもの」


 照れながらも自分の想いを伝える。結婚しているというのに何故改めて告白しなければいけないのかと思わないでもないが、クラストが安心してくれるならそれでいい。我が夫は、魔物を殲滅した英雄とは思えないくらい繊細な部分もあるのだ、と最近気づいてきた。詩織の言動を結構気にしていると。


「ありがとう、俺もだ」


 クラストは詩織の言葉を聞いて嬉しそうに瞳を輝かせたが、それを隠すように控えめにほほ笑んだ。


「ところでコリンの事、一体誰に聞いたの?」


 詩織が首を傾げると、クラストは言いにくそうに「ロッシェに」と答える。


「……あのくせ毛め」


 詩織は日本語で罵った。何か問題が起こった時の原因が大体ロッシェにあるのは、決して詩織の気のせいではないだろう。





 今の詩織たちの住居は城の近くにあって、貴族たちが多く住まう区画に建てられている。クラストが魔物を倒して国を救った時に国王から賜った褒美の一つで、二人だけで住むには広過ぎる華美な屋敷だった。今は使用人を雇って家の管理をしてもらっているものの、近いうちにここは人に貸して、もう少し小振りな家を購入しようかと計画している最中だ。


 詩織は馬車の中ですっかり仲直りしたつもりだったが、家に着いてもクラストの態度はあまり変わらなかった。楽しく会話をしながら一緒にごはんを食べて、順番にお風呂に行き、二人で同じベッドに入っても、クラストの表情はどこかぎこちない。

 ちゃんとクラストの事が好きだと伝えたのに、まだ何を気にしているのだろうか。

 

「あの、クラスト……」


 照明を消すと部屋は真っ暗になったが、詩織は大きなベッドの中で隣に座っているクラストに向き直った。ぼんやりと体の輪郭が見えるだけで表情は読み辛い。もう一度灯りをつけてじっくり話し合うべきかと思案していると、クラストの手が遠慮がちに詩織の頭を撫でた。

 どうしてそんな触り方をするのだろう。そんな、あかの他人にするような触り方。


「大丈夫だ」


 クラストの低い声は、今夜は一段と優しかった。


「詩織が嫌なら我慢する。今まで気づかずに悪かった。今日はもう眠ろう」


 しかしそれだけ言うと、彼は詩織に背を向けて横になってしまった。訳が分からないが、詩織も仕方なく毛布を被る。

 クラストはどうやら本当にこのまま眠るつもりらしく、それから一切口を開く事はなかった。


(……えーっと)


 暗闇の中で、詩織は先ほどのクラストの言葉を分析しながらゆっくりと考える。

 自慢ではないが頭の回転は遅い方なので、たっぷり数十分は思案した後、結論を出した。


(やっぱりクラストはまだ、私が彼に触られるのを嫌がっていると思ってるみたい)


 だからいつものようにおやすみのキスをする事も、まして夫婦の営みを行う事も無く、「我慢する」と言ってさっさと寝てしまったのだろう。


『わざわざ言った事はなかったけど、こういうの苦手なの。あまり触らないで』


 昨日の自分のセリフをよく思い返してみる。

『こういうの』とは、『人前でいちゃつく事』を指していたのだが、『クラストに触れられる事』だと彼はやはり勘違いしたのだ。

 馬車の中で自分の想いを伝えてフォローできたと思っていたが、「クラストが好き」と言っただけでは完璧ではなかったらしい。「好きだけど、触られるのは苦手」。そんな風にクラストは理解してしまったのだろうか。

 

(クラストって、もっと傲慢になってもいいと思うんだけど)


 クラストに触れられるのが嫌な訳がない。大体、もう何度も肌を合わせているし、それを今さら「実は苦手だった」なんて言わない。

 けれど確かにそういう行為は未だに慣れないし、やはり恥ずかしいので詩織から誘った事は一度もなかった。

 よく考えれば、キスだって自分から積極的にした事があっただろうか。手を繋ぐという行為もそう。気づけばすでにクラストの方から手が伸ばされていて、詩織は何もしないままただその温もりを受け入れるだけだ。

 詩織もクラストを求めてはいるのだが、それを普段から行動で示してはいなかった。自分のそういう消極的な態度が、クラストを勘違いさせる大きな要因だったのでは? 


(ちょっと反省……)


 クラストからの愛情を黙って受け取るばかりで、ずっと受け身だった自分を心の中で叱る。

 すぐ隣にいるクラストの背中を見て、声に出さずにごめんねと謝った。すぐに誤解を解きたいが、もう眠ってしまっているだろうか。

 わざわざ起こすのも悪いと思ったので、もう一度ちゃんと謝って話をするのは明日の朝一番に回す事にして、詩織もまぶたを閉じた。

 


 それから三十分は過ぎただろうか。なかなか寝付けずに、ベッドの中でうつらうつらとしていた時だ。クラストが寝返りを打つ音が聞こえた——かと思うと、横になったままで、そっと体を抱きしめられた。

 詩織は目を開けずに、「クラストってば寝ぼけているんだな」と予想する。

 が、その後に詩織の頬を撫でて、さらにもう一度今度は強めにぎゅっと抱きしめてきた腕には、はっきりとしたクラストの意思があった。

 彼は確実に起きている。というか、最初から寝ていなかったのか、あるいは眠れなかったのか。

 目を閉じたままでも詩織には分かった。クラストは今、とても切ない顔をしていると。

 自分を抱く腕の力が、ぎゅうううと、またさらに強まった。


「……辛い」


 詩織の肩に顔をうずめながら、クラストが呻くように呟いた。

 悲痛だ。

 

(か、可哀想過ぎる……)


 詩織はたまらずまぶたを持ち上げた。これ以上見てられない。


「クラスト」


 声をかけた瞬間、クラストは慌てて詩織から離れた。肘をついて上半身を軽く起こし、目を見開いて硬直している。まさか詩織が起きているとは思っていなかったようだ。暗闇にも目が慣れて、焦ったクラストの様子がよく分かる。


「クラスト」


 追いつめられた顔をしてぴくりとも動かないクラストに、詩織はもう一度囁きかける。


「……す、すまないっ」

「いいの」


 かぶせ気味に返事を返す。クラストは優しいから、いつだって詩織の気持ちを一番に考えてくれる。このまま喋らせておけば、「詩織のために寝室を別にしよう」などと言いかねないのだ。

 

「あのね、クラスト」


 羞恥心はあったけれど、今はその感情を追い出そうと務めた。顔はほんのり赤くなっているだろうが、周りは暗闇だし気にしない。

 詩織は意を決して体を起こした。どきどきと高鳴る鼓動を感じながら、今までの自分では有り得ない、大胆な行動をとる。

 クラストの肩を押して仰向きにさせると、その体を跨ぐようにして腹の上に乗ったのだ。


「詩織?」


 困惑顔のクラストに、思い切ってキスをする。自分からするのは思ったよりも恥ずかしくて、唇が触れた瞬間、すぐさま離してしまった。

 頬にどんどんと熱が集まってくる。クラストは信じられないものを見る目でこちらを凝視している。


「わ、私は! クラストに触れられるのも好きだからっ……!」


 無駄に大きな声が出てしまったが、詩織はきちんと宣言した。


「昨日言ったのは、街中とか人前で触られるのは苦手っていう意味で、二人きりの時なら……その、抱きしめられるのもキスされるのも嫌じゃないし……」


 今度は小声でもごもごと説明する。

 もう最後まで言ってしまおうと、クラストを見つめて続けた。


「大好きなクラストに触れられるのは……嬉しいの」


 ——本当よ。

 と、最後にそう付け加えたけれど、クラストにはちゃんと聞こえただろうか。吐息を吐くような、か細い声しか出なかった。

 羞恥から、体が上気する。頬はきっと桃色に色づいているだろう。恥ずかしさに耐えるように唇をきゅっと噛む。

 クラストが何も言ってくれないせいで、さらに居たたまれなくなった。彼は薄く口を開けて惚けたまま、こちらを見つめてくるだけだ。

 

「わ、私が言いたいのは、それだけ!」


 もうこの話は終わりにしたい。そう思った詩織は、クラストの上から撤退してベッドにもぐり込んでしまおうとした。


「——そうか」


 しかし覚醒したクラストがそれを許してくれない。下から両手を伸ばして、詩織の頬に添える。

 顔が熱くなっている事に気づかれてしまっただろうか。離してと言おうとして、クラストと目を合わせる。

 そしてその瞬間、やっぱりクラストを見なきゃよかったと後悔した。


「いい事を聞いた」


 漆黒と深紫が混じり合う夜の闇の中で、彼はこれ以上なく嬉しそうにほほ笑んでいた。

 その瞳はどこか純粋なのに、とろけた表情や、はだけた寝衣をまとう均整のとれた肢体からは、詩織も敵わない色気がだだ漏れている。

 クラストは目を細め、艶を帯びた視線で詩織を射抜いた。


「詩織、もう一度——」


 自信を喪失していたクラストも可愛かったのにと少し残念に思いながらも、詩織は自分の鼓膜を震わせる彼の低い声に誘われるまま、唇を寄せた。

 

 

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