4-42 繋いだその手を離したら
一粒の雫がゆっくりと頬を伝い、重力に引かれて落ちていく。
過去と現在を繋いだ軌跡を手の甲で拭い、俺は静かに瞼を開いた。
瞑目する千影と、影武者のように傍らに寄り添うセラがいる。皿の後片付けを終えた晴明もセラから距離を置いた端に座っていた。机にはポットとカップ、茶葉の瓶とティーセットが安置されているが、使用された形跡はない。
視線を横に移すと紅狼は頬をかきつつ眉根に皴を寄せていた。語られた過去にあった自分と、現在とのすり合わせに当人が追いつけていないのだろう。今度は右へと視線を動かし、躊躇する。
小さく首を振って頼りない障壁を破壊した。
全てを語ると告げた以上、どのように思われ見られても真正面から現実を受け止めなければならない。あの時あの瞬間胸に抱いた意志は変わっていない。
俺の隣に座るクレスの顔には悲哀。続いて、さらに深い蒼を刻むリオンの顔。
そして、遥姫は声なく静かに涙を流していた。
悲しみがとめどなく透明な跡を透き通る肌に刻み続ける。
左方から茶を啜る音が響く。
視線を戻すと、千影が湯呑を手に苦い顔を浮かべていた。
「すっかり冷めてしまったな。紅狼」
「なんだよ、義姉さん」
「茶を淹れ直して来い」
「はぁ? なんで俺がそんなこと……」
「任せたぞ」
一方的に告げて千影が立ち上がる。
急な命令に狼狽する紅狼は無視され、千影の足は廊下へと続く扉へと向かう。
止められぬと分かっていても紅狼が去る背中に声を投げる。
「ね、義姉さんはどこ行くんだよ」
「……花を摘みにいくのだが、何か問題でもあるのか?」
「いえ、何の問題もありません。ごゆっくりどうぞ」
「虚けめ。余計な気遣いを吐く暇があるなら動け」
言い捨てて、千影は扉を開いて部屋から出ていったしまった。
最近妙に扱き使われているだの、小間使いじゃないだのと文句を言いながらも紅狼も立って台所へと向かう。その背中を追って晴明も立ち上がる。
「勝手の分からない弟に荒らされても困るからね」
告げて意味ありげに片目を閉じてみせると、足早に向かった紅狼を追っていった。大人が全員席から立ち、後には二十歳以下の子供達だけが残された。
言葉にしなくても、俺もクレスやリオン、恐らくセラも空気を読み察して席を外したのだと分かる。外している間に細々とした説明をしておけ、という暗示なのかもしれない。
俺達が座る場所を向き合う形で座っているのはセラだけ。
最後の〈渇血の魔女〉たるセラの目は俺ではなく遥姫に向けられている。
「貴女は、何故涙を流しているのですか」
低い声での問いには、様々なものが含まれているように思えた。
すぐに諦め、逃げ出すだろうと侮っていたにも関わらず、ここまで話を聞き続けたことへの賞賛なのか。それとも何もできず、それどころか無為に被害を広げた愚かしい少年を嘆いた涙だと受け取って不快感を覚えたのか。
または愚者に同情する愚者に憤っているのか。
返答はない。静かに泣き続ける遥姫の横顔を見ていると、槍で抉られるように胸が痛む。が、逃れることは許されない。遥姫の涙が常倉によって犠牲になった者達への弔辞なのか、父親に続き大切な人を奪われた俺への憐憫なのか、想いを遺して逝った小百合への祈りなのか。
分からない。
判断できないが中身を、精神の内側を問いかけることは憚られた。
この場に限っては敵意による尋問であってもセラの行動に助けられている。
「姫…………こちらでよろしければ」
刃助が紳士的所作で取り出し、女王へ捧げるようにハンカチを掲げるも、遥姫のは手を小さく振って不要だと示す。自らの手で流れる涙を拭い、ぐしゃぐしゃになった顔で、時折漏れ出す声を必死に堪えている。
耐え忍ぶ姿が俺にとっては余計に苦しい。俺が語る〝俺〟は今まで遥姫や刃助には全く見せて来なかった側面であり、胸の内に秘め続けるものであった。
俺は、今の自分に涙を流すことは許されないと断じた。
だからこそ、惨劇の最期を思い返しても慟哭を叫ぶ精神を殺し潰した。
それでも見せた一滴が、彼女の器を決壊させてしまったのかもしれない。
かすかな嗚咽を零しながらも、遥姫は己を落ち着かせるよう豊満な胸に手を当て、撫で下ろす動作を繰り返す。
肩を上下させながらも、意を決して可憐な唇が開かれた。
「誰にだって、大切な……失いたくないものが、あるはず、だと思います。
私にも、ある。だからこそ失ってしまった人の気持ちを思えば、
涙しない、わけが、ない。悲しみを現さずにはいられないっ!」
放たれた言葉に打ちのめされたかのようにセラの目が見開かれた。
遥姫の内側には、恐らく出てきて立ち会った者達の誰をも恨み憎む精神はない。
涙という形で流出した感情は、純然に争乱に巻き込まれたもの全てへの哀悼、ひいては引き起こした悪そのものへぶつけられた嘆きなのだろう。
セラの放心状態もほんの刹那。我に返った碧眼には嫌悪の色が濃く出ていた。
魔女の唇から大きな溜息が吐かれる。
今まで見せたことのない表情でセラが口を開く。
「大切なもの、失いたくないもの。そう、誰にでもあるのです。
それらは私達の手から多く零れ落ちていきました」
「どういう、意味ですか」
「そのままの意味です」
セラがクレスを見る。視線は殺害すべき仇を睨む、憎悪と憤怒を宿す。
「そこにいるクレッシェンド・アーク・レジェンドと私は仇敵の関係です。
彼は仲間と共に命令に従って私の同胞と戦い、義父
と義兄、そして義母を殺害しました」
「うん。僕は救い導くはずだった子達を失った。アリエル、イージェス。ウルクにエピタフ、そしてオルトニア……だけど、僕は君自身を恨んではいないよ」
「どうでしょうか。貴方が私の真意を解せないように、貴方の心の内も
計り知ることはできないのです。笑顔で、いつ背後から私を刺し貫くやら」
「それは遠回しな自己紹介かな? 余り自虐的な物言いはよくないな」
「……戯言をっ」
セラと視線をぶつけ合うクレスは柳が風を受け流すように、終始飄々(ひょうひょう)とした態度を取っていた。セラにしても千影の命があるとはいえ、底の底から殺したいと願ってはいない、はずだ。
セラという最後の〈渇血の魔女〉はかなり危うい存在だと思う。
仇がいて、それを殺してしまえば後はどうなるのか。クラッドチルドレンの呪いに従って、解呪するまで殺し続けるのか、それとも解呪を拒んで死の呪いを受け入れるのか。
考えていると、その心理を読まれたのかもしれない。
セラが不快そうに眉根をひそめて俺を見た。
が、すぐに視線を逸らし矛先をリオンへ向けていく。
「リオン・ハーネット・ブルク。
先程から沈んだご様子ですが、何か思うところがあるのではないですか。
両親を奪われ、自身を曲げてまで世界の裏側に暗躍する〈灰絶機関〉に
加入した変わり種の、殺さない誓いを立てたただ一人の〈死神〉さん」
「私は、その……」
「憚る必要はありませんし、誰かへの義理立てもないでしょう。
折角席を外して頂いたのですから、思うままを全て曝け出してみなさい」
何かを含んでいるように言いよどむリオンに苛立ちを覚えているのか、セラの視線が右に左にと動く。只ならぬ気配を感じてか、刃助が身構えて遥姫を守ろうと身を乗り出す。
俺も瞳で威嚇しようと考えたものの、クレスに肩を叩かれ制止された。
身を乗り出し、中腰の姿勢で刃助がセラを前に口を開く。
「本来、こういう役割を負うのは亮さんだと思うけど、な。
でもね、亮さんは超絶鈍感だから察しても口に出せない。
だから、代わりに宣告してしんぜよう。紳士たる者の務めとしてっ」
「…………いいでしょう。聞きましょう」
「失礼も承知、寛容な応答を願いたい」
「勿体ぶった素振りは、余り好きではありません」
「では真っ直ぐ切り込ませてもらおう。セラ嬢は何を苛立っておられる」
「…………は?」
呆気にとられた様子でセラが聞き返す。
刃助の言葉を聞く前と後で室内の空気が変質していた。無意識のうちに漏れ出した魔力が大気中に影響を及ぼし、世界にあるべき理を犯して組み替えていく。
空気が濁り、喉奥に引っかかる粘質の物体を生み出す。
薄らと感じていた情動が波となって流出したかのように、どろりとしたモノが器官を塞ぐように人体を侵し始める。
息苦しさを訴えながら遥姫が咳き込み、刃助は苦しげに表情を歪めながらも耐えて絡まるものを飲み込み、繰り返す。
「どうにも、ね。俺にはセラ嬢が亮さんの話を聞いている間と、姫の反応を見た後じゃ別人に見える。まるで、姫が来々木 亮って人間が望み願い祈った結末を聞いても落胆しなかったことに腹立っているように、ね」
「何を、根拠に――」
セラの反論は扉を開く音にかき消された。後ろ手で扉を閉め、セラの前に立つ千影は不愉快さを表情いっぱいに広げて見せている。
「セラ。なんだ、この状況は。私の言葉を忘れたか?」
「い、いえ……そんな、滅相も、ありません」
「ならば即座に収めよ。醜く垂れ流して……情けない」
「面目次第も、ありません」
千影の圧に押される形で、セラは縮こまってしまった。
集まる視線を感じてか、千影が苦笑いを浮かべる。
「すまない。席を外している間に、よもや暴走するとは思いもしなくてな」
「いえ、大した被害もなかったようですし、その……魔法のようなものですかな?」
「そう思ってくれて構わない。セラ」
刃助もほっとした様子で元通り席に座り直す。
千影の言葉は謝罪の催促だろうが、セラは俯いたまま顔をあげようともしない。
取り乱したのが余程恥ずかしかったのだろうか。
だが、何故そこまで感情を見せたのか。
普段、クレスへの殺意や千影への思慕は明確に示していても、それ以外の情動はまるで自ら封じたように、おくびにも出さない印象ではあった。
だが、刃助が引き出したように、そしてクレスとの因縁ある過去を語った時のように本来は多感な年頃の少女であるはずだ。
同じことがリオンにも言える。彼女にも、彼女なりの考え方や感じ方がある。
だからこそ、何も語らなかったことには触れない方がいい。
思考している間も千影は謝罪させようと奮闘していたようだが、小さな溜息が聞こえたので諦めたらしい。
台所の方では大気の変質をもたらした魔力波動に気付く様子もなく、紅狼が懸命に紅茶を淹れようと奮闘し、無茶苦茶なやり方に困惑し制止する晴明の悲鳴が聞こえた。
日常と非日常は隣り合わせで、気付いたら片方へ足を突っ込んでいる。
〈灰絶機関〉はその狭間に潜み続ける。
おどけたように首を竦め、千影が俺を見た。
「で、どこまで話した。露日事変くらいまではいったか」
「いえ、その……進んでないです」
「なんだ。なら、代わりに話してやろうか?」
「待ってください」
全員の視線が流れを断ち切ったリオンへ集まる。
おずおずと発言権を求めるように挙手したリオンへ千影が頷いて許可を示す。
「その、話にでてきた、常倉一派のほとんどを殲滅した少年って」
「紅狼だな。思えば奴の素養からいえば、もっと早く解呪してもよかったな」
「もう一つ。話され方からすると、いきなり実戦投入もあり得そうなんですが」
「また酷い物言いだな。クラッドチルドレンは兵器ではないし、私が生き方を強制したわけでもない。皆が自ら選んで、悪を殺し潰す道へと進んでいったのだよ」
「またそんな……ふざけないでください。誰が好んで殺すって言うんですか」
「貴様、私を快楽殺人者だとでも思っているのか? 失礼な小娘だ」
「そうではないと? 圧倒的な異能で殺し尽くした人間が?」
「そうしなければ、奴らはいくらでも被害者を生み出す。
だから根源を絶ったまでだ。また終わった論議を繰り返すか」
既に言葉の刃が毀れて朽ちるまで斬り合った後だ。
更生することを望めぬ悪を、次の犠牲を生まないために殺し捨てる。
悪を根源から断ち切る〈灰絶機関〉の在り方は殺人という罪で初めて成立する。
リオンが言うように誰もがその苦しみと痛みに耐えられたわけではない。
洗脳されたわけでも、仕立て上げられたわけでもない。
睨み合う千影とリオンの間に割って入るのは俺の役目なのだろう。
「リオン、師匠の言う通りだ。俺達は強制されず、自ら殺人者となる道を選んだ」
「……だって、あんなにもお父さんを尊敬していた、のに」
「父さんが間違っていたとは思わない。ただ、足りなかったんだ」
力が足りなかった。認識も足りなかった。言葉だけで全てを解決することはできないし、また暴力だけで解決することもできないだろう。
ただ、制圧する力がなければ語る機会すら与えられない。どう言葉を濁し、論点をずらしたとしても厳然たる事実は何も変わらない。
古き世代より力を持たぬ者は喰われ、力を持ち肥え太った者もまた朽ちていった。
滅びと再生を繰り返して今ある世界は作り上げられている。
「露日事変と、便宜的に付けられたが実際は戦争ですらない。
ハル王が率いた〈灰絶機関〉が当時の権力階層を葬り、代わりに
そのまま人々の上に立つことになった。そこに、俺は参加できなかった」
「その頃の亮には凌駕する力も、罪と共に屠って背負う覚悟もなかったからな」
「……ええ。時を経て、俺は殺人者になった」
「〝英雄〟とは言わないのだな」
「師匠ともあろうお人が随分とつまらない御冗談を。罪を犯したとはいえ、
許可なく他者の人生を終わらせる存在の、どこに英雄的素質があると?」
「ないな。視点と立場で変化しても本質は未来永劫、絶対不変だ。
〈灰絶機関〉は咎人であり、だからこそ唯一無二の執行機関なのだからな」
最も長くなりそうな夜は、まだ半ばまでしか辿り着けていない。
ここで来々木 亮という人間は全ての価値観を砕かれ、壊れた。
壊れても、また立ち上がる。
壊れたまま転がるのは物言わぬ死者だけなのだから。
だからあの日、俺は小百合の手を離して、差し伸べられた千影の手を取った。