第九話 女王の葛藤
時間は少し巻き戻る。昨夜、イルメリの寝室にて。
私、イルメリ・イェマは疲れていた。私の宿敵にして配偶者、マティス・エルスと婚姻に関するキタ役で喧々諤々、長時間討論し合っていたからだ。
マティスの弁舌は、学生自体の頃より更に研ぎ澄まされているように思う。私は譲歩を余儀なくされた。その事実を想起すると、私の眉根が歪み、蟀谷に血管が浮き出す変調を意識する。それなのに、口角は吊り上がっていた。
流石、私が唯一認めた人だ。
私の人生の中で、母王以外で唯一私と比肩し、私を打ち負かすことができる存在。エルス王国では不遇であったと聞くが、なかなかどうして、手強い。
「ふふっ」
マティスのことを思うだけで口角が上がって胸が熱くなる。これからずっと傍にいてくれるのかと思うと、心臓の動悸が激しくなっていく。今回は痛み分けだが、次こそは「ぎゃふん」と言わせてやる。
私は口角を釣り上げながら、寝室のドアを開けて中に入った。その直後、異様な物体が視界に飛び込んだ。
イェマの杉製の分厚い板。
寝室のど真ん中に、部屋を両断する間仕切り壁がそびえ立っている。その威容を目の当たりにした瞬間、私の首が斜めに傾いだ。しかし、直ぐに元の位置に戻っている。
私の寝室に、マティスのベッドを置いたのだったな。
耳を澄ませると、マティス用のベッドから寝息が聞こえてくる。それを耳にした瞬間、そちらの方へと足が向いた。しかし、直ぐに元の位置に戻した。
私が規約を破る訳にはいかない。
マティスとの勝負(恋の駆け引き)は始まったばかり。見す見す敵の罠(勝手な思い込み)にかかる訳にはいかない。
私は断腸の思いで間仕切り壁の反対側、自分のベッドの方へと足を向けた。
一歩、二歩。天蓋付きのベッドまでもう少し。しかし、散歩目を踏んだところで、私の脚が止まった。その原因が、ベッドの前に積み上がっていた。
一片一メートルは有ろうかという革製の葛籠。一体、これは何?
私は積み上げられた葛籠の前で、呆然と立ち尽くした。暫く眺めたところで、漸く葛籠の正体を直感した。
もしかして、マティスの私物?
マティスは手ぶらでイェマ(我が国)に来た訳ではない。エルス王国からの結納品や、イェマで生活する準備もしている。
尤も、私は直接マティスの荷物を確認していない。目の前に有る葛籠が彼のものかどうか、断言し難い。中身を確認する必要が有る。
葛籠に近付いて、右手を伸ばして――途中で止まった。
「あ」
中を確認するまでもなかった。これは間違いなくマティスの荷物だ。そう確信できる理由が、私の脳内に閃いていた。
侍女達の仕業だ。
数時間前、マティスが謁見の間を辞した後のこと。
私は侍女達からマティスの荷物の運び先を尋ねられた。そのとき、私は――
「寝室に運んでおきなさい」
寝室。私としては「マティスの寝室」と命令したつもりだった。しかし、現況を鑑みるに、侍女達は「私の寝室」と解釈したようだ。私の侍女達は、存外にお馬鹿さんなのかもしれない。
私の口が「へ」の字に歪んだ。しかし、それは直ぐに「あ」と開いている。その理由が、私の脳内に閃いていた。
マティスの寝室は、元々は私の寝室だった。
思うところが有って、私は自分の寝室を半分ずつに仕切り、その一方をマティスの寝室とした。その事実は、部屋の改造に立ち会った侍女達ならば知っている。しかし、それがどこまで周知されていたかは――確認していなかった。
事情を知らない侍女がいた可能性は否定できない。或いは、余計な気を利かせた者がいたかもしれない。
侍女達の心情を想像するほどに、私の眉間に皺が刻まれていく。脳内では文句の言葉が幾つも閃いていた。それらをぶちまけたい衝動に駆られる。しかし、それらの変調は直ぐに消えた。
私の脳内には、現況に対する最善手が閃いていた。
マティスに勘付かれずに、隣に入れて置けば良いだけのこと。
私は直ぐ様葛籠の一つを担ごうとした。しかし、一番上の荷物は存外に重い。ビクリとも動かない。そもそも、今の私は精根尽き果てている。重い荷物を運ぶことは、止めた方が良いだろう。今日のところはここまでだ。
私は明日の自分に期待して、荷物を避けてベッドの中に潜り込んだ。その柔らかな布団に横たわった瞬間、私の意識は超速で消失、夢の世界へと旅立っていた。
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