第五話 女王との密約
イェマの侍従長クロート・モイライに王宮内を案内されている最中、青いメイド服に身を包んだ女性――いや、少女が走ってやってきた。
「女王陛下からの伝言でございます」
女王専属の侍女だろうか。主人が女性なので、従者も女性ばかりであることは予想に易い。それにしても、目の前にいる侍女は若い。若過ぎる。恐らく最年少。
俺の目には、侍女の姿は十代前半、或いはそれ以下として映っている。ここまで若いと異性というより子どもという印象の方が強い。
俺の脳内で、侍女がイルメリの隠し子である可能性が閃いた。尤も、直ぐに心中で「有りえん話」とツッコミを入れて苦笑している。
俺が苦笑していると、 件の侍女の眉が申し訳なさげに「八」の字に歪んだ。
「お仕事中に申し訳ありません」
侍女は、俺とクロートに向かって勢いよく頭を下げた。その姿勢を維持したまま、続け様に女王から託されたと思しき言葉を告げた。
「王宮のご案内が終わった後、直ぐに陛下の執務室までお越しください」
侍女の話を聞いて、俺とクロートは顔を見合わせた。その間に、侍女は頭を上げている。その円らな瞳に、俺とクロートの顔が映った。
侍女の瞳に映った俺とクロートは、同時に右手を掲げている。続け様に、それぞれの中指で自分の顔を指した。すると、侍女は大慌てで首を振った。
「いいえ、いいえ」
石の回廊にブンブンという風切り音が響き渡る。相当な勢いだ。俺は侍女の首がちぎれる可能性を想像した。しかし、それは杞憂に終わった。
侍女は、首が捩じ切れる前に首振りを中断した。続け様に「はぁ」と大きく息を吐いている。その盛大な吐息が俺の耳に届いたところで、彼女は俺の方をジッと見詰めた。
「…………」
見られている俺が緊張を覚えるほどの真摯な視線。その行為の意味は、尋ねずとも相手の方から教えてくれた。
「マティス様、お一人でございます」
俺一人。恐らく他聞をはばかる内容なのだろう。それがどんなものかと想像すると、俺の眉が歪んだ。できれば遠慮したい。しかし、女王の要請を蹴って無事でいられるほど、今の俺の立場は盤石ではない。郷に入りては郷に従えだ。
俺は眉を歪めながら、侍女に向かって首肯した。
「分かりました」
俺が承諾すると、侍女の顔にパッと花が咲いたような艶やかな笑みが浮かんだ。その表情で周りを明るく照らしながら、「私はこれで」と踵を返して走り去っていった。その後ろ姿を見て、俺の苦笑が少しだけ和らいだ。
侍女去りし後、クロートによる王宮案内が再開された。
このとき、俺はクロートの真面目な性格を鑑みて、時間を掛けて丁寧に案内されることを予想した。実際、今まではそうであった。ところが、
「陛下を待たせる訳には参りません。急ぎましょう」
クロートは早歩きで先行した。それに離されまいと、俺も早歩きで後に続いた。
かくして、王宮の案内はクロートが企図した予定よりも早くに終了している。その甲斐あって、俺は日が有る内に女王の執務室に向かうことができた。その事実は僥倖だと思う。
しかし、廊下を歩く俺の足取りは、鉄枷を嵌められていると錯覚するほど重かった。
嫌な予感しかしない。
俺とイルメリは、ウガリット大学時代では犬猿の仲であった。少なくとも、周囲からはそのように評価されている。顔を合わせる度に言い合いしていたのだから、その評価も妥当と思える。
そんな俺達が、今は夫婦になっている。良縁というより奇縁だろう。実際、再会するや否や、イルメリは衆目の前で「建前を取り繕う結婚」と宣言している。その事実を想起すると、口から溜息が漏れた。
俺は二つ目の溜息を飲み込みながら豪奢な木製のドアを敲いた。すると、
「…………」
反応が無い。暫く待っても何も反応が返ってこない。仕方がないので再度ノックした。しかし、またしても反応が無い。
何なのだ?
俺は首を傾げながら、念の為にとノブを回した。
ノブは――アッサリ回った。俺はユックリ扉を押して、執務室の中に足を踏み入れた。その瞬間、冷気を帯びた女性の声が響き渡った。
「遅い」
簡潔な言葉だ。俺の鼓膜を揺らした時間は錯覚を疑うほど僅かだ。しかし、意外に攻撃力は高い。
イルメリの声が耳に入った瞬間、俺は耳が凍傷を患ったかと錯覚した。
何なのだ?
俺は少しだけ顔をしかめた。すると、錐のように鋭い視線が俺の顔に刺さった。
痛い。
俺は反射的に視線を向けた相手を見た。
俺の視界に、豪奢な執務室の光景が映っている。その奥に、大きな木製の執務机が置かれていた。その机の奥で、白銀髪の美しい人形が座っている。
人形――ではない。人形と錯覚するほど整っていて、無感情な人間、美女だ。
イェマの女王イルメリ・イェマ。
イルメリは執務机の向こう側から俺を睨んでいた。彼女の視線は霜が張り付くような冷気を帯びている。それに晒されて、俺の背筋に冷たい汗が滴った。
俺の腰が引けて、そのまま踵を返し掛けた。しかし、冷たい女王の声が、俺の退路を断った。
「早く中に」
俺はぎこちなく頷いた後、半分だけ廊下に出ていた自分の体を執務室の中に押し込めた。その際、俺は咄嗟に執務室の中の様子を観察している。
俺の視界に映ったものは、調度品ばかり。どうやら、俺とイルメリ以外に誰もいないようだ。
部屋の中に男女が二人きり。
一応、俺達は夫婦ではある。しかし、互いに、いや、イルメリには恋愛感情は無いらしい。俺の方は――まあ、イルメリ次第だ。
俺は気を遣って、ドアを開けっ放しにした。ところが、
「閉めなさい」
イルメリは密室を望んだ。彼女の言葉を聞いて、俺の首が斜めに傾いだ。正直、彼女の意図は不明。それでも「我が主が望むならば」と、俺は即応でドアを閉めた。
パタリ。重厚なドアが、見た目にそぐわぬ軽い音を立てて閉まった。その事実を直感するや否や、俺はイルメリの方を向き直った。
俺の視界に、見目麗しい女王の姿が映り込んだ。その直後、芸術作品のような顔の前に白く細い右腕が掲げられた。
「こちらに来なさい」
イルメリは俺に向かって手招きした。俺は即応で執務机の方へと脚を進めた。その際、俺の視界に執務机の上の様子が映り込んだ。
机上に幾枚かの紙を重ねた冊子が乗っている。その一番上の紙には〈婚姻に関する規約〉と書き込まれている。
まあ、愛の無い結婚だから――な。
俺は苦笑しながら執務机の前に立った。すると、イルメリは右手を机上に掲げて、そこに置かれた冊子を指し示した。
「内容を確認して。問題なければ署名を」
俺はイルメリに断りを入れてから冊子を手に取った。それを開いて中を見ると、俺の予想通りの内容が書き込まれていた。それを要約すると「結婚生活の制限」だ。
〈人前で馴れ馴れしくしない。一定の距離を保つ。同衾しない。互いの部屋に無断で入らない――〉
夫婦どころか同居人とも認めて貰っていない。規約の内容を読み進めていくにつれ、俺の顔に張り付いた苦笑が歪んでいく。しかし、その表情は途中で固まった。
何だ? これ。
凡そ三分の一程度まで読み進めたところで、規約の主旨が変わっていた。それは結婚生活というより「俺の私生活の制限」と言えるものだった。
〈私の知らないところで女性に気安く話し掛けない。私といるときは私以外の女性を見ない。私に許可無く他の女性と二人きりにならない。他の女性に会うときは、必ず私の許可を得る〉
俺の私生活、取り分け異性に関する制限が多い。いや、そればかりだ。イルメリと結婚した訳だから、他の異性に近付くことは不義理とは思う。しかし、度が過ぎる。
何故、ここまで縛られねばならないのか?
俺は視線を上げてイルメリの顔を見た。彼女も俺を見ていた為、目が合った。その直後、イルメリの可憐な口が開いた。
「何か?」
一瞬、イルメリの青い瞳に不安の色が過った。それを直感した瞬間、俺は自分の想いを告げていた。
「いや、結構自由が無いなと」
俺の正直な想い。それに対する言葉は、氷柱のように冷たく辛辣だった。
「必要?」
「そりゃ」
俺は本を持ったまま肩を竦めた。そのおどけた仕草は、氷の女王の神経を逆撫でしたようだ。
「規約の範囲内でしか認めない」
にべも無い。しかし、氷の女王にも僅かばかり慈悲が有った。
「どうしても守れないときは――」
「守れないときは?」
「変更に応じます」
変更に応じる。その言葉を聞いた瞬間、俺は破顔した。しかし、俺の笑みは一瞬で凍り付いた。
「私が納得できれば」
イルメリの同意を得る。それがどれだけ難関であるか、俺は身を以て知っている。
結婚したとはいえ、イルメリは俺の宿敵と言える存在。そんな彼女が、俺の要求を呑めるのか?
もしかして、故国にいたときより過酷なのでは?
俺は今後の展開を想像して、盛大な溜息を吐いた。
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